XXをしないと出られない部屋

 

 随分と頭がぼんやりするとアーサーは思った。横たえた上半身がやけ重く感じて、ほんの少し身じろぎをする。だが体はうまく動かない。目の前が暗いなあと思って、そこで初めて自分が目を閉じていることに気付く。それは暗いはずだと納得して、重い瞼を上げた。

「……え?」

「よ。起きたか」

 開けた視界に見えたのは、メリオダスの顔だ。そう、顔。顔しか見えない。深く透明な緑の、大きな瞳に自分の間抜けな顔が映っているのがわかる。それ程に近距離に、他人の顔があった。

「え?」

「そのままいい子にしてろよ」

 もう一度間抜けな声を出したアーサーに、彼は笑って言った。そうして、その顔が更に近付く。じわりと輪郭が滲んだところで、慌てて両手でメリオダスの顔を突き放した。

「……おい、アーサー」

「ち、近いです! とても! 凄く!」

 非難の声を上げる相手から顔を逸らし、叫ぶ。何がどうしてこんな状況にいるのか、全く理解できない。混乱するアーサーに、メリオダスが爆弾を落とした。

「近くなきゃ、キスできねえだろ?」

「あ、確かに。……って、ええ!?」

 驚きの声を上げたその頬は、あっという間に赤く色付く。そんなアーサーの両手を、自らの両手で掴んだ彼が言った。

「落ち着け。アーサー。あっちの壁見てみろ」

 言われて、視線で促された方を見る。

 そこには白い壁と、一枚の張り紙があった。張り紙にはこう書かれている。

『キスしないと出られない部屋へようこそ! ゆっくりしていってね♪』

 その文字を読んで、噛み砕いて、アーサーはメリオダスを見た。

「らしいぞ」

 普段通りの口調で言った彼に、思わず唖然とした声を漏らす。

「お前が寝てる間に済ませようと思ったんだけどなぁ」

 呑気な声で言うメリオダスに、慌てて叫んだ。

「だ、駄目ですよ! もう起きていますから!」

 そう言って暴れるが、両手が掴まれている上にマウントポジションを取られていては大した抵抗にならない。

「何がそんなに嫌なんだ? キスなんて挨拶の一種だろ」

 あっけらかんと言ってのける彼に、しばし絶句してから「挨拶で口にはしません!」と主張する。そんなアーサーに、眉を寄せてメリオダスが言った。

「意外と細かい男だな。もてねーぞ」

「……メリオダス殿は、何故そのように乗り気なのですか?!」

 焦った言葉に、彼はパッと掴んでいた両手を解放した。しかし体の上からは退かないまま、後ろ頭を掻く。

「乗り気というかな。これ以外に手段がなさそうなんだ」

「え?」

「お前が寝てる間に、一通りの技は叩き込んでみたがビクともしねえ」

 そう言って壁の方を見る。アーサーは顎に手を当てて考え込むように言った。

「メリオダス殿の力でも破壊できない魔法空間、ですか? まさかリオネスの魔術師殿の仕業では……」

「いや、こいつは衝撃を包み込んで消し去っている感じだ。全く手応えがねえ」

 それにあいつにオレ達を閉じ込める動機なんかねえだろうし。そう付け加えたメリオダスに、確かにその通りだと思う。では、一体誰の仕業だというのか。考え込むアーサーの額に、彼が人差し指を押し当てた。

「誰の仕業かは出てから考える問題だろ」

 そのまま眉間に寄った皺を撫でて、メリオダスは笑みを作る。

「キス一つで出られるなら安いもんじゃねえ?」

「……」

 アーサーは黙り込んで彼を見た。メリオダスの言うことは分からなくもない。確かにいつまでもここにいる訳には行かないし、出られるという手段があるなら試すべきだ。しかし、自身にもよくわからないものが、彼とのキスを拒絶させた。

「てなわけで、アーサー」

「っ、だ、駄目ですっ!」

 身を押し進めてきたメリオダスに、口元を手で覆うことで抵抗する。そんなアーサーに、彼は小さく溜息を吐いた。

「そこまで拒否されるのも、傷付くぜ?」

「えっと、ええと。く、口じゃなくてもいいのではないでしょうか?!」

 名案を思いついたと言わんばかりに目を輝かせると、メリオダスは少し首を傾げて「なるほどな」と答えた。それから、アーサーの口元に寄せられた手に自らの手を伸ばす。

「じゃあ、左手貸せ」

 そう言った相手に、恐る恐るといった様子で従う。左手を手に取ったメリオダスは、そのまま手の甲に唇を落とす。そうして、辺りの様子を伺った。周囲は相変わらず白い壁に囲まれており、何の反応もない。

