はじまり

 ジャンがミカサに恋をしたのは一瞬の事だった。
 その流れる美しい黒髪がとても綺麗だと思ったから。
 理由なんてものは無く、ただそれだけで十分だった。
 今日もジャンはミカサの姿を探して視線をさまよわせる。その途中でいつも目に止まる2人が居た。一人はエレン。ミカサの愛情を一身に受けてなお平然としている目下のライバルだ。もう一人はアルミンとかいう。戦闘訓練での成績は芳しくないが、座学で非凡な才能を見せる。三人は同郷の幼馴染らしくいつも一緒に居た。ジャンがミカサを追えば必然的に関わりが出てくる2人だった。主にジャンがエレンに喧嘩を売って、ミカサが呆れて、アルミンが その仲裁に入る。そんな関係性が続いていた。

 日差しの心地よい日、ジャンは廊下でアルミンとすれ違った。
 ふわりと石鹸の香りがして、金糸の髪を風に弄ばせたままアルミンが一言挨拶をして去ろうとする。その背を思わず呼び止めた。
「なに? どうしたの」
 立ち止まったアルミンが不思議そうにジャンを見る。柔らかそうな髪が反動で揺れた。
 その光景を不思議なものを見る気持ちで眺めていたジャンは、はっと正気に返ると「なんでもねぇ」と告げて背を向けた。きっと後ろではアルミンがわけがわからないといった風に首をかしげているだろう。だがジャン自身にも何もわかっていなかった。ただ、日差しを受けてきらめくアルミンの髪を綺麗だと思った。

「なんだと!」
「やるか!」
 食堂で始まったのは通例となったジャンとエレンの喧嘩だ。互いに顔が付きそうな距離でにらみ合い拳を握りこんで下腹に力を入れた。ミカサは呆れたため息を一つ吐いている。
「ちょっと、やめなよ2人とも!」
 いつもどおり仲裁に入ったのはアルミンだ。周りはまたかと呆れるだけで経過を観察している。
 アルミンは胸倉を掴んだ二人の拳に手を添えると軽く叩いた。
「エレンも、どうしてそんなに喧嘩っ早いのさ。いい加減にしないと怒るよ」
「アルミン!それはこいつが」
「言い訳は聞かない。血の気が多いんだよエレンは」
 エレンの丸い瞳を限界まで開いた迫力ある表情にもアルミンは動じなかった。
 そんなアルミンがまっすぐな瞳でジャンを見る。
「ジャンもちょっと言葉遣いに気をつけてくれないかな?エレンはこの通り挑発に乗りやすいんだ」
 アルミンの綺麗なターコイズの瞳がまっすぐにジャンを見る。
 どこかたしなめるような響きに頬が熱くなった。
「ミカサもお前も皆エレンの味方かよ! 随分過保護に守られてるんだな、エレン。2人が居ないと何も出来ないんじゃないか?」
「言ったな、ジャン!」
 エレンを守るように見えたアルミンの態度に、ジャンは思わず言葉を重ねてしまった。
 怒り心頭のエレンはアルミンが止めるのも構わずジャンに殴りかかる。勿論ジャンもただ殴られるだけじゃない。カウンターパンチで応戦する。だが、暴れだした二人の反動でアルミンが吹き飛ばされた。
「っ!」
 近くの机に頭をぶつけたアルミンに、流石の2人も正気に戻る。
「アルミン、大丈夫か?!」
「うわっ!」
「アルミン」
 すかさずミカサがアルミンを抱き起こし、打った箇所と彼の意識を確認する。アルミンは打ち付けた頭を擦りながらも元気そうだ。
「大丈夫だよ。ミカサ、エレン」
 その言葉に安堵の息を吐いたミカサは、ジャンとエレンに向かって冷たい目を向けた。
「それ以上やるなら私が相手になる」
 感情の起伏を感じさせない声に、流石の2人も凍りついた。両手を挙げて「もうしない」と宣言する。一瞥でその場を収めたミカサにぱらぱらと拍手が送られた。

