放課後の学校。廊下を歩きながら外を見る。つい先程まで晴れていた空はみるみるうちに厚く暗い雲に覆われ、空気がずんと重くなり、大粒の雨が我先にと地面を叩く音を響かせている。予報通りの急な雨だ。折り畳み傘を持ってきて正解だったなと思いながら、昇降口の前を通り過ぎる。その時、律の視界に見慣れた背中が見えた。立ち止まり、そちらに顔を向ける。そこには、兄である茂夫の後ろ姿。軒下でただ立ち尽くす彼に、傘を忘れてきてしまったのだろうとすぐに推測出来た。手に持っていた鞄から、紺色の折り畳み傘を取り出す。
「兄さん」
「あ、律」
息を吸って呼びかけると、茂夫が振り向く。律を見つけてはにかんだ。
「傘、忘れたんでしょ」
「うん。よく分かったね」
「見れば分かるよ。はいこれ」
持ってきた折り畳み傘を兄に差し出す。
「え?」
戸惑う彼の胸元に傘を押し付けると、やっと受け取ってくれる。
「使っていいよ。僕は先生に呼ばれてるから、行くね」
「あ。……律!」
名を呼ばれて、振り向いて首を傾げる。
「これは律の傘でしょ」
「うん。でも使っていいよ」
「律は濡れて帰るつもり? 駄目だよ」
頑固者。そんな言葉が頭に浮かんで、自分もかと思い至る。律は傘を胸に押し付けてくる兄に笑いかけた。
「大丈夫。職員室で傘を借りるから」
「……本当?」
「うん」
素直に頷くと、彼は少し思案したのち傘を持つ手を下ろした。分かってくれたのだろう。「じゃあね」と言って背を向けると、再び言葉が掛けられた。
「律。その、たまには一緒に帰ろう。ここで待ってるから」
「……そんなに信用ない?」
苦笑を浮かべて問えば、兄は慌てたように顔を左右に振って、ほんの少し頬を染めて答えた。
「今日は真っ直ぐ家に帰るからと思って。でも、律が嫌なら一人で帰るよ」
茂夫の言葉に、今度は律が慌てる番だ。
「そんな訳ないじゃないか! ……分かった。出来るだけ早く戻ってくるから」
早口に告げて今度こそ兄に背を向け、足早に職員室への道を歩く。
「うん。待ってるね」
その背に、嬉しげな茂夫の声。それがなんだかむず痒くて、少し笑った。
弟の背を見送って、茂夫はざあざあと雨の降る外の世界へと再び目を向けた。厚い雲の向こうからは、時折低く腹に響く音が鳴っている。弾ける雨粒で空気は湿り気を帯び、僅かな水の匂いを含んでいた。雨の日は、嫌いではない。水はすべての音を飲み込み、世界を閉ざす。それはまるで母の胎内に居るような安心感を与えてくれるから。
「モブくん?」
ぼんやりと外を眺めていると、華やかな声がした。名を呼ばれてようやく他人の存在に気付く。見ると、隣に赤い傘と鞄を持った可憐な少女が立っている。
「つ、ツボミ……ちゃん」
「ええ、モブくんは何してるの? 傘……はあるみたいね」
手元を見て首をかしげる様はなんとも愛らしい。ぽわりと頬を染めて可愛いなぁんて思っていたせいで、茂夫は反応が遅れた。すっとツボミの手が伸びてきて、人差し指が茂夫の額を弾く。
「わっ!」
「別にモブくんに構わず帰ってもいいのだけど」
その言葉に、ようやく彼女の求めた答えを返した。
「この傘は、弟ので。僕は、弟を待ってるんだ」
「一緒に帰るの? 仲がいいんだね」
憧れのツボミに話しかけられただけでなく、兄弟仲を褒められて、茂夫は嬉しくなった。胸がほかほかと温かくなるのを感じる。無言で頷くと、彼女は花のような笑顔で笑いかけてくれた。そして、一言。
「あまり弟くんに迷惑かけちゃ駄目よ?」
その言葉の意味がわからず、ぽかんとしてしまう。そんな茂夫の目の前で、ツボミは傘を広げた。どんよりとした空に、鮮やかな赤が花咲く。
「お先に」
