てとて

「おはよう、ジャン」
「おはよう、アルミン」
 山の裏手から登りくる太陽で世界が白み始めた頃、運動場にはジャンとアルミンの姿があった。
「相変わらず早いな」
 軽く準備体操をしながらジャンが言うと、アルミンはそうでもないよと答えた。ジャンの近くまで走ってきて、その場で足踏みをしたまま告げる。
「来たのはジャンの少し前だからね」
 ジャンは睡眠で凝り固まった筋肉を優しく解すと、おしっ!と掛け声してアルミンの隣に並ぶ。
「じゃ、いくよ」
「了解」
 そして2人は走り出す。ジャンはいつもアルミンに合わせてゆったり走る。その間、会話はなく、2人分の呼気だけが世界を振るわせた。
 この2人のランニングが始まったのは、ジャンが偶然早朝に走るアルミンを見つけてからだ。
 それ以来、特に待ち合わせをするでもなく、朝食時間手前まで共に走っている。
「前にも言ったかもだけど、僕に合わせなくていいよ。ジャンはもっと早く走れるでしょう?」
 走っている途中、珍しくアルミンが口を開いた。確かにその話は以前にも聞いた。だからジャンは以前と同じ答えを返した。
「朝から全力の走りこみする程馬鹿じゃねえよ。このあと訓練だぜ」
「まあ、そうだけど」
 歯切れの悪い返事の後、アルミンはまた黙った。何故僕の走りこみに付き合ってくれるのかを聞こうとして、その言葉を飲み込んだ。
 聞いてしまってジャンが来なくなるのを寂しいと感じたから。
 だから今日もいつもどおり黙って走る。
 一人で走る静寂の時間はとても好きだったが、こうしてジャンと共に走る事も悪くないと思い始めていた。

「ラスト。一周」
 息を切らし白い頬を赤く染めながら言うアルミンに、ジャンは相槌をうった。ぐるりとトラックを一周するとそのままクールダウンとしてゆっくり歩く。歩きながらアルミンはジャンを見上げた。
「そういえば、明日は街で収穫祭があるね」
「あぁ、そうだったか」
「そうだよ。珍しい露天も出るんだ。ジャンは行かないの?」
「特に欲しいものもねーんだよな」
 後ろ頭をがしがし掻いてジャンは答える。まあ、祭りの雰囲気は好きだけどよ。と答えると、アルミンが丁度良かったと笑顔を見せた。
「明日、僕と街に行かない? 露天で欲しい本がいくつかあるんだけど一人で人ごみを乗り切れる気がしなくて」
 両手を顔の前で合わせて、この通りとお願いされるジャン。
「荷物持ちか」
「昼は奢るよ。駄目?」
 拝んだ手の奥から見上げられ、ジャンは一瞬ドキリとした。相手は男相手は男と唱えながら了承すると満面の笑顔で右手を掴まれぶんぶんと振られた。
「ありがとう! ジャンならOKしてくれると思ってたよ」
 その無闇な信頼はどこから来るんだろう。そんな事を思いながら浮かんだ疑問をぶつける。
「そういや、なんで俺なんだ? エレンやミカサがいるだろ」
「エレンは立体機動の自習練。ミカサはそれに付き合うことになってる」
 それを聞いて、また2人きりかよ羨ましい、という思いが浮かんで消えた。だが不思議と気分は悪くならなかった。アルミンが2人の次に自分を頼ってくれたのが嬉しかったかもしれない。
「じゃあ、明日はよろしくね」
「ああ」
 短い返事を返しながら立ち止まり、全身のストレッチに移行する。アルミンもそれに習った。

