それは一瞬の事だった。
「ワイルドくん!」
「タイガー!」
聞こえたのは誰かの呼び声と、コンクリートの爆砕音。
その衝撃は、俺の意識を赤と白のまだらな世界連れて行く。
「……っ……さん!!」
飲み込まれる直前に、相棒の悲痛な声が届いた気がした。
がしゃぁん!
響いた割れ物の音に、宿題を片付けていた楓は顔を上げた。シャーペンを置いて慌てて部屋を出る。
「おばーちゃん! どうしたの? 大丈夫?」
祖母の姿を確認する事すら待てずに声を張ると、慌てたような安寿の声が返った。
「あ、あぁ。大丈夫。大丈夫。ちょっと、お皿を落としてしまってね。危ないからキッチンに来ちゃいけないよ」
楓が、キッチンのあるリビングを覗くと、安寿の足元で大皿が割れていた。普段使わないものだ。
「怪我は?」
「足元はスリッパにズボンがあったからねぇ。少し手を切ってしまった位で、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ! 片付けるの手伝うから、先に手当しよ? ね?」
自分の怪我を事も無げに扱った祖母に、楓が人差し指を突き付けて怒った。そんな孫娘には安寿も敵わないようで、苦笑しながらその場で服を揺する。細かな欠片が付いていては危ないと思っての事だ。それから、着ていた割烹着を脱ぐと、欠片を踏まないように楓の元に歩いて行った。
楓は既に救急箱の準備を済ませている。本当に出来た孫だと安寿は思う。
安寿は楓の手を借りて、左手の甲に出来ていた切り傷の手当を済ませた。それから、箒と塵取りを手に取ると、割れた皿の破片を掃き集める。幸いにも、大皿は綺麗に3つに割れおり、それは手早く済んだ。
楓はストック箱から古新聞を大目に取出して広げた。安寿はそこに破片を慎重に移して包む。
「おばあちゃん。そーじきかけちゃうね」
「あぁ。まだ小さな破片が残っているかもしれないから、気を付けるんだよ」
「うん。わかった」
返事をした楓は、持ってきた小型掃除機の電源をONにした。割れ物があった所から遠い場所から、ゆっくり丁寧に掃除機をかける。
かけ終わったころには、割れ物を片付け終えた安寿がキッチンに戻っていた。
「あの大皿、いつも使わないものだよね? どうして割れちゃったの?」
楓が不思議そうに祖母に問いかける。
この家は、通常、楓と祖母である安寿の二人暮らしなのだ。それ故に、あの大皿は来客が来たときや、滅多に無いが楓の父親が帰って来た時など、二人以外の誰かが家に来た時にしか使われない物なのである。
「それがねぇ。隣に置いた小鍋を取ろうとしたら落ちてきてしまって。そんなに不安定な場所に置いてなかったはずなんだけど」
安寿は流し台の上にある戸棚を指さして言った。不思議なこともあるものだと、首をかしげている。
楓は、ふぅん、と答えて戸棚を見た。何故か胃の少し上が気持ち悪いと思った。
「楓。宿題の途中だったろう? 心配して来てくれてありがとう。ごはんが出来たら呼ぶから、戻って大丈夫だよ」
「はぁい。でも気を付けてね、おばあちゃん。洗い物とか、お水使うことがあるなら私がするから、傷は濡らしちゃだめだよっ!」
安寿の目を見て念を押す孫娘に、祖母は目を細めて酷く嬉しそうに笑った。
「わかりましたよ。小さなナイチンゲールさん」
翌日。
楓が授業を終えて帰ってくると、自宅の前に見知らぬ車が止まっていることに気付いた。
黒塗りのそれはマフィア映画に出てくる車のようで、不安になった楓は駆け足で家に入る。
家の玄関は空いていて、その奥から焦り顔の安寿が出てきた所だった。
「楓! 良い所に帰って来たね。今から出かけるよ。そのままでいいから楓もおいで!」
「え? おばあちゃん?」
安寿は、戸惑う楓に構わず腕を取った。家の前にあった黒塗りの車に半ば押し込むように乗せると、自分も隣に乗り込む。それから焦った声で運転席に向かって言った。
「お待たせいたしました。孫娘は帰って来たので、学校に寄って頂く必要はありません。よろしくお願いします!」
声を受けて車は発信する。
何がどうなっているのか、理由を聞こうとした楓の両手を、祖母が握った。
「大丈夫だからね。お父さんは大丈夫だからね。楓」
普段にはない強い力で祖母の手が楓の手を握りこむ。
その手に浮いた血管と、時の刻まれた皺が、その時の楓には妙に繊細に見えた。
そんな祖母の様子に、楓は何も言えなくなってただ黙った。
強く握った為によれてしまった、祖母の左手の傷テープを、後で様子を見て貼り換えなきゃと思いながら。
暫くすると、楓の中に、お父さんに何かあったんだ、という漠然とした認識が落ちてきた。
*****
車に乗せられて、おばあちゃんに手を握られて、それからの記憶は酷くぼんやりとしていてあまり覚えていない。
ただ、気付いたら白い病室にいた。
おばあちゃんが窓際にあるベットの傍に座り込んでいる。
ベットにはビニールのパックや機械からチューブみたいなものが伸びていた。
ベットの上には人が寝ている。
お父さんだ。
いつも猫なで声で私を子ども扱いして守れない約束をする口は閉じられ、くるくる動いて情けなかったりかっこ悪かったりする私と同じ色の瞳は瞼で覆われていて、会うたびに私の頭をガシガシ撫でる大きなあったかい手はくったりとシーツに置かれている。
まるで別の他人みたいだと思ったけど、透明なマスクの下に見える変なあごひげが間違いなくお父さんだと思った。
「おとうさん。どうしたの」
きもちわるい。
声には出さなかったけどそう思った。
私の呟きはとても小さくて、きっと誰も聞き取れていないと思ったのに、きこえていたひとがいたみたいだ。
誰かが私と目線を合わせるために、隣に膝を折ったのがわかった。
「お父さんは、建物の爆発に巻き込まれてね。瓦礫で怪我をしてしまったんです。でも、大丈夫。命に別状は無いし、ひと月もすれば良くなるそうだから」
声の方を向くと、どこかで見た顔があった。
どこかで見た顔。ううん、よく知ってる顔。スケート場で、私を助けてくれたヒーロー。
「バーナビー……さん?」
「はい。……楓さん、だよね? 君のお父さんとは、仕事の関係で少しお付き合いがあるんです。今回は、犯人逮捕の際のごたごたにお父さんを巻き込んでしまいました。本当に、すみません」
ゆっくりとした、丁寧な口調で言って、しっかりと頭を下げたヒーローに、私はちょっと訳が分からなくなってしまった。
でも、この人に頭を下げてもらうのは何か違うと思ったから、あわてて頭を上げてもらう。
「あの、バーナビーさんは、お父さんを助けられるのに助けなかった訳じゃないから、そういうのは違うと思う……います。バーナビーさんは、きっと自分の出来ること全部やってくれたんだと思うから」
ああどうしよう。自分の言葉が自分でよくわからなくなってきちゃった。
でも、これだけは言わなくちゃと思って、バーナビーさんの目を見た。声が震えないように注意する。
「お父さんを、たすけてくれてありがとう」
私の言葉に、バーナビーさんは驚いたみたいな顔をした。
また変なことを言っちゃっただろうか。変な女の子だと思われたかもしれない。
でも、バーナビーさんはすぐに笑みを浮かべた。どこか痛いような笑みだったけれど、続いた声は優しかった。
「お父さん、今は麻酔で眠っているだけだから。近くで顔を見ておいで」
「…………ぅん」
バーナビーさんに優しく背中を押されて、私は一歩前に出た。
白いベットが一歩だけ近づく。
なんでだろう。私は、なんだか凄く近付きたくなかった。
白いベット。白いカーテン。透明なマスク。音のする機械。ベットの傍に座って、お父さんの手を取るおばあちゃん。
私はぎゅっと目を閉じた。開くと、力を込めたせいで一瞬視界がぼんやりする。そのまま、おばあちゃんの隣まで駆け寄っていった。
「おばあちゃん」
小さな声でおばあちゃんを呼ぶと、赤い目をしたおばあちゃんが私を見た。
「……楓。お父さん、良くなるって。……よかった」
「おばあちゃん……」
震えるおばあちゃんの赤い目に、ゆっくりと涙がたまっていく。それを見るのがすごく辛くて、私はお父さんに視線を移した。
横になったお父さんは動かない。でも、その胸は静かに上下を繰り返している。だから、ちゃんと息をしてるんだってわかった。おばあちゃんが握る手の上から、お父さんの手に触れると、ちゃんと暖かかった。
私は顔を上げてこの部屋にいる大人たちを見た。
お父さんとおばあちゃん以外だと、バーナビーさんと、お父さんの親友のアントニオさんがいた。最初はもう少しいた気もするんだけど、今はこの二人だけだったので、見知っているアンさんの傍に行って、小声で尋ねた。
「アンさん。お父さん、どの位入院するんですか?」
「ん? 医者が安寿さんに説明していたが、大体1週間程入院して、1か月は自宅療養だっていってたな」
アンさんは、私と目線を合わせる為にわざわざ座って話してくれた。とても優しい人だ。
「じゃあ、私、着替えとか必要なものをお父さんの部屋から持ってきます。おばあちゃんとお父さんをお願いします」
私は少しだけ笑って、早口に言い切った。引き止められる前に、手早く鞄を肩にかけてドアに向かう。
「ああ。……って、いやいや。楓一人じゃ――」
「楓、あ――」
「おばあちゃん、アンさん、大丈夫。タクシーに待っててもらうから! お父さんのそばにいてあげて!」
止めようとしたアンさんとおばあちゃんに、ドア口から言って、私は重い扉を閉めた。
そのままその場を走って逃げる。
そう、逃げたんだ。
私はなぜか、あの場にいるのが、辛くて、気持ち悪くて、仕方なかったから。
病院の廊下のつきあたりまで走って、そこにあった階段をかけ下りる。2階ぶん位かけ下りた踊り場で、足がもつれて転んだ。両手をついて顔から床にぶつかるのは防げたが、まともに衝撃を受けた手のひらと両足の膝小僧が痛い。
「う~~っ」
壁を背にしてその場に座り込んだ。
いたい。
いたい。
いたい。
頭の奥がチリチリする。
白いベット。白いカーテン。ベットに伸びるチューブ。横たわるヒト。
ベットの傍で、その手を固く握る、お父さん。
「おか……」
「大丈夫?」
誰かの声と共に、誰かの大きな手が私の頭に乗った。
誰だろうと思って見上げると、私の視界がゆらゆらとにじんでいるのに気付いた。暖かい水がほっぺを滑って冷たくなる。
なんで私泣いてるの?
不思議で仕方なくて、手で目を擦ろうとしたら止められた。私の目元に柔らかい布が触れて視界がクリアになる。
「……バーナビーさん?」
目の前の人の名前を呼べば、その人は優しそうに笑った。
*****
ヒーロー・ワイルドタイガーが、逃亡犯の仕掛けた爆弾による爆発に巻き込まれて重症を負い、病院に搬送されて1日がたった。
騒がしかった周囲は落ち着きを取り戻し、彼が眠る病室には、僕とロックバイソン、そして様子を見に来た医師と看護師一名づつがいる。
治療に専念すれば1か月弱で普段通り動けるようになるという医師の診断を聞き、仕事や私用のあるものは皆それぞれの場所に戻ったのである。
「あんたはパートナーとして傍で様子見てなさいよ!」と言い残して帰って行った少女が、まだ彼の傍に居たいと願っているのは見て取れたので、「何かあれば連絡します」と約束をしたのは何時間前だっただろうか。
この病室では、時間の感覚が狂うと思った。
新しい風が吹き込んだのはその時だ。
騒がしい足音が近付いてきて、病室のドアが開く。
最初に顔を出したのは年老いた女性だった。顔を見て、恐らく彼女が鏑木安寿だろうと予測がつく。
「こてつっ!」
予想通り、女性は彼の名を呼びながらベットへと駆けた。それを、ロックバイソンが落ち着ける意味も込めて一旦抱き留め、何か話しかけている。女性は少々錯乱しているようだが、少し経つと落ち着いて、控えていた医師からの説明を受けていた。
そこにその子は現れた。
小さな足音だけをさせて病室に入ると、ドアから少し入った所、丁度僕の隣に足をそろえて立った。彼と同じダークブラウンの髪をサイドで結わえたその少女は、少女らしい元気さを感じさせるファッションに身を包んでいる。年のころは10歳前後。ということは、彼の娘の鏑木楓で間違いないのだろう。
彼女は祖母のように混乱した様子は見せず、ただその場に立っていた。
説明を終えた医師が一礼をして立ち去るときも、まるでその様子が目に入っていないかのようだったので、彼女が父親の怪我に相当なショックを受けているのだろうと思っていた。
仕方なく慰めの声でも掛けようとした時、彼女の口から予想しない言葉が零れた。
誰にも聞こえないように配慮したような、本当に小さな声で、『おとうさん。どうしたの』と。
それを聞いて、頭を殴られたような衝撃を受けた。
彼女達がここに来る前。
ロックバイソン先輩から、ベットに眠る彼が、娘に自分がヒーローだという事を隠していると聞いた。それだけでも驚いたが、彼女はここに来た今も、何があったのか正確な把握ができていないのだ。
幾ら彼女が幼いとはいえ、自我のある人である。自分がどうしてどこに向かっているのかを知る権利はあるだろう!
