夢を結ぶ

 

「お前、最近よく俺の夢に出てくるよなぁ」

 見下ろすはコバルトブルーの海、見上げるは夏特有の真っ白い入道雲が映える青い空。その中間地点で大の字になって寝転び浮遊しながら、霊幻は斜め上を見て言った。そこには弟子である茂夫が体育座りで浮かんでいる。超能力者である茂夫は浮遊が出来るかもしれないが、そうでない霊幻にはこんな芸当は出来ない。第一、海と空しか無いような場所には住んでいない。だが、最近読んだ雑誌でこのような南国の特集が組まれていたのは覚えている。つまり、これは夢だ。

「……そうですね。夢に出るほど師匠のことを考えているつもりはないんですけど」

「おいおい。それじゃあまるで、俺が夢に見る程モブのことばっかり考えてるみたいじゃねえか」

「そうなんですか?」

「そんな訳ねえだろ」

 首を傾げて問われたので、即座に返答した。状況はこれが確実に夢であると訴えているのに、二人のやり取りには妙に現実感がある。それを不思議に思ったのは二回目までだ。三回目以降は、妙な所でリアルな夢だなとしか思わなくなった。

 霊幻の夢に茂夫が出てくるのは、すでに五回目になる。五回もこのようなことが続けば、普通の人間は相手を意識するだろう。不審に思うかもしれないし、もしかしたら自分は相手が気になっているのかと思うかもしれない。しかし霊幻は違う。たかが夢と高を括って気にも留めなかった。ゆえに現実の二人の関係には、今も問題は生まれていない。

「綺麗な所ですね」

「そーだな。日の出や日の入りの時間帯だったら、さぞ幻想的だったことだろうよ」

 霊幻が掛け声と共に身体を起こす。すると、ぱっと世界の色が切り替わった。水平線に、溶けるような赤い太陽が触れようとしている。世界は青から赤へのグラデーションで彩られていた。

「確かに幻想的だ……」

 ぽつりと茂夫が呟く。再びそちらを見ると、夕焼けに照らされた弟子が、宙に立って落ちる太陽を見ていた。黒髪が夕日を受け、琥珀のような艶を纏っている。素人が切りそろえたのが分かる前髪の下からは、すっと伸びた白い鼻梁。その下には薄く表情の無い口元がある。既に見慣れた黒の学ランが、忍び寄る夜の闇を感じさせた。思春期の少年特有の危うい美しさだ。

「……そーだな」

 霊幻は一瞬自分の息が止まっていたことに気付いた。そして、間抜けにも同じ言葉を繰り返す。すると、茂夫がこちらを見て一度瞬き、口を開く。

「間抜けな顔してますよ、あんた」

「おまっ、師匠に向かって間抜けとは何だ!」

「大丈夫ですよ。そういう顔も可愛いと思いますし」

「成人男性が子どもから可愛いって言われても嬉しくねぇんだよ」

「じゃあ、カッコいいで良いです」

 面倒くさいな、と言わんばかりに茂夫が前言撤回した。これはどうにも舐められているなと感じる。霊幻は立ち上がり、足を動かして茂夫の元まで歩いた。此処は夢で、自分は宙に浮いている状態なので足を動かすことに意味など無いだろう。しかし無意識に身体は動く。腕を組み、目の前の子どもを見下ろした。

「大人を舐めてると痛い目を見るぞ、モブ」

「そうですか。子どもと侮っても痛い目を見るって言いますよね、師匠」

 見上げてくる瞳には特に何の感情も見られない。夕焼けが白い肌を染め、そのまま溶けて消えてしまいそうだ。触れてみたい。ふいに浮かんだ感情のまま片手を伸ばし、夕日からその頬を守るように触れる。茂夫の視線がその手を見たとき、背を曲げて彼の鼻先に唇を落とした。

「え?」

 ごく自然な動作で、頬に触れた手で顎を掬い、ぽかんとする茂夫の薄く開いた唇に口付ける。

 触れて、離れる。

 その間に、目の前の子どもの頬は林檎のように赤くなっていた。こういった行為には耐性がなかったようだ。まあ、耐性があったら軽くショックだが。保護者的な意味で。つまりこれは、親が子に向けるような親愛のキスだ。そう冷静に状況を分析した。

