ある時、アーサーは酷い風邪を引いた。
熱で朦朧とする中で、上手く眠ることも出来ずにただベッドに沈み込む。ぼんやりと開いた瞳に映るのは、見慣れたベッドの天蓋だ。それは、熱に浮かされて出る涙で滲んでいた。額に乗った濡れた布は、発する熱で温められている。ぬるくなったそれを不快に感じ、重い手を額に伸ばした。
その手を、誰かが握って布団の中に戻す。そして額に乗った布を取り去った。どうやら、まだ誰かが居たらしい。
ぐらぐらする頭を動かして、右手を見る。そこには、マーリンの姿があった。紫紺のドレスに身を包んだ彼女は、ベッドサイドに置かれた水を張った桶に布を浸して絞っている。そしてそれを再びアーサーの額に戻した。
「眠れないか」
「……うん」
返す声は自分が思うより情けない響きを持つ。マーリンは優しげに笑って、アーサーの頬を撫でる。熱い頬に冷たい手が触れるのは心地よくて、少し怖かった。まるで、守るものの無い自分の本質に触れられているようで。
「どうして、ここに」
「私がここにいては不都合があるか?」
「うん。……えっと、そうじゃなくて」
熱で考えが上手く纏まらない。自分が何を言って良くて、何を言ってはいけないのか、その線引きが酷くあやふやになっている。
「こんな状態のお前を一人には出来ないな」
「平気、慣れてる」
「……」
彼女が黙った。ああ、余計なことを言ってしまったのかもしれない。けれど、もうそういったことを考えることすら辛かった。一人にして欲しいと思う。それは言っても良いことだろうか。悪いことだろうか。
「ここに居るのは、お前が心配だからだよ。アーサー」
マーリンが発するのは優しい声だ。優しすぎて泣きたくなる。熱のせいで自分が制御出来ていないと感じた。
「ごめん」
「何を謝ることがある」
「今の私は……なんの役にも、立てない」
何も出来ない。何の役にも立てない。それは、自分の存在意義が無くなったような感覚だった。こんな所で寝込んでいる場合ではないのだ。自分にはやることがあって、やらねばならぬことがある。そうでなくては、駄目なのだ。
そんなアーサーに、マーリンは優しく語りかける。
「お前は、お前のままで、ここに居れば良い。お前が動けないときは、私達がサポートしよう。当然のことだ」
その言葉に、アーサーは不安を覚えた。役に立たない自分が居て良い筈はないのだ。それは幼い頃に植え付けられた強迫観念のようなもの。幼い自分を守る為に、無意識に築いた壁を崩されるようで怖かった。
「マーリン……」
「何だ」
「……少し、一人に、なりたい」
願い出ると、彼女はほんの少し目を細めた。それから、目を伏せて一つ息を吐く。
「……わかった。少し席を外そう」
「ごめん」
「謝ることなど無い」
優しい声で彼女が告げる。それから額の布をもう一度替えてくれた。そしてマーリンは席を立つ。
「扉の向こうに居る」
「うん……」
去っていく彼女の背を見送って、ほんの少しほっとした。そんな自分に、なんて酷い奴だと思う。マーリンはただ心配して傍に居てくれただけだというのに。けれど、熱に冒されている自分は信用がならない。何か酷いことを言ってしまってからでは遅いのだ。熱が出た時、傍に誰もいないことには慣れている。むしろ人が傍に居た方が眠れない。そう、眠るなら一人が良い。そう思って、アーサーは瞳を閉じた。
夢を見た。
夢の中では、幼い自分がベッドで寝込んでいた。熱でも出ているのだろう。息が荒く頬が赤い。寝込む自分の傍には、誰の姿も無かった。何かあればベッドサイドに置いた鈴を鳴らすようにと言いつけられていたことを思い出す。だが、義父は仕事で忙しく、義母も何かと多忙であることを理解していたアーサーは、その鈴を鳴らすことが出来なかった。手を伸ばすことさえ出来なかったのだ。
嵐が過ぎ去るのを待つように、幼い自分は体を縮こまらせていた。
ひやり、と額に冷たいものが触れた。
その感覚に、眠りの浅かったアーサーは引き戻される。誰かが額の布を替えてくれたのだろう。
「……マーリン?」
「マーリンじゃなくて悪ぃな」
その声に、反射的に体が飛び起きようとした。だが、熱に冒された体は思ったように動かず、ベッドに沈む。
「いいから寝てろ」
「しかし」
「病人の自覚あるか? 寝てろ」
強い口調で言われて、アーサーは大人しく従った。どうしてメリオダスが居るのだろう。自分の看病をしてくれていたのはマーリンだった筈だ。そのマーリンに一人にして欲しいと願い出て、自分はこの部屋に一人だった筈。