わずかな憤りを覚えたが、それは軽く頭を振って散らした。今はそんなものに囚われている場合ではない。
彼女の隣に膝を折り、出来るだけ優しく声を掛け、用意された説明を行った。
その後、父親の所に行くようにすすめてやると、何故か迷ったような素振りは見せたが祖母の隣へと進んだ。しかし、祖母を気遣うようにしただけで、直ぐに子供とは思えないような言葉を発した。『自分が入院に必要なものを取りに行く』と言うのだ。それがどれだけ異質な発言か、特殊な環境下で育ち、子供との面識があまりない僕ですらわかる。
唐突な事故で重症になった父親を前にした、10歳程度の少女の思考ではない。
一瞬対応の遅れた祖母とロックバイソンに、少女は言いくるめる様な笑顔を残して病室から去っていた。
後には、呆然とした様子で息子の手を握りながら病室のドアを眺める祖母と、その祖母とドアを交互に見るロックバイソンが残される。
「あ、ええと。じゃあ俺が」
「――僕が行きます」
歩み出ようとしたロックバイソンの言葉を遮って言った。車のキィを見せて続ける。
「車で来てますから。先輩はここで二人をお願いします」
すると納得したのか、ロックバイソンは「頼んだ」と短く依頼を寄こした。祖母が僕に向かって頭を下げる。
それに一礼で答え、僕は病室を出た。
ここから外に出るには、右に進んだ一つ目の角を左に折れた所にあるエレベーターを使うはずだ。
だが、何かが違う気がした。根拠もない勘のようなものだ。
部屋から出る少女の背が、まるで逃げ出しているように見えた等という、酷く抽象的な想像を根拠にした。
その時、左の廊下から歩いてくるナースが見えた。丁度いい。彼女に聞こう。
「失礼。ちょっとお尋ねしたいのですが、こちらに10歳程の少女が来ませんでしたか? 日系で、髪をサイドポニーにした」
「えっ? ……はい。その子なら、あちらに走っていきましたよ。廊下は走ってはいけませんって注意しても、全く聞こえてない様子で」
「わかりました。ありがとうございます」
情報への礼を述べて、僕は足早に廊下を進んだ。暫く歩むと壁に突き当たる。そのすぐ隣に、あまり使用されていなさそうな階段があった。ここから下ったのだろうと踊り場に踏み入ったとき、何かが倒れたような音が響く。
何かあったのかもしれない。
心の内に生まれた小さな焦りと共に階段を駆け下りると、2階ほど下った踊り場の隅に少女が座り込んでいた。
掌と体で、赤みのある膝を抱えるようにした彼女は、低い唸り声を上げながら、呆然とした瞳に涙の膜を張っている。
なんて、表情をしているんだ。
ゆっくりと彼女に近付く。恐らく気付かれてはいない。今の彼女は自分の世界に入り込んでいる。
彼女が小さく何かを呟いた。聞いてはいけないと思った僕は、遮るように彼女の頭を撫で、呼びかける。
それに反応して見上げてきた彼女は、案の定自分が泣いていた事にも気付いていなかったようで、ひどく不思議そうな表情をした。
年相応のそれに、こちらも自然と笑みが零れる。
「お父さんの入院に必要なもの、取りに行くんですよね。車で来てるので、付き合いますよ」
まぁ、その前に、怪我がないか確認させて下さいね。
僕がそう続ければ、彼女は目尻をやんわり下げて、「ごめんなさい」と謝るので、どうして、と尋ねる。
「私のわがままで、バーナビーさんに迷惑かけちゃった」
そう言って、9歳の少女は、笑顔を作ろうとして失敗した。
*****
「お父さんの家もよくわからずに、一人で行こうと思っていたんですか?」
停止信号で停まった車内。純粋な驚きを口に出すと、彼女は少し拗ねたように唇を尖らせる子供っぽい所作を見せた。
「だって、お父さんが連れてってくれなかったんだもん」
あの後。僕らは、場所が病院ということもあり、楓さんの怪我をさっと見てもらうと、車に乗って先輩の家に向かった。
車に移動する際、両膝に大胆な打ち身と擦り傷をつくっていた彼女を、背中から脇と膝裏をそれぞれ両腕で支えて車に運ぼうとしたら全力で遠慮されてしまったのが、非常に印象的だった。
女性にこれをして喜ばれたことはあっても、嫌がられた事は無かったのだが。やはり楓さんは変わっている。
しかし、怪我をした少女を歩かせる訳にはいかないので、妥協案として彼女をおぶって車まで移動した。形式上の自己紹介は道すがら済ませた。
「一度も、行った事は無いんですか」
「うーん……多分。私が覚えてる限りはないです」
それもまた、奇妙な話だと僕は思った。
信号が変わり車が流れ出す。進行方向を見て、悪戯っぽく提案する。
「じゃあ、本人のいない間に家探ししてやるといいですよ」
「わぁ! それ、楽しみだなぁ~」
とても楽しそうな声は年相応で、幼さも持ち合わせていることに安堵する。
しかし、形式的には初対面の人間に対してこの人懐っこさは凄い。引っかかる所はあれど、彼と彼女は親子なのだろう。そんな事を思っていると、楓さんが話しかけてきた。
「あの、バーナビーさん。バーナビーさんは誰に対してもそんな風に丁寧に話すんですか?」
「はい? ああ。いえ、そういう訳ではありませんが」
「話し辛ければ、私に敬語なんか使わなくても大丈夫ですよ。……私、まだ子供だし」
幼い彼女の『まだ子供』という言葉が妙に物悲しく聞こえた。
年の割にとてもしっかりとした少女であるのに、妙な危うさを感じるのは僕の考え過ぎなのか。
「では、楓さんも楽に話してくださって構いませんよ。利害関係がある訳ではないんです。お互い楽に話しましょう。どうです?」
彼女は面喰って、暫く考えているようだった。
また停止信号にひっかかり、車の波が停止する。「わかった」と、彼女が答えた。ギアに触れていた右手を両手で取られる。
「私も普通に喋る。だからバーナビーさん。私と友達になって!」
弾ける様な笑顔に、今度は僕が面喰う番だった。
マンションの管理人から預かったキィを通してドアを開ける。
楓さんを支えながら、僕らは部屋の中に入った。
一度訪れたことのあるそこは、相変わらずの様子だ。
予想より綺麗に片付けられてるかと思いきや、キッチンの端には幾つもの酒瓶がまとめて置いてあったり、出し忘れたゴミの袋がまとめてあったりと、部屋の主の性格が窺い知れる。
思いのほか揃った調理器具に目をつければ、その半分は埃をあしらわれていた。まあ、半分ということは自炊もするのだろう。
楓さんは、初めて目にする父親の部屋が珍しいのか、大きな瞳をパッチリ開いて周囲を見回している。
僕は彼女をリビングのソファに座らせて告げた。
「僕は先輩の入院に必要なものを探して来ます。楓さんはここで自由にしていて下さい」
「えっ! わ、私も手伝うよ!」
「お父さんの部屋を探索出来るのは、今の内だと思いますが?」
口端を上げて言うと、彼女は小さく詰まって少し考えた末、お願いしますと素直に頭を下げた。
「はい。お願いされました」
その頭を軽く撫ぜて、僕はリビングを後にする。
玄関近くにあった小部屋を覗くと、クローゼットらしきものがあったので、開いて中を探った。念の為と羽織れるものを一枚と、ラックに乱雑に押し込まれた衣類から、パジャマや下着を適当な数取り、その辺りにあった紙袋に入れる。小部屋を出ると洗面所へ向かい、周囲を探って旅行用の歯磨きセットを見つけた。洗顔や入浴系のものも一緒にあったので、全部まとめて袋に入れる。フェイスタオルもある程度の数を用意した。後は何が必要だったろう。カップか?
考えながらリビングに戻ると、ソファから離れた楓さんが、こちらに背を向け両手で何かを持って佇んでいた。
気になった僕は、用意した荷物を壁際に置き彼女の元に向かう。
背を丸めて後ろから覗き見ると、彼女はブック式のフォトスタンドを食い入るように見つめていた。そこには数枚の家族写真が収められている。彼女が見つめていた一枚を見ると、映っているのは綺麗な女性と幼い赤子だった。
「……お母さん?」
「えっ、わっわっ!わぁっ!」
疑問を声にすると、楓さんがぱっと振り返った。その瞬間、目の前にあった僕の顔に驚いたのか、彼女が無理に距離を取ろうとして体勢を崩す。僕は慌てて彼女を掬い上げると、その手から零れたフォトスタンドも空中でキャッチした。
「あぁ、ごめん。そんなに驚かれるとは思わなくて」
「いえ、あの、こっちこそごめんなさい! ありがとう。もう大丈夫だからおろしていいよ!」
抱えたまま謝ると、楓さんは酷く慌てた様子でまくしたてた。なんだかよくわからないが、とりあえず彼女をソファに降ろす。それから、持っていたフォトスタンドを渡した。
「綺麗な人だね。どんな人だったの?」
聞くと、彼女は少し考える素振りを見せる。しかしすぐに苦く笑って、実はねと続けた。
「あんまり、覚えてないんだ。私が4つの時に病気で亡くなったの。綺麗で、優しい人だったって、おばあちゃんから聞いたことがある」
「……確かに。とても優しそうな人だね」
祖母から聞いたという言葉には多少の疑問を覚えたが、写真からでも読み取れるその女性の性格に目を細めた。それから昔話のついでにと、楓さんの隣に座って続ける。
「僕も、楓さんと同じ4歳の時に、事故で両親を亡くしていてね。こうした写真や映像に、両親をよく知る人の話は、何よりの宝物なんですよ」
「……そう……なんだ」
まあ、この事は公にしてないから秘密にしてほしいんだけど、と付け足した僕の告白に、彼女はぽつりとつぶやいた。
それから僕を見上げて照れたような笑みを浮かべる。
「私も、バーナビーさんのお父さんとお母さん、見てみたいなぁ!」
「ああ。じゃあ今度写真をお見せします」
「うん! 約束!」
目を輝かせて左手の小指を差し出した楓さんに、僕は意味が分からず小首をかしげると、彼女は、はたと気づいて教えてくれた。なんでも小指を絡み合わせて約束を絶対守る証とするのだという。言われた通りに彼女の左手小指に自分の小指を絡めると、少女の声音で物騒な唄が歌われた。
「ゆーびきーりげーんまーんはーりせーんぼーんのーます! ゆーびきった!」
言葉の終わりと同時に小指が離される。
至極楽しそうな彼女に水を差すのは躊躇われるので口にはしないが、一体どこの風習なのだろうか。針千本など、実際に飲まされれば死んでしまうのではないか。
若干うすら寒く感じたが、気を取り直して立ち上がった。楓さんに手を差し出して伝える。
「そろそろ戻ろうか。面会時間が終わってしまうから」
「え? ……うん」
返事はしたものの、楓さんの視線は写真から離れない。不思議に思って尋ねると、少し恥ずかしそうに教えてくれた。
「この写真。私、持って帰ったら怒られるかな」
「写真?」
彼女が持つフォトスタンドに収まっている、女性が赤子を抱いた写真。
それを持ち帰りたいという、少女のかわいらしい願いに、思わず笑みが零れる。
はたして、母親と自分が映る写真を手元に置きたいという子供の願いを叶えない父親はいるのだろうか。少なくともあの人はそんな人ではないだろう。
「貴女のお父さんなら、きっと笑顔でOKしてくれますよ」
だから、そう言って柔らかな頭髪を撫でる。
病室での彼女とは違い、随分年相応な様子を見せるようになった少女に、僕はどこかで安堵を覚えた。
*****
あれから、四日の時が経っていた。
先輩は翌日には目覚めたらしい。見舞いに訪れたロックバイソンが言うには、平常時でもトレーニングなど碌にしないくせに、暇だ体が鈍ると煩いらしい。飽きれるくらい元気なようで何の心配も要りませんねと返せば、俺に嫌味を言われても困ると嫌な顔をされた。
今日は、仕事と学校の都合で未だに見舞いに行けないブルーローズの八つ当たりに合い、代理見舞いを申付けられてこの病室にいる。
一つ目の目的は、ブルーローズに虎徹の無事な顔を見せる。
ベットと親友になっている彼は、僕の顔を見るなりふざけた顔をした。
「おんやぁ~? バニーちゃんどしたの。何の心境の変化?」
「ふざけるのは顔だけにしてくれませんか。不愉快です」
「いやお前おじさんの心折りに来たの? そうなの?」
軽口を叩く彼を無視して、ブルーローズから託された小さな果物バスケットをベットサイドのキャビネット上に置いた。
「ブルーローズからの見舞い品です。彼女、今忙しくて来れないようなので」
「おお、そうなのか。なんかわりぃなー。アイツにまで気ぃ使わせちまって」
「そう思うんなら、僕のPDA貸しますので直接お礼をして下さい。ほら、さっさとする」
外したPDAを渡して促すと、返事も聞かずに綺麗な花の飾られた花瓶を手に取って病室を出る。他人がいたのでは、普段の高飛車にさらに拍車がかかってしまうだろうから気をまわした、という理由もあるが、正直他人の色恋に興味は無いという要素の方が大きかった。
花瓶の水を変えて戻ると、通話は終えたのか、彼がPDAをひらひらさせながら声を掛けてきた。
「よーバニー。ありがとな! あいつ学校にいたみたいだぜ。女子高生大変だなぁ」
花瓶を元に戻してPDAを受け取ると、手首につける。
「ちゃんとお礼言えたんでしょうね?」
「ああ。ってかなんだお前。その言い方母ちゃんみたい――ってぇ!!」
「すみません。手が滑りました」
聞き逃せない単語に持っていたアルミ製の小物入れを投げれば、それは彼のこめかみにクリーンヒットする。我ながら見事だと思った。
「怪我人に何てことしやがんだこの野郎!」
「わざとではありません。それよりあなた、退院後はどうなさるんですか?」
怒る彼をさらりと流して、僕は二つ目の目的である質問に移った。大体の予想通り、彼はあーとかうーとか言いながら、決まりが悪そうに続ける。
「母ちゃんは家に帰って来いって言ってるけど、まあ俺の部屋に――」
「帰ってあげたらどうです」
先輩の言葉を遮って言う。僕の発言に不思議そうな顔をする彼に、構わず続けた。
「どちらに居てもどうせ碌に動けないんです。むしろ、たまには家に居て家族サービスでもするべきでしょう」
「あー」
彼は苦笑いして意味のない声を上げた。
「楓さん。あなたが怪我をした時、酷く不安定になっていましたよ」
ダメ押しのように告げてやると、先輩は緩く笑った。その笑みはどこか辛そうでもある。
「……バニーちゃんに諭されちまうとはなぁ」
先輩は普段聞かない低い声で、独り言のように呟く。
「じゃ、帰るかな。ウチに!」
しかし、その次には情けなく笑って明るい声を出した。
これで、二つ目の目的も達成。
では、用は済んだので帰ります。と告げると、バニーちゃんは愛想ってものをどこに忘れて生まれてきたの!? 等というふざけた返事が帰って来たが、相手にしていると長くなりそうなので、退室の際に営業用の笑顔を浮かべて言ってやった。
「くれぐれもお体ご自愛下さいね。虎徹先輩」
*****
お父さんが怪我で入院して、バーナビーさんと一緒にお父さんの部屋に入院に必要なものを取りに行ってから、一週間が経っていた。
今考えたら、あれって凄い事だったと思う。
だって、大人気ヒーローのバーナビーさんと一緒にドライブして、しかも友達になろうとか言っちゃったんだよ! 私なにやってるんだろう! もうぜーったい変な人って思われた!