「駄目だな」

 そう零して、彼は掴んだ手を裏返した。手のひらの指の付け根に唇で触れる。少しこそばゆいその感覚に、アーサーは妙な居心地の悪さを感じた。

「ここも、駄目」

 呟かれた言葉はどこか色を帯びている。急にメリオダスを見ているのが恥ずかしくなって、視線を逸らした。

「あ、あのっ!」

「なんだ?口にはしないから安心しとけ」

 そう言った彼はおもむろにアーサーの左袖を捲り上げた。外気に晒された左腕、その肘の内側の皮膚に、唇で触れる。そのまま舌を這わせると、アーサーがびくりと体を揺らした。

「うわっ!」

「うるさいぞ」

「だって、今!」

「口にはしてないだろ?」

 にやりと笑んで見せるメリオダス。その笑顔で、背筋に嫌な予感が走る。

「ちょっと待ってくだ、っひゃ」

 慌てて止めようとした時、上着の裾から彼の左手が入り込んだ。素肌に触れる他人の体温。アーサーは両手で服の中に入り込んだメリオダスの手を掴んだ。そして相手を睨めつける。

「冗談は、程々にして下さい!」

「……じゃあ、こっちな」

 きつい視線を気にした様子もなく、彼が呟いた。そして空いている手でさっとアーサーの首元を寛げると、上半身を倒してそこに顔を埋める。

「っ」

 急所である喉仏の薄い皮膚を唇で食まれて、反射的に体を強張らせた。メリオダスは喉仏をなぞるようにそっと舌を這わせる。

「や、め」

 アーサーが喉を震わせて声を絞り出した。両手を使って相手の体を力一杯押し返す。だが、自由になったメリオダスの左手が脇腹を撫で上げたことでその抵抗は力ないものになる。

「ぅあっ」

 触れるか触れないかといった柔らかさで肌を撫でる彼の手の感覚に、ぎゅっと目を瞑る。彼は喉元から鎖骨の少し上に口付けた。アーサーは、柔らかな舌で肌を舐められた後、ピリッと皮膚が痛むのを感じる。何をされているのか、どうしてこんな状況になったのか、何も理解できずに思わず懇願した。

「待って、いやだ、メリオダスどのっ」

「おう」

 そこでやっと、メリオダスが呑気な返事をする。彼は顔を上げると、周囲の様子を伺い、そして再びアーサーを見下ろした。

「とまあ、ここまでしても何の変化も見られねーんだけど。……どうする?」

 メリオダスは左手を脇腹からそっと滑らせて腹の辺りで止めた。その口元には人の悪い笑みが浮かんでいる。

「全身くまなく試してやろうか?」

「お断りしますっ!」

 すかさず叫ぶと、彼は首をかしげる。

「じゃ、どーすんだ。このままここに居るってのか?」

「……私が」

「ん?」

「私が、その、キスしますので! 私の上からどいて下さい!」

 若干自棄になったようにアーサーが叫んだ。それを聞いたメリオダスは、満足そうな笑みを浮かべて「よっし、分かった」と言いながら立ち上がる。

「立てるか?」

「……ありがとうございます」

 差し出された手を一瞬の迷いの後取って、立ち上がった。乱れた衣服を簡単に整えると改めてメリオダスを見る。

「んじゃまあ、どーぞ?」

 両手を広げてみせる彼に、アーサーはぐっと押し黙った。別にキスといっても、唇が触れ合うだけだ。そこに気持ちが伴わない限り、特別なものではない筈。ただ皮膚が触れるだけだ。そう言い聞かせていると、メリオダスが言う。

「なんだ、来ねえの?ならこっちから行くぜ」

「お願いですから、メリオダス殿は動かないでください!」

 それに反射的に叫んで、心を決めた。そう、いつまでもこんな状況にいるだなんて、自分の精神衛生上も宜しくない。メリオダスに近付くと、低い位置にある肩に両手を置いた。ほんの少し屈んで彼と視線を合わせる。大きく真っ直ぐな瞳がアーサーを見つめていた。

「あの」

「なんだ?」

「目を閉じて頂けませんか?」

「なんで」

 何故、と問われてアーサーは言葉に詰まる。確かに目を閉じる必要はない。だがこんなにも真っ直ぐ見つめられていてはどうにもやりにくいではないか。しかし、納得のいく理由がなければメリオダスは目を閉じてくれないだろう。羞恥で赤くなりながら、理由を口にした。

「私が、恥ずかしいです」

「そっか。まあそう言うなら……ほれ」

 そう言って彼は目を閉じた。それだけで、気持ちが少し楽になる。アーサーはそっと顔を近付けると、覚悟を決めるように目を閉じた。ほんの一瞬、唇が触れるだけだというのに、心臓は痛いくらいに高鳴る。そんなアーサーの唇が人肌に触れるより早く、鼻先が何かにぶつかった。

