人は忘れていく生き物だ。
経験、知識、人や物の形、音、他との交わり、好意を。
上書きされるというよりは、使用頻度の低下により、そこに繋がる部屋への道がわからなくなる感覚に似ている。アクセスの無い道は、やがて廃れるのだ。
<十戒>エスタロッサの手により斃れたメリオダスの遺体は、不思議なことに時間が経てど何の変化もなかった。死後硬直すらしない。今は、エリザベスの手で治療が施された為に傷もなく、本当に眠っているようにしか見えない。これでは、誰も彼が死んだのだと考えられないだろう。そもそも、遺体に治癒魔法が効くというのも不思議な話だから、彼は本当に死んでいないのかもしれないけれど。
アーサーはメリオダスの眠る部屋へと向かう。あそこへは、日に一度は顔を出すようにしていた。メリオダスの安否が気になるというよりは、彼の側から一時も離れないエリザベスを心配してのことだ。メリオダスが生きているにせよ、死んでいるにせよ、あれでは彼女が参ってしまうだろうと思って。
しかし、それも今日が最後になる。
「エリザベス王女、失礼します」
声を掛けて部屋に入ると、開け放たれた窓からの風が頬をくすぐる。柔らかく差し込む日差しの中で、彼女が振り向いた。そして、弱く笑みを浮かべる。
無理をして笑うことも時に大事だと思うが、辛い気持ちを押さえ込んでしまうことは心に良くない。アーサーがそう伝えてから、エリザベスは二人でいる時に弱音を吐くようになった。初めは溢れる感情が止められずに泣いてしまっていたが、今は落ち着いて言葉を交わせる。つまりそれは、彼女がほんの少し安定してきたからであろう。
「エリザベスで良いって、言うのは二度目かしら」
「申し訳ない。こればかりは癖ですね」
「貴方は見かけによらず、頑固なのね」
「すっかり見破られました。頑固者がティーセットをお持ちしましたので、ご一緒して頂けますか?」
「ええ、喜んで」
持参したティーセットを、入ってすぐのローテーブルにセッティングする。彼女はベッドの側の椅子から立ち上がってこちらへ移動し、長椅子に腰掛けた。アーサーはエリザベスのカップに紅茶を注ぐと、自分のカップも満たす。
「本日のお茶請けは、先程厨房にて焼きあがった菓子にございます」
「ふふ、とても美味しそう。ありがとう、アーサー」
笑う彼女を見て、少し芝居掛かった口調で言ってみた甲斐があったと思う。エリザベスはとても温かく笑う。周囲の気持ちも明るくさせるような笑顔の持ち主はそういない。であれば、心から笑って欲しいと思うのは、ごく当たり前の心情であろう。
彼女の隣に座り、カップを持ち上げて温かな紅茶を一口飲む。すると心がほぐれ、安らいだ。それは一時しのぎと言われるかもしれないが、人には絶対に必要な時間である。
「本当に美味しい」
焼き菓子を一口齧って感想を口にする少女は、どこにでもいるような、一般的な女の子でしかないと思う。沢山の愛情を受けて育ち、見るものの心を和ませる、可愛らしい花のような人。まさに、愛されるべき人間だ。
「紅茶の方は如何ですか?」
「香りも味も、とっても素敵。お茶を淹れるのが本当に上手なのね」
「義母が紅茶の好きな人でしたので、自然と身についたのですよ。貴女に気に入ってもらえて良かった」
そう言ってアーサーが微笑むと、隣に座ったエリザベスはほんの少しだけ寂しそうに笑った。そして足元に視線を落とす。
「アーサーは、私に対して何も言わないのね」
「何も、とは?」
「元気を出せとか、いつまでそうしてるつもりだとか、かな」
それはとても頼りない声だった。うつむいた時にさらりと流れた銀髪で、彼女の表情は見えない。けれど、どんな顔をしているかは、なんとなく想像がついてしまう。
