打倒・鬼舞辻無惨は、鬼殺隊の悲願であった。
正直なところ、俺にはその悲願自体に深い思い入れは無い。たまたま育手であったじいちゃんに拾われて、そのままの流れで鬼殺隊に入っただけだったからだ。もちろん、鬼を生み出す首魁は討ち取らねばならないということはわかっていた。基本的に鬼は人を食わねば生きていけない。つまり、鬼が居るだけで沢山の人間の命が犠牲になる。そんなことは、許されていい訳がないからだ。
そう、理解してはいたが、実際に俺がここまで動けたのはもっと目の前の問題があったからだ。鬼になった兄弟子を止めなければ。一緒に飯を食った仲間が殺されるのを黙って見ていることは出来ない。そんな、大義もなにも無い衝動に任せた行動であった。
だから、炭治郎が鬼になったとき、俺はそれを受け止めきれずに、やめろと情けを乞うことしかできなかった。伊之助だってそうだ。だって、俺たちのとって炭治郎は本当に大事な仲間、いや、もう家族みたいなものなんだから。
俺たちが現状を理解することを拒む中で、炭治郎が鬼となったと理解した瞬間に彼を殺す決断をした人が居た。
冨岡義勇。彼は炭治郎の兄弟子で、炭治郎と禰豆子ちゃんを最初に信じた人だった。
「冨岡さんは、少し言葉が少ないけど、とても優しい人なんだ」
そう、優しい声で口にした炭治郎に教えてもらった彼のことは、よく覚えている。だから、戦いの中で目にしてすぐに、この人が冨岡さんだとわかった。
けれど、あの混乱の最中で、瞬時に炭治郎を殺す決断を出来る人間が、本当に優しいのだろうか。俺はほんの少し怖いと思った。
だからだろう。戦いの後、蝶屋敷で療養中に、偶然出会った冨岡さんにあんなことを言ってしまったのは。
温かな日差しが心地よい蝶屋敷の縁側で、厨からくすねた豆大福の包み紙を開けようとしていた所に、冨岡さんが通りかかった。
「げ」
「……何だ」
その顔を見て思わず発した声を聞き取った彼が、こちらを見る。きれいな海色の瞳は、同時に冷ややかさも感じさせて、俺の背に冷や汗が流れる。さり気なく豆大福を隠しながら、気を逸らすように言った。
「あ、いや~。えーと。良い天気ですね!」
「ああ」
あまりにも端的な返事に、俺はちょっと笑顔が引きつる。
「と、冨岡さんも日光浴ですか?」
「……なるほど」
俺の問いにそう呟いた冨岡さんは、何かを納得して、何故か俺の隣に腰を下ろした。
えっ、なんで? と内心驚く。
「……」
隣に座った彼は、それから何を口にするでもなく、こちらを見ることもなく、庭を眺めている。音で何を思っているのか理解しようとしても、穏やかな心音が聞こえるだけでよく分からない。
「あの~……冨岡さん?」
名を呼ぶと、冨岡さんはやっと俺を見た。そして、小さく首をかしげる。「なあに?」と言わんばかりのその様は、幼い子どもを思わせて、うっかり「幼児か!」と突っ込みそうになった。
あれ、なんかこの人、戦闘の時と全然印象違う……。
「ええと、そうだ。お礼を言ってませんでした。あの時は助けてくださってありがとうございます」
「何のことだ」
「えっと、鬼になった炭治郎に吹き飛ばされた後……」
なんとなく口にすることが憚られて、ほんの少し言葉尻を濁してしまう。しかし彼には伝わったのか、「お前が気にすることはない」と返された。ほんの少し眉尻を下げた冨岡さんからは何故か僅かに嬉しそうな音がする。喜ばれるようなことを言っただろうか。よくわからず困惑が顔に出る。
「すまない。俺は、言葉が足りないらしい」
そう言って、ふ、と笑うように小さく息を吐いてから、彼が俺の目を見て続ける。
「炭治郎は、良い友人を得たようだと思っていた」
その言葉に、俺はものすごく嬉しいような恥ずかしいような気分になり、口元がにやけた。
「うへへっ。そんな風に言ってもらえると、嬉しいなぁ」
両手でほんのり熱くなった頬を覆おうとして、手に持っていた豆大福がころんと落ちる。
「わっ!?」
地面に落ちるすんでのところで手を伸ばしてキャッチしたが、俺はその体勢のまま固まってしまった。
