episode1:幼き少年と優しい彼女
僕には物心ついたときから自分だけの部屋が与えられていた。
その部屋には扉が一つと、大きな窓が一つ。四角いテーブルとセットの椅子に、洋服の入ったクローゼット。そして大人用のベッドが一台。
家の書庫は出入りが自由で、勉学に必要な本に困ったこともなければ、食卓に並ぶ料理は温かく、食うに困ったこともない。
何の不自由もない暮らしを、義理の両親は与えてくれた。それに感謝することはあっても、不満を持つことなどありえないと思う。
けれども、そう。こんな風に、寝物語を語ってくれたことはなかった。
僕は布団の中から彼女を盗み見る。艶のある灰暗色の髪をした、とても綺麗な女性だ。名前はマーリン。ある日唐突に僕の前に現れた、不思議な人。彼女は、僕の横になったベッドに腰掛けて、落ち着いた声でほんの少し寂しい話を語ってくれている。
――それは、太陽に焦がれた月の話だ。
月は様々な人間から太陽の話を聞くうちに、強く焦がれるようになったのだという。
どこかへ向かう旅人から。月下の踊り子から。母が子に語る寝物語から。
太陽と話をしてみたい。思いは募るが、太陽の後を追いかけて一生懸命に走っても、しばらく立ち止まってみても、月が太陽と言葉を交わすことは出来なかったのだという。
月の知る太陽は、真っ赤にとろけて世界の裏側に消えてしまう姿と、清廉な空気とともに現れる姿のみで――。
そこで、マーリンと目が合った。
「眠る気があるのか? アーサー」
「ごめんなさい。マーリンさんのお話が面白くて」
咎めの言葉を口にする彼女は、しかしその目を優しく細める。素直に謝ると、「もう遅い。今日はここまでにしよう」と言った。そして、白い指先で僕の額に触れる。そのまま下に下がった手は、目を閉じることを促すように目元を覆った。
「おやすみ、アーサー。良い夢を」
「おやすみなさい」
目を閉じてそう答えると、目元から他人の温度が離れていく。十秒ほどしてから再び目を開くと、彼女の姿はまるで夢のように消えていた。
こんなに良くしてもらっているのに、僕はマーリンさんのことを殆ど知らない。何故なら彼女があまり話したがらないからだ。
だからといって、何も分からない訳ではない。せがめば聞かせてくれる話の数々は、彼女が経験し、心に留めているものなのだから。
僕以外誰もいなくなった室内は、ほんの少し寒い。掛け布団を引き上げて、頭まで覆う。真っ暗な布団の中で、先ほどの寝物語を思い出した。
彼女は、あの話の月のようだと思う。それに何の根拠がある訳でもない。それでも、太陽に焦がれる月はマーリンさんを思わせた。あの人にも、強く焦がれたのに言葉も交わせなかった存在がいるのかもしれない。だとすれば、それはなんて寂しいことだろう。
「……守りたいな」
自然と溢れた小さな声。
それは自分以外の誰にも届くことはない。それ故に、深く自身に刻まれた。
そうか、僕はあの人のことを守りたいんだ。
彼女が僕にそうしてくれるように。まるでそれが自然なことのように。
寂しいことから、恐ろしいものから、全てから守ることは叶わずとも、マーリンさんが彼女として自然と笑えるように。
僕はまだ弱くて知識も足りない。けれど、それでも。
「僕が、守りたいんだ」
目を閉じ、胸元に手を当てて、神への祈りのように口にした。
episode2:夜闇の彼と太陽の彼女
彼女は僕と並んで歩む人ではないと、とっくの昔に理解していた。
マーリンさんは美しく聡明で、とても優しい女性だ。彼女は僕にとっての光であり、心を温めてくれる人であり、どれだけ焦がれても手の届かない、太陽のような存在。呪われた身の僕は、誰よりもあの女性に相応しくないだろう。だから、いつかマーリンさんが大事に思う人が出来たなら、心から祝福できると思っていた。
けれども彼女は、そんな気配を一切見せなかった。他人と一定の距離を置き、<七つの大罪>の中にあってすら、ほんの半歩外側に在り続ける。それは、まるで岩場の隙間に咲く一輪の花のように、一種の神聖な可憐さをも感じさせた。
昔、酔った勢いで訪ねてみたことがある。「マーリンさんは、大事な人をつくらないのでしょうか?」と。
すると彼女は一度だけ瞬きをした。それから、微笑み。
「まるで私が、お前達を大事に思っていないようだな」
「い、いえっ! そんなことは思っていません! ただ、その。えっと……」
その返答に、自分の問いかけようとしていることの愚かさに気付く。狼狽える僕に怒ることもなく、マーリンさんはワイングラスを傾けた。白い喉が、こくりと動く。それに思わず見惚れてしまった僕の方を見ず、テーブルに置いたグラスの飲み口に指を滑らせた彼女は言った。
「そうだな。私は、他人を愛せないのかもしれない」
その後、僕がなんと答えたのかは、情けないことに思い出せない。でも、どんな感情を抱いたのかは覚えている。
僕は、安堵したのだ。
なんと酷い男だろうか。なんと醜い人間だろうか。何度思い出しても、自分を責める言葉しか浮かんでこない。
僕は、『彼女の勝手なイメージを作り上げて』、『彼女を手の届かない神聖なるものとして』、『彼女がそこから外れないこと』に安堵したのだから。
