「え? 善逸を怒らせたかもしれない、ですか?」
唐突に訪れた兄弟子である冨岡義勇に「蕎麦を食べにいく」と連れ出された先の蕎麦屋で、神妙な顔をして相談があると言われ、その言葉を告げられた炭治郎は、きょとんとした顔で首を傾げた。善逸とは今朝方顔を合わせたが、特に変わった様子はなかったように思う。
「善逸を怒らせるような何かをしてしまったんですか?」
「……手を、握った」
「それで、どうして善逸が冨岡さんに怒りを覚えるのかわからないんですが」
問いかけの答えを聞いても、そんなことで善逸が彼に怒るとは思えない。むしろ、好いている人に触れてもらえるのは嬉しかったのではないだろうかと炭治郎は思う。以前、「俺も何が何だかよくわかんねえんだけどさ、水柱ーー冨岡さんとお付き合いすることになった」と気恥ずかしそうに頬を染めながら告げてきた善逸のことを思い出す。それは幸せそうな匂いがしたのでよく覚えている。
兄弟子は炭治郎の問いに黙って首を振った。とても困惑しているのがわかる。弟弟子としてなんとかしてやりたいと思った。
「手を握ったとき、善逸は何か言っていましたか?」
「叫び声を上げて、それから去った。それ以来会えていない」
「うーん、よくわからないな」
「怒らせたなら、謝りたい。が、避けられている」
匂いに敏感な炭治郎でさえ、普段何を考えているのかいまいちわからない時がある義勇だが、今はまるで捨てられることを恐れた子どものようだ。彼が本気で善逸を捕まえる気なら、とっくにそうできているはずなのに、それをしないのは恐らく拒否されることが怖いのだろう。
「なるほど、冨岡さんは善逸に嫌われるのが怖いんですね」
炭治郎にとって、善逸は大切な友人だ。そして義勇には返しきれない恩義もある。はてさてどうしたものかと考えて、炭治郎は一つの提案をした。
「こういうのは本人に直接聞いた方が早いです。まず俺が善逸を捕まえるので、冨岡さんからきちんと理由を尋ねてやってください」
その言葉に、義勇は一瞬戸惑いを見せたものの、素直に頷く。ちょうどそこへ、頼んでいた蕎麦が運ばれてきた。
「じゃあ、この蕎麦を食べ終えたら、善逸を探しに行きましょう!」
「ああ」
そうして二人は、あっという間に蕎麦を平らげ、連れ立って善逸を探しに出掛けた。
「金の髪して黄色い羽織りを着た小僧なら、町外れにある花畑に向かったぞ」
「ありがとうございます! 冨岡さん、善逸は耳がいいから、少しだけ遅れて来てもらってもいいですか。大丈夫、きちんと捕まえておきますから!」
善逸は目立つ見た目をしている為か、行く先は程なく掴むことができた。町人に礼を言った炭治郎が、そのまま義勇に向き直って話す。それに頷いて、義勇は駆け出す弟弟子の背中を見送った。
遅れて来いと言われたが、特にすることもない義勇は、その場でぼんやりと空を見上げた。
思い出すのは善逸の手を握った時のことだ。
楽しそうに話をしながら隣を歩いていた善逸の手が、たまたま義勇の手と触れ合った。それはほんの一瞬だったが、何故かどうにも離れがたい気持ちになり、追い縋るようにその手を繋ぎ止めてしまった。義勇と同じく刀を振るう彼の手は、柔らかとは言えない。だが、温かくて幸せな気分になった。だから、もう少しそのままでいたくて、しっかりと握った。
一方の手を繋がれた善逸は、ピタッと動きを止めてしまう。それから五秒後。
「ぎゃーーーーっ!?」
唐突に大きな声をあげたので、何かあったのかと驚いて握った手の力を緩めてしまう。善逸の手はすぐに義勇の手を抜け出し、彼はそのまま逃げるように走り去ってしまった。
それから、善逸は明らかに義勇を避けている。
今思い出しても、義勇には何が悪かったのか分からない。
「……そろそろか」
いくら考えても分からないのであれば、炭治郎の言う通り本人に聞くしかないだろう。義勇は町外れにあるという花畑に向かった。
義勇の視界に花畑が見えてきた頃、善逸と炭治郎の元気な声が聞こえてきた。