「は? な、何を」

「何って、キスだろ」

 親愛のキスであるが、相手がどう受け取るかは別である。にやり笑って答えてやると、茂夫は真っ赤になって可哀想なくらい動揺している。これは効いたようだ。

「え、う……」

「ほら、痛い目見たろ? なんならもう一度してもいいぜ。どうせ夢だしな~」

「う、わあああ!」

 そう言った次の瞬間、どんっと衝撃があり。

 気付けば霊幻は、ベッドから落下した衝撃で目覚めていた。

 霊幻新隆が所長を務める霊とか相談所。その一室では妙にぴりぴりとした重たい空気が流れていた。その発生源は、出入り口傍の簡易椅子に座った霊幻の弟子、茂夫だ。彼は椅子に座ったまま俯いて微動だにしない。流石に不審に思った霊幻は、迷った末に声をかけた。

「あー。モブ、具合悪いのか?」

「別に」

「そうか? 何か随分機嫌が悪そうに見えるんだが」

「気のせいです」

 問いかけ全てに硬質な声で即答される。取りつく島も無いとはこのことだ。思春期の子どもは難しいなと思いつつ、小さく息を吐いてデスクの椅子から立ち上がる。するとびくりと茂夫の肩が揺れた。

「どうした、モブ」

「いえ……」

 今度は曖昧な返答。

 これは本格的に何かあったな、と思って彼に近付いていく。すると黒髪の合間から見える耳がほのかに赤くなっていることに気付いた。熱でもあるのだろうか。

「モブ。体調が悪いなら無理せず帰れ。今日は客も来そうにないし、家まで送ってやる」

「……師匠、聞いて欲しいことが」

 小さな、消え入りそうな声。しかし、それは確かに霊幻の耳に届いた。

「なんだ?」

 出来るだけ優しい声で話を聞く姿勢を見せると、茂夫は顔を上げた。視線は逸らしたまま。頬は赤い。やはり熱があるのかもしれない。そう思うと同時に、昨夜見た夢の光景が蘇った。触れるだけのキスに、顔を真っ赤にして動揺する少年の姿が。

「僕、最近よく夢を見るんです」

「夢?」

「はい。師匠が出てきます」

 何と奇遇なことであろうか。霊幻の夢に茂夫が出てくるのと同じように、茂夫の夢にも霊幻が現れていたらしい。

「……どんな夢なんだ?」

「気付けば色んな場所に師匠と居るんです。ただ会話して、気付いたら目が覚めている。でも……」

「でも?」

「昨日は、そうじゃなくて」

 そこまで聞いて、何故か嫌な予感がした。それを振り払って、優しく続きを促す。

「その。……師匠に、キスされました」

 キスされた、という言葉に、霊幻の脳裏に夢の内容がありありと蘇ってくる。まさか。そんな馬鹿な。心臓のどくどくと脈を打つ音がやけに大きく聞こえる。

「ええと。ちなみに何処に?」

「鼻と、……くち。もう一度してもいいって言われた所で目が覚めました」

 恥ずかしそうにそう告げる茂夫に、霊幻は足から力が抜けるのを感じ、その場に座り込んでしまった。突然座り込んだ師に、弟子が慌てて椅子から立ち上がりその肩に労るように触れる。

「し、師匠。どうかしましたか?」

「……その夢、見渡す限り、明らかに日本の海ではない海と南国みたいな空しか無かったんじゃないか?」

「どうしてそれを! まさか、師匠の霊能力は他人の夢の内容を把握することも出来るんですか?」

 驚きの声を上げる茂夫に、霊幻は片手で顔を覆いながら言った。

「いや、そうじゃなくてだな。……その夢は俺も見た」

「え?」

「どうやら、全く同じ夢を見ていたらしいな」

「……師匠も、同じ夢を? それは、どういうことですか?」

 意味が分からない様子の弟子に、長い息を吐くと、観念したように告げる。

「俺も、お前にキスする夢を見た」

 茂夫が目を見開く。呆気にとられた顔とはまさにこのようなものだ。二人の間に微妙な沈黙が流れる。なんともいたたまれない。精神分析学者であったフロイトによる、夢とは抑圧された願望の充足手段だという説が霊幻の頭を過る。それを振り払って茂夫の肩を両手で掴んだ。

「モブ、よく聞け。いいか、それはただの夢だ。現実じゃない。俺は中学生にキスしたりはしない。お前の師匠はそんなことをするような人間か?」

「……じゃあなんで、夢ではしたんですか」

 茂夫が俯いて問う。声が冷たい気がするが多分気のせいだ。

「そ、それはだな。夢だと思ってたし、ちょっとした悪戯心というか……ともかくそれは現実じゃないんだ」

「夢は、人の願望が現れるって聞いたことがあって。だから、僕は、師匠にキスされたいって思ってたのかって。朝からずっと考えてるのにわからなくて。なのにあんたは悪戯とか言うし」

