心地いい。ゆらゆら揺れる、揺り籠のように。
心地いい。
「お花にお水をあげましょう。優しく濡らしてあげましょう♪」
バニーがびいどろの花瓶に水を注ぎこんでいるのを覗き込みながら、俺はメロディを口ずさんだ。蛇口から出た水道水は青の花瓶に吸い込まれ、満ちて溢れる。
「なんですか、その歌」
「知らね。溢れてるぜ、バニーちゃん」
若干の呆れを含んだ声は聞き流す。
バニーの白い手の甲を透明な筋がキラキラと流れ続けるので、松葉杖から片手を離して蛇口を閉めた。
バニーはあの事件から毎日病室を訪れた。
晴れようが降ろうが曇ろうが忙しかろうが体調悪かろうが来る日も来る日もやって来た。
まるで寄る辺を無くした雛のようだ。
こんなにされちゃあ、おちおち寝てもいられない。
「しょうがねぇなあ。バニーちゃんは」
バニーが日向の中で花瓶を持ち直しながら振り向いた。
「何がですか」
すました顔しちゃってまー。
けどその表情に隠れる幼子のような信頼は、俺にとって生温く酷く心地よい。
「おじさんは、可愛い可愛いバニーちゃんが心配でおちおち眠れやしません」
「頭でも打ちましたか? おじさん」
なぁ、バニーちゃん。俺の悲嘆に暮れた小芝居に、いつの間に付き合ってくれるようになったんだ?
まあ、どうでもいいけど。
あー。なんか腹減ったなぁ。
肝心のメシが病院食じゃ食べる楽しみもねーけど。病院食ってどうしてこう味気がないんだか。
「病院食もあと少しの我慢ですよ」
「お前、エスパー?」
丁度考えていたことに返事をされて、俺は思わず間抜けな顔をした。
なにそれ、おじさん怖いんだけどっ!
****
あいつの最初の印象は最悪だった。
横から人の獲物掻っ攫う様なマネしたばかりか、こっちの忠告聞きもしやがらねえで「貴方はもう時代遅れなんですよ、おじさん」と来た。そりゃカチーンと来たね。こんな奴には二度と関わるもんかと思ったさ。
それが何の因果か、俺の会社が潰れてアポロンメディアに吸収されちまった関係上、あいつの補佐に付かなきゃならなくなった。ルーキーの、しかもクソ生意気な若造の世話なんてまっぴらだーって思ったね。でもよ、ヒーローだって一社員だ。「嫌なら辞めてもらってもいい」なんて言われちゃ、どうしようもねぇだろ?
まあそんなこんなで、俺とあいつはコンビを組むことになった。
色々あって一緒に過ごす内にあいつの性格もわかってきた。
辛い過去をずっと一人で抱え込んで生きて来たんだって事も知った。
俺たちの間にはそれなりに強い信頼関係が築かれているんだろう。
だから自然と仕事以外でも共にいることが増えたし、バニーの家に行くことも増えたし、バニーが何を考えているのか、その1歩先位までは見通せるようになった。
一緒にいることが当たり前へと変わり、俺がその心地よさに浸ることを享受しきった頃、あいつは自分の夢を語った。
どこかで俺は気付いていたんだろう。傷付いた若鳥が俺の元から飛び立とうとしている事に。
それは歓迎すべきことなんだろうし、先輩としても笑顔で見送るべきだ。そうあるべきだ。
ここは心地よいが、空気は滞留して淀み、視界を覆い隠す。
なんだ、バニー。お前は前に進めるんだな。
俺は歓迎出来ねぇわ。
****
ぱちりと目が覚めたのは肌寒さからだった。
隙間を埋めようと掛け布団を手繰り寄せ、その上質すぎる肌触りに違和感を覚えた脳が覚醒する。自室とは異なる景色に、そういえばバニーの家に泊まった事を思い出した。
「バニー、ちゃーん?」
伸ばした手は居るはずの人に触れる事は無かった。肌寒い原因はあいつか。布団に包まったまま一人ごちる。
暖かくて心地いい繭のようなそこから出る事には抵抗が大きかったものの、腹に決めてせいっとベットから起き上がった。脇に落ちていたガウンを引っ掛けて寝室を出ると、バニーが窓辺で夜も眠らない街を眺めているのが見える。声をかけると、振り返って恐ろしい夢に魘される子供のような表情を見せた。
「貴方が倒れた時のことを、思い出していました」
宝石のような瞳から零れた涙を拭う為に手の届く所まで歩みを進めた。指を濡らす涙は暖かい。バニーが引き攣った口端を上げる。笑おうとして失敗したようだ。
続く声は酷く重い。
「あの時…能力が切れるって、本当はわかっていたんでしょう」
その声に責める響きは無かった。けれどもその言葉は俺を責めるものだ。
だから俺はバニーをやんわりと抱きしめた。