……でも、携帯のアドレス教えてくれたってことは、ホントに友達になってくれたのかな?
迷惑になるのは嫌だから、一度も連絡はしてないんだけど。
お父さんは、順調に回復してるみたい。お医者様がこんなに回復が早いなんてって驚いてたとおばあちゃんが言ってた。
私は……実は、あれからお父さんに会ってないんだ。
ううん。正確にはね、起きてるお父さんに会ってない。
回復に努める為なのか、お父さん、寝てることがとっても多くって、私が尋ねた時は眠っていたの。
だからかな。変な不安が抜けないのは。
お父さんは、退院したら家に帰ってくるんだって。おばあちゃんから聞いてすっごく驚いた。
だって、インフルエンザにかかっても帰ってこなかったんだよ!「可愛い楓に移しちゃうから~」とか言ってたけど、だったら電話してこないで欲しいよ! ……こっちがどんなに心配になるか、お父さん何にもわかってないんだもん。
私はため息を吐いて、勉強机に突っ伏した。宿題が全然はかどらない。
お父さんに会うのは、ましてや、お父さんがこの家に帰って来るだなんてどれ位ぶりだろう。
ほんの少し。こわい。
そこまで考えて、ばっと起き上がって、頭をぶるぶる振った。
違う違う違うの!
また間違えた!
両手でほっぺをパンッと叩けば加減を間違えてほんとに痛かった。ドジだなぁ私。
もう一度長いため息を吐いて視線を落とすと、お気に入りのブルーの手帳が目に入ったので、手に取って最後のページを開いた。
「……おかあさん」
そこに挟んだ写真は、あの日、お父さんの部屋から持ち帰ったお母さんの写真。
赤ちゃんの私を抱いたお母さんの写真を見ると、私はすうっと落ち着くことが出来るのに気付いた。だから、お父さんの部屋から一枚だけもらってきちゃったんだけど……これも後でお父さんに聞かないとね。お父さんなら、きっと笑顔で良いよって言ってくれるってバーナビーさんも言ってたし!
「んーっ。よし! お茶飲んで続きしようっと」
椅子に座ったままぐっと背中と腕をを伸ばして、立ち上がりキッチンへ向かう。食器棚からウサギ柄のガラスコップを出すと、冷蔵庫を開けて麦茶を取出し、コップに注いだ。
ピンポーン。
コップを持って部屋に戻ろうとした時、来客のベルが鳴った。その後にガタガタと音がする。
誰なんだろうと思いつつも玄関に向かうと、向かうにつれて男の人の話し声が聞こえてきた。一瞬、危ないかな、行かない方がいいかなって思ったけど、文句を言ってる方の声に凄く聞き覚えがある気がして扉の前まで向かった。
「……ぁから! 大丈夫って言ってるんだから降ろせっつ――」
「お父さん!? うそ、なんでこんなにはゃ……」
はっきりと聞き覚えのある声に、私は確認もせずに玄関のドアをあけた。
そして――。
「……」
目の前にあったものに、一瞬わけがわかんなくなって。
「た。ただいま~。楓」
「おとっ――っあはははっ! え、おとーさっ、あははっ」
アンさんにお姫様だっこされて、力なく片手を上げるお父さんの姿を見た私は、涙が浮かぶ程大笑いしてしまったのだった。
久方ぶりの実家に帰宅し、綺麗に掃除された一室で、日の匂いのする布団に横になりながら、俺は大いに凹んでいた。
何でかって? 決まってるだろ! 俺を送ってさっさと帰ったアントニオのせいだよ!
何が悲しくて可愛い娘との久々の再開を、いかつい男にお姫様抱っこされて果たさなきゃなんねーんだよ! お父さんの威厳台無し! って言ったらアントニオの奴、「お前、そんなもの最初から無いだろ」とか言いやがって。
…………。うん。でもまあ。久しぶりに楓のあんな笑顔見れたから、チャラにしてやっても良いかな。
かーわいかったなぁ。笑ってる楓。いや、楓はどんな楓でも可愛いんだけどな!
「……お父さん。なに一人でニヤニヤしてるの? 変だよ」
その可愛い我が子は、今は訳の分からないものを見るような目で俺を見ている。別に悲しくなんかないぞ。
キッチンから帰って来た楓は、ドアをくぐって俺の隣に座り、持ってきた盆を枕元に置いた。
「いやぁ。楓は可愛いなぁって思ってな。映像で見る楓も可愛いけど、こうやって目の前にいる楓の方が100倍可愛い!」
俺の言葉に、コップに水を入れていた楓の手が一瞬止まった。けれどそれは一瞬だけで、水を三分の二ほど入れたコップを楓が指し示す。
「喉乾いてる? お水飲むなら、起きるの手伝うけど。それとも水差し持ってきたほうがよかったかな」
「ん、や。まだ大丈夫だ。優しいな~楓~」
「お昼ご飯は、おばあちゃんが買い物から帰ってきてからになると思う。お薬はご飯の後でいいの?」
「食前に飲む分もある。……楓?」
俺に語りかけながらも俺の目を見ない楓を、不審に思って心配の声を掛けた。だが、楓は構わず言葉を続ける。
「じゃあ、おばあちゃんが帰って来た頃に飲めば丁度良いかな」
「かえ――」
「おとうさん」
再度の呼びかけを遮った楓の両手が、俺の頬を包んだ。
まだ小さな子供の手だ。だが、記憶にある手よりずいぶん大きくなった事に驚かされる。
続いて、視界を楓の顔が埋め尽くした。近すぎて焦点が合わない。俺の額に、恐らく楓の額が重なる。
「かえ、で?」
「熱、あるね」
「あぁ。傷の影響でなー。暫く微熱が続くんだ。でも大丈夫だぞ」
呼気の熱が伝わる距離での会話に、俺は少しくすぐったくなって笑った。多少体は痛むけれど、このまま抱きしめたら怒るかなぁ。
そんな事を考えていると、楓の熱が遠のいた。
その後すぐ、左胸に小さな荷重と、傷に響く鈍い痛み。
「血が、流れる音がする」
見ると、楓が俺の胸元に耳を当てている。顔は足元に向いているため、楓の表情はわからない。
「楓? ……心配かけちまって、ごめんな」
熱と、鼓動の音。
生きている証を順に確かめる楓に、流石の俺も気付いた。
そうだなぁ、アントニオ。お前の言うとおりだ。可愛い娘にこんな心配させておいて、今更父親の威厳もなんもねぇよなぁ。
片手で楓の頭を優しく撫ぜた。優しく触れないと、楓が砕けちまいそうで怖かった。
「ただいま。かえで」
優しく優しく、精いっぱいの愛しさを込めて言うと、少しの間を置いて愛し子が答える。
「……おかえり。おとうさん」
もうどこにもいかないで。
消え入りそうにつぶやかれた言葉を、俺の意識は聞こえなかったことにした。
*****
「カエデ、最近楽しそうだね。何かいいことあった?」
授業がすべて終わり、帰り支度を済ませて鞄を肩に下げた所で、クラスメイトのメアリが私の右腕にするっと絡みついた。メアリは癖のある金茶のショートヘアに、パッチリとした瞳の快活な女の子で、私の一番の友達だ。
「わっ! びっくりするなぁ、もう。……私、楽しそう?」
「うん。カエデはいつも可愛いけど、ここ五日程、それに輪をかけて可愛い。それに授業終わったらすぐ帰っちゃう。彼氏?」
「そんなのいないってば。五日前だと、お父さんが怪我して帰って来た位かなぁ。すぐ帰るのはお父さんの看病の為だよ」
とんでもない誤解をしているメアリに、理由を話して聞かせると、彼女は吃驚した顔をしてたっぷり5秒くらい固まっていた。その後、花の蕾がほころぶ様な笑顔を見せる。
「お父さん帰って来たの? 良かったね」
「……多分。怪我が治るまで、なんだけどね」
なんとなく居心地が悪くて、私は目線を下げつつ後ろ頭を掻く。
すると、メアリが私の右腕を放して両肩を掴んだ。そのまま名前を呼ばれて視線を上げると、綺麗な笑顔が私を迎える。
「カエデのお父さんが帰る前に、カエデの家に遊びに行っていい?」
「え? うん、いいよ」
妙な圧力に気圧されて返事を返すと、メアリは満足そうに頷いた。
「あたし、前からカエデのお父さんの事、殴ってやりたいって思ってたんだ!」
願いが叶いそうで嬉しいな。そう続けるメアリに、私は思わず笑ってしまう。メアリなりの優しさがあったかかった。
その時、ショートパンツのポケットで携帯が揺れた。誰だろうと思って何気なく折りたたみ式携帯を開いた私は、表示された名前に思わず変な声を上げてしまった。どうしたのって聞いてくるメアリに、「なんでもない。ちょっと電話」って答えて、私は教室を飛び出す。
近くにあった空き教室に入ると、急いで通話ボタンを押した。
「は、はいっ! 楓です!」
『こんにちは。バーナビーです。今、大丈夫だったかな?』
思わず声が裏返ったけど、バーナビーさんは気にせずスルーしてくれる。
「うん。ええと、授業は終わってるから大丈夫だよ」
『それはよかった。楓さんのお父さんと、楓さんの調子はどうかなと思って電話してみました』
「ありがとうございます。お父さんはまだ動きにくかったり痛みがあったりするみたいだけど、微熱はひいてきたよ。私が家にいるときは、私が看病してるんだけど、口だけはすっごい元気で、病人じゃないみたい。私も大丈夫です。ありがとう」
『ふふっ、目に浮かびます。二人とも何の障りも無さそうでよかった』
その優しい笑い声から、バーナビーさんの今の表情がすんなりと想像できる。そしたら、意識する前に口から言葉が零れ落ちていた。
「……やっぱり、バーナビーさんとお父さんは仲良しなんですね」
『え?』
「バーナビーさんは気付いてないかもしれないけど、お父さんの家に行った時、一度だけお父さんの事『先輩』って呼んでました。後ね、お父さんにバーナビーさんの話をした時、お父さんったらバーナビーさんの悪口言おうとして失敗して……でも最後に、お礼しなきゃなって、凄く優しく笑ってたから」
私の言葉に、バーナビーさんからの返事はなかった。もしかして違ったのかなと思って、間違ってましたかって尋ねたら、バーナビーさんの意表を突かれたような声が帰ってくる。
『あ、ああ。ごめん。楓さんは凄いな――』
「大丈夫! あっちでお父さんが親しくしてる人が、アンさん以外にもちゃんといるんだってわかったら十分なんだ」
『楓さん……』
「だから、バーナビーさん。お父さんをよろしくお願いします」
出来るだけしっかりとした声でお願いしたら、電話口でバーナビーさんのため息が聞こえた。ダメだったろうかと思う前に、優しい声で答えが返ってくる。
『承りました。でも、楓さん。貴女はもう少しあの人を困らせたっていいんですよ? ……っと、すみません。そろそろ失礼しますね』
「あ、はい。お仕事頑張ってください!」
『ありがとう。気を付けて帰ってください。ではまた』
バーナビーさんの声と共に通話が切れた。私も通話を切って、携帯を折りたたむ。
そのまま長いため息を一つ吐き切ると、突然聞こえた楽しそうな声に肩が跳ねた。
「か・れ・し?」
「わぁ! メアリっ、だから違うってばもう!」
いつの間にかドア口に立ってニヤニヤしているメアリの肩を、携帯電話を仕舞って駆け寄った私は平手で叩いた。
*****
実家に帰って2週間たった。
はっきり言って、幸せすぎて俺は怖い!
