その日、たまたま藤の家で出会った我妻善逸が、俺に与えられた部屋を訪れたのが全ての始まりだった。
「冨岡さんに折り入ってお願いがあります」
部屋に招き入れて座布団の上に座らせた彼の、困り眉の下の瞳が真剣な光を宿していた為、俺はどんな重大なお願いをされるのかと思い姿勢を正す。
「……なんだ」
「その、……く」
そこで、何故か善逸が言い淀む。口をパクパクとさせて、頬を真っ赤にする様は体調でも悪いのかと思ってしまう。
「……くちづけの練習に、付き合って欲しいんです」
真っ直ぐに見つめてくる瞳を見つめ返しながら、俺は目を瞬かせた。
彼は今、何を言った? くちづけとはつまり、好き合っているもの同士が唇を合わせるアレか?
ぽかんと相手を見つめていると、琥珀の瞳が、じわりと涙に濡れる。
「ご、ごめんなさい! おかしなことを言いました! やっぱり忘れて!」
それから、焦った声で叫んで、善逸は両手で耳を塞ぐように押さえると、立ち上がろうとした。
俺は反射的にその両肩を掴んで、彼をその場に押し留める。だが、それからどうしたらいいのかわからずに黙ってしまう。善逸は俯いて耳を塞いだまま顔を上げようとしない。掴んだ肩は、僅かに震えていた。
お互いが沈黙する中、先に動いたのは善逸だった。ゆっくりと顔を上げた彼は、視線を逸らしたまま口を開く。
「ほんと、……なんでもないから」
絞り出すような声は、ひどく切ないものだ。涙をにじませた目元は痛々しい。とても放っておけるようなものではない。きっと何か理由があるのだろう。だから、俺は頷いた。耳を塞ぐ善逸の両手を掴み、膝の上に下ろした。
「わかった」
「ーーえ?」
彼が視線を上げたので、鼻先が触れ合いそうな距離まで顔を近付ける。そこで数秒止まって様子を見た。
「ぁーー」
目の前の唇から、呼気のような小さな声が漏れる。それから、濡れた琥珀がゆっくりと隠されたので、俺は何も言わず唇を重ねた。柔い肌同士が触れあい、じわりと熱を感じる。
しばらくして、触れ合わせただけの唇を離すと、善逸がはぁっと息を吐いて吸った。まさか呼吸を止めていたのだろうか。なるほど、練習がしたいというのは本当らしい。
「……っあの、ーーその」
「どうした」
何かを言い淀む彼の唇に指先で触れると、「ーーなんでも」と小さな声。
「では俺からだ。呼吸は止めるな」
「え?」
「鼻で出来る」
真面目に言うと、目の前の人は目を瞬かせたあと、何故か笑い出した。俺は訳がわからずに首を傾げる。練習だと言ったから、改善点を示しただけなのに、笑われるとは思わなかった。だが、その笑顔があまりに愛らしく感じて、怒る気持ちにもなれない。
結果として、俺は姿勢を正したのち、笑う善逸をただ見つめていた。
「ふへっ……。ーーご、ごめんなさい」
「構わない」
「ありがとうございます。あの、俺からも……していいですか」
上目遣いに聞いてくる彼に頷くことで返事をすると、善逸は膝立ちして両手を俺の頬に添えてくる。そのまま、唇が落ちてきて合わさった。触れて、少し離れて、また触れ合う。しっとりと重なり続ける唇を感じながら、今度はちゃんと呼吸が出来ているらしいと感心した。
しばらくして、唇の熱が離れていく。それを、俺は何故かほんの少しだけ寂しく感じた。
「冨岡さん。……また、練習に付き合ってもらってもいいですか?」
「……ああ」
熱っぽい瞳で頼まれて、断る理由も浮かんでこない俺は、短い了承を返す。
すると、彼は大きく口元を緩めてとても嬉しそうに笑った。
それは、この笑顔が見れるのであればなんでも叶えてやりたいと思ってしまう程のもので。
俺は、この時の自分の感情に、少し戸惑いを覚えた。