「そうですね。それを口にしてしまうことは簡単ですが、解決策を提示出来ないのであれば、ただの自己満足でしかない。私自身がそう思っているからでしょうね」
「そう……強いのね」
「そう在れるように、心掛けてはいるのですが。そうでもない部分を、貴女は既にご覧になっているでしょう?現に、今にも前言を撤回してしまいそうだ」
その言葉に、エリザベスが顔を上げる。無垢な子どものような瞳へ向けて、アーサーは苦く笑った。
「生きることを、諦めないでください」
「……」
「貴女が今にも消えてしまいそうで、誰もが心配しています。けれど、それはエリザベス王女が気にすることではない。皆、貴女が好きだから、勝手に心配しているだけなのですから」
故に謝罪の言葉は不要だと告げる。皆、この今にも萎れそうな花を追い詰めたい訳ではないのだ。
「……人間は、忘れる生き物だって聞いたことがあるの」
「はい」
「嬉しかったことも、悲しかったことも……大好きな人さえも、時が経てば忘れてしまうと。私はそれが、恐ろしくて堪らない」
そう言って少女は立ち上がり、ベッドの側に移動して、眠っているかのようなメリオダスを見下ろす。アーサーもそれに倣い、彼女の隣に立って彼を見た。ただ深い眠りについているかのような、安らいだ顔をしている。
「わからないの。どうすれば良いのか。ただ、もう一度、メリオダスに名前を呼んでほしいだけなの」
白く細い手が、横たわる彼の頬を撫でる。愛おしさの溢れる手つきで。その様を見て、アーサーは自然と笑みが浮かんだ。
「貴女は、本当にメリオダス殿を好いておられるようだ」
それを聞いた彼女は、あっという間に白い肌を真っ赤にしてしまう。反射的に何かを言おうとしたのか口を開き、すぐさま自らの手で塞いだ。視線を彷徨わせたあと、メリオダスに視線を落とす。そして口元を押さえていた手を下ろした。
「好き……。とても、大切なの」
砂糖菓子のように甘い声で、でもはっきりと、エリザベスは口にする。そんな彼女を、とても愛らしいと思う。出来ることなら望むようにしてやりたいとさえ。
「であるならば、彼を守るのは貴女の役目だ。それは、誰も代われない筈です。ゆえに、貴女は生きねばならない。例え一人ぼっちになっても」
「……」
「私は、今からキャメロットへ向かいます。エリザベス王女、貴女はどうされますか?」
優しく問いかけると、少女は真っ直ぐにこちらの目を見る。その瞳に映るは、迷い、恐れ、それから。
「メリオダスを、守ります。彼が目を開けてくれると信じて」
強い意志。
「ありがとう。これで安心して旅立てます」
「お礼を言うのは私の方だわ。何も言わず側にいてくれて、話を聞いてくれて、ありがとう。私が決めることが出来たのは、アーサーのお陰よ」
はにかんで告げられた言葉は、ほんの少し照れ臭いものだ。
「好きでやったことです。けれど、そう言っていただけると嬉しいですね」
「本当に優しい人。……絶対に、死んでは駄目よ」
「はい。命を捨てる気はありませんから」
彼女の言葉に、力強く頷く。赴く先は死地当然だが、もちろん死にに行くのではない。生きる為に、前に進むのだから。
エリザベスが右手を差し出す。アーサーも右手を上げてその手を握った。
「貴方の道行きに、幸運があらんことを」
「貴女の未来に、幸福があらんことを」
そうして、穏やかに、二人は別れの言葉を交わした。
人は忘れていく生き物だという。
絶対に忘れたくないことは、何度も定期的に反復せねばならない。逆に言うと、そこまでして忘れたくないことなど、ほとんどの人間には無いのかもしれない。
しかし、誰もが言うだろう。
少女の真摯な想いは、まさに永遠であるのだと。