遠い許し

 

side:我妻善逸

 

 それは、朝日が昇るほんの少し前。空がわずかに白み出した早朝のこと。

 蝶屋敷の一室で、我妻善逸は誰かの声に意識を浮上させた。

 寝起きのぼんやりとした頭は、まだ薄闇に閉ざされた時間に目が覚めた事で、上手く現状を認識することが出来ない。部屋の天井に眠たげな視線を彷徨わせていると、また、声がした。

「……っめん」

 聞いているこちらが苦しくなるような響きに、ふわふわとしていた意識がすっと覚醒する。声のした方を見ると、ベッドに横になっているのは既に馴染みの顔となった竈門炭治郎だ。だが、その顔は熱に浮かされる幼子のように苦しげである。目尻に溜まった涙一粒が、あ、と思う間も無くこぼれ落ちた。

「……ごめんな」

 掠れた小さなつぶやきを、耳の良い善逸はしっかりと聞き取った。誰に謝っているのだろうか。そう思って、すぐに彼から聞いた話を思い出した。

 鬼に、家族を殺されたのだという。唯一生き残った妹の禰豆子は、鬼にされてしまった。そしてその時、炭治郎は皆の側にいなかったのだと。

 そう話した時の炭治郎からは、強い後悔の音がしたのを、善逸は鮮明に覚えている。その音に当てられて泣きそうになったからだ。本人が泣かないのに自分が泣くわけにはいかないと、その時の善逸はぐっと涙を堪えたが、多分バレていただろう。

「善逸は優しいな」

 感謝と、ほんの少しの寂しさを乗せた瞳で笑う炭治郎が、随分と大人びて見えることが寂しかった。

 あの時、炭治郎がその場にいたからといって、何か出来た訳ではないことは本人が一番よく理解しているだろう。けれども、家族が死ぬような目にあっている時に、家族として側にいてやれなかったことを、彼は今も悔やみ続けているのだ。未だ、夢に見るほどに。

 どうにかしてやりたい。

 しかし、部外者の自分が口を出せる問題でもない。

 まだ自由に動けない善逸は、自分のベッドの上から彼の名を呼んだ。

「炭治郎」

 優しく、繊細に、眠りから目覚めさせることのないように。

「……炭治郎」

 眠る彼の、掛け布団を強く握りしめる手が緩んだ。

 ゆっくりと、何度か名前を呼んでやると、ふっと炭治郎の表情が和らぐ。彼から聞こえるのは、温かく穏やかな音。

 それを聞いて、善逸は心から安堵して笑った。

 この少年は、これからもまっすぐに前を向いて走り続けるのだろう。

 何があっても、諦めたりはしないのだろう。

 そんな炭治郎の道のりには、自分とは比べものにならないくらいの困難が待ち受けているのだろう。

 ならばせめて、その眠りの時は安らかであればいい。

 そう、我妻善逸は思うのだ。

 

side:竈門炭治郎

 

 ベッドで眠る我妻善逸は、悪夢を見ているようだった。

 竈門炭治郎がそれに気付いたのは、たまたま目が覚めたからであり、悪夢を見ているであろう善逸の声に起こされた訳ではない。なにせ、眠る彼は声を漏らしていなかった。だから、途中覚醒したのが、鼻の良い炭治郎でなければ気付かなかっただろう。

 悲しみと苦しみ、自己否定にあふれた匂いに目をやれば、ベッドに眠る善逸は背を丸めている。その顔は蒼白で、辛そうに眉を寄せていた。額にはうっすら汗が浮かんでいる。

 どんな夢にうなされているのだろう。いつも騒がしい彼が、声も出さない姿を、炭治郎は辛いと感じた。

 善逸が、その内に大きな悩みと辛さを抱えているのは、匂いでわかっている。

 以前、世間話で炭治郎の育手の話になった時に、善逸も自身の育手とのやり取りを賑やかに話した。あまりにも感情豊かに話すものだから、「いつか会ってみたいな」と何気なく言えば、善逸から一瞬さみしい匂いがしたのだ。それから、満面の笑みで「炭治郎なら、きっと気に入られるぜ」と返された。

 うまく言葉に表現できぬ、強い感情の匂いと笑顔は、まるで踏み入ることを拒むようで。

 だから、炭治郎は意識的に聞き出すことをやめた。

 本人が隠したがっていることを暴くような趣味は持ち合わせていない。それに、もっと仲が深まれば、自然と話してくれることも増えていくだろうと思ったからだ。

 だから、彼がどんな夢を見ているのかは想像もつかない。

 炭治郎は自身のベッドから降りると、眠る善逸の枕元に立った。額の汗を、布でそっと拭ってやっても、彼は目を覚ます気配がない。起こしてやろうかとも考えた。が、悪夢から目覚めた善逸はきっと、何事もなかったかのように無理をして笑うだろう。そんな風に振る舞う彼を見たくはなくて、でも、悪夢からは解放してやりたくて、炭治郎は思案ののち、腰をかがめて善逸の名前を呼んだ。

「善逸」

 眠る幼子に対するように、できる限り優しく、その眠りを妨げぬように注意を払いながら。

「善逸……」

 二度目の呼びかけで、眠る彼の眉間に寄った皺が和らいだ。それから何度か、ただ名前を呼ぶ。その度に、善逸の緊張した体から力が抜けていく。苦しみの匂いは薄くなり、やがてしなくなった。それを確認して、炭治郎はほっと息を吐く。

 穏やかな寝息を立て始めた彼を見て、口元が自然と微笑みを形作った。

 本人は否定するだろうが、善逸は強い。炭治郎が手助けをしなくても、乗り越えなければならないことはきちんと乗り越えていくだろう。いつか、悪夢の要因とも決着を付けられると確信している。

 それでも、せっかく繋がりを持てたのだから、その道行を照らす灯の一つとなるくらいの助けにはなりたい。

 そう、竈門炭治郎は思うのだ。

 

2019/06/19

web拍手 by FC2

Return|→