13:45〜 芸術

 ジリジリとしつこく鳴くのはアブラゼミだ。夏の名残をとどめる気温の中、最後の力を振り絞っているのだろう。9月になっても鳴くこいつらは、夏の最後のあがきのようで嫌いじゃない。

 しかし、どうにかならないだろうか。

 昼食を済ませた後にやってきた芸術の授業は、何とも退屈な座学だった。しかも部屋のカーテンを閉め切ってのビデオ鑑賞。空調で適温に保たれた薄暗い部屋、満腹になった身体とくれば、どうにもこうにも眠くなる。人間の身体の仕組みとしてそうなっているとしか思えない。現に、隣のクラスメイトはすでに船を漕いでいる。周りを見渡しても半数は似たようなものだ。

 時計を見ると、13:45。授業もやっと折り返し地点だ。

 先生はというと、教室の隅で空いた椅子に座ったきり動かない。職務怠慢のようだが、この先生の座学はいつでもこんなものだ。静かにしていれば、寝ていようが他科目の勉強をしていようが文句は言われない。なら、お前も寝ればいいと思われるかもしれないが、オレはこの芸術の先生の持つ静かな視線が苦手だった。なんとなく監視されているように感じるのだ。その為オレは妙な緊張感と、食後の睡眠欲の間でぐらぐら揺れる羽目になる。

 ビデオは様々な芸術作品を映し出していく。見覚えのあるものはほんの少しだけで、後は見た事の無い作品ばかりだ。正直、芸術は得意じゃない。綺麗な絵を見て綺麗だと思うが、それだけだ。わざわざ美術館に行く趣味は無いし、自分で描く方はもっと駄目。ああ、こういうのは青八木が得意だったな。そう思って青八木の姿を探すと、彼は背をまっすぐに伸ばし、じっとテレビ画面を眺めていた。眠気に襲われたり、退屈している様子は無い。やはり好きなのだろう。

 くぁり。オレは欠伸をかみ殺した。目尻に涙が溜まる感覚がして、視界が滲む。それを右手で拭って、再度視線をテレビ画面に移した。

 退屈を持て余した頭に浮かぶのは、あの夏のIHだ。馴染みの無いセミの鳴き声が、耳に染み込んだあの日。三日目のゴールラインを、トップで超えた1年の背中が、未だに網膜に焼き付いている。それは、目がくらむような興奮とともに、まだ胸の奥底に燻っているのだ。

 オレは、あの舞台に立ち、再び総北を優勝台に上げなければならない。

 自然と拳に力が入った。この手に勝利を握る為に、やる事は山のようにある。それこそ、全ての事を放り投げたとしても時間が足りない。ただ闇雲に時を使って練習が出来た今までとは違う。引き継ぎを受ける主将の雑務は多岐に及び、それだけでもかなりの時間を取られるからだ。これだけの事をやりながら、平気な顔をしていた金城さんの姿が浮かぶ。そんな先輩が、オレに主将を託してくれたのだ。期待を裏切る訳にはいかない。

 皮膚に爪が食い込む感覚がして、オレは意識的に拳を緩めた。静かにゆっくりと息を吐き出す。駄目だ駄目だ、気負ってどうにかなる問題じゃないだろ。

 気を取り直して視線を上げると、ビデオは終わりに差し掛かっているようだった。ゆっくりとした声でナレーションが入る。アップで映し出されているのは一枚の絵だ。それは、オレでも知っているほど有名なものだった。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐。

 ナレーションは語る。この作品が、レオナルドという天才の手によって、3年の時をかけて作られたのだということ。キリストが捕縛、処刑される前に、弟子ととった夕餐の情景だということを。そうしてビデオは終わった。

 天才、か。

 暗くなったテレビ画面を見ながら思う。はたして、天才とは何なのだろう。

 天から才能を与えられたもの。努力では至らない領域に踏み込むもの。努力出来ないものの逃げ口上なんて言われる事もある。思わず苦笑いが浮かんだ。

 先生の手によって教室の明かりがつけられる。暗さに慣れた目に眩しい。窓の側にいる生徒がカーテンを開く。窓際の席のオレも立ち上がり、厚い生地のカーテンを引いた。むわりと、遮断されていた熱気が絡み付く。

 窓の外にはグラウンドで体育の授業をしている生徒達の姿が見えた。その中で、すぐに目についたのは小野田の姿。気弱な彼の背中は、ほんの少し丸い。だが、オレは知っている。小野田がみせる、圧倒的なまでの才能から引き出される力を。それはきっと、彼と本気の勝負をした者にしか分からないだろう。

 ロードレースに関して、小野田は間違いなく天才に類する。

「手嶋くん。どうかしましたか」

 カーテンを開けた姿勢のまま動かないオレに、先生の声が掛かった。それに「なんでもありません」と答えて、席に座る。教壇の方に視線を向けると、先生の静かな瞳がオレに向けられていた。その視線に、思考が引き戻される。

 天才が何か、などと考えても仕方の無い事だったな。

 たとえ相手が何であろうとも、この足を止める訳にはいかないのだから。

 

2017/06/09

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