私立箱根女学院に入学した真波が、初めて東堂の姿を見たのは、新入生部活勧誘会でのことだった。
壇上に立った東堂は、肩まで届くつややかな黒髪を揺らして演台の前で立ち止まる。頭には真っ白なカチューシャがつけられており、その非常に整った顔を余す所なく見せつけていた。口元には、冷たささえ感じさせる笑みが浮かぶ。発せられた声は花のような色香を感じさせた。
彼女を見た瞬間、真波は信じられないものを見たとでもいうように、その大きな瞳を見開いた。心の底の方がざわざわとざわめき、薄く開いた口からは息が漏れる。真波の様子に、周りの生徒達は気付かない。皆一様に、壇上の東堂に見惚れている。
そんな真波の視線と、東堂の視線が、一瞬重なった。時間にしてほんの数秒。その数秒で、真波は心臓がどくりと脈打つのを感じる。正直、ぞっとした。それは間違い無く、体中が鳴らす危険信号だ。
この人は、危ない。
真波は壇上の東堂から視線を逸らすと、足元を見る。真新しい上履きが、妙な焦りを覚える真波を落ち着かせてくれる気がした。
真波はロードバイクに乗るのが好きだ。特に坂を登ることに、たまらない魅力を感じていた。心臓が限界まで脈打つこと。永遠に続くかと思える斜面。それを乗り越えた先にある、眩しいまでの景色。そういったものを真波は愛していたし、それによって生きているという確証を得られた。そこに坂があると、ついつい登ってしまうため、基本的に時間を守れない。幼馴染みの少女には毎回口が酸っぱくなるまでお説教を受けているのだが、真波には理解出来ても納得出来なかった。なぜなら、坂を登っていないときの真波は、自分がここに居るという感覚も薄らいでしまうからだ。希釈して薄まりすぎたスポーツ飲料のように、ロードバイクに乗っていない真波の時間は希薄だった。
だが、東堂に出会ったことによって、それは緩やかに変わり始める。
東堂は、真波が入部を決めていた自転車競技部の副部長だ。そして、真波と同じクライマーでもあった。いくらポジションが同じとはいえ、副部長と新入生ではたいした接点も無い。真波は東堂に『危険な人』という意識を持っていたし、進んで関わろうともしなかった。
始まりは卯の花が蕾を綻ばせる季節のことだ。
真波が遅い登校をして、ロードバイクを置く為に自転車置き場に向かう時、渡り廊下に東堂の姿が見えた。背筋を綺麗に伸ばして歩くその姿は、非常に美しい。見つかれば面倒だと思って真波が視線を逸らそうとした時、急に東堂がこちらを向いた。真波と東堂の視線が重なり、東堂が足を止める。あ、やばい、と真波は思った。真波から見た東堂は、口五月蝿く真面目な人物だ。遅刻の現場を見つかれば怒られることくらい安易に想像出来る。逃げよう、と真波は思った。しかし、東堂の瞳に見つめられると、全く動けなくなってしまう。真波は東堂を見たままその場に固まってしまった。東堂は身体ごと真波に向き直ってゆっくりとした足取りで真波に向かって歩く。だんだんと近くなる距離に、それでも真波は東堂の瞳から視線を外せなかった。東堂が、ロードバイクを挟んで真波の目前に立つ。
「真波」
東堂が真波の名前を呼んだ。真波はそのことに驚いて、目を丸くする。これまで、東堂と真波に、これといった関わりは無かった。まさか東堂は全部員の名前と顔を一致させているのか。そんな驚きを抱く真波の襟元に、東堂の手が伸びた。そうして、衣擦れの音とともに胸元のリボンが解かれる。それでも真波は東堂から視線を外せなかった。東堂の手は、解いたリボンを綺麗な蝶蝶結びに仕上げて行く。
「身だしなみを整える理由がわかるか?」