 その夜、消灯時間を過ぎてもジャンは眠れなかった。
 あの後は、騒ぎを聞きつけ顔を出した教官のお陰でアルミンに謝る隙を見出せなかった。それも心残りだが、なによりあのターコイズの瞳が頭から離れなかった。光の加減で青にも碧にも見える綺麗な瞳だった。そういえばまともに真正面から見たのは初めてである。思い出すと不思議な高揚感を覚えた。
 なんだこれは。
 寝返りを一つ打つ。目を瞑ると床に伏せるアルミンの姿が、瞳に張り付いたように浮かんで消えない。これが罪悪感から来るものなら謝らねばろくに眠れやしないだろう。だがこの時間に外を出歩くにはリスクがありすぎる。何よりアルミンはもう寝ているかもしれない。
 結局ジャンは朝まで眠る事も出来ずに寝返りを繰り返した。
 こんな事は初めてのことで、自分がここまで義理堅い人間である事を初めて知った。
 今日会ったら謝ろう。
 そう心に決めて眠れないベットから抜け出した。
 眠れないのにベットに居ても仕方が無い。多少体を動かせばすっきりするだろう。
 そう思って同室の者達を起さぬように部屋を出た。
 外は朝焼けに薄く色づいていた。これから一日が始まってゆくだろう予感に心地よい疲労感を感じる。悪くない。たまにはこういうのも。
 軽いジョギングでもしようと運動場に足を向けると、そこには意外な人物が居た。
「あれ、おはよう。早いねジャン」
 運動場でジョギングをしているアルミンに声をかけられて、ジャンは驚いたのは俺の方だと問を重ねた。
「いつもこの時間に走ってるのか?」
「僕は皆より体力が無いからね。少しでもって思って」
 でも見付かると恥ずかしいなぁと照れたように頬を掻くアルミンに、ジャンは関心した。こんなに朝早くから走り込みをしているなんて誰が知っているだろう。
「恥ずかしいから皆には秘密にしてね」
 少し染まった頬のまま、人差し指を口元に持ってきたアルミンは可愛らしかった。
 ん? 可愛い? 相手は男だぞ。
 寝不足で血迷ったか俺。思考を追い出すように頭を振るとジャンはアルミンに声を掛けた。
「俺も一緒していいか?」
「走りこみ? どうぞ」
 応えを受けてアルミンの隣に並ぶ。ペースは少し遅めだが、寝不足の体には丁度良い。
 走ってる間の2人に会話は無かった。
 アルミンは真剣だったし、そんな相手を話し相手に使うほどジャンは駄目な人間で無いつもりだ。
 30分ほど走りこんだあたりでアルミンが「ちょっと休憩しようか」と言った。後から来たジャンはまだ余裕があったがその言葉に乗った。謝るチャンスだと思ったからだ。
 2人で運動場の端にある箱に腰掛けると、ジャンは早速昨日の話を持ち出そうとして失敗した。アルミンから話しかけてきたからだ。
「今日はこんな時間にどうしたの? いつも寝てるでしょ」
「あ、いや、たまたま目が覚めて……な」
 たまたまも何も眠れなかったのだがそれは言わなかった。するとアルミンは「ふうん」と言った後ジャンの顔をじっと見た。ジャンはまた何か落ち着かない衝動に襲われる。
「なん、だよ……」
「目の下、隈が出来てる。寝て無いね」
 あっさりと確信をつかれ、ジャンは押し黙った。
「昨日の事と関係ある?」
 さらに確信をつかれてもはや取り繕う事も出来ない。ジャンは諦めた様に両手を挙げた。
「……昨日はすまなかった。巻き込むつもりはなかったんだ」
「なんだ。そんな事……」
 頭を下げたジャンに、アルミンは長い息を吐いた。
「ジャンとエレンは顔を合わせるたび喧嘩になるじゃないか。今更だよ」
 何でもない事だと扱うアルミンに、ジャンは少し気分が悪くなった。怪我をしたのは自分なのにこの関心の無さはどうだろう。
「そりゃそうかもしれねえけど、怪我させた事なかったろ」
「こんなの怪我の内に入らないよ。僕たちがいるのはどこだと思ってるのさ」
 確かにここは訓練兵団だ。怪我はどこにでも付きまとう。怪我所か命の危機も。だが、だからこそこの無頓着さが気に掛かった。
「お前の体だろ、もっと大事にしろよ」
 少し語気荒く言うと、隣に座ったアルミンは面白そうに笑った。なんでそこで笑う。
「ジャンって面倒見がいいよね。ありがとう」
 でも、本当に大丈夫だから。そう言ってアルミンは箱から飛び降りた。金糸が朝焼けに舞い落ちる。その光景を純粋に美しいと思った。
 気付いたら右手を伸ばしていた。その手がアルミンの髪に触れようとした瞬間、ふわりと体が浮くのがわかった。あっという間に地面に転がされ、ジャンは状況がわからずにしばらく動けずに居た。
「わぁ! ごめんジャン!」
 見ると、伸ばした右手の先にアルミンの慌てた姿があった。ジャンの右手は彼に巻き取られている。
「怪我ない? ホントごめんね」
「いや、怪我はないが、状況がよくわからないんだが」
 そのまま右手を引いて起されたジャンは素直な疑問を口にした。するとアルミンが言いにくそうに口をもごもごした後、ミカサが……と呟いた。
「アルミンは可愛いから、訓練兵団に入る前に他人の力を利用した護身術を見に付けていった方がいいって、叩き込まれてさ。以来背後に気配が近づくと駄目なんだよねぇ」
 勝手に体が動いちゃって。そう言って困ったように笑うアルミン。
 確かにアルミンは男子にしては可愛らしい顔立ちをしている。基本的に優しい性格だし何かの間違いが起こってもおかしくは無いのかもしれない。
 それにしてもまさか投げ飛ばされるとは思わなかった。
「お前、戦闘訓練苦手じゃなかった?」
「苦手だよ。体力もないしね。だから僕に出来るのは力を流すだけ」
 両手をあげて言うアルミンに、俺を投げ飛ばせれば十分だろうとジャンは思う。
「所で何かあった?」
「へ?」
「右手伸ばして、僕を呼び止めようとしたんじゃないの?」
 そうだ。とジャンは思った。
 右手を伸ばしたのは無意識でアルミンの髪に触れたいと願ったからだ。だがそんな事を口にするわけにも行かずジャンは慌てて取り繕った。
「い、いや、髪にゴミがついててな! 本当、それだけだから!」
 結果妙に力説する形になったのは仕方が無いことだと思う。それでもアルミンは不振に思う事は無かったのか、自分の両手で後ろ髪をかき回して整えた。
「とれた?」
「お、おう!」
「ありがと」
 笑顔を向けられて居たたまれない気分になる。しかし自分はなぜアルミンの髪に触れたいと思ったのだろう。ジャンは胸の辺りを押さえて自問自答した。答えは返ってこなかった。

「じゃあ僕はもうちょっと走るよ。ジャンは?」
「俺も付き合う」
 反射的に返事を返してジャンはアルミンの隣につく。
 また無言になった空間に上り始めた太陽の光が冷たく広がっていた。

 

2013/07/09

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