だってよ、楓がほとんど付きっきりで看病してくれるんだよ。何だかんだ言いながらも、食事や薬の面倒見てくれるし、汗かいたら拭いてくれるし、俺の話聞いて呆れたりしつつも、最後にはしょうがないなぁって感じで笑ってくれるし。
そう、楓が俺の傍で沢山笑ってくれるんだせ~! こんな幸せな事ないだろ!?
そんな楓の看病の甲斐もあって、2週間経った頃には、無理はできないが自力で歩く位は出来るようになっていた。
楓に世話焼かれっぱなしっていうのも、父親としてどうかと思うからなぁ。リハビリも兼ねて、自分で出来ることは自分でしないと!
いつまでも実家で寝てるわけにゃいかねーもんな。
正義のヒーロー・ワイルドタイガーは、まだまだ鈍っちゃいないってとこ、悪人どもにわからせてやんねえと。
大は小を兼ねる! てことで、手始めに家の中の事から始めた。
母ちゃんが取り込んだ洗濯物を、手伝うつもりで畳んでいたら、そこに楓が帰ってきて、顔を真っ赤にして怒られた。理由は、その時俺がストライプ柄にフリルのラインが入った楓のパンツを持って固まってたからだ。「最っ低っ!」との罵りには返す言葉もない。
日・水の朝食は楓が作っているようなので、水曜日の朝食を楓の代わりに作ってやった。小さいころ楓が好きだったパンケーキのレシピを思い出しながら作ったら割には、なかなかのものが出来たと思う。
楓はキッチンに立つ俺を見て驚いたような顔をして、キッチンに一番近い椅子に座ってずっと俺の手際を見ていた。先に焼けたパンケーキを食べた楓は、すっごく美味しいって言ってくれた。食べ終わった楓は、顔を洗っておばあちゃんも呼んでくると去って行った。
キッチン周りにリビングと掃除機をかけ終わったので、次は楓の部屋もかけといてやるかとコンセントを抜いた。しゃがむ動作は少し傷に響くようだが、まあどうってことはない。
楓の部屋で掃除機をかけていると、机の上からブルーの手帳が落ちた。拾おうとしたそこに、通りかかった楓が飛び込んできて手帳を浚われた。なんでも手帳を見られるのが恥ずかしいらしい。あと、年頃の女の子の部屋に勝手に入らないでと怒られた。もうそんな難しい年頃になっているのかぁと、お父さんはちょっと寂しくなった。
そんなこんなを繰り返し、3週間を待たずして、俺は一人で外出出来るようになっていた。
母ちゃんはまだ心配してついてこようとするが、こんな田舎でそうそう何かあるわけでもないって言いくるめてある。
そんな事より気になるのは楓の事だ。
どうも最近、様子がおかしい気がする。
なんつーか、うまく言えねーけど、俺に対する態度がちょっと変だ。
良く言えば控えめ。悪く言えば避けられてる。うん。自分で言っててめちゃくちゃ凹む。
何が原因かわかんねぇけど、俺がなんかしちまったんなら謝らないといけねえし、とにかく一度、楓と話をする必要があると思ったのだ。
でも、もしかしたら母ちゃんの居る家では話しにくいのかもしれない。
だから、今日は学校まで楓を迎えに行くことにした。
楓の学校までは、徒歩20分。リハビリ代わりの運動にも最適だ。
ここ最近楽な格好しかしていなかった為、久しぶりに着る一張羅に気が引き締まる。長年使い込んだハンチングを被ると、俺は実家を後にした。
「……カエデ。元気ない?」
「……うーん?」
メアリの心配の言葉に、私は何とも言えずに首を傾げた。
お昼休み。校庭にある木陰でランチを広げていた私とメアリは、それぞれのお昼ご飯を食べながらいつものお喋りをしていた。そしたら、ふいにメアリがそう言ってきたのだ。
メアリは人の感情変化に鋭い子なので、そろそろ何か言われるだろうなとは思ってた。けど私には答えが用意できない。
「メアリ」
「何?」
「分からないの。私が」
「カエデが?」
とりあえず、私は、現状をありのままに話すことにした。
「その。……お父さんと、どう接していいかわからないの」
迷いながらの言った言葉を聞いたメアリは、ウインナーが刺さったフォークを持ったまま、考える様に手を顎にあてる。
「メアリ。ウインナー、食べちゃった方がいいよ?」
「ん」
私の言葉に、メアリはウインナーを一口で頬張った。柔らかそうなぽっぺがウインナーの形にぼこぼこ変形して面白い。ちょっと苦労して飲み込んで、コップの紅茶を二口飲んだ後、メアリは真っ直ぐな瞳で私を見た。
「カエデさ。あたしの家、来たことあったっけ?」
「うん? ないよ。私がお泊りに行くと、おばあちゃん一人になっちゃうもん」
「じゃあ丁度良いじゃん! 今晩このまま泊りに来なよ。明日学校休みだしさ。家でパジャマパーティーしよっ!」
そう言って、メアリは楽しそうに両手を広げた。その提案は私にとってあまりにも魅力的だったので、ついうっかり反射的に『はい』の返事を返してしまう。
でもすぐに正気に戻って取り消そうとしたら、メアリにあっさり遮られた。
「やった! じゃあ家には連絡しとくから、カエデもおばあちゃんに連絡しなよ!」
「ちょっと待ってメ」
「あー! ほら大変! あと10分でお昼終わりだよ~。カエデまだほとんど食べてないじゃん」
「う~~」
大げさに制限時間を告げたメアリは、大口開けて自分のお弁当の残りを消化していく。
あっという間に口に詰め込んで、もごもごしたまま、まだお弁当箱をつついている私に向かって軍人さんみたいな敬礼をした。そのまま私を置いて走り去る。
私はというと、口の中にご飯がいっぱい入っていたから何か言えるわけがない。
ご飯が口に残ったまま、走ったらいけないんだからね! なんて心の叫びは、メアリに聞こえる訳もなかった。
*****
私が、私に違和感を感じたのは、お父さんが自由に動けるようになって数日経ってからだった。
お父さんの看病自体はすっごく楽しかったの。
家に帰ったらお父さんが居て、笑顔で「おかえり」って言ってくれて、つまんない冗談みたいな事言いながらも私の話に耳を傾けてくれる。お父さんの着替えを手伝ったり、ご飯の用意をしたり、移動を手伝ってあげたり。お父さん一人じゃ出来ない事が沢山あって、それを私が助けられるのが嬉しかった。
9才にもなってって言われるかもしれないけど、いつも居ないお父さんを、私が独り占め出来たんだもの。
その始まりは、お父さんが家の中のお手伝いをするようになってからの、ある日の夜中。
一人眠るベットの上で、唐突に目が覚めた時の事。
ふっと、気付いたの。
お父さんが少しずつ自分で動けるようになって、私の助けを必要としなくなってきている事に。
その事実に、急に胸が苦しくなった。
それは、息をしてるのに、体が空気を受け付けてくれないみたいな感覚。
お父さんの怪我はもうすぐ治る(私の助けは必要ないね)自分で歩いて、外に出て、走って(そうしてまた帰ってこないんだ)私に嘘ばっか吐いてお仕事の事も教えてくれなくて(私の事を見ようとしてくれない)だから私は私は私は私は(私の居場所をいっしょうけんめい作ってるのに、お父さんが)壊してしまう。
苦しい。くるしい。お父さん、おとうさん。たすけて。おとうさん。
体の中に溢れた見たくない思いが苦しくて、両目から涙がぽたぼたおちてるのがわかった。でも声なんか出ない。
出しちゃダメなんだ。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。ぜったい、だいじょうぶ。
おぼろげな思い出の中、白い世界でお母さんが私にくれた言葉を、頭の中で繰り返す。
「かぇでは、ったい、……じょぶっ」
『楓は――だから、――絶対、大丈夫だからね』
絞り出した小さな声をきっかけに、私の頭の中に、お母さんの暖かい声がふわりと響いた。
その声に流されるように、体中の苦しさがすうっと消えていく。
瞳から最後の涙がこぼれて、私はそのまま引きずられるように眠って――。
朝になったら、昨夜の事をよく思い出せなかった。
何か変な気分のまま時計を見て、いつもより早い時間に鳴った目覚ましに、今日が朝食当番の日だってことを思い出す。
「……はん、つくらなきゃ」
腫れぼったい目のまま薄手のカーディガンを羽織って、ふらふらとキッチンに向かったら、朝日の中にジャージ姿のお父さんが立っていた。フライパンで何か焼いてるみたい。
私がお父さんに向かって歩いていくと、顔だけ振り返ったお父さんが私を確認して言った。
「おはよう、楓! 今日はお父さんが朝メシ作っちゃうぞ~」
「ぉ、はよう。おとうさん」
驚いて、思わず変な声が出た。けどお父さんは気にせずフライパンに視線を戻す。
私は、キッチンに立つ大きな背中に一番近い椅子に座って、机に乗せた両腕に顔を埋め、お父さんの背中を眺める。
小さなころから変わらない大きな背中。
他の子のお父さんと違って、若いスポーツマンみたいな体は、ジャージを着てても変に様になる。
でも、気を抜くとちょっと猫背ぎみに立つ癖があって、折角かっこいいのに勿体ないって思う。
そう、だ。
これは、お母さんが教えてくれた事。
「……私、結構覚えてるの?」
「ん? どした楓」
私の小さな独り言に、お父さんがちょっとだけ振り向く。
「……変なヒゲ」
「~~っ! 楓ちゃん……お父さん今何か刺さったよ……」
幸せそうなその顔を見て、思わずそんな事を言ってしまった。お父さんはちょっと涙目で、でも、そんな様子がなんだか可愛い。
お母さんは、お父さんのこういうとこ、好きだったんだろうなぁって思った。
そうやって眺めているうちに、朝ご飯は完成したみたいだ。
お父さんが、テーブルの上に、ペーパーナプキンとフォークにナイフ、そして、ミニサイズのパンケーキを三段重ねにし、たっぷりのクリームと大胆に切られたバナナにイチゴを添えたお皿を置いた。
「わぁあああ」
感嘆の声を上げる私をよそに、お父さんはコップにミルクを注いだものをお皿の右手側に置く。
「うっし完成! 虎徹ちゃんパンケーキだ!」
え。自分でちゃん付け気持ち悪い。
パンケーキに夢中になって制御を忘れた思考は、結構酷い反応をしちゃったけど、口に出なかった私は凄いと思う。
「楓が昔大好きだったパンケーキのお父さん版だ! どーだ、美味しそうだろ?」
「うん」
ほんとに美味しそうだったので素直に頷くと、お父さんが私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。髪の毛のセットが終わっていたら怒ってる所だったけど、寝起きでボサボサの髪だったのでそのまま撫でられる。
最後に私の頭を軽く叩いて、お父さんは笑った。
「じゃあ、俺と母ちゃんの分も用意するな~。楓は先食べていいぞ。あったかい方が美味しいからな!」
「いただきます」
両手を合わせてそう言うと、私はフォークとナイフを手に取りパンケーキ攻略を開始した。三枚重ねのパンケーキにフォークを突き立て、ナイフで小さめにカットする。ナイフを使って、ミルフィーユ状態のパンケーキの上に、クリームとフルーツを乗せると、おっきな口でぱっくりと食べた。
柔らかなパンケーキは、間にサンドしてあったのか、ほんの少し蜂蜜の味がする。クリームは甘さ控えめでミルクの優しい味がして、そこにフルーツがばっちりアクセントになっててすっごく美味しい!