「だから俺ちょっと用があるって言ってんじゃん!」
「そうやって物事から逃げるのは良くないぞ、善逸!」
「炭治郎は全然人の話聞かない時あるよね!?」
どうやらこの場を去ろうとしている善逸を、炭治郎が捕まえて引き止めているらしい。義勇は、そんなにまで自分に会いたくないのかとショックを受けると同時に、久しぶりに聞く善逸の声に心が温かくなるのを感じた。
ーー嫌われてしまうのは嫌だが、やはり、今の状態のままでいるのは耐え難い。
そう思って、義勇は心を決める。
「我妻」
足早に近付きながら彼の名を呼ぶと、こちらに背を向けていた善逸の肩がびくりと大げさに揺れる。
「話がしたい」
「……」
義勇の言葉に対する返答はない。だが、逃げることは諦めたようだ。それを察知した炭治郎が掴んでいた善逸の腕を離す。
「善逸。冨岡さんと、ちゃんと話をするんだぞ」
炭治郎はそう言って、義勇の方へ歩いてくる。
「冨岡さん、善逸をよろしくお願いします」
義勇の前で一度立ち止まり軽く頭を下げた彼は、その場を辞した。
二人だけになった花畑には、時折吹く風に揺れる草花の音だけが響く。
「……炭治郎って、ホントいい奴ですよね」
ぽつりと、善逸が呟く。それに対して、「ああ、そうだな」と返事をしてから、義勇は本題を切り出した。
「俺は、どうして避けられている。なにか怒らせてしまったなら、謝りたい。だから、理由を教えて欲しい」
真剣な声で問うと、善逸は俯いて何かをぼそぼそと口にした。
「…………た、から」
だが、声が小さすぎてなにを言っているのかが聞き取れない。義勇は聴き漏らさぬようにしようと、善逸のすぐそばまで歩み寄った。
「すまない、上手く聞き取れなかった」
「ーー笑わない?」
「ああ」
「びっくり、したんです。……俺、女の子と付き合ったことあるけど、手を繋いだことなんて初めてで。なんか、胸のこの辺がギュってして苦しくて、でも幸せで、俺、死ぬんじゃないかって。でも、このまま死ぬなら幸せだなって思えて。なんか、いろんな感情がぐるぐるして、訳が分からなくなって」
善逸は、義勇に背を向けたままで、胸元を握りしめながらたどたどしく話す。
「逃げちゃって、ごめんなさい。怒ってなんていません。ただ、あれから俺、どうしていいか分からなくて。今だって、冨岡さんの顔、ちゃんと見れないし」
そこまで聞き、善逸の真っ赤になった耳元を見て、義勇は心の底から安堵の息を吐いた。
「……良かった」
「え? ーーっわ!?」
小さく呟いて、体の力が抜けたように善逸の肩に額をつける。驚く善逸の声が、耳元で聞こえた。
「とみ、おかさん?」
善逸が肩口の義勇を窺うようにちらりと見る。
「嫌われてしまうのかと思っていた」
義勇が本心を吐露すれば、彼は慌てて否定し、俯いた。
「そんなこと! ……すみません。俺が冨岡さんから逃げてたからですよね」
「いや、いい。違うとわかった」
善逸の肩に額をつけたまま、義勇は軽く頭を振る。それから、そのままの状態で言った。
「それより、我妻。顔を見たい、構わないか」
「え、う。ただ俺、今きっとひどい顔してーー」
「……頼む、善逸」
「ッ! ……うん」
小さく返された肯定を聞いて、義勇は顔を上げた。それから、善逸の肩に手を添えてこちらを向かせる。俯いたままの善逸の旋毛を見ながら、そっと彼の頬に手を滑らせた。軽く顎を押し上げる動作で促せば、ゆっくりとその面が上がる。
まるで紅を差したような頬と、引き結んだ口元。今にも泣き出しそうに潤んだ琥珀の瞳が、恥じらいのあまりにまっすぐ見上げることが出来ないのか、上目で義勇の表情を窺うように見つめてくる。
くらりと、義勇は抗えぬ目眩を覚えた。訳も分からず善逸を抱きしめたいと強く思う。だがそんな事をすれば、彼はまた逃げてしまうかもしれない。思わず善逸の肩を掴む手に力が篭った。
「冨岡、さん?」
義勇の様子がおかしい事を察した善逸が、片手を伸ばして頬に触れてきた。鼓動が高鳴り、触れられた部分が熱を持ったような気がする。