東堂はそう言いながら、真波が外していたシャツのボタンもさっととめた。その問いに、真波は何も答えられない。ただ、東堂の青みがかった瞳が、とても綺麗だと思った。瞳から視線を逸らさない真波に、東堂がほんの少し口元を緩める。
「相手に敬意を持って接していると思わせる為だよ」
東堂の言葉を聞いた瞬間、真波の心臓がどくりと脈打つ。真波は東堂のことを真面目な人間だと思っていた。しかし、ただの真面目な人間ではなかったらしい。ああ、やっぱりこの人は危険な人だ。そう真波は思った。
東堂は、真波の言葉を待たずに踵を返す。去り行く真っ直ぐな背を見送りながら、真波は早まる鼓動を押さえつけるように、東堂が整えたリボンを握り込んだ。
それが、真波の日常に、東堂が紛れ込んだ瞬間だった。
何故東堂を危険だと思うのだろう。最近の真波はそんなことばかり考える。
あの一件後も東堂は真波との距離を変えなかった。いつも通りにファンに愛想を振りまき、自転車競技部の副部長として後輩の指導にも当たる。その後輩の中には、勿論同じクライマーである真波も含まれていたが、それだけだった。
しかし、真波は違う。ロードバイクで坂を登っていない時の真波は、気付けば東堂のことを考えていた。校内で東堂を見かければ、立ち止まり視線でその姿を追ってしまう。視線が絡めば不自然に胸は高鳴るし、こちらに気付かれなければ寂しさにも似た感情を覚えた。それは柔らかな恋にも似たものだったが、真波は気付かなかった。確かに真波は東堂のことを悪く思っては居ない。クライムの技術に関しては尊敬もしていた。しかし、真波の中にある東堂への第一印象が、感情を曲げさせていた。
『危険な人』
それは真波の中に構築されていた、常識という認識の抵抗だったのかもしれない。
真波の気持ちをよそに、真波の視線は強く東堂を求めていた。人の気持ちに聡い東堂が、それに気付かぬ筈も無い。だが、東堂は動かなかった。真波の視線を受け止めることも、拒否することもせず、先輩として接していた。
そんな二人に、転機が訪れたのは、女子インターハイ二日目の夜のことだ。東堂は、一年にしてインターハイメンバーに選ばれた真波に、言葉を贈った。ただ、自由に走れと。その言葉は、真波の存在をそのままに肯定したものだ。
真波は驚いて、チーム競技であるインターハイにおいてそんな勝手なことを推奨する東堂の頭がおかしくなったのかと思った。確かに、真波は元々自由に走るタイプの人間だ。だが、このインターハイにおいて福富のオーダーは絶対だったし、真波も指示に従ってここまで勝手な行動は取らなかった。それなのに、東堂は自由に走っていいと言う。真波は瞬きをして、東堂を見た。宝石のように綺麗な瞳が真波をじっと見ている。東堂の真剣さが伝わって来た。
真波は何も喋れなくなって、ただ頷く。
だが、東堂の言葉は確実に真波の胸を暖めた。それは真波をほわほわと心地よい気分にさせて、羽はなくとも心は空に飛び上がりそうになった。ああ、自分は東堂のことを好きなのかもしれない。ようやくその考えに至った真波は、去って行く東堂の背中を見つめ、幼い笑みを浮かべた。
そうして、最終的に福富にゴールを任された真波は、自由に走った。走って、走って、心逸るままにギアを重くする。福富から禁じられた最終ラインも超えた。
心も体も全てを出し尽くし、そうして、真波は小野田に負けたのだ。
二位でゴールした真波は、一人になって酷く泣いた。自分にこんな深い感情があったのかと思う程、涙は溢れて止まらなかった。子どものようにしゃくりをあげる真波から少し離れた所に佇んでいた東堂に、真波は最後まで気付かなかった。
