幼い頃に与えられた服は、柔らかな白の布地に、繊細なレースをあしらった女児用のものだった。何故自分は同性である父とは異なる服を与えられているのか。当時、浮かんでもおかしくないそんな疑問は無かった。何故なら、アーサーにとってそれは当たり前のものだったし、何よりアーサーは、その可愛らしい服をとても気に入っていた。ひだのついた布の帽子に、ゆったりとした袖のドレス。そのふわりと広がったスカートには幾重にもレースが重ねられて風に揺れる。それは、アーサーの気分を高揚させた。
幼い頃から、アーサーは活発な子どもだった。家で本を読むのも嫌いではないが、どちらかといえば野を駆け回る方に夢中になる性質だ。駆けるときに、足に絡み付くスカートの感触も、ふわりと風をはらんで揺れる様も、アーサーは好きだった。疲れて野原に寝転び、袖のレースから太陽を透かしみる世界は、とても綺麗なものに思えた。世界はこんなにも美しいもので溢れている。それをアーサーは心良く思った。
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昔のことを思い出したのは、肖像の間の奥に仕舞われた一つの絵を見たからだ。そこには、幼い自分が少し居心地悪そうに椅子に座っている様が描かれている。目を引くのは純白のドレスだ。明らかに女児用のそのドレスを、間違いなく男であるアーサーが纏っている。それはちょっと異質なようでいて、しかし、その頃のアーサーにとっては当たり前のことだったと思い出す。
「随分と可愛らしいな」
「マーリン」
魔法のように、突然背後に現れた灰暗色の髪をした女性に、アーサーは驚くことなく名前を呼ぶ。マーリンの顔を見て笑顔を浮かべた。
「私の生まれ育った街の風習で、男子はある一定の年齢まで女子の格好をさせられていたんです。懐かしいな」
「なるほど」
両手で絵を持つアーサーの背後から、マーリンの手が伸びて来て額縁に添えられる。詰められた距離が、ふわりと上品な香水の香りを運んで、アーサーの胸を高鳴らせた。そっと、アーサーの耳元でマーリンが喋る。
「よく似合っている」
「褒めているのですか?」
「不服か」
「いいえ。ありがとう」
肖像の中でぎこちなく微笑む自分は、確かに可愛らしい女の子にしか見えない。それを褒められて、少し恥ずかしさを覚えても、悪い気はしなかった。
「マーリンはドレスを着たりしないの?」
「なんだ、私のドレス姿が見たいのか」
「うん」
アーサーがそう言うと、マーリンはふっと笑って身体を離す。離れた体温に寂しさを感じながらも振り向くと、マーリンは言った。
「まあ、機会があればな」
そう言ってアーサーの髪をぐしゃぐしゃとなで回し、マーリンは姿を消した。アーサーは乱れた髪を手櫛で整えながら、一つ息を吐く。
視線を肖像画に戻すと、ドレスを纏った幼い自分と視線が合った。
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それが目に入ったのは偶然だ。
様々な洗濯物の中で、真っ白なネグリジェが風に揺れていた。胸元で切り換えの入ったゆったりとしたシルエットのそれは、袖口とスカートの裾に繊細なレースがあしらわれている。白い布地が太陽の光を反射して、風がどこか懐かしいシャボンの匂いを運んで来た。
とても綺麗だ、と思って、誘われるようにネグリジェに近付く。ひらひらと揺れるそれは、幼心をくすぐった。そっと布地に触れてみると、さらさらと柔らかく手に馴染んだ。ネグリジェは、太陽の下でとても綺麗なものに見える。アーサーは、昔、まだ自分が女児用の服を身にまとっていた時代を懐かしく思った。ある時期から急にそれらの衣服は取り上げられ、男性が着るような服を与えられるようになったときは戸惑ったものだ。アーサーは特に可愛らしく美しい女の子用の衣服を気に入っていたから、その戸惑いは大きなものだった。だが、自分と同い年の男の子が、自分と同じように衣服を替え、どこか誇らしそうに胸を張る様を見ると、何も言えなくなってしまった。
そうやって、幼いアーサーは自分の感情に蓋をした。そんなことを今更思い出す。
「綺麗だな……」
