夏の天気というものは読めない。
その日。オレは、東堂さんとのクライムの約束に、心を踊らせていた。一緒に走るのは随分久しぶりのことだ。前日から楽しみにしていたし、当日も目覚ましもなく目覚めることが出来た。一番に窓を開けて空模様を確認したのも記憶に新しい。
それほど楽しみにしていたというのに、夏の空は残酷である。
「雨、ですね。……それもすっごいの」
バスの停留所にある、簡素な屋根のついた待合室の軒下で、オレと東堂さんは立ち尽くしていた。バスを降りたときは、まだ空は明るかった。自転車を組み立て、いざ走ろうとした途端に空が暗くなり、低い雷の音が響きだしたのだ。いわゆるゲリラ豪雨というやつである。
地面を叩く雨音は五月蝿いくらいで、水飛沫にかすんだ世界は視界すら悪い。
「そうだな。まあ、走り始めてからじゃなくて良かった」
東堂さんが、なんでもないことのように言った。その口調に、オレは少しムッとする。
「東堂さんは悔しくないんですか? オレは、一緒に走れるのすっごい楽しみにしてたのに!」
不服を申し立てるように唇を尖らせると、すぐ隣に立った東堂さんが、小さく笑った。笑われた理由もわからず、オレは頬を膨らませる。そんなオレの頬を、東堂さんの指先が押しつぶした。
「拗ねるなよ、真波。オレも楽しみにしていたが、天気ばかりはどうしようもないだろう」
「拗ねますー。東堂さんが誘ってくれたの、久しぶりなのに……」
「ゲリラ豪雨だ。暫くすれば雨も上がる。そうしたら走ればいい。それとも」
東堂さんの指先が、頬を下りてオレの顎下を掬った。視線を、顔ごと東堂さんの方に誘導される。
「オレと2人で雨に閉じ込められている状況は、不満か?」
すっと、東堂さんが口元に笑みをはく。一瞬のそれは、妙に色を持っていて、オレは思わず黙り込んだ。
「……そんなこと、ないけど」
「ならいい」
なんとか絞り出した言葉を受け、東堂さんはオレの顎から手を離す。そうして、まっすぐに降りしきる雨を見た。その横顔は冷静そのもので、一瞬ドキドキしたオレが馬鹿みたいに思える。
それが悔しかったのと、ちょっとした悪戯心から、オレは東堂さんの名前を呼んだ。視線だけこちらに向けた東堂さんの肩を掴んで、無理矢理オレと向き合わせる。その、少し驚いたような顔を、両手で挟み込んだ。
「東堂さん」
甘く、かすれた声で名前を呼ぶ。東堂さんは目を見開いてオレを見た。オレは東堂さんの顔に自分の顔を近づける。ゆっくりと。
そのまま、東堂さんの額に、自分の額をぶつけて驚かせるつもりだった。オレとしては、さっきのちょっとしたドキドキを返してやる位にしか考えていなかった。
けれど。
東堂さんが、少し目を伏せた。下向きの日本人らしい睫毛が瞳を覆う。それから、躊躇いがちにオレを見上げてきた。その白い頬は、やわい朱に染まっている。
え、ちょっと待って。可愛い。
オレは思わず唾を飲み込んだ。その間にも距離はどんどん近くなるし、東堂さんの瞳は濡れたように光ってオレを誘い込む。
これは、ヤバイ。
心の奥底で危険信号が鳴り響き、焦ったオレは勢いのままに、額同士をぶつけた。
「っ!」
小さく詰まった声がする。ごちっという重い音をさせて触れ合った額は、少し痛い。きっと東堂さんも痛かっただろう。
「真波……」
東堂さんが、恨めしそうな声を出した。それは、ちょっと期待してくれていたってことだろうか。
良いように解釈したオレは、額を合わせたまま、甘えるように鼻先をこすりつけた。くすぐったいのか、東堂さんが身じろぎする。そんな仕草も可愛い。
「東堂さん、キスしたい」
オレは精一杯甘えた声で言った。すると、東堂さんの頬がさらに赤くなる。そんな表情の変化も、良いように解釈して、オレは東堂さんに啄むような口づけを贈った。
雨はなお、降り続けている。