自宅であるマンションのリビングで、ソファに座って本を読んでいた義勇の元に、同居人の善逸がふらついた足取りでやってきた。と思ったら、その場で頽れる。
「も、もうすぐバレンタイン……。動悸がしてきた……」
心臓の辺りを片手でぎゅっと抑えて、この世の終わりのように呟いた善逸を前に、義勇はわずかに首を傾げた。
「まだ一月だ」
「何言ってんの! もう一月切ってるでしょ!? すでに百貨店にはチョコが並び始めてるんですよ!」
「聖戦は始まってるんだ!」と、訳のわからないことを叫ぶ善逸を見つめて、今日も元気が良くて愛らしいなと思う。するとジト目で睨まれた。
「義勇さん、ぜってー馬鹿にしてるだろ」
「してない。愛らしいと思っていた」
「うわーー! これだから山程もらえるやつは! 俺は生きるか死ぬかの瀬戸際なんですよ!?」
事実を言っただけなのに、どうして機嫌を損ねてしまったのだろう。とは言え、生き死にが関わる程の重大な事態だとは思っていなかった義勇は、ぶつぶつと何かを呟く善逸から視線を外して天井を見つめながら思案した。
ーー貰えないと死んでしまうというのなら、貰えれば死なないということだろう。なら、俺が渡せばいい。
そう結論付けて、義勇は床に座り込んでしまっている善逸に手招きして自分の隣に座らせた。
「…………選べない」
バレンタイン前日。百貨店にあるバレンタイン特設会場の入り口で、義勇は無料配布のカタログを見ながら眉を寄せていた。カタログに載る大量のチョコレートは、そのどれもがコンビニエンスストアで買うものより美味しいのだろう。それはわかるが、これだけ種類があると何を基準に選べば良いかが分からない。こんなことなら、善逸にどんなチョコレートが欲しいのかを聞いておけばよかったと思う。
ちらりと催事場の中を覗けば、満員電車もかくやという人混み。しかもそのほとんどが女性だ。バレンタインという行事は、主に女性がチョコレートを贈るもの故に、女性が多いことは予測していたが、ここまで混雑するとは思わなかった。とても気軽に入れるものではない。
義勇の脳内に、コンビニエンスストアで買うか、という選択肢が過ぎる。しかし、生死に関わるほどの物に対して手を抜いては、善逸が悲しむのではなかろうかと考えて思いとどまった。
「行くか……」
戦場に赴く兵士のような心持ちで呟いて、義勇は特設会場に足を踏み入れたのだった。
そしてやってきたバレンタイン当日の朝。
いつもより早く起きた義勇は、昨日買って自室に隠しておいたチョコレートの入った紙袋を取り出した。それを手に持ち、リビングに向かう。善逸はすでに起きているようで、リビングには明かりが付いていた。
「おはよう」
「おはようございます……」
ドアを開けて朝の挨拶をすれば、キッチンに立つ善逸からは随分と元気のない声が返ってきた。やはりチョコレートを貰えないと死んでしまうというのは本当だったのだろうか。これはいけない。すぐに渡さなければ。そう思った義勇は、目玉焼きを乗せたトーストの皿を二枚運んできてテーブルの上に置いた善逸の目前に、紙袋を差し出した。
「……なんです? これ」
琥珀の瞳が瞬いて、彼がわずかに首を傾げる。その問いかけに、義勇は簡潔に答えた。
「バレンタインのチョコレートだ」
「は?」
「貰えないと死ぬのだろう。それは困る」
呆気にとられた顔をした善逸は、続いた義勇の言葉に対して、声も無く口をはくはくと動かしている。その様子に、義勇は何か間違っただろうかと考えた。チョコレートがあれば善逸は死なずに済む筈ではなかったか。折角なら喜んでもらいたいと人混みに負けずに入手してきたチョコレートの入った袋は、未だ彼に受け取ってもらえない。
「……不要だったか?」
義勇の声は、随分と悲しげに響いた。それを聞いた善逸が、突然に叫んで素早く義勇の手から紙袋を奪う。
「ゔゃーー!! も、貰います! 貰いますけど?! え、何これ百貨店の特設にしか出店してない店じゃん! っていうかファンシー! こんな可愛いパッケージのチョコ、どんな顔して買ったんです!?」
先ほどまでの元気のなさは何処へやら、紙袋からチョコレートを取り出して騒がしくする善逸に、どうやら喜んでくれているようだと義勇は安心する。
「店員にこれがいいと勧められた」
「……開けてもいいですか?」
「ああ」
「うわ、ストレートにハートのチョコだ……義勇さんこれきっと店員さんには勘違いされてますよ」
勘違い、という善逸の言葉に首を傾げる。すると善逸は、ハートのチョコレートを一粒手に取った。
「絶対に彼女へのプレゼントだと思われてますって」
そのハートは「いただきまーす」と言った善逸の口内に消える。
「大切な人に贈りたいと伝えたが」
「ーーった!?」
義勇がそう口にした瞬間、善逸が片手で口元を抑えて驚いたような声を出した。
「どうした。味が気に入らなかったか」
「いや、えっと。あ、チョコは美味しい……です」
そう言いながらも、徐々に顔を伏せていく善逸。言葉の終わりにはすっかり俯いてしまった彼の耳が赤い。熱でもあるのだろうかと手を伸ばして額に触れれば、びくりと大袈裟なくらいに善逸の体が揺れた。
「体調が良くないのか」
「……体調は悪くないから大丈夫」
「なら」
「うん、いや、うん」
彼が、何やら自分に言い聞かせるかのような独り言を口にした。それからゆっくりと顔を上げた善逸の頬は、耳と同じように柔らかな紅を指しており。
「お、れも。アンタのこと、大切だと思ってるから」
ほんの少し潤んだような瞳と、真摯な言葉に射抜かれた義勇は、己の頬が熱を持つのが分かった。うまく言葉が見つからず、目の前の善逸にただ見惚れる。
「チョコ、ありがとうね。大事に食べるから。ーーっハイ終わり! おしまい! ご飯食べよ?」
お礼の言葉を口にした善逸の視線が、手元のチョコレートに移る。そうして大切そうにその箱に蓋をしてから、切り替えるように彼がからりと笑った。だから、義勇も頷いて椅子に座り、トーストを手に取る。ひと口齧れば、香ばしい風味が口内に広がった。目の前では、同じく椅子に座った善逸がトーストを咀嚼している。その表情は、とても嬉しげに見えて。
ああ、なんて幸せな朝だろう。そう思って、義勇は微笑みを浮かべたのだった。