やがて来る世界について

 

 また私は、新しい天と新しい地を見た。

 以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 

 それは長く、浅い微睡みのような時間だった。

 天は見えず、地も無い。

 世界は真暗が広がっているかと思いきや、此処には薄ぼんやりと明かりが存在していた。しかし、薄い明かりが世界を照らしているというのに、そこには何も無いのだ。

 ただ、自らの身体がそこに在るという感覚だけがある。

 横になっているのか、座っているのか、立っているのかはわからない。けれど確かに、自分はここにある。さりとて、自らの身体を目視出来る訳ではないのだが。

 くすり。小さく笑ったような気がした。

 他人事のようにそれを感じ、だが気に留める事も無く、この世界の外に在るであろう彼の人に思いを馳せる。

 それが、女神族によって封じられたこの場で、エスタロッサに許された唯一の事だった。

 

 長き眠りからの目覚めは、瞬きの間に訪れる。

 目の前に広がった色彩の世界は、ここが谷底という事もあり鮮やかさには欠けていたが、それでも色の無い世界に居たエスタロッサにとっては眩しく見える筈だ。

 だが、彼はこの起伏に富んだ立体的な世界を、薄く平べったい絵のようだと思っていた。子どもが描いたかのような、平面的な世界。エスタロッサの目にはそう映っていた。

 果たして、世界というものはこんなにも魅力の無いものだっただろうか。

 久し振りの世界。久し振りの身体の感覚。久し振りの同胞。

 であるというのに、彼の胸中には何も無かった。

 感動も、興奮も、憎悪も、恐怖も、何も無い。

 誰かが何かを喋っている。それはどうでもいい事だったし、思考に上がらせることも無い。

 エスタロッサはゆっくりと、周囲を見渡した。

 形あるものを目にするのは久々だ。けれども一望した世界には全く魅力が無かった。世界からは魔力そのものが薄れている。彼はそれを肌で感じていた。

「ああ、つまんねえな」

 胸中を呟いた声は、まるで他人のもののように響く。

 谷底に居ても仕方が無いということで、エスタロッサの仲間達の意見は一致したらしい。場所を変えることになった。新たな場所へと広い世界の空を飛ぶ間も、彼の心にあるのは「つまらない」という思いだけ。そうやって辿り着いた場所には、エスタロッサにとって懐かしい魔力の残り香があった。 

 エジンバラの丘には、城だったであろう建造物と、底の見えない大穴がある。魔力は、その大穴から感じ取れた。

 静かに、その口元に笑みが浮かぶ。

 けれどもそれは一瞬であった。彼はそれで興味を失ったかのように、近くの廃城跡にごろりと横になる。仲間が何かを話している声を一切無視して、目を閉じた。世界が暗転すると、残存魔力がやや濃く感じ取れるようになった気がした。暫しそれを楽しんでいると、鋭い声が響く。「兄者」と。その言葉で初めて、この大穴を開けたであろう彼の人の姿が瞼に浮かぶ。金の髪に幼い容姿、瞳は何も感じさせない黒。一刀の元に敵を屠る強大な力。

 我が兄、メリオダス。

 彼の人を兄と読んだ事など無いが、幼い頃は彼が兄である事が誇らしかった。だが、それが間違いだとすぐに理解した。

 彼の人は一度もエスタロッサを個人として視界に入れなかった。一度も親愛を持って接しなかった。彼の人にあったのは、仲間かそうでないかという認識だけ。

 それでも、だからこそエスタロッサは彼を信奉した。彼こそが魔神族を導く者だと確信したのだ。

 彼の人こそ、自分の神と足り得る、と。

 

 あの時、彼の人がエスタロッサの前に現れたのは一瞬であった。

 時間にして僅か十秒程度。その間にガランへ拳を四撃、加えて抜刀し傷を負わせ、短い忠告を残して去った。

 たった十秒。いや、十秒もあったというのに、メリオダスはガランを殺せなかったのだ。

 なんということであろうか。

 彼の人は長い月日を経て削弱されてしまった。

 目に見えた豊かな感情と引き換えに、その力を失ってしまったのだ。

 それは、エスタロッサの浅はかな思い違いではなかった。バイゼルの地に降り立った仲間達によりボロボロになっていく彼の人を見つめながら、推測は確信へと変わる。

 こんなにも魔力の薄れた世界で、弱り切ってしまった姿は正視に耐えない。

 可哀想に。

 その感情が浮かんだ時、喜びが胸に湧いた。恐らく嬉しかったのだろう。彼の人が哀れみの対象となったことが。

 まさに渾身の一撃を放とうとする彼に近付く。振り抜かれた剣を片手で受け止める。『片手で受け止める』ことが出来てしまった。

 あっけなく、魔力が霧散する。彼が力を失って倒れる。幼い頃は手の届くはずも無いと思っていた存在が、今は掌の上で弱った小鳥のようだと思った。

 こんなにもあっけなく、容易い存在に。

 そんなものは認めてはならない。

 エスタロッサの一方的な暴力にも、問いかけにも、彼は答えなかった。昔も今も、やはりその瞳はエスタロッサを映さないのであろうか。そうだとすれば、本質は変わっていないのかもしれない。

 ならば。

 この手で彼を殺そう。

 それはメリオダスという存在を昇華させる行為だ。そうすることで、彼は肉体を捨てられるだろう。全ての呪縛から解き放たれるのだ。それにより、彼は真の意味でエスタロッサの『唯一』となるであろう。永遠に綻びず、古びず、果てない、信仰の象徴だ。

 彼の人でなくなった彼を、再び信奉する為にはそれ以外の道はない。

 それが、エスタロッサにとっての救い足るのだ。

 一つ一つ、丁寧に、心臓を刺し貫く。

 七つ目を刺す直前、視界が歪んでいることに気付いた。

 メリオダスは身体を失うだけだというのに、それを悲しいと叫ぶ愚昧な情であろうか。

 まだそんなものが残っていたのか、と驚く。ならばそれは、告げることで捨ててしまおう。

「あばよ、兄弟。俺の愛するメリオダス」

 七本の反逆剣。その最後の一本を、彼へと捧げる。最後の心臓を突き刺す。

 この時世界は、エスタロッサの前に開かれたのだ。

 

 もはや夜がない。

 神である主が彼らをてらされるので、 彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。

 彼らは永遠に王である。

 

2016/07/16

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