「寝込んでるっつーから、見舞いに来た。ちょうど近くにいたしな」
「それは、すみません」
「なんで謝るんだよ」
どうして、と問われて迷った。見舞いという手間を掛けさせてしまったことへの詫びなのだが、そう言ってしまっていいのだろうか。アーサーは悩んで、もう一度「すみません」と口にした。
「ま、いいけど」
そう言って、彼はベッドの側に置かれた椅子に腰を下ろした。それから何も言わずにそこにいる。
「……あの」
「ん?」
「私は、大丈夫ですので」
「大丈夫なやつの声じゃねえな」
一刀両断されて、何も言えなくなる。深緑の瞳でじっと見つめられて、何か話さなければと気持ちが焦った。だが、熱に浮かされた頭は意味のある言葉を見つけ出してくれない。
「弱ってるとこを見られるのは苦手か?」
見透かされて、小さく頷いた。するとメリオダスの手が伸びて来て、頭を撫でられる。
「なら、慣れろ。お前の体は、お前一人のもんじゃねえんだから」
そう言われると、また何も言えなくなる。アーサーはただ黙って撫でられることを受け入れた。
「ああ見えて、マーリンはお前のことを大事にしてるんだぜ」
「……知っています」
「そんならいいけど」
メリオダスの手が頭から離れる。そして、布団の中にあるアーサーの手を握った。
「お前は、人に頼ることを覚えろ」
静かな言葉に、何も言えずに黙る。
「それとも、マーリンやオレは信用ならねえか?」
「違います!」
反射的に出た声は予想以上に大きく響いた。そのことに慌てるアーサーの手を、大丈夫だと言うようにメリオダスが強く握る。
「なら、弱ってる時はちゃんと頼ってくれよ」
「……どう、したらいいのでしょう」
弱々しい声で尋ねると、メリオダスが優しい笑みを見せた。
「簡単だ。苦しいなら苦しいって、寂しいなら寂しいって言えばいいんだ」
その言葉に、泣きたいような気分になって目を閉じた。メリオダスの要求は、アーサーにとってとても怖いことのように思えたからだ。そして、その要求が怖いと思うのは、自分の心が弱いせいだ。
そう、アーサーは本当の自分を他人に見られることが怖かった。
「メリオダス殿」
「どした?」
「一人になりたい」
「そりゃ駄目だ。お前熱出して寝込んでるんだからな。誰かが看病につくのは当たり前だ」
「でも」
「大丈夫だよ。お前が何言おうが、オレもマーリンも傍に居てやるから」
その言葉に、アーサーは涙腺が緩むのを感じた。泣いてしまう。そう思った。
「泣きたきゃ泣け」
「っでも」
「いいんだよ」
子どもに言い聞かせるような優しい声に、滲んだ涙が粒になって溢れた。一度溢れ出した涙は止まらず、頬を濡らしていく。どうしてこんなに涙が溢れるのか分からず、ただ涙を流す。メリオダスは空いた方の手でハンカチを取り出し、それを拭ってくれた。
その手を、自らの手で掴む。
「一人でも、大丈夫なのです」
「……」
「そうじゃないのは、怖い」
言葉とは裏腹に、アーサーはメリオダスの手を縋るように強く掴んだ。自分の行動に説明が付けられなくて、見ない振りをするようにぎゅっと目を瞑った。
「大丈夫だ」
彼の声がやけに近く聞こえる。
「起きるまで傍に居てやるから、寝ちまえ」
その言葉にたとえようのない安心感を覚えて、また涙を零した。
数日後。
「もう大丈夫ですよ。完治しております」
「ありがとうございます。先生」
医者の言葉に、アーサーは笑顔で礼を告げた。診療道具を片付けて医者が出て行ったのと入れ替わりで、メリオダスとマーリンが入ってくる。
「もう、大丈夫だそうです」
「そりゃ良かった。なあ、マーリン」
「ああ」
安心したように顔を綻ばせたマーリンを見て、酷く心配を掛けてしまったと申し訳なく思う。二人には熱のせいで情けない所を見せてしまった。なんとなく彼らと顔を合わせ辛くて視線を彷徨わせると、メリオダスが意地悪く笑う。
「お前が寝込んでる間に、お前の承認を待つ書類が山のように溜まってるらしいぞ。頑張るんだな。ただし、無理してまた倒れたら承知しねえぞ」
「……はい。無理はしません」
彼なりの励ましであろうその言葉に、苦笑いを向ける。そんな自分達を見て、マーリンが付け加えた。
「無理をしないよう、私が監視しよう」
「マーリンまで……。そんなに信用無いの?」
少し肩を落としてみせると、メリオダスとマーリンが顔を見合わせて楽しそうに笑う。それを見て、アーサーも笑った。
「……傍に居てくれて、ありがとう」
心からの言葉を、彼らは笑顔のまま受け入れてくれた。