「こら、お前まで目を閉じてどうする」

「へ」

 息のかかる距離でメリオダスの声がして、間抜けな声を上げた。目を開くと、すぐそばに彼の顔がある。近過ぎて焦点を合わせられないでいると、メリオダスがふっと笑った。

「アーサー。そのまま」

 優しい声がして、彼がアーサーの頬に両手を添えた。そのまま唇を触れ合わせる。しっとりと触れ合った唇に、ただ瞬きを繰り返した。

 暫くして、メリオダスが唇を離す。状況を理解していないアーサーに向かって笑うと、言った。

「キスなんてたいしたことねえだろ?」

「……っ!」

 今されたのがキスだということに気付いて、瞬時に顔が赤くなる。

「う、うう、動かないで下さいって言いましたっ!」

「お前が鼻ぶつけてくるからだろ」

「それは、すみません。……ですが」

 更に言い募ろうとするアーサーに、メリオダスが軽い口調で言った。

「あんまりうだうだ言ってると、また塞ぐぞ」

「うだう……っ!」

 その言い分に、口を開いた途端。メリオダスは再び口付けた。開いた口から舌を差し込むと、アーサーの舌と擦り合わせる。それに驚いて大げさに体を揺らし、退こうとした。しかし自分の顔はメリオダスの両手で固定されたままで、叶わない。

「んぅ、ん、う」

 口内を這う他人の舌を、どうすることもできずにアーサーは必死にメリオダスと距離を取ろうともがく。だがその抵抗も、次第に力ないものへと変わっていった。アーサーの膝から力が抜け、その場に崩折れてもなお、メリオダスはキスをやめない。

「ふっ、ん……あ」

 その声に、明らかな色が混ざる。それを楽しげに聞きながら、メリオダスは左手でアーサーの胸元を寛げた。

 その手が突然ピタリと止まる。

「そこまでだ、団長殿」

 涼やかな声とともに現れたのはマーリンだ。彼女は見捨てておけない動きをする左手を強い力で掴んだまま、美しい笑みを浮かべる。

「私の可愛い弟子に手を出すとは、いい度胸だな?」

 その言葉を聞いて、メリオダスはゆっくりと唇を離した。はぁっと熱い息を吐くアーサーの口端を見せつけるように舐める。それだけで、相手はびくりと反応を示す。それに満足して、メリオダスは彼から両手を離した。アーサーの体が力なく床に座り込む。それを見てマーリンが二人の間に入った。マーリンはアーサーの肩を抱き、声を掛ける。

「大丈夫か、アーサー」

「まー、りん? どうして」

 荒い息を繰り返しながら問うたアーサーに、マーリンは優しい声で答える。

「お前の気配が消えたからどうしたのかと思い探していた。まさか団長殿に襲われているとは思いもよらなかったがな」

「おいおーい、人聞き悪い言い方するなよ。同意の上だぜ」

 マーリンはちらりとメリオダスを見るとアーサーに向き直る。

「……そうなのか?」

「いや、うん?……ええと、この部屋から出るにはキスをしないといけないらしくて……」

そう言ってアーサーが指差す先には例の張り紙が貼られた壁があった。それを見たマーリンは眉を顰める。

「私の目を欺く程の魔術の部屋か」

「そうそう。キスはここから出るための手段だ」

 軽い調子でメリオダスが言う。その言葉を聞き流しながら、マーリンはアーサーの乱れた衣服を直してやろうと両手を伸ばした。アーサーの鎖骨から少し上に残された赤い跡に気付いてその手が止まる。

「団長殿は迂闊だな。それとも独占欲が強いのか?」

「なんだよ」

 マーリンはアーサーの衣服をきちんと整えてやってから、メリオダスを見た。その口元は綺麗な弧を描いている。

「”完全なる立方体”」

「お?」

 彼女がそう口にすると同時に、メリオダスの周囲が立方体に包まれ、彼を閉じ込めた。マーリンは何事もなかったかのように、アーサーを立たせてその場を去ろうとする。

「あの、マーリン。メリオダス殿は……」

「案ずるな。団長殿は、一晩くらいそこで反省するとよいのだ。もっとも、大した薬にはならんだろうがな」

「そ、そうなのかな……」

 マーリンに背を押されながら、ちらりと振り向いたアーサーの心配げな顔に、メリオダスは軽く手を振って「続きはまたな」と声に出さず伝えた。声に出していないのだから、伝わるとは思っていなかったのだが、どうやら唇が読めたらしい。アーサーは一瞬呆けた後、頬を赤く染めてすぐに前を向いてしまう。

 可愛らしい反応に、メリオダスがくつくつ笑っていると、案の定、マーリンにきつい視線を飛ばされてしまった。

 

 

2018/03/06

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