それからの真波は、ずっと何かを思い詰めるように部活動に取り組んでいた。遅刻することは無くなったし、オーバーワークともいえる練習をこなすようになった。そんな真波に声を掛けられる者はおらず、真波は一人自分を追い込んで行く。ひたすら走り込む真波に、東堂は慰めの言葉も責める言葉も掛けなかった。
タイムの伸び悩む真波を気にしたのは、新副部長である黒田だ。ある日、黒田が東堂の教室を尋ねて来た。
引退する東堂にこんなことを相談するのは情けないと思ったが、自分を追いつめているように見える真波をどうしてやれば良いのか解らない。
そう告げる黒田に、東堂はただ一言告げた。
信じてやれ、と。
そして迎えた追い出し親睦走行会の日。真波は東堂と山岳勝負をした。本来の真波であれば、東堂との勝負に心踊り、それを存分に楽しむ筈だった。しかし、真波の表情は固いままだ。真波の先を走りながら、東堂は声を掛け続けた。そして、もう一度言った。
「言っておいたぞ、私は。自由に走れと!」
その言葉は、濁った真波の視界をクリアにする。東堂は真波を責めるでもなく、よくやったと褒めるでもなく、ただ自由に走れと繰り返すのだ。真波は、心の奥に溜まったおりがすっと消えて行くように感じた。真波は、自分のせいでインターハイ総合優勝を逃したと、ずっと自分を責めていたのだ。それなのに、東堂はそんな気持ちを吹き飛ばして救い出してくれた。
先に頂上に辿り着いた東堂の背中を見ながら、真波は思った。
自分は、この人を、恋焦がれるように求めているのだと。
東堂が好きだ。そう自覚した真波は、積極的に東堂に近付いて行った。姿を見れば声を掛け、戯れに抱きつく。もちろん、「東堂さん、好き」と笑顔で告げるのも忘れなかった。真波の愛情表現は子どものように素直で真っ直ぐなものだ。そのせいか、周囲の人間は微笑ましそうに見守ってくれたし、東堂も特に拒むようなことはしなかった。真波の日常に東堂の存在が刻まれたことにより、真波の生活は色を帯び始める。だが、この時真波は気付いていなかった。東堂は三年生であり、もうすぐ卒業してしまうことを。
色鮮やかな日々は足早に過ぎる。
東堂が卒業してしまう日がやって来たのだ。
卒業式を終え、胸元に花を飾った東堂が目の前にやって来た時、真波はふいに涙腺が緩むのを感じた。じわりと滲んだ涙は玉となって頬を転がり落ちる。東堂は儚く笑って、ハンカチを取り出し真波の涙を拭う。
「東堂さん、東堂さん」
涙声で名前を繰り返す真波に、東堂はだだ「ここにいる」と答えた。でも、と真波は思う。東堂は居なくなってしまうのだ。真波の日常から東堂が消える。それは堪え難いことに思えた。
「東堂さん、好き」
「ああ、ありがとう」
「すきです」
それ以外の言葉を忘れたかのように懸命に告げる真波に、東堂は口元の笑みを深める。そうして、柔らかな声で言った。
「私も、好きだよ」
東堂の声を聞いた瞬間、真波は驚きで固まってしまった。今まで、東堂は真波の好意に応えたことは無かったのだ。言われたことが理解できずにいる真波の、胸元に結ばれたリボンに、東堂が手を掛けた。真波にしては綺麗に結ばれたそれを解いて、襟裏からリボンを引き抜く。そして、東堂は自分のリボンも解くと、それを真波の襟裏に通して、胸元で綺麗な蝶蝶結びを作った。
「お前にやろう、真波。だたし、こちらは貰うぞ」
真波のリボンで自分の胸元を飾りながら、東堂は言う。真波はとても嬉しくなって、東堂に抱きついた。強く抱きしめると花の蜜のような、柔らかく甘い香りがする。東堂の手が、そっと真波の背に回されたのを感じながら、真波は思った。
ボクはきっと、東堂さんという花の蜜に吸い寄せられ、惑わされた蝶なのだと。