思わず、と言った様子でアーサーは呟いた。袖のレースを太陽に掲げると、隙間からきらきらと光りが零れる。それは昔大好きだった綺麗なものだ。笑みが零れてとても楽しい気分になる。これを身にまとえば、もっと楽しいだろう。そう考えて、慌てて首を振った。アーサーは男だ。男が女の服を着るなんて、おかしいことである。年を重ねて得た常識で、アーサーは自分の考えを否定した。第一、身体も大きくなった自分に女の服が着られるとも思えない。そこまで考えてまた首を振った。着られるか、ではない。着ては駄目なのだ。
その時、アーサーが首を振った振動で、手に掴んだネグリジェがするりと音を立てて落ちた。「あ」と間抜けな声を上げる間に、ひらりと落ちたネグリジェの裾が地面に触れた。慌てて反対の手でネグリジェを掻き抱くように受け止めるが、それも一歩遅く、昨夜降った雨で泥濘んだ地面が綺麗な白を汚した。
どうしよう、とアーサーは思う。誰かの持ち物を汚してしまった。真っ白な服についた泥汚れは、アーサーを恨めしく思っているように見える。慌てて払うも、袖のレースに付いた泥汚れが広がるだけで何の解決にもならなかった。アーサーは軽くパニックになる。そこに、誰かが近付いてくる気配がした。複数人の女性の声に、アーサーは慌てて汚れたネグリジェを抱えたまま、どうしようと繰り返した。冷静に考えれば、風に飛ばされて落ちた所を拾ったといって、再度洗濯してもらうように頼めば良い。だが、その時のアーサーは、自分が女物のネグリジェを着てみたいと思ってしまった後ろめたさがあった。
結果、混乱したアーサーは、誰のものとも知れぬ汚れたネグリジェを抱え、その場から逃げ去ったのであった。
◆
誰にも見つからぬよう自室に飛び込んでドアを閉めると、アーサーは心の底からほっとした。ドアに凭れ掛かるように座り込む。胸元に抱えられたネグリジェに顔を埋めると、大きなため息を吐いた。自分は何をやっているんだろう。そんな考えが胸を過る。一息ついたアーサーは、顔を上げて立ち上がった。手に持ったネグリジェを広げて掲げる。それは、窓から差し込む陽光で、きらきらと光って見えた。やっぱり綺麗だ、とアーサーは思う。ほうっと息を吐く。ふと視線を右に逸らすと、大きな姿見に映る自分が目に入った。そこには、ネグリジェを掲げるアーサーの姿が映っている。アーサーはなんとなく、ネグリジェをその身に当ててみた。鏡に映るアーサーは、神妙な顔をしている。首から下にはネグリジェが当てられていた。ゆったりとしたサイズのそれは、アーサーの体格でも着てしまえそうに思えた。ごくり、とアーサーは口の中に溜まった唾を飲み込む。着てしまえそう、と思えば、当然のように次は着てみたいという感情が生まれる。アーサーはその考えを振り払うように首を振った。だが、一度浮かんでしまったことはなかなか振り払えない。ちらり、と手に持ったネグリジェに視線を向けた。ここには誰もいない。ほんの少しだけなら、良いかもしれない。
アーサーは逡巡ののち、近くの椅子にそっとネグリジェを掛けた。それから、自分の衣服に触れて勢いよくそれを脱ぐ。心臓がドキドキと早鐘を打っていた。いけないことをしている、という思いはしかし、好奇心を刺激する。アーサーは着ていた服を床に落とすと、あっという間に下着姿になった。椅子に掛けたネグリジェを手に取り、そっと撫ぜてから裾を広げて持つ。心を決めて、そっと被る。ゆったりとしたネグリジェは、ギリギリで肩を通し、アーサーの身体を包んだ。すとんとスカート部分が下に落ちる。長いそれは、アーサーの足を臑の下辺りまで隠した。着れた。着てしまった。アーサーは五月蝿い心臓の音を聞きながら、恐る恐る姿見に視線を向けた。
そこには、確かに女物のネグリジェを身につけたアーサーが映っていた。しかし、とても似合うとは言いがたい。袖から伸びる腕は程よく筋肉がついて太い。ゆったりしたネグリジェだったというのに、やはり女物のせいかアーサーには窮屈なものだった。
ネグリジェは可愛らしく綺麗なのに、体格も良いアーサーが着るとひどく貧相に見える。アーサーは、そのネグリジェが可哀想になって目を伏せた。やっぱり、今の自分には似合わないのだ。残念に思いながらも、気分は少しだけ高揚していた。目を開き、もう一度鏡を見る。それでこのネグリジェは脱いでしまおう。もう二度と着ることは無いだろう。そう思ったアーサーの視界に、信じられないものが映った。鏡の端に映る、見知った女性の姿。アーサーは弾かれたように背後を見た。そこには、アーサーを見つめるマーリンの姿がある。