 段々早口になっていく切羽詰まった茂夫の声を聞いて、これは不味いと思う。霊幻はその背を優しくあやすように叩いた。

「モ~ブ、落ち着け。いいか、深呼吸だ。吸って、そう。ゆっくり吐いて。……どうだ?」

「……少し、落ち着いた」

 促されるまま幾度か深呼吸をする弟子に尋ねると、彼は小さく頷いて顔を上げる。その目を見ながら、続けた。

「良し。じゃあ俺の言葉が聞けるな? 状況を把握しよう。何が起こったのかはわからないが、俺とお前の夢が繋がっていた可能性がある。前の夢を覚えてるか、モブ」

「はい。宇宙の、燃え盛る太陽の前にいました。けど全く熱さは感じなくて」

「せっかくだから記念に触っとけって言ったよな」

「ええ。師匠、はしゃいでましたよね。天体が好きなんですか?」

「一度は憧れるだろ、宇宙には。……確認だが、俺が出てくる夢を見たのは何日前だ?」

 尋ねると、茂夫は少し考え込んで答える。

「一週間前です」

「俺がお前の夢を見始めた頃と一致する。つまり俺たちは、最初から夢を共有していたってことだ」

「そんなことが……どうして」

「どうしてかはわからん。が、しかし、お前には一つ謝らねえとな」

 霊幻は後ろ頭を乱雑に掻いてから、茂夫を見た。しごく真面目な顔をする師に、弟子も無意識に背を伸ばして姿勢を改める。

「夢の中とはいえ、キスなんかしてすまなかった」

「え……」

「あの時の反応から見るに初めてだったんだろ? 夢とはいえ、初めてのキスが好きなヤツじゃなくてこんなおじさんだったのは相当なショックだろう。今日、一日中悩んでいたんだろう? しかも俺はお前の師匠だ。教え導く立場にある者のすることじゃない」

 そこで、頭を下げて「悪かった」と伝え、罵られる覚悟で相手の言葉を待つ。少しの沈黙の後、茂夫が口を開いた。

「……師匠は、僕にキスがしたかったんですか?」

「いや、それは……」

「答えてください。あんたにそういう願望があったってことか?」

「モブ。あれはなんというか、夢だと思って気が抜けていたというか」

「霊幻新隆」

 落ち着いた声でフルネームを呼ばれて、霊幻はぐっと押し黙った。弟子にキスしたいという願望があったかと言われれば、無いと言える。茂夫のことは、親が子に愛情を掛けるような目線で見ているつもりだ。ならばそう言えば良い。けれど、ただ一つの感情がそれを躊躇わせた。

 触れたい、と思ったのだ。

 あの瞬間、霊幻は茂夫に触れたいと思った。

 それがどうしてなのか、今も分からずに居る。

「正直な所、願望があったかどうかはわからない。ただ」

 そこで躊躇して言葉を区切った。自然と視線を外した師を、弟子は黙って見ている。その瞳の前では、一切の嘘が禁じられているように感じて、霊幻は偽り無く言葉にした。

「触れたいと、思ったのは事実だよ」

「……わかりました」

 茂夫が立ち上がる。

 ああ、こりゃ軽蔑されたかな。明日からもう来ねえかもしれねえな。そんなことを考えながらも視線を上げられずに居ると、上から声が降ってくる。

「悩んでいたのは、嫌だと思わなかったからです」

 茂夫の両手が霊幻の頬を包み、顔を上げろと促すような力が掛かった。逆らわずに顔を上げると、その顔が至近距離にある。軽く唇同士が重なり、すぐに離れた。頬を赤くした茂夫の姿から目が離せない。