いやいやいや、この話の流れでそれはないだろ? 俺が厨から豆大福をくすねるような奴だって知られるにしても、今はないだろ!? 若干混乱しながら冨岡さんをちらりと見る。
「……豆大福が好きなのか」
「え!? そこ? いやえっと、そ、そうなんですよー!!」
「大丈夫だ。取らない」
「ええー……」
どうやら彼は、俺が、大好きな豆大福を人に取られたくないために隠していたと思ったらしい。そんな馬鹿な。思わず呆れ混じりの声が出てしまう。
「ーーなんか、冨岡さんって」
豆大福を手にしたまま、体を起こして何気なく続ける。
「もっと、怖い人かと思ってました」
ろくに頭を通さず零れた言葉を反芻する前に、冷たく震えるような寂しい音が聞こえた。それから、短い言葉。
「ーーそうか」
冨岡さんの方を見ると、ほんの少し目を伏せていた。その視線は、俺ではなく庭先に向けられている。彼の音は、自嘲を含んでいて。
「あーー。いや、そうじゃなくて! 冨岡さんってほら、見た目が冷たい感じの美形だから」
「冷たい……」
焦って言葉を足せば、彼がますます落ち込んでいくのがわかって、罪悪感が募る。
「いや、えっと。寡黙な人ってことです!」
「……」
どんより、と口に出しているんじゃないかと思うほど暗い空気を漂わせる冨岡さん。
え、何これ全面的に俺が悪いの? 無性に納得いかなくなって喚く。
「あーもう! そんなに落ち込まなくったっていいじゃないですか! 確かに俺はアンタのことちょっと怖いって思ってますけど!? でもそれは冨岡さんにも非があるとっていうか……その……」
「聞きたい」
叫んでいるうちに冷静になり続きをためらえば、彼が視線を上げ、真っ直ぐに俺の目を見た。その穏やかな海を思わせる瞳に、はぐらかすような言葉が浮かばず、視線を逸らさないまま素直に続ける。
「炭治郎が鬼になったとき、アンタはすぐに炭治郎を殺そうとしたから、怖いって思った」
目の前の人からは、打って変わったように落ち着いた、静かな音。
「あの時は気付かなかったけど、それは炭治郎に人を殺させない為だったんでしょ?」
肯定も否定もしない彼に向けて、思うままに言葉にした。
「それがアンタの優しさなんだってわかる。でも、瞬時にそんな判断が出来るほど冷静なところは、今もちょっと怖いのが俺の本心だよ」
冨岡さんの目を見たまま言い切る。
すると、彼がふわりと自然に笑った。その笑顔は、冨岡さんを幼く見せて。
「ありがとう」
唐突に口にされたお礼の言葉に、俺は目を瞬かせる。
「お前は優しいな」
冨岡さんからは、とても温かで優しい音がする。そして、僅かな恐怖も。
「ーー怖かった。炭治郎が、人食い鬼になってしまうのが。それだけだ」
そう言って、彼は立ち上がった。
「邪魔したな」
「あっ、いえそんな。邪魔だなんて思ってないです!」
俺を見下ろす彼に慌ててそう伝えると、冨岡さんは小さく頷く。
「そうか。ーー往診の時間だ。これで失礼する」
「はい。……あ、あの」
立ち去ろうする背中を呼び止めると、彼が視線をこちらに寄越した。
「あの時の冨岡さんの判断は正しかったと思います。だから、炭治郎が起きたら見舞いに来てやってください。きっと、喜ぶから」
そう言って、冨岡さんに笑顔を向ける。すると、彼は瞬きを繰り返した後、口元を緩めた。
「……ありがとう。善逸」
優しく、ほんの少しだけ寂しい音で、冨岡さんはお礼を言って去って行く。
それを見送って、俺は手元の豆大福に視線を落とした。
「やっぱり、こっそり取るのはよくないよな、うん」
そう思ったのは、あの人の言葉に見合うような人間でいたいと、なんとなく思ったからで。
俺は立ち上がり、怒られるのを覚悟で厨へと向かった。
後日。炭治郎の見舞いに訪れた冨岡さんが、わざわざ俺への手土産に美味しい豆大福を持ってきてくれたのを切っ掛けに、文のやりとりをして、たまに顔を合わせるようになった。
それは、冨岡さんがこの世を去るまで続いたのだが、それはまた別の話だ。