 収穫祭当日。
 ささやかながらも街はにぎわっていた。道の両側に立ち並ぶ露天には食べ物や小物や珍しい花など様々なものが売られている。人通りもそれなりに多い。これはうっかりすると迷子になりかねないと思ったアルミンは、ジャンのジャケットを右手で握った。
「なんだよ」
「ん。はぐれそうだと思ってさ。あ、そこを右」
 ジャンは一瞬戸惑った表情を見せたものの、指示通り人ごみを掻き分けて右に曲がる。しばらく歩くと古書を扱う露天に辿り着いた。表通りから少し離れたせいか、人通りもまばらだ。
 ジャンのジャケットを掴んでいたアルミンの手が離れる。それを寂しい気持ちで見送ってジャンは左右を見た。同じように古書を扱う店がもう一軒、小物からアクセサリーまで扱う店が一軒。その他にもばらばらと色んな店があった。アルミンは既に古書店に夢中になっている。
「少し時間がかかるから、ジャンは他の店を見てていいよ」
「わかった」
 本の文字を流し読みしながら言ったアルミンの言葉に、ジャンは了承を返した。とは言っても小物やアクセサリーに興味は無いので、必然的に古書を漁る羽目になる。
 古いが表紙に刺繍の施された綺麗な本を手に取ると捲って見る。ぱらぱらと読んでいると、それは花言葉の本のようだった。ジャンは今まで花言葉などに興味を持った事がなかったので、このように本が出ている事実に驚いた。
 そして、一つの花、見たことも無い花にいくつもの意味が付いている事に興味を持った。
 ページをゆっくり読み進めていると、何時の間にか読み込んでしまっていたらしく、ひょいとアルミンがジャンの本を覗き込んだ。
「何読んでるの? あぁ、花言葉。面白いよね」
「詳しいのか」
「少しなら……買おうか? 今日付き合ってくれてるお礼。意外と役に立つよ」
「いや、いい。どうせ読まない。ってかいつ役に立つんだよ」
 ジャンはパタンと本を閉じて元あった場所に返す。それからアルミンを見て尋ねた。
 すると彼はうーんと考え込んでから爆弾を落とした。
「ミカサに告白する時とか?」
「は!?」
 思わず絶句したジャンに構わずアルミンは続ける。
「花言葉を匂わせた花束で告白とか、よくあるパターンじゃない? 成功率は知らないけど」
「ちが、ミカサは……」
 思わず否定しそうになって、ジャンはふと考え込んだ。確かにジャンはミカサが好きだ。異性として好きなはずだ。態度を隠すのは苦手なので、回りに知れ渡っていてもおかしくない。だが、何故か違和感を感じた。
 あれ? 俺が好きなのはミカサだよな?
 自問に答えは返らない。ジャンは、その話題を避けるようにアルミンの手元を見た。
「お、お前はもういいのか?」
「うん、大体」
 そんなアルミンの手には6冊のハードカバーが抱えられている。何を読んでいるのか気になったが、どうせ聞いてもわからないと思い、ジャンはその本をアルミンの手から奪い取った。それを小さなカウンターにいる老人に渡すと、彼は本の値段をそろばんではじき出し、アルミンが会計を済ませた。
「じゃあ行くか」
「あ、半分持つよ」
 六冊のハードカバーといえば結構な重量だ。だがジャンは、一人に持たせるのが悪いと思ったアルミンの申し出を断って振り返る。
「昼はどーすんだ。この辺の店は込んでるぞ」
「そうだね。サシャに教えてもらった美味しいパン屋があるんだ。ちょっと歩くけどそこはどうかな」
「おう」
 そう言って二人は街の賑わいの中を歩いていく。途中で色んなものに目移りしながら。
 大通りに出ると、またアルミンがジャンのジャケットを掴んだ。
「……なあ、それやめねー?」
「あ、ごめん。迷惑だった?」
「迷惑っつーか」
 申し訳無さそうにジャケットから離れたアルミンの手を、本を持たない方の手で握り締める。
「こっちのがはぐれない」
 アルミンと反対を見てそう呟く。自分でやっておきながらこれは恥ずかしい。ちらりと振り返ってみると、アルミンは少し恥ずかしそうに笑って、ゆっくりとジャンの手を握り返してきた。
「誰かと手を繋ぐなんて、小さい頃にエレンやミカサと遊んで以来だよ。なんだか気恥ずかしいね」
「べ、べっつにー」
 中性的な容姿をしているがアルミンは男だ。その手はジャンより少し小さいながらも訓練により硬い皮膚で覆われている。握り心地がいい訳でも無いのに、繋いだ手はなんだか妙に熱く、ジャンの心に残った。

