「攫われてくれるか?」
そう告げられたのは、アーサーが王位を退いて一年後のことだ。心地よい風が吹くキャメロット城内の庭園の四阿で、備え付けられた椅子に座り、二人でお茶を飲んでいる時に、メリオダスがそう言った。一瞬なんのことかわからずに首を傾げてしまう。しかしすぐに理解した。声こそ軽い調子だったが、その瞳は真剣なものであったからだ。
「いいですよ」
理解して、快諾した。
彼は、自分で言い出したくせに驚いたような顔をしている。それが面白くて笑うと、メリオダスはほんの少しムッとした。そんな些細な感情の変化がわかるくらいの時間は、共にしている。
「この国から離れてもいいのか?」
「もう私の役目は終わっていますから」
笑いながら告げると、彼は暫く黙った後、まっすぐな眼差しでアーサーを見た。
「今夜だ」
「はい。お待ちしております、メリオダス殿」
カップに入ったお茶を飲み切って椅子から立ち上がったメリオダスに伝える。彼は笑って、その場を去った。
その晩、アーサーはキャメロットから攫われる。手紙を一通だけ残して。
攫われた先は、若い頃お世話になった<豚の帽子>亭だ。記憶の中より少しくたびれた感じはあるものの、住居としてはなんの問題もない。喋る豚のホークも健在だった。
「お前、アーサーか? 久しぶりだな!」
「はい、お久しぶりです。ホーク殿」
「遊びに来たのか?」
その問いに答えようとした時、メリオダスが横から入ってきた。
「いや、攫ってきた」
「はぁ?! 攫ってきたって、王様をか?」
彼の言葉にホークが大きな声を出す。それを宥めるように、アーサーは言った。
「ホーク殿、落ち着いてください。それに私は、もう王ではありませんよ?」
「なんでお前はそんなに落ち着いてるんだよ! 攫われたんだろ?!」
「とはいえ、同意の上ですので」
「なんで同意してんだ!」
訳わかんねー! と叫ぶホーク。メリオダスとアーサーはそれを見て、その後お互い目を合わせて、ふっと笑った。
「だって、メリオダス殿が攫ってくださるのですよ?今の私には、お受けしない理由がありません」
「だってよ」
お互いを見つめて笑い合う二人に、ホークはがっくりとした様子で頭を振った。それからとぼとぼねぐらへ向かう。
「付き合ってらんねーぜ! 俺様は寝る!」
「おう、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
仲良く揃って就寝の挨拶を寄越す二人に、ホークはため息を吐いた。
「さて、そんじゃお前は三階の部屋使ってくれ。必要な物があれば次の町で買おうぜ」
「はい。ありがとうございます」
「あと、アーサー」
「なんでしょう?」
メリオダスがちょいちょいと手招きをした。それを見て腰を屈める。すると肩を掴んで引かれ、ほんの一瞬、唇が重なった。
「おやすみのキス」
彼が至近距離でにやりと笑い、その顔が離れていく。
不意をつかれ、ぽかんとしてメリオダスを見る。すると、彼はそんなアーサーの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。頭を撫でられたことなんて、何年振りだろう。そう思っていると、目の前の人は困ったようにほんの少し眉を下げた。
「駄目か?」
窺うような声小さな声。その様子があまりにも愛しくて、笑んだ。
「いいえ」
そう答えて、自らメリオダスにキスを落とす。唇は優しく触れて、離れた。
「おやすみなさい、メリオダス殿」
「ああ、おやすみ。アーサー」
笑みを浮かべると、彼も笑ってくれる。それを、幸せだと思った。
アーサーが<豚の帽子>亭に来て一ヶ月が経った。二人と二匹の日々は穏やかに過ぎる。昔取った杵柄か、ここでの生活にはすぐに順応出来た。町から町への旅生活は、とても楽しく、アーサーにとっては得難いものだった。何より、メリオダスと共にあれる。それが幸せで、嬉しかった。
朝起きて「おはよう」を交わす。向かい合って食事を取る。何気無い会話をして、時折戯れ合う。そして夜には、「おやすみ」を交わす。
こんなにも、自分の幸せだけを考えられるようになるなんて、若い頃は思いもしなかった。それもこれも、全てメリオダスのお陰だ。幸せというものが何であるのかを、教えてくれたのは彼なのだから。