優しい香りに優しい味。私が好きだったっていうパンケーキ。
また思い出した。お母さん。おかあさんの、パンケーキだ。
「すっ……っごい、美味しいっ」
「おぉ、そりゃ良かった!」
ちょっと変な声が出たけど、お父さんは気付かなかったみたいで良かった。
私は溢れそうな涙の対処に困りつつも、急いでパンケーキを食べる。優しくて、あったかいパンケーキを飲み込むたびに、幸せな映像が鮮明になっていくのが嬉しくて、怖かった。
最後の一口を放り込むと、コップに残ったミルクを一気に飲み干し両手を合わせる。
「ごちそうさまです。顔洗って、おばあちゃん呼んでくるっ」
言うなり、お父さんの方を見ないで椅子を立った。
「おぉ? 早いなー」
お父さんののんきな声を背に、洗面所に急ぐ。いつもなら片付ける食器もそのままにしてしまった。
それよりどうしよう。きっと目が真っ赤だよぅ。
「また作ってやるからな~!」
私に気に入ってもらえたのが嬉しかったのか、機嫌が良さそうなお父さんの言葉に、私は心の中で返事をした。
どうせもうすぐ居なくなるくせに。お父さんの、うそつき! って。
私がお父さんにどうやって接すればいいのかわからなくなってきたのは、その辺りからだった。
最初は、お父さんを前にすると、言葉が出てくるのにほんのちょっと時間がかかるだけだったんだけど……。
それがだんだん、お父さんと話し出すタイミングが被り、お父さんのする話が酷く気持ち悪く感じ、お父さんと何を話せばいいのかわからなくなり、お父さんに話すことが何も出てこなくなり、お父さんを凄く傷付けて立てなくさせるような事を言ってしまいそうで怖くなり、顔を合わせるのが気まずくなり、お父さんの足音や声が聞こえると体がビクッて反応するようになった。
傍にいないお父さんに対してあんなに怒ってたはずの私が、今はお父さんに、早くお仕事に戻ってほしくて仕方なくなっている。
そして、そんな事を思ってしまう私に気付いて、本当に悲しくて苦しくて、心が切り裂かれたようだった。
ぜんぶ、わたしの、わがままで。
ぜんぶ、わたしが、わるかったんだって。
なんだ。お父さんは悪くない。私が。
「……悪い子なんだ」
思考の渦から戻ってきた私の声は、全ての授業を終えて翌日の休みに沸くクラスメイト達の声に紛れてしまった。
*****
目の前には石造りの校門。その中には木造二階建て校舎。丁度授業が終わった所なのか、校舎からはガキ共がバラバラと溢れ出している。
「うっし! ついたぁー!」
違う道に折れて、徒歩20分の所を35分かけて目的地に辿り着いた俺は、人目も気にせずガッツポーズをした。
それを見て下校中のガキどもが「なんだこいつ」だの「あぶねーんじゃねーの」だの「先生よぶ? ケーサツ?」だの言ってるが、気に……はする。おじさんも気にするぞ!
「よう、ガキ共! おじさんは鏑木・T・虎徹ってんだ。娘を迎えに来たんだが知ってっか? 楓っていう名前の、チョー可愛い女の子だ!」
楓と同じくらいの年ごろだろう少年たちに向き直り、そう告げると、少年らはまた顔を突き合わせて話す。
「カエデ。しってるか?」「っつーか、チョーとかオジサンくせぇの」「オッサンじゃんこいつ」
「カエデがブスに1ドル」「でもこのオッサン意外と顔イイからカエデも可愛いに2ドル」「確かに顔いいな。ヒゲ最悪だけど」
「お・ま・え・ら・な!!」
可愛い娘をネタに賭け事まで始める少年たちに、流石の俺も我慢の限界だ。首根っこひっ捕まえて説教してやろうと思った所に別の声が聞こえた。
「カエデ・カブラギの事?」
声の方を向くと、癖のあるショートカットの少女が一人立っている。大きな瞳で真っ直ぐに俺の目を見て、一度も逸らさないその様子に、一瞬だけ気圧されちまうが、気を取り直して返事する。
「おう! そうそう。お嬢ちゃん知ってるかい?」
「貴方だれ?」
「楓の父親で、虎徹ってんだ。話ついでに娘を迎えに来たんだよ」
「ああ、貴方が。あたしはメアリ。カエデの友達です」
あまり抑揚のない声に、随分大人びた子だなぁという印象を受ける。メアリは、後ろ頭を掻く俺の言葉を待たずに続けた。
「カエデ、今日は私の家にお泊りする約束があるのよ」
「へっ?」
予想外の言葉に、多分相当な間抜け面を晒したと思う。だがメアリは、それを笑うでもなく表情を凍らせたまま。
「今日はこのまま、あたしと帰るんだ。だから、虎徹さんとは帰れないね」
相変わらずの声で言った。その様子が相まって酷く挑戦的な言葉に聞こえ、流石にちょっとむっとする。ホントに楓の友達なのかぁ? とも思ったけど、俺の事知ってるみたいだし、それは間違いないんだろうなあ。
俺は左手を顎にあててちょっと考えた。
あー。メアリには悪いけど、これは家族の大事な問題だから、今回は諦めて貰うしかないよなぁ。お泊りだったら、また日を改めればいいんだし。それに俺が聞いてねぇって事は、多分急に決まった事だろうから大丈夫だろ。よし!
考えのまとまった俺が、二度三度頷くと、それを見たメアリが声を掛けてくる。
「終わった? ならいいよね」
「あー! ちょっと待った待ったっストップっ!」
返事も待たずに校舎に戻ろうとするメアリを、慌てて引き止める。その時に掴んだ手首は、一瞬でふり払われた。
なんかスゲー汚いものに触られたみたいな動作で、おじさん地味にショックです。まぁ。この年頃の女の子は仕方ないのかもしれないけど……。
俺はしゃがんでメアリに目線を合わせると、顔の前で両手を合わせて両目を閉じ、拝むように言った。
「頼むっ! 今回は引いてくんねーかな? 家族の大事な話しなきゃいけねーんだ。それにほら! お泊りだったらまた今度でも大丈夫だろ?」
言い終わった直後に、様子を窺うように片目を開くと……。
うん、なんていうか。メアリちゃん、目が怖い、デス。何そのブルーローズも真っ青なコールド・アイ!
え!? ナニ俺今なんかヤバい事言った!?
面白がって様子を見守っていたガキ共が、クモの子散らすようにいなくなってんですけど!!
俺にとって幸いなことに、その状態は長くは続かず直ぐに解除された。いや、うんでもほんと怖かった。イマドキの9歳恐ろしい。
「わかった」
「えっホン――」
意外にあっさりした了承の返事に、俺は心底驚いた。
だってあんな目するもんだからてっきり……って安心してたら、やっぱりまさかの条件付きで。
メアリが初めて表情を変化させた。子供っぽい笑顔に、なんだ、こんな顔も出来るんだなぁって思ってたら、その顔のまま無邪気な声でさらりと条件を突き付けた。
「今日のカエデちゃんとのお泊りは諦めるから、おじさんの事一発殴らせて?」
え? あれ? ちょっとそれ拳握ってる? ――最近の子の過激さに、おじさんついていけないっ!
私は教室の机に頭を預けたまま、ただひたすらぼーっとしていた。
帰らなきゃいけないって、頭では分かってるのに、帰りたくない。
どこにも行きたくないし、どこにも居たくない。いっそこのまま、溶けてどろどろになって、地面に吸い込まれちゃえばいい。
バカだな。わたし。ほんとバカだな。
「できないよーだ」
呟いた言葉は涙声になるかと思ったけど、意外とそんな事もなかった。
なんだ、まだ平気なんだ。
「カエデ」
声がした。
一度瞬きをして、どこにも合わせてなかった焦点を戻す。
くるりと瞳を動かすと、メアリの顔が見えた。
「メアリだ」
「あたしでーす」
メアリはそう言うと、視界から消えた。物音と共に戻ってきて、何かに座る。多分、近くの椅子を引っ張ってきたんだ。
「あたし、カエデに謝んないと。カエデのおとーさん、さっき殴ってきちゃった」
「へー……ぇえっ!?」
メアリの予測しない言葉を理解するまで、私はちょっと時間がかかった。時間がかかった分驚きも凄くて、思わず飛び起きて机の裏で膝小僧をぶつけちゃった。うう、すっごく痛い。
「っそれより! え? どういうこと! お父さん来てるの? でも殴ったって何がどうして??」
「おー。復活したねー。大丈夫だよ。殴る理由は適当にでっち上げたもん。『父親の癖に娘顧みず悲しませてばっかのダメ親父に天誅加えたくて殴りました』なんて言ってないから安心して☆」
「て、てんちゅく?」
「カエデっ、かわいいっ」
わからない言葉を聞き返したら、急に抱きしめられる。メアリって時々意味が分からない。
「まあ、それはともかくね」
メアリが私から離れながら言った。私の両肩を両手で握って、優しい目で私を見る。
「カエデのお父さんが、カエデと話がしたいからって、迎えに来てる。お泊りは延期になっちゃった」
「……そっ……かぁ」
本当なら喜んでもいいはずの言葉なのに、私は少しも嬉しいと思えなかった。
お父さんもかわいそうだな。こんな悪い子が自分の子供なんだもん。
ぺしっ。
私のおでこに衝撃があって、なんだろうと思ったら掌が視界を埋め尽くしていた。
「変なこと考えてる顔してるー」
掌の向こうに、にんまり顔のメアリが見える。
「カエデはあたしの、だーいすきで、たーいせつな友達です。復唱!」
「え、えええええ!」
突然言われたことに、顔が真っ赤になるのが分かった。メアリの手を額からどけると、彼女は両手を左右に広げてみせる。なんかこう、私の胸に飛び込んできてもいいんだよって感じだ。
ここ最近、メアリにやられっぱなしだった私は、その様子を見て変なスイッチが入っちゃったのかもしれない。鞄を肩から下げ、すぐ下校出来る準備を万全にした後、精一杯の笑顔で言ってやった。
「メアリは私の、大好きで大切な友達です! じゃあまた来週ね!」
言い逃げるように教室を飛び出した私が、それが彼女なりの励ましだったんだって気付いたのは、校門で待つお父さんの姿が視界に入った頃だった。
どうしよう~来週恥ずかしくて顔合わせらんない……! 早く忘れよう!
*****
あのメアリとかいう少女に殴られて――ええ、殴られましたとも思いっきり! イマドキの子供マジえげつねえ。腰から回す上に親指握りこんでやがんの! まあそれでも少女の力だから痛いだけで済んでるけどさぁ――待つこと15分ちょい。ちょーっと遅くねえかと思い始めた所で、こちらに向かう楓の姿が目に入った。
「か~え~で~!!」
娘の姿を発見し、思わず大声で叫んで両手をぶんぶん振ると、気付いた楓がこちらに向かって走ってくる。
ああもう、さっきのメアリって子と違って楓はかわゆいなぁ。そんなに一生懸命に走らなくても、お父さんは逃げないぞ~。
あれ、でもなんか楓の奴、怒ってる?
「お父さん! そんな大声で呼ぶの止めてよ! 恥ずかしいなぁ」
やっぱり怒ってらっしゃる!
俺の目の前まで来て、片手を腰に、片手の人差し指を俺の顔に突き付けて怒る楓に、俺は苦笑いを浮かべながら取り繕った。
「ご、ごめんごめん。楓に会えて、つーい嬉しくってさ!」
「私に会えてって、今朝も……。……そう、だね」
両手の平を体の前に押し出して、宥める様に言うと、楓の反論が返ってくる。――と思いきや、反論は途中で失速して消えた。
不審に思った俺が聞き返そうとする前に、楓が俺の手を取って引く。
こんな風に怒らせた後に、楓から手を繋いでくるなんて事、珍しいなんてもんじゃなかった。
「とりあえず、行こ」
「あ、あぁ」
向けられた笑顔に狼狽えつつも、俺は楓に続いた。校門を出て帰り道を歩く。
小学校の周辺は田園風景が広がり、登下校時でもなければ閑散としてしまうのだろう。そこを歩きながら、楓が俺を見た。
「今日はどうしたの?」
「ん? ああ。えーとな。……そうそう! こっちに帰ってくんのも久し振りだからさ。楓と二人でご飯でも食べにいこっかなーってさ」
しまった! 楓と話しなきゃーって事で頭いっぱいで、具体的な事なんも考えてなかった!