そう言って彼女は雨の中に一歩踏み出す。雨粒が傘に当たって弾ける音。それが遠ざかるのを聞きながら、先程のツボミの言葉を思い出す。迷惑。自分は律に迷惑を掛けているのだろうか。確かに、律に比べて茂夫は鈍臭い。運動も勉強もできないし、コミュニケーションも苦手だ。そう言えば昔、車に酔って律の着ていたパーカーのフードに吐いたことがある。あれは確かに迷惑だったはずだ。あの時は悪いことをした。けれど、どうしてそれを迷惑を掛けたと思わなかったのだろう。茂夫はこてんと首を傾げて考えた。考えて、考えて、様々なことが頭を過ぎり、意外と律には迷惑を掛けているのではと思い至って、ほんの少し……いや、かなり凹んだ。気持ちが沈むと、先程まで安心感を覚えていた雨降る世界が急にとても冷たく感じる。ざあざあと降りしきる雨の中に一人きりで、何故か胸がちくちくとした。それが寂しさであるとこに茂夫は気付かない。暫く胸元を押さえていたが、小さな痛みは消えなかった。まあいいか。そう思って手を下ろし、また雨空を見上げる。そこへ、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「兄さん! 待たせてごめん」
「律。早かったね」
弟が下駄箱で上履きから外履きに履き替えるのを見ながらのんびり言う。
「大した用事じゃなかったから。待っててくれてありがとう」
靴を履き替えた律の手には透明なビニール傘。無事に傘を借りられたのだろう。
「帰ろうか」
「うん」
二つの傘が開き、その役割を果たすように、歩く二人を雨から守る。
「久し振りだね、二人で帰るのは」
「律は生徒会があるからね」
「兄さんも、あの胡散臭い事務所のバイトがあるし」
「師匠は悪い人じゃないよ」
「本当かなぁ」
雨音に負けないように自然と声が大きくなる。たわいない会話をしながら歩く道は、思いの外楽しかった。でも、もしかしたら楽しいのは自分だけかもしれない。茂夫は不意にそう思い、弟の顔を見る。
「どうかした?」
「うん、楽しいなって思って」
「僕も兄さんと話すのは楽しいよ」
そう言って、律は温かく笑った。茂夫の胸をちくちくとさせていたものが、するりと溶けてしまうくらいの、優しい笑顔。それは、何時だって律が茂夫に向けてくれるものだ。一寸先の闇を照らしてくれるものだ。無意識に胸元を押さえると、それに気付いた弟が「具合悪いの?」と心配そうに尋ねてくる。それにぶんぶんと頭を振って、律の目を見る。言葉は自然と零れ落ちた。
「律は、僕の自慢の弟だよ」
ぴたり、と弟の歩みが止まる。茂夫も同じように足を止めた。律は僅かに頬を赤くしている。
「どうしたの、いきなり」
「うん。律が弟で、家族で、僕は幸せだなって思ったんだ」
「……兄さん。そんなの……」
ごうっ、と強い横殴りの風が吹いた。雨粒が制服を濡らし、顔にまで飛んでくる。弟の言葉はそれに遮られて聞こえなかった。けれど、何か返答が欲しくて言った訳でもなかったので、気にせず話を変える。
「これだけ強い風が吹くと、傘は役に立たないね」
「無いよりはマシでしょ」
「うん、でも早く帰ろう」
そう言って茂夫は再び歩みを再開する。律はほんの少しその場に立ち止まり、やがて小走りに兄の隣に並んだ。
「兄さんも、僕の自慢の兄さんだよ」
その言葉を聞いて弟に視線を向ける。彼はまた、優しい笑みを浮かべていた。それを見て、ああそうかと思う。律は何も誇る所がないであろう兄をそのままに肯定してくれる。鈍臭くて、体力も学力もない、人付き合いも下手な自分をそのままに認めてくれている。だから茂夫は、律に迷惑を掛けていると思うことがなかったのだ。思い当たるととても恥ずかしい。まるで自分が弟のようではないかと思った。それでも、彼は茂夫を兄と呼ぶ。それが嬉しくて。
「……ありがとう、律」
心の底から、笑みを浮かべた。