「……どうして、嫌じゃないんだろ」

 そう言って、彼はぱっと手を離した。霊幻に背を向けて、小さな声で「帰ります」と言って事務所を出て行く。それを呆然と見送りながら、夢の中での茂夫の言葉を思い出した。

『子どもと侮っても痛い目を見るって言いますよね』

 確かにその通りだ。両手で顔を覆って、「あー」と意味の無い声を漏らす。追いかけて、抱きしめてやりたい。そんな思いを振り払うように、両頬を叩いた。

 しっかりしろ霊幻新隆。いくらモテないからって中学生に手を出すようになっては終わりだ。相手は大人が守ってやるべき未成年だぞ。

 そこまで考えて勢い良く立ち上がる。

「……今日はもう閉めるか」

 そう、霊幻は力ない声で呟いた。

「師匠。僕、考えてみたんです。どうしてあんたとのキスが嫌じゃなかったか」

 その日の夢でも、二人は出会った。恐らく茂夫の通う中学校であろう。教室の椅子に座って窓の外の誰もいない校庭を眺める霊幻に向かって、すぐ傍に立った茂夫が言った。

「僕は、霊幻師匠が好きなのかもしれない」

 それはある程度予測されていた言葉だ。だから努めて冷静に返した。

「相手は一回り以上年の離れたおじさんだぞ」

「そうですね。師匠はおじさんですけど、年齢は関係ないと思います」

「傍に居る大人がやたらと格好良く見える時期じゃないのか?」

「師匠って自分のことカッコいいと思ってるんですね。意外です」

「お前、それじゃあ俺がナルシストみたいじゃ……」

 茂夫の言葉に呆れてそちらに顔を向けると、彼はなにやら嬉しそうな表情をしている。僅かに目を細め、口元が優しい弧を描く様。それを不覚にも可愛らしいと思ってしまった霊幻は、思わず自分の頬を叩いた。

「何してるんですか?」

「いや、なんでも」

 首を傾げる茂夫にそう告げて顔の前で手を振る。するとその手を両手で掴まれた。じっと目を見つめられる。

「師匠、好きです」

 ことさら幸せそうな顔をして、目の前の子どもは言い切った。それは気の迷いだと諭すには、あまりに愛情に溢れた温かな声。こんな声で好きと言われて、無下に出来る奴はいるのだろうか。

 黙り込んでしまった霊幻を気にすることもなく、茂夫はただ伝えられたことが嬉しいと言わんばかりの様子だ。それで良いのかお前と突っ込みたくなるが、そんなことをすれば薮蛇であろう。

 伝えるだけで満足してくれるのであれば、こちらは何のアクションも取らずに済むのだし。

 そう考えて、空いた手でもう一度自らの頬を打った。良い年をした大人が中学生に甘えてどうするというのだ。

 霊幻の片手を握ったまま、吃驚したと言わんばかりの顔をする茂夫の名を呼ぶ。

「モブ。俺もお前のことは好きだよ」

 彼の表情が、ぱっと喜びの色に染まる。その鮮やかさを曇らせると分かっていても、伝えなければならない。

「けど、それは、例えるなら親が子に向けるような愛情だと思っている」

「親が、子に」

「そうだ。出来ることなら、お前が中学を卒業して、高校に通って、大学に入学して、成人式を迎えるまでを見守れたらと思う」

 静かな声で告げると、茂夫の表情が曇る……かと思っていた。しかし目の前の子どもは、霊幻の言葉にもめげる様子もなく、むしろ笑顔を見せた。

「嬉しいな。師匠は僕が大人になるまで、傍に居てくれるんですね」

「え。……いや。そりゃまあ、お前が良いなら」

「なら、それがいいです」

「そうか。いいのか。……そうか」

 予測から外れた言葉に、何故か霊幻の胸がちくりと痛む。まさか、自分は茂夫に落ち込んで欲しかったのだろうか。何故、振った側の霊幻が傷付いて、振られた側の茂夫が喜んでいるのだろう。そこに矛盾したものを感じる。

「これからもよろしくお願いします。師匠」

 けれど、その矛盾も、弟子の嬉しそうな顔の前には吹き飛んでしまう。思っていたものとは違う展開になったが、これはこれで良いのかもしれない。今までと同じように、これからも、霊幻は茂夫の師匠という立ち位置に存在出来るのだ。それは幸せなことだろう。

 一つ息を吐いてから、霊幻も笑った。

「ああ。よろしくな、モブ」

 そこで、夢は終わりを迎える。

 以後、翌週になっても、翌々週になっても、霊幻と茂夫の夢が重なることは無かった。

 あれから一ヶ月たった。

 二人は、夢が重なる前と変わらぬ日常を過ごしている。

 唯一変わったことと言えば、茂夫が時折思い出したように「好きです」と告げることだ。霊幻は、それに表情を変えることなく、時には作業をしながら、「俺も好きだぞ」と返す。

 二人のやり取りは、日常の挨拶のように生活に溶け込んで、いつしか本物の愛になるのかもしれない。

 しかしそれは、現時点では有り得るかもしれない未来の形の一つだ。

 

2016/09/03

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