何とか理由をひねり出すも、背中には冷や汗が伝う。マジであぶねー。
そんな俺をよそに、楓は畦道に視線を移しながらさらに核心的な問いを寄こした。
「お話って?」
「あー。うん。それもメシの時にな。なー楓! 何食べたい? 何でもいいぞ~」
この流れはヤバイ! と思った俺は、さりげなーく話の流れを変えていく。すると楓は、少し考えるそぶりを見せた後、俺に言った。
「……うーん、じゃあ、お父さんが今までで一番おいしいって思った食べ物」
「要求レベル高っ! 今お父さん吃驚しちゃった」
楓の言葉を受けて、俺がちょっと冗談っぽく大げさに驚いて見せると、楓の肩が少し揺れた……気がした。
「ご、めんね。……ええと。オムライス。オムライスが良かったんだ! あのね、ちょっと遠いんだけど、シュテルンビルトに行く途中の駅に美味しいオムライスやさんがあるんだって。前にスケート教室に行った時、友達から聞いて私も行きたいなって思ってたの」
何故か小声で謝罪を述べた後、息つく暇もない位のスピードで楓が喋り切った。
楓は笑顔を浮かべているが、何かがおかしい気がする。でも、何がおかしいのかはわからない。
「ほら、おとーさん。早く行こうよ!」
娘に手を引かれて、進む。楓の笑顔は変わらない。
「楓」
「なぁに、お父さん」
名前を呼べば、楓は不思議そうに振り向いた。うーん。やっぱ俺の気のせいだな。
「楓はやっぱ最高に可愛いなぁ~って思って!」
笑顔で楓の隣に並べば、楓は何時ものようにそっぽを向いて照れた。
今日は言葉が飛んでこないから、むしろ楓の機嫌がいいのかもしれない。
完全にズレた事を思い込んだその時の俺は、やっぱりアイツの言うとおり、楓の事なんてなんも見ちゃいなかったんだろう。
「――わたしは、ぜったい、だいじょうぶ」
俺から顔をそらした楓の表情も。
小さく呟かれていた言葉の意味も。
*****
目的の駅に着いた頃には見渡す世界は夕闇に溶け、飲食店や家庭の明りが夜に華を添えていた。
改札から最初に飛び出したのは少女で、その少し後に歩み出るのは保護者の男性である。
「楓! 前見ないと危ないぞ」
「わかってるー」
至極楽しそうに見える少女とは対照的に、男性は少し困惑気味に自らの髭を弄った。
まあそれも仕方がない。
つい先ほどまで乗っていた電車内で、二人はろくな会話を交わしていなかった。
少女は車窓に張り付いて暮れる景色を飽きる事無く眺めていたし、男性は少女に声を掛けるも生返事しか返って来ない為に微妙な時間を過ごしていた。
それが今や、少女は妙に機嫌が良くはしゃいで見える。一体何があったのか。
だが男性は、あっさりと考えることをやめた。
どうやらあまり難しく考える性分ではないらしい。
先行く娘の背中に追いつくために、小走りになりながら叫ぶ。
「楓~!お前、道わかってんのかー」
「学校まで来るのに迷ったりしないから大丈夫だもん」
少し先で立ち止まっていた少女が、追いついた男性から顔を逸らす。
「え。それ誰に聞いたの!?」
「迷ったの? 恥ずかしいなぁ……」
「い……いつの間にそんな技術を」
単純な性格らしい男性は、少女の呆れた様子に動揺しつつも、その手を取って歩き出した。
目指す店舗は駅から徒歩五分。
お髭のマスターが作るオムライスが名物の、地元民に愛される個人経営の小さなお店。
ログハウス風一軒家の木製ドアを開けば、カウベルが揺れる音にふんわりバターの香り。
「いらっしゃ~い。おふたりさん?」
楓と虎徹のディナータイムは、表面上は和やかな雰囲気で始まった。
*****
楓の案内でたどり着いた店は、なかなか良い感じの店だった。
店内に満ちるゆるやかな雰囲気は、オーナーらしい立派なヒゲを蓄えた老年の男性の人柄を感じさせる。
一歩店内に踏み込めば、それだけで、そこが慣れ親しんだ場所に早変わりしたような安心感を覚え驚いた。きっとこの場所で長く愛されて営んでいる店なんだろう。
あちらこちらに置かれた北欧玩具や、気取らない小さな小瓶の一輪挿し等、雑多な空間に見えかねないインテリアの数々は、しかして妙な調和を保っている。
「こりゃ、良い店だ」
「一見して褒められっとくすぐったあね。席はどの辺でも、好きなとこドウゾ」
キッチンから顔を出したオーナーが似合わない笑顔で言った。店内には、今にも帰りそうな客が一組だけ。
俺はオーナーに顔を寄せて、小声で耳元に囁いた。
「実は娘とちょーっと込み入った話がしたいの。どっかいい席ない?」
「なんだぁ? 可愛い子やし、彼氏? あんま突っ込むと嫌われんよー」
言ってオーナーが大らかに笑う。
うん。その問題も今後大変心配ですが今は違うんです! パパ的にそれより大問題!
なんて言えない俺は、ただ苦笑いでスルーした。これは会社に入って身についた技術だ。
「店長さん! このお店、写真にとっていいですか?」
そんな俺らの会話を遮って、楓の楽しそうな声が割り入った。店内のインテリアがよっぽど気に入ったのか、頬をピンク色にして期待のまなざしで訪ねてくる。
「OKOK! だーいじょうぶに決まって――」
「お父さんに聞いてない」
その様子があんまりに可愛かったんで、オーナーの代わりにOK出したら楓に怒られた。
楓に怒られた俺を見て、店長は酷く楽しそうに笑って、楓にOKを出す。
結局一緒じゃん! 俺でもいいじゃん!
ここの持ち主は俺じゃないので、俺の了承は何の効力も持たないと知りつつも、何かが納得いかなかった。
「ありがとうございます!」
楓はそりゃもうかぁわいい笑顔をオーナーに向けてきちんとお礼を言った。本当に良い子だ。時々パパに対しての言葉が厳しいけど……あぁ、自分で言ってて凹んだ。
「いーぃ娘さんじゃねえか。何の問題があるんだか? おっ! ありがとうございまっすっ!」
呟き途中に店にいた客が席を立ったので、オーナーは一時会計に入る。会計を終えると率先してドアを開け、客を送り出してから戻ってきた。俺の肩を叩いてにかっと笑う。
「おし。じゃあ好きな席座っていいぞ。但し、注文はもうちぃっと嬢ちゃんが満足してからなあ」
「お、オーナー俺の話聞いてました?」
「きーとった。だから店閉めた。今からお二人さんの貸切ー」
え、何言ってんのこの人。
貸切っていった?
「俺そんな金」
「野暮な男やな。今日はそんな混まん日やし、もうこの時間やし、金なんかとらんよ。まあそん代わり、今度は家族や親戚、友人や会社の奴らでもええから、大勢連れてきて貸切にしてな!」
訝しんだ俺の発言は、不満げなオーナーの声に一刀両断される。ぎこちないウインクとともに渡された名刺には、印字された店のアドレスに手書きで名前が書きくわえてある。恐らくオーナーの名前だろう。
随分とレトロで気障な演出に、俺も思わずにかっと笑う。
「商売上手いね、オーナー? そんなカッコイイ事言われたら、俺も男の意地にかけて貸切たくなるだろー」
「うちは固定客が多い店なのさぁ」
返事になってるような、なってないような言葉に、まぁこれで味が良ければ贔屓にしたくなるのはわかるなぁと思う。
シュテルンビルトに戻ったら、ヒーロー仲間集めてくるのもいいかもなぁ。そんな遠くねぇし。どうせならベンさんとか斎藤さんとか心当たりに全部声かけてみるのも……。
なんて考えていたら、楓にジャケットの生地を引っ張って呼ばれた。
「おとーさん? もう大丈夫だよ」
「あぁ。わりぃわりぃ。ちょっと考え事してた。じゃああっちの窓際に座ろーぜ!」
「うん!」
俺としたことが、楓の存在が抜けちまうなんて! ちょっと凹んだが、今日の俺は表に出したりしないぜ!
入り口通路を入って右に折り返したスペースには、いくつかの席がゆったりとした間隔を空けて配置されている。そのうちのシンプルな出窓の傍にある木製テーブルを指差して我が子に笑顔を向けると、楓も綺麗な笑顔で返事をして席に向かって走って行った。
……? 今なんか変な感じが。
ふいに襲った違和感の正体を探ろうとした俺の隣を、オーナーが軽やかに通り過ぎた。
「はぁい。メニューよ~。あとお冷ね。娘さんは髪飾りと同じ色の水玉グラスに入れてみたよ」
「うわぁ、ありがとう!」
先に席についていた楓の前にメニューと洒落たグラスを置いたオーナーは、振り返って俺に席に着くように促した。それから、俺が着く予定の席にメニューと普通のグラスを置く。
「俺のグラスが寂しく見えるんだけど?」
「なんや。可愛いものが好きやったんか? そんなら替え」
「イイデス。そのままで」
オーナーの予想外に親切な対応に、脱力してしまった俺は苦笑して席に着いた。
テーブルとチェアはシンプルなデザインだが、天然木を使用しているようで暖かみがある。チェアの座面にはきちんとウレタンが仕込んであるようで、長時間座っていても難儀しない作りなのは正直助かる。
デザイン先行型の座りにくいのってホントダメなんだよなー。だって長時間座ってて辛い椅子ってどうなのよ!
そんなどうでもいい事をつらつら考えていた俺を気にせず、オーナーが今日の日替わりについて説明していた。日替わりメニューは『エビとトマトクリーム』のオムライスらしい。あと、楓に対してはデザートのページも説明しているようだ。
オーナーの説明を聞いている楓は本当に楽しそうに見える。
今日、俺は久々に楓から沢山の笑顔を向けられているはずなのに、今のオーナーが羨ましくって仕方ねぇ。
あぁ。なんだろうなぁ。
俺が見つめているのに気付いた楓が、メニューを見せながら「どれにする?」って聞いてきた。
メニューはこっちにもあるのに、優しいなーとか思うと、俺が抱いていた避けられてるかもしれないという思いが勘違いじゃないかと思えてくる。
「どれも旨そうだな~。よし、じゃあここはスタンダードにマヨネーズ味で!」
「あ、普通のオムライス一つと、うーん……今日の日替わりで! お願いします」
……やっぱ冷たいかも。
何のリアクションもなく言い直して注文した、若干9歳のしっかり者な愛娘に、パパは頼もしくもさみしー気持ちでいっぱいだよ。
*****
注文も終わって、オーナーがキッチンも兼ねるカウンター裏に戻ったのを見送りながら、楓がグラスの水を一口飲んだ。可愛らしいグラスをまだ幼い両手で握る様子が愛らしくってたまらない。
もー可愛いなぁ。そう思ってへらへらしたら、楓がちょっと不満げに唇を尖らせて言った。
「それでどーしたの? お父さん」
「んー。何がだ?」
「私にお話あるって」
ああ、うん。それだよな。
結局なんて聞くのが一番いいかとか全然思いつかなかったし……もうここは直球でいくしか!
「えーとな。楓、最近何かあったか?」
少しの沈黙の後、改まった顔をして言った俺の言葉を聞いた楓は、酷く不思議そうに小首をかしげて「何か?」と問い返す。
そんな動作もかわいいなぁーっけど今はそうじゃなくて!
「例えばだな。パパに言えない事があったりとか、凄く困ってる事があったりとか、楓だけじゃ対応できない事がだな……」
慣れない機会に言葉がしどろもどろになる。ああ、なんか俺情けなくねえか!?
楓は俺の言葉を聞いてゆっくりと俯くと、5秒してからぱっと顔を上げた。それからなんでもないような顔で、「あるよ?」と事も無げに言い切る。
え、あるの? ていうか、楓ちゃんの可愛い顔に呆れきったみたいな表情が広がっていくんだけどどういう事かなー。
「お父さんさぁ。私の年齢わかってる? もうちょっとしたら10歳! もう立派な女の子なの! 父親に言えない事位あるに決まってるよ。後は悔しいけど、私まだ子供なんだから一人で出来ない事も困ってる事もいっぱいあるの!」
半眼でテーブルに右肘で頬杖をつく姿は、なんだか呆れた大人の女性みたいに見える。というか、発言はともかくその様子が、俺に呆れた友恵さんが乗り移ったのって位そっくりなの楓ちゃん! 怖い!
「や、だって楓。なんか数日前から急にパパに対してぎこちない気がして。パパも何かあったのかって不安になるぞ? 学校で苛められたんじゃないかとか、パパがやっちゃいけない事やっちゃったんじゃないかなとか……」
慌てて考える間も惜しんで理由を告げる。続ける内になんだか情けなくなって声が途切れた。
違うな。こうじゃない。
俺は楓の空いた左手を両手で取って、楓の目を見て、真剣な声で言った。
「ごめんな。楓が心配だったんだ」
握りこんだ楓の手が、びくりと揺れた。
友恵と同じセピアの瞳が大きく開いて俺の目とかち合う。2秒後、瞳が出窓方向に逸れた。
「……わ、たし。も」
楓が呟く言葉を聞き逃さないように、もう少しだけ顔を近づける。
「ごめんなさい。たまたま、ちょっとイライラしてただけで、心配かけてると思わなかったの」
言いながら、右手の平で顔半分を隠すようにする楓を見て、俺は小さく息を吐いた。それに反応して楓の肩が跳ねる。あまりに素直な反応が愛しくて、俺はそのままテーブル越しに楓の頭を抱き締めた。
「お、おとーさっ」
「かえでー! パパ、楓のこと世界で一番大好きだぞー!」
「~~~~っ。ゃだよもう、やめてよ恥ずかしい! お父さんのバカ!」
でれでれしながら叫んだ俺の声に楓は必死に抜け出そうとするが、緩いヘッドロック状態でままならないらしく腕の下でもがいている。
もう! 楓ちゃんってばほんと素直じゃないなぁ!