バニーが語る言葉の全てを聞き流しながら、優しくバニーを抱きしめた。
バニーちゃんは良い子だ。
つんけんした態度から勘違いを受けやすいが(そして俺も最初そうであったが)、相手が普通に対応するのであればきちんとした礼節を持って返してくれる。
それこそ、体調が悪かろうが天気が悪かろうが隣の客がよく柿を食おうが一定レベルの確保を努力する。
バニー位持ち物が多いと高慢になる奴が多いが、こいつはそれがただの流動物でしかない事を知っていた。
バニーちゃんは自己基準で判断する事の出来る子だ。
どこまでもまっすぐに、自分の目で人を見る。
それが必要である以上、世間の価値観など一切捨ててその心だけで判ずるので、世の中から見て極端にまがった方向に走ることもあるが、必要な経由地を経て最短ルートで目的に辿り着くように見える。
少なくとも自分で決めたことの責任は自分で負うというスタンスの持ち主だ。
バニーちゃんは頭の良い子だ。
山のような事務仕事を俺の3/1の時間で片付けることが出来るし、新しいソフトウェアにもすぐに対応してしまう。
タイピングも馬鹿みたいに早いし、勿論パソコンに強い。ちょっとした故障なら直しちまう。
でも決して、それを驕る事は無かった。
そんなあいつに、俺は少し納得がいかない。
だから、抱き締めたバニーの背中を、子供をあやす様に叩きながら言った。
「ごめんな」
腕の中の兎がびくりと震える。
あぁ。可哀想に。
俺の命を奪おうとしたお前は、何の気持ちも乗らないこんな一言で、きっと酷く自分を責めたんだろうなぁ。
幼くして両親を亡くしたバニーちゃんはとても怖がりだから。また失うのを恐れてしまっているから。
でも大丈夫。大丈夫だ。お前は一人じゃない。
いつだって両手の中に掻き抱いてやれる。
なぁ、そうだろ?
*****
市長の息子誘拐事件の後。
俺はファイヤーエンブレムと二人で飲みに出かけた。
こいつとは時折こうやって飲み行く仲だ。
地下にあるカウンターバーは、間接照明のみに照らされてほの暗い雰囲気を醸し出している。
「アンタは一体どうする気なのかしらねぇ?」
ファイヤーエンブレムがロックグラスを弄びながら言った。透明なグラスでは琥珀の液体が波を打つ。こいつに良く似合う動作だ。
「なーにが」
「綺麗で可愛いウサギちゃん」
誰を指すのかはすぐ分かった。こいつの好きな大きなお世話だ。
「どうもしねぇよ。俺はいつも通りに過ごすだけだぜ」
おどけた口調で答えて見せるも、鼻で笑われた。そのルビーのような瞳が熱を灯す。
綺麗だ。
「――相変わらず酷い男だこと」
意味の分からない苦言は聞こえない振りをした。
酒を飲んでるときにそんなくだらない話で気分を害したくもない。
ファイヤーエンブレムは何も言わずにグラスを煽って、その会話は終わった。
*****
俺は、バニーを見てると妙に手を出したくなる。口も出したくなる。
あいつはなんでも一人で片付けようとするし、それが出来ちまうからだ。
子供でいる時間をいきなり奪われちまったやつ特有の思考なのかもしれねえ。あいつは『大人』であることに酷く拘ろうとする。
一人で立てないと生きていけないってな。
そういうの見てるとなんか苛々するんだ。
バニーちゃんよ。
人は何かに縋らないと生きていけないんだぜ?
何にも縋らないで生きていけることが『大人』の条件だっていうんなら、この世に『大人』ってのは何人いるって話だ。
だからお前は、俺に縋ってもいいんだぞ。
お前は俺の傍にいりゃいいんだ。
そうやって接するうちに、バニーは俺を受け入れるようになった。
俺について歩くようになったし、「虎徹さん虎徹さん」と雛のように俺の名を呼んだ。
俺の言う事は大概信じようとしたし、聞こうとした。
まるで俺と言う人間の全てを肯定するかのように。
それは酷く心地よかった。
あいつは俺を必要としていたし、俺もあいつと過ごす時間は悪くなかった。
必要以上に逸るなら宥めて。
落ち込むなら励まして。
悲しむなら抱きしめて。
涙を流すならその瞳にキスを。
自嘲が止まらないのなら、同じ唇で絡め獲ってしまえば良い。
なあ、バニーちゃん。
何がそんなに悲しいのか知らねぇけど、お前ってほんとに可愛いよ。
だからそんな怖い顔してても意味ねぇなあ。
「じゃあ、僕と付き合って下さいよ」
ほんと。
「しょうがねぇなぁ、バニーちゃんは」
綺麗な顔してんなぁ。
ゆらゆら。ゆらゆら。ここちいい。
永遠の揺り篭を手に入れた。