バイゼルの戦いからひと月が過ぎようとしている。
<十戒>の強大な力の前になす術もなく逃げ出し、リオネスの王城の一室から水晶球を通して、多数対一を強いられたメリオダスが敗北していく様を見つめた。あの時からもうそんなに経つのかと、アーサーは思う。
今でも、目を閉じればその光景が浮かぶ。
荒野と化したバイゼルで、七本もの剣を身体に受けた彼の姿が。
もう動かないその身体に、子どものように泣き縋る彼女の姿が。
それは酷く胸の痛む光景だった。
メリオダスとエリザベスが築き上げた関係性。その全てを知っている訳ではない。けれども、短い時間であったが<豚の帽子>亭で共に過ごした中で見えて来たものはある。少なくともアーサーの目には、お互いがお互いを大切にしているように見えた。
大切な人を失うのは悲しいことだ。
あの時、自分の頬にも涙は流れていた。けれどそれは、悲しみというよりも怒りによるものが大きかったように思う。
また、何も出来なかった。
それは自らに対する怒りだ。ガランの手によりマーリンが石となり砕かれた時と同じ。アーサーは安全な場所で、ただ事の次第を眺めるしか出来なかった。
もし、自分があの場に居たら。
もし、自死を覚悟でメリオダスを庇えば。
もし、自分に<十戒>を圧倒する力があれば。
そんな『もし』が幾つも頭に浮かんでは消える。そして、それを全て無駄な考えだと、冷静に判断している自分に気付かされた。
メリオダスの敗北は決まっていた。<十戒>に囲まれ、グレイロードの”呪縛怨鎖”に囚われた時点で。そこには一条の光もなかった。彼一人でどうにかなるなどと、ありもしない奇跡に縋るよりも儚い夢だ。しかし、アーサー達はその儚い夢に賭けるしかなかったことも理解している。
あの時、あの場所で、アーサーに出来たことは、目を逸らさずに見つめることだけ。
それは、至極単純な事実だった。
あの後、アーサーはリオネス国王であるバルトラに謁見を願い出て、キャメロットの窮地を知り、共に旅をしたメンバーと別れた。
メリオダスの遺骸に会うことはしなかった。そんな資格は自分に無いような気がしていたし、何よりキャメロットを取り戻すという優先させるべき事項があったからだ。
バイゼルの大喧嘩祭りで出会った、変わったなりの『ななし』と呼ばれた男は無言でアーサーに付いて来た。二人とアーサーから離れぬキャスという予期しないメンバーで、マーリンに相手に感付かれない範囲の転移を願い出て、そこからは徒歩でキャメロットを目指し歩く。その道中で、町を追われた聖騎士や逃げ延びた民と合流を果たした。今はキャメロットの南方にある森の洞窟を拠点とし、王都とその周辺に巣食う魔神族に対して遊撃戦を仕掛けていた。今の自分達にはまともに戦って勝てる戦力が無いことは分かっていたからだ。
王都の騎士や民には苦しい思いをさせてしまっているだろう。だからと言って正面から向かえば無駄死にするだけだ。それでは全く意味がない。
とはいえ、まともな配給ルートも無く繰り返されるゲリラ戦は消耗するばかりだ。それは理解しているが現状取れる手が無いことも事実だ。
「アーサー様」
樹木の根元に座り、俯き気味に目を閉じて考え込んでいたアーサーに声が掛けられる。瞼を開いて顔を上げると、共に戦ってくれる聖騎士の一人が目に入った。
「お眠りでしたかな」
「いや、少し考え事をしていただけだよ。どうかしたの?」
「物見からの情報です。ここより西に魔神族の影有りと」
「数は?」
「灰色のでかいのが二体、ですな」
「分かった。準備しようか」
すぐに立ち上がり、戦えるものへの伝令を頼む。その背を見送って、アーサーは自らの手を見下ろした。自分は今、一人ではない。ななしが居る。付き従ってくれる聖騎士が居る。信頼を寄せてくれる民が居る。それは得難く幸せなことだ。
しかし。しかしメリオダスはどうだっただろうか。
確かに彼には大切な仲間が居ただろう。伝説の<七つの大罪>のメンバー。彼に信頼を寄せていたであろうリオネスの聖騎士。共に旅をしていたというリオネスの第三王女。その全てを、メリオダスは大切にしていただろう。
彼は決して一人ではなかった。けれど、独りであったのではないだろうか。
自らの心のうちを明かせる者が果たして傍に居たのであろうかと。
そう考えると堪らない気分になる。アーサーは幼い頃から自分が義理の子どもであることを理解していたし、義兄には嫌われている自覚もあった。しかし、アーサーにはマーリンという存在が居たのだ。彼女のお陰で、自分は独りにならずに済んでいる。マーリンが居なければ、アーサーは自覚無く孤独に囚われたままだった。
メリオダスには、そのような人が居なかったのではないか。いや、居たのかもしれない。けれども彼は三千年以上もの時を生きているという。故にその人に先立たれてしまった可能性も高いだろう。大切な人や親しい人を何人も見送って、自ら独りであることを選んでしまったのかもしれない。
それは、酷く悲しく、苦しいことだと思う。
孤独であるということは、どれだけ大切に思う相手が居ても信じきれないということだと、痛い程に理解しているから。
アーサーは強く拳を握って一度目を閉じる。応じることのない彼と、泣き縋る彼女の姿が過った。
過ぎたことはもうどうにもならない。どうにもならないが故に振り返ってはならない。過去に囚われてはならない。今の自分に出来ることは前に進むことだ。それが遅々とした歩みであろうと、足を止めることは出来ない。
再び目を開き、その光景を振り切った。
そして、アーサーは暗澹たる未来へ向けて一歩を踏み出す。