頭の中がお花畑な俺は、その実は楓が安堵のため息を零していたなんて気付きやしない。
楓に胸をボコボコ叩かれながら幸せオーラをまき散らしていた。
「ほんとバカ! 信じらんない!」
「うんうん。大好きだよー」
「……なんやお前さん。飲む前からよっぱらっとんのか」
楓の頭に顔を埋めていたら、左手から呆れ返った声が聞こえた。テーブル近くで待っているだろうオーナーに、俺は渋々と抱きしめていた楓を放す。楓は一瞬で身を引いて、乱れた髪を手で直そうとしたが上手くいかず、俺に向かって「ばかばかばか!」って言ってから恐らくトイレに駆け込んでいった。
「髪型なんて気にしなくても、楓は十分可愛いのに~」
「お前さん、そゆことしてっと本気で嫌われるぞ」
「そ、そんな事ない……多分。ってか、オーナー何しに来たんだよ」
冷静なツッコミが胸に刺さったが、聞かなかったことにして来訪理由を尋ねた。彼は手に何も持ってはいないのだ。すると、「話がひと段落したみたいだったから、飲み物を聞きに来た」と少し豪快に笑った。
「しっかりした娘さんに押されて忘れとったわ」
「仕事やってくださいよっ! じゃあ、生とオレンジジュースで」
つられて笑った俺は、オーナーにドリンクを注文した。すると視線で娘の席を見て、聞かなくても大丈夫なのかと問われたようだが、それには右手を振って大丈夫と答えた。
「あいつ、オレンジジュース好きだからさー」
「じゃ、今お持ちしますよー」
緩く微笑んで去っていくオーナーの背を見ながら、俺は自分の不安が消えた事に対する安堵から完全に気が緩んでいた。
「ほんと、良い店だな。ここ」
ゆっくり店内を見渡してテーブルに頬杖をつけば、なんだか我が家にでもいるかのような気分だったのだ。
時間をかけて、ゆっくりと干からびていった、彼女の足元に気付かないまま。
*****
お店のトイレに駆け込んだ私は、扉の鍵を閉めて酷く安心した。
上手にできた。上手にできた?
上手にできた……!
フッと鼻から短い息が抜けるのと一緒に体の力も抜けて、閉めた扉に上半身を預けてしまう。左手壁に設置された鏡には、そんな私の顔が映っていた。
ボサボサの髪の毛の下に、酷く疲れた色の目と少し空いたまま閉じられない口がある。おばさんみたいだ。かっこわるい。
なんだか立っているのも辛くて、そのままずるずる座り込んじゃう。
床濡れてないし大丈夫。うん、もうどっちでもいいや。ごめんなさい。なんだろうこれ。
移動する電車内の時間全てを使って私が考えた事は成功したのに。
お父さんが家にいるのは期限付きだ。あと数週もたたず、シュテルンビルトに帰ってしまう。帰ってしまったらまた暫く帰って来ない。そうしたら、私もまたいつも通りに返って来ないお父さんに怒ったり、たまに会えたお父さんに笑顔を見せたり文句を言ったり、きっと自然に出来る。
私のこんな汚くて悪い感情なんて、なかったことにしてしまえる。
お父さんの質問さえ乗り切ってしまえれば、私はやれる。
お父さんの笑顔も、お父さんの今までの生活も、私がちゃんと守れる。
そして、成功したんだ!
お父さんは幸せそうに笑ってた。私のこと『大好き』って言ってくれた。
「……なのになんで、うれしくないの……」
言葉にしたら、じわりと目に何かが滲んだので、慌てて立ち上がって洗面台で顔を洗った。冷たい水は熱くなった頭を冷やしてくれる気がした。
あんまり長くここにいちゃ駄目。髪型もセットしなおさなきゃ。お父さんほんとぐしゃぐしゃにするんだもん。
もう、動かないと。
ぱたぱたと、鼻の頭や唇から水滴が落ちる。蛇口から流れ続ける水に交じって排水溝に溶けていく。
私はぐっと強く目を閉じ、もう一度開いた。
*****
私がお手洗いから戻ったら、お父さんはビールグラスを傾けて店内を眺めていた。お店のBGMが気に入ったのか少しだけ体でリズムを取ってる。多分無意識の動作に音に反応するおもちゃを思い出し可愛いなって思った。
お父さんは戻ってきた私にすぐに気付いた。笑顔でおかえりって迎えてくれる。
テーブルに着くと、お水のグラス以外にもう一つ、陶器の縦に長いコップがあった。取っ手は無くてストローが刺さっている。
「これなあに?」
「オレンジジュース。パパが先に頼んでおいたんだ。楓好きだったろ~?」
随分洒落たコップに入ってきて、パパ吃驚しちゃった。そう言ってお父さんは楽しそうに笑った。確かに小っちゃいころの私は、オレンジジュース好きだったなぁって思う。
「ありがと、お父さん」
上滑りする言葉に、私の心がずきずき痛む。全部気のせいだと思い込んだ。
一口飲んだオレンジジュースは、甘くて舌に絡み付き、口の中で何時までも残る。それが嫌で、私はごくごくと続けてオレンジジュースを飲んだ。
「そんなに急いで飲まなくても逃げないぞー」
お父さんが笑ってる。幸せそうだ。嬉しいことだ。
がちがちになった私の思考に、酷く興味を引かれる匂いが流れ込んだのはその時だった。
卵とバターとフルーティーなトマトの香り。
「おまたせっ! オムライスと日替わりのエビトマトができたで」
「うっ……わぁあ」
「うひゃー! こりゃ旨そうだ。あ、ビールおかわりね!」
お父さんがどさくさに紛れてお酒を追加していたけれど、私は目の前にあるオムライスに夢中で注意を忘れてしまった。
雪みたいに真っ白な陶器のお皿に、ふわふわとろとろの黄色い卵がひとこぶ山を作っている。その周囲に綺麗なトマトクリームのソースが掛かっていて、ざく切りにしたトマトの煮込みと真っ赤に茹で上がった海老がお山とソースを飾っている。お山のてっぺんにはアクセントの紫の葉っぱが斜めに刺さっていた。
凄くきれい。まるで。
「秋のお山みたい……」
「お。わかってくれると嬉しいねぇ」
我を忘れて呟いた言葉は、お父さんのビールを持って戻ってきた店長さんに聞こえちゃったみたいだ。店長さんは少し前かがみになって褒めてくれる。
「この葉っぱは何ですか?」
「紫キャベツを型で抜いたんよ。……苦かったら横によけといてもええから」
それから、でっぺんの葉っぱについて尋ねた私に答えてくれた。後半は耳元でこっそり言ってくれたので、ちょっとくすぐったかった。
「ほな俺は裏にいるから。帰りは大声か、そこのレジにおいてあるベルで呼んでなぁ」
お父さんにそう言って、片手を上げた店長さんが、カウンターの奥にある扉をくぐる。それだけで急にしんっとした店内に、ちょっと寂しくなった。
ポップなBGMが流れる中、お父さんが嬉しそうにスプーンを握る。
「おし! じゃあいただきまーす! あれ、マヨついてないの?」
「普通付いてないしそのまま食べてよ」
「パパがどれだけマヨ好きか知ってるじゃん! こりゃオー」
「そんな事したら私帰るから。いただきまぁすっ」
とんでもないことを言い出しそうなお父さんに先手を打って、手を合わせると、私も銀のスプーンを手にした。捨て犬みたいな目で見ているだろうお父さんを見ないようにして、オムライスを一匙口にする。
「ぉいし~っ!」
トロトロ卵の中身は、海鮮バターライス!
塩気のあるご飯ととろふあ卵に、自然な甘みと酸味のトマトクリームソースが相性バッチリだ。ほんとにおいしー!
私の頭の中は食べた瞬間にオムライスの美味しさでいーっぱいになった。幸せの味だ。お父さんも気に入ったみたいで、もごもご言いながら食べてる。
何言ってるのかなんてわかんないよ。わかんないけど美味しいよね!
言葉も交わしてないのにお父さんと通じ合ったみたいで凄く嬉しかった。こんなこと、初めてかも。
おいしいお料理ってすごい!
私もお父さんも無言で食べて、私が1/3ちょっと、お父さんが1/2以上食べた所でちょっとお腹が落ち着いた。その頃にやっと二人で話しながら食べる余裕もでてくる。何気ない会話をしていた時、ビールを飲みきったお父さんがちょっと寂しそうな顔をした後、思い出したように手を打った。
「そいやパパ、校門のとこでメアリって女の子に会ってよ」
「メアリ?」
唐突に出た友達の名前に、私はお父さんが何を言い出したのかわからなかった。
お父さん、メアリの事知ってたかなって思ったけど、そういえばメアリが教室まで私を迎えに来てくれたんだと思い出す。
「メアリがどうしたの?」
「どうしたのってさー。酷いんだよ! 楓と一緒に帰らせる変わりに殴らせろーって言ってきて、パパほんとに殴られちゃったの!」
お父さんが自分の頬を指差すが私には何も見えなかった。
酷く幸せだったさっきまでの世界が一瞬で塗りかえられる。黒のペンキで塗りたくられたように。
明りがない場所にお父さんの言葉が何度も響く。
そうだ。メアリ殴ったって言ってた。
「楓の友達って言ってたけど、あんな乱暴で無愛想な子ほんとに楓の友達なのかぁ?」
お父さんの陽気な声がただ響いた。
ただ何度も何度もなんどもなんどもなんども。
乱暴? 何が。私を思って殴ったことが。
無愛想? どうして。あんなに元気で優しい子だよ。
友達? わたしの、ともだち、ひていするの?
ぱぱが、きめるの?
そうして なぁんにも みえなく なった 。
*****
急に黙り込んだ楓に、虎徹は不思議そうな表情を浮かべた。
先程まで楽しげに話していた娘が急に黙りこくって俯いてしまった。それから一言も喋らない事を不審に思うのは当然の感情だろう。
微妙な沈黙にポップな店内BGMすら薄ら寒く聞こえる。
「か、楓ちゃん? ……どうした?」
虎徹の問いかけにも楓は答えない。両手で椅子の座板の端をぎゅっと掴んで俯いたままの娘に、虎徹がそっと左手を伸ばした。
その時、彼女の口元が小さく動く。
「……って、……だよね」
「ん? なんだなんだ?」
囁くような声は音楽にかき消されて虎徹の耳まで届かなかった。もう一度聞き返すと、楓が少しだけ面を上げる。
その顔にはまるで人形の様な無表情が張り付いていた。
その不透明な表情を、虎徹は怖いと感じた。
「アンさんって馬鹿だよね」
「へっ?」
娘の口から零れた親友の悪口に、虎徹は驚きのあまりびっと背筋を伸ばした。そんな彼を構うことなく、楓は淡々と言葉を紡ぐ。まるで教科書の朗読でもするかのようにはっきりと、しかし感情の伴わない声で。
「アンさんって、図体ばかり大きくって変な所で押しが弱いし名前負けし過ぎだよね。あの胸の毛も凄く気持ち悪いしあんまり近くに寄ってほしくない。そうだよね?」
「……楓。お前、どうしたんだ」
「お父さんもそう思うよね。だってお父さんもアンさんの事いつも酷く言ってるよね。頭の固い馬鹿牛って」
「――っっかえで!!」
虎徹は両手で力任せに机上を叩いて叫んだ。その表情は瞬間的に沸いた隠しきれない怒りを表している。
引き結んだ口元から覗く白い犬歯を見つめながら、楓は表情を変えずに続けた。
「ねえお父さん。何であんな人と親友なの?」
パァンッ!
言葉の終わった3秒後。高い音が響いて少女の体が耐え切れずに椅子から転げ落ちた。その衝撃にコップが机から零れ落ちて床で二つに割れる。
楓の頬に張り手を与えた虎徹は怒りを露わにしており、それが衝動的なものだったのだと見て取れる。
一方。床で緩く丸まった楓の体は、5秒ほどしてピクリと動きを見せてゆっくり起き上がった。怒りに見開かれた虎徹の目を見て真っ直ぐに感情をぶつける。これまで彼女がしてこなかった事だ。
「お父さん! 怒ったよね? 今何で怒ったの?!」
体を起こすために膝を両手で支えながらも父親を睨み叫ぶ、見たこともない娘の姿に虎徹がたじろいだ。
「何故って。お前、アントニオは関係無い……」
「じゃあなんで私が怒らないって思えるの!!」
押され気味の父親の言葉を遮って楓が吠えた。力の限りの感情を乗せて。
彼女の瞳に映る父親は目を丸くしてぼんやりしている。それが余計に楓を苛立たせる。
虎徹があまりに鈍すぎるとは言わない。ただ、彼にとってこの事態があまりにも突発的過ぎた。だが、そんな事はお構いなしに時間は進んでしまう。
少女は酷く疲れた人間の様な溜息を一つ吐いた。
「お父さんは私なんか見てないんだ」
急に落ち着いた声に、その先を言わせてはならないと本能が警戒音を鳴らす。しかし、虎徹の体は反応できない。心が焦るばかりでどうにもならない。本能と精神と肉体の乖離に、虎徹は泣きたくなった。
楓が落ち着いた、しかしはっきりした声でその言葉を発する。
「――あなたなんか、大っ嫌い」
ごとり。
胸に大きな石を乗せられたような圧迫感が、言葉と共に虎徹を襲った。
少女はくるりと踵を返して店から出て行ってしまう。
今すぐ追いかけなければ。脊髄反射のように虎徹は思った。
追いかけて。
抱きしめて。
そして、そして。
――どうする?
