星に手をかざす

 まだ日も昇らぬ世界は、乾いた闇に包まれている。

 時計を見ると、時刻は4時半。随分と早い時間に目が覚めたものだ、と真波は思った。早朝に目覚めた割には、頭がしゃっきりとしていて、真波は二度寝を諦めてベッドから出た。冷たい朝の空気が、布団に暖められた身体を震わせる。

 日中、太陽が出ていれば、まだ暖かさを感じるのだけれど。真波はぼんやりと思いながら、パジャマからサイクルジャージに着替えた。これだけ早く起きても、やることといったらロードで走るだけだ。溜まっているプリントや、今日の授業の予習、果ては昨日の授業の復習に来年に控えた受験勉強など。隣に住む幼馴染みに言わせれば、やることは山のようにあるのだが、真波にはどうしてもそれが大事だとは思えなかった。

 真波にとって大事なことは、生を感じることだ。自分が生きているという強い実感。それは、学校での生活や勉学では得られないものだった。

 ロードで走る。心臓が鼓動を早め、息が切れ、足が鉛のように重くなっても、さらに回す。その先にあるものは、まごうことなき『生きている』という光だ。

 平坦ではなく坂であると、その衝動はさらに強まる。斜度の高いそれを登るとき、身体に掛かる負荷は更に増えた。終わりを感じさせない登りは精神を削る。だが、真波は終わりがあることを知っている。その先に広がる、自分1人の為だけに用意されたような空を。それは何ものにも代え難い幸福だった。

 真波は部屋を出て階下のリビングに向かうと、走り書きのメモをテーブルに置いた。小さな頃病弱だったせいか、両親は人一倍心配性な面がある。それでも、きちんと居場所を特定さえしておけば、束縛されず自由に振る舞える。そのことに対しては、ありがたいと思っていた。

 玄関のドアを開けると、愛車に夜走の準備を施す。まだ世界は寝静まっている。走る車は少ないが、荒い運転のトラックが目立つ時間帯だ。真波は、車両や通行人に自分の存在を知らせる準備を怠るほどの初心者ではない。

 ロードに股がると、気分が軽やかになった。市街地は流して、山岳地帯に入ったら自由に走ろう。そう思いながら、市街地を走った。何度めかの信号で引っかかり、一時停止する。そのとき、視界の端にきらりと光るものが見えた。無意識に視線を上げると、東の空に一等輝く星が見える。ああ、こういうの、なんて言うんだっけ。

「……明けの明星?」

 疑問符をつけてから、誰に問いかけているのだろうと思う。真波はふっと息を吐いて笑い、その星に手を伸ばした。自らの目と星の間にその手をかざす。すると、手に阻まれて星は見えなくなった。ぴったりとつけた指先を開くと、その隙間から星が見える。手のひらから光がこぼれ落ちてくるような感覚を覚えて、真波は笑みを深くした。山頂で見える光はこんなものじゃない。もっと、視界を埋め尽くすほどの眩しさを持っている。

 真波の隣で止まっていたトラックが動き出した。それを合図に、視線を進行方向に戻す。信号は青。真波はゆっくりとペダルを踏み込んだ。

 白み始めた空に、消え行く星を思いながら。

 

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