しゃり、しゃり、しゃり。
耳に馴染みの無い音に、メリオダスは重い瞼を上げた。随分頭がぼうっとしている。吐く息が熱く、体に掛かる重力が増加しているような錯覚に襲われた。音の方に視線をずらすと、額から何かがずり落ちる。それが視界を覆って何も見えなくなった。
「起きたか、団長殿」
涼やかな声がして、メリオダスの視界を覆っていたものが取り除かれる。薄く開いた瞳には、マーリンの姿が映った。落ち着いた緑のドレスを纏ったマーリンは、椅子に腰掛けている。その手には、メリオダスの額に乗っていたであろう布があった。マーリンは布をベッドサイドテーブルに置かれた桶に入れると、そのまま白い手をメリオダスの額に伸ばした。マーリンの手がメリオダスの額にしっとりと触れる。ひやりとした感覚が皮膚から滲んで染み込むような気がした。
「……マーリン?」
名を呼ぶ声は掠れている。状況を理解しようとしたが、霧がかかったような思考はうまく現状を伝えてくれない。呼びかけに、マーリンは小さく笑った。
「団長殿でも、風邪はひくのだな」
そう言われて、メリオダスは自分がベッドに横たわる病人である現状を理解した。そういえば、昨晩から随分体の調子がおかしかった。しかし、まさか寝込む程とは。
「ディアンヌが心配していたぞ」
「わりぃ」
「なら、早く治すことだ」
メリオダスの熱によってぬるく温められたマーリンの手が、メリオダスの額から離れた。マーリンは桶の布を固く絞ると、メリオダスの額に乗せる。そして、桶の隣に置かれた赤い果実とナイフを手に取った。
しゃり、しゃり。
再び聞こえた音の正体を、メリオダスはその目にする。
ナイフで林檎の皮を剥く音だったのか。
林檎を剥くマーリンを見て、メリオダスは一人納得した。
「それ」
「なんだ」
「オレの?」
短い言葉に、マーリンが可笑しそうに笑う。
「私が、病人の為に林檎を剥くのがそんなに意外か?」
「お前がやると、なんか裏がありそうでな」
「褒め言葉と受け取ろう」
「ああ。マーリンのそういうとこ、好きだぜ」
その言葉は無意識にメリオダスの口から零れた。マーリンがほんの少し驚いたような顔をしている。その表情は、いつも落ち着いた笑みを浮かべているマーリンにしては幼く、珍しいものだ。その表情を引き出したのが自分であったことに、メリオダスの口元に笑みが浮かぶ。
そんなメリオダスを見て、マーリンはすぐに何時ものように笑んだ。
「ありがとう。団長殿は女を口説くのが上手いな」
「そう思ってもらえたなら、光栄だな」
マーリンは少し目を伏せてから、何事も無く林檎を剥く作業を再開した。白く細い手が、鮮やかな赤い果実の皮を剥いていく。ふわりと香る香気は瑞々しい。メリオダスは目を閉じると、ナイフが林檎の皮を剥いでいく音と、香りに意識を集中させた。ひどく、心地よい空間だと思う。
暫くして、その音が止まった。
「団長殿。食べられるなら、食べろ」
マーリンの声に、メリオダスは目を開ける。目の前に差し出されたのは、カットされてフォークに刺された林檎の実だ。メリオダスは体を起こそうとして、止めた。随分と体が重く、起きる気力を奪い去ったせいだ。
「だるい」
「随分と甘えたことを言う」
「病人には、優しくするもんじゃないのか」
「……なるほど」
メリオダスの言葉に、マーリンは深い笑みを浮かべた。それから、フォークに刺さった林檎の実を齧る。林檎を咀嚼して、マーリンがメリオダスの首元に手を差し込み、ほんの少し浮かせた。そのまま、何か言おうとしたメリオダスの唇を自らのそれで封じる。メリオダスは、ほんの少し開いた口から、咀嚼して砕かれた林檎の欠片が流し込まれるのを受け止めた。
生暖かい林檎の感触がやけに生々しい、口付け。
誘われるようにマーリンに左手を伸ばしたメリオダスは、マーリンの後ろ頭にそっと手を添えようとして阻まれた。マーリンが唇を離すと、その白い喉が動いて口内に残った林檎を飲み込んだのがわかる。
「優しくしてやったぞ。後は自分で食べられるな?」
そう言って、マーリンはゆっくりと立ち上がった。部屋を出ようと背中を向けたマーリンに、メリオダスは林檎を飲み下してから声を掛ける。
「食べられないつったら?」
マーリンが顔だけ振り向いてメリオダスを見た。
「……あまり甘えるなよ。メリオダス」
それだけ言って、マーリンは部屋を出て行く。厳しい言葉とは裏腹に、マーリンの声は随分優しいものだった。