自問に答えるすべが見つからず、彼はその事実に打ちのめされる。
すぐ傍にあった当たり前に笑い会える世界が、真っ暗に塗りつぶされたようだった。
*****
ふわとろ卵のオムライスが自慢のお店、Papa'sキッチンの2階部分は、この店のオーナーシェフであるマイタの自宅となっている。
1階店舗の奥にある階段から直通で辿り着ける自宅キッチン。そこで彼は、スツールに座ってソースを煮込む片手間に新聞を読んでいた。
くつくつと静かに煮える音に耳を傾けながら細かな文字を流し読みしていると、ふいに高い音が聞こえた。
それから何か言い争うような声が続く。
「なんだなんだぁ。親子喧嘩かいなぁ」
どっこいしょと言う掛け声付きでスツールから降りると、彼はコンロの火を止めて鍋の中身を軽くかき混ぜ、鍋に蓋をしてから店舗に続く階段を目指した。
ただの言い争いなら暫く放っておくが、今の音は割れ物が出ているかもしれない。流石に危険がある為、店舗責任者としても放っておく訳には行かないだろう。
彼が階段を下り終えて店舗に顔を出すと、奥のテーブルの傍で立ち尽くす虎徹の姿があった。まるで世界の全てが終わったかのような酷い顔をしている。重力に耐え切れないとばかりに丸まった背からは、力ない腕が垂れ下がっていて、入店時の快活な印象はどこにも見当たらない。
そんな男の足元には、綺麗に二つに割れたグラスが転がっているだけで、一緒に訪れた娘の姿はどこにもなかった。
「お、おい! お前さん! 何があったんや? 娘さんは?」
マイタが思わず叫ぶと、虎徹はぱっと瞳に生気を取り戻した。焦りを滲ませながら辺りを見回して、目的の人物がいないとわかると胸元から多めのドル紙幣を取り出して机の上にダンッ! と置いた。虎徹は、そのまま何も言わずに一目散で外に出て行ってしまう。マイタは驚きつつも慌てて追いかけた。入り口のカウベルが連続する荒い開閉に不満そうな音を出す。
「おおい、おつり! って……どーおしたんだ。ありゃあ」
彼が道路まで出た頃には、虎徹の影ははるか彼方となっており、マイタはすぐに夜闇に消えたその背を見送るしかなかった。
納得は行かないが、見えなくなった人物を何時までも待っている訳にもいくまい。
マイタは首の後ろを掻いて、店に戻る為に踵を返した。ドアと同じ木製の門扉を押して、いつも通りにアプローチを通り抜けて店に戻ろうとしたその時、ふと違和感を覚える。
「んん?」
入り口ドアの横手には、インテリアとして丸太の犬小屋とウェルカムボードが展示してある。その置物の陰に何かがいる。それはマイタの単なる直観に過ぎなかったのだが、彼はこの手の直観を放置しておける人物ではなかった。
ドアの取っ手に掛けた手を下して、そっと犬小屋の影を覗き込む。
「…………お前さん」
ぽとりと、マイタの呟きが落ちた。
陰に溶け込むように隠れていたのは、先程飛び出していった虎徹の連れである娘だった。三角座りの状態で両手で足をきつく抱きしめ、その上に頭を乗せて出来るだけ小さくなろうと丸まっている。マイタが声を掛けるとかわいそうな位に体を震わせた。
それを見て、彼はすっと目を細める。
「おいで。そんなとこにいちゃあ、さみしいやろう?」
その場で座り込んだ彼の暖かい言葉に、楓がそっと視線を上げた。
少女も随分と変わった有様だった。きちっとまとめられていた前髪も今は崩れ、その髪の隙間から見える表情には何もない。悲しみも怒りも喜びも浮かんでいなかった。
――それから3分後。
少女はゆっくりと、彼の導きに従って店の中へと消えていった。
ことん。
小さな音に私の意識がぷっかりと浮かび上がった。
ぼんやりとした視界に黒い縦線がぱちぱちと弾け、瞬きの間に視界がクリアになる。暖かい。ここは、店内だ。
椅子に座った私の目の前には白い陶器のマグカップが置かれていた。赤い水玉模様の入ったアンティーク調のものだ。
「蜂蜜ちょいと入れてあるからね。そんなに熱くしてへんし、どーぞ」
すぐにあったかい声が降ってきて目の前にどっかと大きなおじさんが座る。おじさんも同じものを持っていて、かぷりと一口飲んだ。
「……頂きます」
小さく言って、私もコップを両手で取る。掌からじんわりと暖かさが滲んできた。一口飲むと、甘い香りが鼻を抜けて、舌からゆっくりと暖かさが染み入る。
おいしい。
緊張や不安や恐怖で、カラカラになって冷たかった口の中が優しく癒されていくようだった。
ああ、そうか。ここはオムライス屋さんだ。
それで、この人は、店長さん。
私がぼんやりと認識した頃、店長さんが口を開いた。
「そんで。どうしたんか教えてもろてもええかなぁ」
その言葉に、まだ事実に向き合えない私の体が無意識に震えた。
駄目だな。駄目だ。これじゃあ店長さんが悪いみたいだ。
でも私の口から言葉が出てくれない。
「ん、やなかったな。俺の名前はマイタっていうんやけど、お嬢ちゃんの名前は?」
私が口をぱくぱくして出ない言葉を探していると、店長さん――マイタさんは急に質問を変えた。あっさりとした口調につられて、私の口から自分の名前まであっさり転がり落ちる。カエデ。カエデ・カブラギ、と。
すると、それを聞いたマイタさんはニッカリと笑った。目が細まって瞳が見えなくなりそうな位の大きな笑顔だ。
「綺麗な名前やな! 楓ちゃん」
そう言って、左手で私の頭を何度も撫ぜた。
何にも言わずにずっと頭を撫でるマイタさんに、私は何かよくわからなくなってしまう。
今はどういう状態なんだろう。
私はお父さんとご飯を食べて、言わなければ良い事を言って、お父さんを酷く傷つけて、でも止まらなくて。
それで。
逃げて。
目の周りがかぁっと熱くなって鼻が詰まった。頬に暖かい何かがするりと流れた。
泣いてる、わたし。
「楓ちゃん、頑張ったんやなぁ」
マイタさんが笑いながら言った。何でそんな事を言うのか全然わからなかった。でも、何故だか涙が止まらなくなって、私は机に突っ伏してわんわん泣いた。
こんなに泣いたのって、お母さんが本当に居なくなったんだって自覚した時以来かもしれない。
ずっと泣き続ける私の肩を、マイタさんは一定のリズムで叩き続けた。
たん。たん。たん。
赤ん坊を眠りに誘うかのような緩やかなリズムは、波立っていた私の心をゆっくり凪ぎに誘う。
それから、どのくらいの時間が経ったんだろう。
泣きすぎた頭はふわふわしていて、長いのか短いのか分からない。きっと今の私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。とっくの昔に鼻なんか完全に詰まっちゃって口呼吸しか出来ない。
(どうしよう。恥ずかしくて顔上げれない……)
情けなくもそう思う。この状況でそんな事が思えちゃう私にも驚いた。鼻がびっと鳴った。
私が泣き止んできたのを見て取ったマイタさんの手が、やんわりと肩を離れ、席を立つ気配がする。暫くして顔の横に何かが置かれて、頭の上にふわりと何かが覆いかぶさった。
「見やしないから、涙を拭きぃ。せっかくの可愛いお顔が台無しやで」
マイタさんの言葉に少し顔を上げると、目の前には暖かい桃色のタオル生地が見えた。目隠し代わりに掛けてくれたみたいだ。左隣には箱ティッシュが置いてある。
「あびがどう、ございまず」
お礼を言ったら、凄い鼻声が出て私が吃驚した。
マイタさんは気にした風も無く「ええよええよ」と言ってくれる。
何でこんなに優しくしてくれるんだろう。また涙が出そうになって、慌ててティッシュを取って鼻を噛んだ。耳に空気ががチンっと詰まるような感覚がする。その感覚を、何故か妙に懐かしいと思った。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった顔をどうにかしてから、そっとタオルから顔を覗かせるとマイタさんの視線とぶつかった。
「おーおー。目が真っ赤でウサギさんみたいやな」
「うさぎじゃないです……」
「さよか。はい、濡れタオル」
小さく膨れた私の反論を、マイタさんは冷たい濡れタオルを渡すことで封じた。
受け取ったタオルを広げて顔に当てると、ひんやりとして気持ちがいい。火照った目元や擦って熱を持った鼻元が癒されていくようだ。自然と安堵の息が漏れる。
「なあ、楓ちゃん」
マイタさんがタオルでクールダウンしている私に真面目な声を掛けた。
「何があったか俺にはわからん。けど、お父さん心配しとったで。俺の言葉も聞こえん程の勢いで飛び出していきよった。……楓ちゃんは、お父さんの事嫌いと違うんやろう?」
お父さんを傷付けた私を責めるでもなく、ただ淡々と話すマイタさんに、私は無言で頷いた。酷く申し訳なく感じてしまい、視線が下に落ちる。
「すぐにとは言わんから、ここでもう少し落ち着いたら戻ってやったらどないや? それからき」
「やだっ!」
はっとして、両手で口を閉じた。瞬間的に発せられた言葉は思いのほか強く店内に響き、私自身が驚いてしまう。マイタさんも瞳を真ん丸にして驚いていた。
「……怒鳴ってしまって、ごめんなさい。でも、今は、会いたくないです。お父さんに会いたくない。会いたくないんです……」
『会いたくない』を繰り返すばかりの私に、マイタさんは凄く困った顔をした。それはそうだろう。この人は何の情報も持ってないのだ。でも、今日会ったばかりの人を困らせてでも、この時の私はお父さんに会いたくなかった。
「そうはいってもやな。楓ちゃんみたいな女の子を一人で外に放り出す訳にはいかへん。かといって、ここにおったとしても、お父さんが問い合わせて来た時に嘘付く事は出来ひん。……楓ちゃんも色々考えておるんわかって、あえて言うけど、親の立場からすると本当に心配なんやで」
私は静かに、けれどしっかりと頷いた。
マイタさんは、子供の我儘と決めつけずにきちんと考えて返事をしてくれた。
こんな良い人を、こんなことに巻き込んで本当に申し訳ないと思う。でも。
「今は会いたくないんです。ごめんなさい」
手が震えだしそうなのを、もう片方の手で固く握りあって抑えた。ほんのちょっと、何かの衝撃があるだけでまた涙が出てしまいそうだ。それだけはしたくない。
この人には、私が、我儘を貫き通すんだから!
「ごめんなさい」
駄目押しのように謝った私に、マイタさんはため息を一つついた。
「うぅん。せやけど、なあ。今のこの状況で、楓ちゃんを匿ってくれそうな、お父さんからも楓ちゃんからも信用置かれてる友達っておるんかい?」
「!」
弱り果てた声が紡いだ言葉を聞いて、私ははっとしてポケットの携帯電話を探り当てた。
ブルーの折りたたみ式携帯電話を開こうとして、思い止まり両手でぎゅっと握りこんだ。
あの人ならお父さんも知ってる人だし、ヒーローだからマイタさんも安心出来るだろう。
けど、こんな迷惑をかけていいんだろうか?
ヒーローのお仕事で大変なのに、私の我儘なんかであの人に迷惑をかけてもいいんだろうか。
私を、友達だと言ってくれたけど、それはきっと――。
「誰か心当たりがおるんかい?」
マイタさんの声がすぐ傍で聞こえて、私の体が吃驚して跳ね上がる。。
いつの間にか私の隣に移動していた彼は、私が握りこんだ携帯電話を指差して問いかけてきた。
「います」
何かを考える前に言葉が飛び出した。
もしかしたら断られるかもしれない。
もしかしたら電話に出れないかもしれない。
もしかしたら私からの電話になんて、出てくれないかもしれない。
でも、最後に見つけた頼みの綱に縋りつくように私は携帯電話を開いた。アドレス帳からあの人を探して何も考えずにコールボタンを押す。
耳に押し当てた携帯電話から聞こえるコール音が、やけに大きく鼓膜を震わせている気がした。
私はどうしてあの人に電話をしてしまったんだろう。そんな事を考える余裕も無かった。
コール音がやけに遅く感じる。
心が早く早くと焦る。
お腹が痛い。
「はい。お待たせしました」
「……ッたすけて、バーナビー!」
聞こえた彼の声に胸が押しつぶされそうな安堵を感じて、携帯電話を握りしめた私は、小さく絞り出すような言葉を紡いだ。