<豚の帽子>亭を飛び出した僕は、夜闇の中を灯りも持たず走っていた。
呼吸はすでに乱れている。それでも、情けなく手足をばたつかせ、転びそうになりながらもただ前へ走る。
僕に傷付く資格などないのだ。
彼女が未来に望みを持ったとしても。
彼女に大切な存在が出来たとしても。
たとえ彼女が、変わってしまったとしても。
だというのに、先ほど盗み聞きした言葉が、弱々しく願いを口にする声音が頭から離れない。離れないのだ。
走り続けた足がもつれ、無様に転ぶ。一度止まってしまえば、体はそれ以上動いてはくれなかった。荒い息を吐きながらも、脳内ではあの女性の声がリフレインする。
――彼は、私の希望そのものなんだ。――
「僕は」
服の胸元をきつく握りしめた。漏れた声は何かにすがるような響きを持っていて、いっそ滑稽さを感じる。
「それでも」
その先に続く言葉を見つけることは出来ず。
僕は、喉が痛むのも構わず叫んだ。
episode3:女の話
「マーリンは、僕が守るよ」
なんでもない、些細なことのように告げられた言葉は、胸の奥底に軽い音を立てて落ちてきた。
そう言った目の前の少年は、自室のベッドに腰掛け、大きな鞄にそう多くない荷物を詰めている最中だ。そんな片手間に『守る』などと言われて喜ぶ女はいなかろう。一般的なものから高等なものまで、未来の王には出来る限りの教育を行ったと思っていたが。この様子を見るに、男女間の駆け引きなども少しは教えた方が良かったかもしれない。
そこまで考えて、己がほんの少し動揺していることに気付いた。それを表に出すことは、もちろん無いが。
「ふむ。私はお前に守られるほど弱くはないつもりだが」
「マーリンは僕の師匠だからね。まだまだ、敵わないことだらけだよ」
アーサーは拗ねてしまうでもなく、常と変わらぬ声で答える。それから、ぐるりと自身の部屋を見渡してから、「よし」と呟いて鞄の口を閉じた。どうやら荷造りが終わったようだ。
出会った頃より随分と大人びた、だがまだ幼い紫水晶の瞳がようやく私を見る。
「これは僕が心に誓ったことだし、伝えなくても良かったんだけど……。うーん、ちょっと弱気になってるのかも」
照れたようにはにかんだ少年は、「でも、覚えていてくれたら嬉しいな」と付け加えた。
今までそんな素振りは見せていなかったが、アーサーにも恐れはあるのだろう。考えてみればそれはごく一般的で、当たり前の感情かもしれない。これからこの幼い肩に、一国を背負おうというのだ。その責任の重さを感じ取れないほど、この子は馬鹿ではない。そんなことは理解していた筈なのに、どうして思い至れなかったのだろう。
「……覚えておこう」
「ありがとう!」
私の返答に、アーサーが満面の笑みを浮かべる。幼き頃と変わらぬ無邪気な笑顔に、こちらもつられて笑む。
「じゃあ、行こう」
少年が鞄を手に立ち上がった。
十数年を暮らした住まいに別れを告げるというのに、やけにあっさりと部屋を後にしようとする。そんなアーサーの背に、声を掛ける。
「アーサー。私から、ひとつ贈り物をやろう」
「なに?」
立ち止まり、振り向いた少年に告げた。
「お前の一人称は『私』にするといい。弱気は『僕』と共に、ここに置いていけ」
口にして、それは一種の呪いのようだと思う。私は、この少年が抱く、誰もが持ち得る弱気すら許せぬというのだろうか。無垢な瞳を見ていることが出来ず、無意識に少し視線を反らしてしまいながら、思った。
「わかった」
返答は思ったより早く、あっさりとした声で告げられる。それから、くすりと思わず漏れたような笑い声。
「ねえ、マーリンとお揃いだ」
「……何がだ?」
「『私』!」
その言葉を理解するには数秒を要した。そんなありふれた一人称を捕まえて、お揃いなどと言われるとは思わなかったからだ。
「ありがとう。嬉しいな。きっと口にするたび、マーリンのことを感じられる。心強いよ」
無邪気な言葉が、染み入るように浸透する。心ごと抱きしめられたかのような錯覚。体温と脈拍のわずかな上昇を感じた瞬間に、ゆっくりとアーサーに背を向けた。
「喜んでもらえて何よりだ。私は外で待っている。挨拶を済ませておいで」
「うん。義父さんたちに声を掛けたら、私もすぐ行く」
それに対する返事はせずに、私はその場から姿を消した。
中空に浮かび、冷たい風に身体をさらせば、先ほど感じた熱はあっさりと霧散した。
しかし、この耳が聞いた言葉は思いの外に強く心に刻まれてしまったようだ。
愛を囁かれたことなど幾度とあるが、あんなにも純粋でまっすぐな信頼を向けられたことなどあっただろうか。
あの子の師として傍に在るうちに、私はこんなにも満たされていることに気付かされる。
彼が他人を愛し、子を成し、愛する者たちに見守られて眠りにつくまで、あの子の傍に在りたいと願ってしまう。
そう、願わくば、最後まで守ってやりたいと。
「……私を守る、か」
呟きの後、口元に自然と笑みが浮かぶ。
私からすれば赤子にも満たないような年数しか生きていないというのに。
「私はもう十分、お前に守られていたようだ」
アーサー。お前ほど大事なものなど、私にはないよ。