「ま、マーリン!?」
「ああ」
裏返った声を出すアーサーの目は見開かれてマーリンを移す。アーサーの瞳に映ったマーリンは、瞬きをして返事をした。二人の間に、重い沈黙が流れる。アーサーは何も言えなくなって口を開いたり閉じたりした。だって何を言えというのだ。女物のネグリジェを纏う、男である自分が。自らが師と仰ぐ女性にそれを見られた。それだけでアーサーはこの世の終わりのような気分になった。知らず、瞳が潤む。
「……まあ、良いんじゃないか」
マーリンが言った。その声からは感情が感じ取れない。そんなマーリンの言葉に、アーサーは反射で「何が良いんですか!」と叫んでしまった。そして慌てて口元を押さえる。そんなアーサーを見て、マーリンがふっと笑った。
「いや、似合っているぞ」
「似合う訳……!」
「何故だ?」
思いがけない言葉に、アーサーの思考は停止した。何故、と言われても、見たままだ。袖から伸びる腕は女性のように白く細くはない。全体的に柔らかみの欠ける身体は、ふわりとしたシルエットのネグリジェとは相性も悪い。アーサーは男性であって、女性ではないから、女性の服が似合う訳が無いのだ。まだ男女の区別もつかないような幼い頃とは違う。女性の服を着るには、アーサーは大きくなりすぎた。
「見たまま、です」
アーサーは悲しくなってそう呟く。恥ずかしい。よりにもよってマーリンに見られるなんて。そんな思いがぐるぐると頭を回る。
「……そうだな。確かにサイズは合っていないようだ」
マーリンはそう言って、俯くアーサーに近付いた。その頬にそっと手を伸ばし、撫でる。
「だが、似合わないとは思わないよ」
「……驚かないんだ」
ぽつり、と俯いたアーサーが呟く。
「驚いたな。しかし、お前は昔から綺麗なものが好きだっただろう。幼い頃は当たり前に女性の服を与えられていたようだし、何も不思議は無いぞ」
あやすような声音で言うマーリンに、アーサーは目頭が熱くなった。マーリンが、両手を広げて、女物のネグリジェを着たアーサーを包み込む。アーサーの背をそっと撫ぜると、耳元で悪戯っぽく言った。
「なんなら、今度サイズのあったネグリジェをプレゼントしようか」
そんなマーリンの背に、アーサーも手を回してぎゅっと抱きしめる。ふわりと香るマーリンの匂いを感じながら、アーサーは言った。
「いりません。女装が好きな訳じゃないから」
「そうだな。では、これをやろう」
そう言って、アーサーの背に回した手を解くと、マーリンはどこからとも無く白いハンカチを取り出した。四方にレースがあしらわれ、隅にはワンポイントで綺麗な刺繍が入っている。
「お前が持っていても、おかしくないぞ。アーサー」
目の前に差し出されたハンカチを受け取ったアーサーは、じっとそれに視線を落とす。今度こそ、じわり、と涙が溢れた。
「うん」
受け取ったハンカチを大事そうに両手で包み込むアーサーに、マーリンは綺麗な笑みを向ける。
「では、その服は私が預かろう。持ち主の元へ返しておくよ」
「わかった」
返事をして、アーサーは慎重にネグリジェを脱ぐ。それをマーリンに渡しながら、ふとした疑問を口にした。
「でも、マーリン。一体いつからいたんです?」
するとマーリンは少し首を傾げてアーサーの問いに答える。
「それを掲げている辺りからだな」
「最初から!?」
「私も少し興味があったのだよ」
非難の声を出すアーサーの頭を片手で撫でて、マーリンは言った。それに不服を申し立てつつ、アーサーはマーリンを見る。マーリンは綺麗な笑みを浮かべたまま、言った。
「とりあえず、服を着るんだな。アーサー」
その言葉で、アーサーは自分が下着一枚というとんでもない格好であることに気付く。とたんに恥ずかしくなって、顔を赤くしながら服を纏うアーサー。それを楽しそうにマーリンが眺める。
「土産を買って来た。服を着たらお茶にしよう」
その言葉に、アーサーは小さく頷く。アーサーは服を着ると、マーリンから貰った綺麗なハンカチを大事そうにポケットに仕舞った。
その日のことは、アーサーとマーリンだけの秘密である。