気が付けば、義勇は己の頬に触れている善逸の手に、自身の片手を重ねていた。義勇の中に、言葉にできぬ幸福感が広がる。
「善逸」
彼の名を口にすれば、それはより義勇の中で強まった。自然と口元が緩み。
「好きだ」
心からの言葉が音を伴った。
善逸の肩を掴む手に、強い力が込められた。目の前の義勇の表情にそう変わったところはない。だが、彼から聞こえてくる音がどこか苦しげで、善逸は思わずその手を伸ばした。
名を呼んで、頬に触れる。触れた箇所から伝わる熱がほんの少しこそばゆく感じ、不思議と胸が高鳴った。
不意に、肩を掴む義勇の手の力が弱まる。善逸の顎先に触れていた彼の手が動き、頬に触れている善逸の手に重ねられる。
「善逸」
愛しいと言わんばかりの声で名を呼ばれた。義勇がどこか甘えるような仕草で、片手でしっかりと捉えた善逸の掌に頬を擦り付ける。そうして、幸せそうに目を細め、口元を綻ばせた。
「好きだ」
その飾り気のない素直な言葉は、あまりに純粋で、余計な感情を覚える間も無く善逸の中にすとんと落ちてくる。
善逸の目には、目の前の青年がキラキラと光っているように見えた。なんて綺麗で眩しいんだろうと思う。
「俺もーーすき」
思いの丈を込めた言葉は、拙いながらも自然と溢れ出た。
善逸の返答を聞いた義勇が、一度目を閉じる。ふっと力が抜けるような息を吐く音がした後、再び目を開いて、まっすぐに善逸を見つめてきた。
「善逸が嫌なことは、しない。だから、教えてほしい。善逸の思っていることを」
その言葉の後、義勇は両手を下ろした。そうして、目前の善逸の答えを待っている。義勇からは、ほんの少しだけ怖がっているような音がした。
それを聞いた瞬間、善逸は堪らなくなって感情のままに告げた。
「嫌じゃない」
義勇の頬に触れていた手を下ろし、自らの胸元に当てて、義勇から視線を逸らさぬまま善逸は続ける。
「手を繋ぐのも、触れられるのも、嫌じゃない。むしろ、嬉しい、んだと思う。……ただ、幸せすぎて苦しくなるんだ。うん、でも。そうじゃなくて」
そこで、善逸は一度言葉を区切った。心臓の音がやけに大きく感じて、善逸は、深呼吸するように息を大きく吸い込んだ。
「義勇さん。ーー手を、繋いでもいいですか」
まともに発音出来ないのではないかと懸念していた彼の名は、すんなりと善逸の口から滑り出た。緊張しながら右手を前に差し出すと、目の前の義勇からとんでもなく幸せだと言わんばかりの音が聞こえてくる。足元の花畑だけでなく、彼の周りも花が咲き乱れているような気さえした。
「……ああ」
短く了承した義勇が、右手を差し出して善逸の手を握る。彼はなんだか満足そうな顔をしているが、これではただの握手である。それが可笑しくて、善逸は吹き出してしまった。そのお陰か、体から力が抜ける。
「これでもいいんですけど、出来れば……こっち」
善逸の右手を握っている義勇の手を、左手で優しく解いて、引いた。そうして、善逸は義勇の右隣に移動しながらその腕に手を回す。それから、互いの指を絡めて、握った。
「の、方が、恋仲っぽいかな……なんて」
自分で言っておきながら恥ずかしくなった善逸が、顔を赤くして俯く。そんな善逸の手を、義勇はしっかりと握り返してくれた。ちらりと視線だけで義勇を伺うと、彼はほんの少し顔を逸らし、左手で口元を覆っている。その耳が、僅かに赤くなっていた。
善逸の耳に聞こえるのは、狂おしい程に愛おしい鼓動の音。
己の鼓動と義勇の鼓動が混ざり合って、溶けて一つになってしまいそうだと善逸は思った。
幸せを凝縮したかのような時間に甘えて、義勇の腕に額を摺り寄せる。
「……後で、炭治郎に礼をしに行く」
「なら、俺も一緒に行きます。禰豆子ちゃんにお花も摘んでいきましょう。ーーでも、あと、ちょっとだけ」
「ああ。もう少し、善逸と二人で居たい」
義勇の左手が、善逸の頬を優しく撫でる。その擽ったさに、善逸は幸せに溺れ死んでしまいそうだと思いながら笑った。