「いやぁ、美味しかったね」
「そうだな。流石食い意地では誰にも負けない芋女」
 昼食を食べ終わった二人はテラス席で人心地ついた。市から離れたそのパン屋は人通りのまばらな所にあるにも拘らず結構な繁盛をしていた。やはり人気の店なのだろう。
「そういえば、これからどうするんだ?」
 頼んだ紅茶をすすりながらアルミンに聞く。思ったより早く本の物色が終わったので、日没までにはまだ時間があった。
「うん。すぐ帰ろうかなとも思ったんだけど、せっかくだからお祭りの空気を楽しんでからにしようか?」
 エレンやミカサにお土産も買いたいし、と続けたアルミンは残った紅茶を冷ましながら飲んだ。それから思いついたように付け足す。
「あ、でも本重いよね。やっぱり帰ろうか」
「この位どうってことねえよ。回りたいなら行こうぜ」
 残った紅茶をぐいっと煽ってジャンが言った。アルミンも慌てて紅茶を飲み干す。
「あつっ」
 だが、慌てたせいで口の中を火傷したようだ。
「何やってんだよ。ほら、口開いて舌見せてみろ」
 ジャンはアルミンの顎を掴むと上向かせる。
「たいひょうぶたよ」
「いいから」
 真剣な表情をして言うジャンに根負けして、アルミンは口を開いて舌を出した。その下は赤くなっているだけで水ぶくれなどは無い。
「大丈夫そうだな。水でも貰ってやるから冷やしてろ」
「ありあと」
 その妙に舌ったらずな喋り方に心がさわぐ。その口元から覗いた赤い舌は暫く忘れられそうに無かった。

 結果から言うと、アルミンはサシャにパンとミカサに小さな手鏡とエレンに珍しい果物を買った。
 物色中の2人の右手と左手は、ずっと繋がれたままであったせいか、なんだかむず痒い様なその感覚に慣れたアルミンは、率先してジャンを引っ張った。ここの小物の細工はとても細かくて綺麗なんだ、とか、この果物はとても珍しいものでね、なかなか売って無いんだ、など聞かれてもいないのに喋りだす。たが、アルミンが楽しそうなのは悪くなかった。
「ああ、もうそろそろ時間だね」
 低くなってきた太陽を見てアルミンが言った。
 うっすらと夕闇の気配が市を覆う。中には店じまいを始める露天もあった。
 そんな中を2人はゆっくり歩いた。すれ違う人は皆何かを抱え楽しそうだ。
「平和って、いいね」
 アルミンが両親に肩車をしてもらう子供を見ながら呟いた。それはとても穏やかなもので悲しみは感じさせない。だがそこに一抹の寂しさを見出した。
 その横顔を見ていると、するりと口から言葉が滑り出る。
「俺、お前の事嫌いじゃないかもしれない」
 ジャンは自分自身でも驚いたといった表情でアルミンを見る。
「何それ? しかも確信が持てないんだ。ちょっとショックだな」
 繋いだ手を少し上げて見せて、アルミンは苦笑いをした。それに慌てたジャンはさらに言葉を重ねる。
「いや、そうじゃなくてだな。どちらかというと好きだ!」
 叫んでしまってから、はたとここが往来の場だという事を思い出して「いや、友達として!」と付け足す。するとアルミンは面白そうにクスクスと笑った。
「そうだね、僕もジャンの事は友達として好きだよ。意外と世話好きで優しいしね」
 僕ら気が合うねぇ、なんて楽しそうに言ったアルミンをよそに、ジャンはやけに五月蝿い心臓と戦っていた。
 『好きだよ』と言ったアルミンの言葉が脳内でリフレインする。
 なんだよこれ。たった一言に何こんなに動揺してんだよ! これじゃあ、まるで――。
「ジャン。行かないの?」
 手を引かれて我に帰ると目の前には不思議そうなアルミンの顔があった。
「なっ! おま、近いんだよ!」
「失礼だなぁ。呼んでも全然気付かなかったのはジャンの方じゃないか」
 確かに少々呆然としていたかもしれない。しかしこいつには警戒心ってものがないんだろうか。問えば「友達に何を警戒しろっていうのさ」等と帰ってきそうな事は目に見えるが。
「ほら、帰ろう。僕たちの家へ」
 その台詞を聞いて、こいつには帰る場所はもう無いんだと気付いた。
 ああ、さっきの表情はこれだったのか。
 そういえばこいつの口から両親の話は聞かない。もしかしたら例の奪還作戦時の犠牲者かもしれなかった。
 ジャンは握った手のひらをぎゅっと握り直すと歩き出した。
「帰るんだろ。行こうぜ」
「うん」
 結局2人の手は、訓練所に戻るまで離れる事は無かった。

 

2013/07/20

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