願わくば、残りの人生を、メリオダスと共に過ごしたい。
そんな身勝手な思いさえ抱くようになったが、それは口に出せないでいた。
メリオダスは、最近少し様子がおかしい。何かを言いたげにこちらを見ていることが多くなった。何か用かと問えば、なんでもないと返って来るのだ。
もしかしたら、自分がここに居ることが迷惑になったのだろうか。出て行って欲しいと言い出せないでいるのかもしれない。一度悪い方に向かった思考は、どんどん底へと向かっていく。芽生えた不安は、あっという間に膨れ上がる。
ある日の夜、アーサーは心を決めてメリオダスの部屋の扉を叩いた。
「どうした、何かあったか?」
迎えてくれた彼は、特に変わった様子は無い。しかし、「少し、お話がしたくて」と切り出すと、急に思い悩むような顔をした。ああ、やはり迷惑がられているのかもしれない、と思う。
もし、本当に迷惑がられているのだとしても。
「中、入れよ」
メリオダスが迎え入れてくれる。それに従って部屋の中に入り、促されるままにベッドに腰掛けた。すぐ隣に、彼が腰掛ける。
「話って、何だ?」
「それは……」
アーサーは、自分の望みを伝える為にメリオダスの部屋の扉を叩いた。例え拒まれようとも、口にして伝える事が大切だと思ったからだ。しかし、いざ本人を目の前にすると、竦んでしまう。情けないと思いながらも、なんとか口を開いた。
「私は、メリオダス殿に、感謝しているのです。貴方は、私に沢山のものを与えてくれた。貴方のお陰で、私は自身の幸せに目を向ける事が出来ました」
「……どうした、いきなり」
「どうか、聞いてください」
戸惑う彼の左手をぎゅっと握りしめる。まっすぐにメリオダスを見ながら、アーサーは続けた。
「私は、残りの人生を、メリオダス殿と共に過ごしたいのです」
言った。言ってしまった。彼の目は驚きに見開かれる。しかし、その口からは何の音も発せられない。視線を逸らしてしまいたい衝動に駆られながらも、アーサーはメリオダスを見つめた。すると、彼は右手で口元を覆って、視線を逸らしてしまった。その反応に、この生活も終わると思った。
「……やはり、ご迷惑ですよね。私にそんなことを言われても」
ぎゅっと、握る手に力を込める。メリオダスを見ている事が出来ずに視線を逸らした。
「アーサー」
「はい……」
名を呼ばれる。しかし、彼を見る事の無いまま返事をした。すると、頬に手が添えられる。暖かい。この暖かさを手放したくないと思った。
「アーサー、オレを見ろ」
その言葉に、恐る恐るメリオダスを見る。彼は、何故かうっすら頬を染め、半眼でこちらを見ていた。
「それは、オレが言おうと思ってたんだよ」
「すみません、やはり……。え?」
「え? じゃねえよ。お前何か勘違いしてねえか?」
「だって、最近メリオダス殿の様子がおかしくて……私は、迷惑がられているのかと……」
正直に答えれば、彼は言葉に詰まる。視線を空に彷徨わせてから、アーサーを見た。
「……どう言ったもんか、わからなかったんだよ」
「えっと、何を」
戸惑いながら問いかければ、メリオダスがはあっとため息を吐いた。それから、まっすぐにこちらを見つめて言う。
「お前の残りの人生、オレに預けてくれ」
「……え」
「死ぬまで傍に居ろ。こっちの方が伝わるか?」
その、言葉に。
アーサーの目の前がじわりと滲んだ。
安堵と、喜びが一気に襲ってきて訳がわからなくなる。そんな自分を、彼は抱き寄せた。背中をとんとんと叩かれる。耳元で、バツの悪そうな声がした。
「悪かった。誤解させるような態度取って」
そうして泣き止むまでの間、メリオダスは、ただ優しくアーサーを抱きしめてくれた。
「……もう、平気です」
そう伝えると、彼が腕を解いてくれる。なんとなく気恥ずかしくて顔を上げられないでいると、メリオダスが頬に触れてきた。
「なあ、アーサー。さっきの、もう一度聞かせてくれねえ?」
「さっきの……」
「お前の望み」
彼の声はとても優しい。その優しさに甘えるように、自分の願いを口にする。
「残りの人生を、貴方と過ごしたいです」
「ん。じゃあ離してやらねえ」
甘く囁くように言って、メリオダスはアーサーにキスを送った。