"恋"をした

 我妻善逸は、恋をしている。

 彼が初めてそれを自覚したのはいつだったか。微笑みを浮かべる相手を見た時、だなんて言ったら、鼻で笑われてしまうかもしれない。

 けれども、それは本当のことだった。

 あの日は日差しが柔らかく暖かな空気で、休息も兼ねて寄った藤の家の縁側でうとうととしているうちに、善逸は眠ってしまう。次に意識が覚醒した時は、重たい瞼を開けるより先に、頬にくすぐったさを感じた。誰かがそばにいる。穏やかな音がして、とても心地よかった。その誰かが用意してくれたのだろうか。枕に、もう少しと甘えるように額を擦り付ければ、小さく漏れる優しい呼気。

 大きな手が、ただ髪を梳いてくれる。

 幸せだなぁ。善逸は心からそう思った。

「……我妻」

 その人の声が善逸の氏を呼ぶ。なんで温かい響きの音。どうせなら名を呼んで欲しいと思い、それは無意識のうちにそのまま声になった。

 ぴたり、と優しい手が止まる。

 どうしてだろうと、そこで善逸はようやっと瞼を上げた。

 そうして、善逸は現実を認識する。

 枕と思っていたのは誰かの膝で、その誰かは鬼殺隊の柱である冨岡義勇だったということを。

 だが、そんな事は義勇の顔を見上げた時にどこかへ消えてしまった。

 彼は、柔らかに微笑んでいた。その頬は、光の錯覚かもしれないが、ほんのりと紅を差したようで。

「……善逸」

 それは、まるで今日の陽光のように、柔らかで心地よい音。

 心臓が脈打つ。五月蝿いくらいに。善逸は自らの心音とともに、穏やかに落とされた恋に溺れた。

 ーー我妻善逸は、彼に恋をしたのだ。

"愛"とする

 冨岡義勇は、愛を知っている。

 彼がそれを知り得たのは、何者にも代えがたい大切な人たちが居たからだ。

 姉の蔦子も、親友の錆兎も、誰かが代わりになれるものではない。二人がくれたものは義勇の一部として在るし、二人を失った痛みはいつまでも彼を苛むだろう。それらは、義勇が死んで土に還るまで変わらないことだ。

 今にしてわかることだが、二人は、雨が優しく降るように自然な愛情をくれた。それに対して、義勇が深い信頼を向けたのは当たり前のことだろう。だが、義勇のそれは愛と呼ぶにはあまりに純粋で、拙さのあるものだった。

 そんな義勇が、我妻善逸を愛しい個人として認識したのは、柔い日の差し込む藤の家の縁側だ。まず目に入ったのは、床に広がる明るい色をした緩い鱗文様の羽織と特徴的な金の髪。近付いてみると、彼は静かに眠っていた。閉じられた瞳と、緩く下がった太い眉に、ほんの少し開いた唇。普段の騒々しさが鳴りを潜めると、彼は思いのほか整った顔立ちをしていることに気付いた。物珍しさで眠る善逸のそばに膝をついてじっと見つめる。

「……」

 しばらくして、つまらない、と思った。

 なぜつまらないと感じたのかを考える前に、義勇は彼の頬に指先で触れた。思いの外柔らかい肌が心地よい。離して、突く。撫ぜる。三度目で、善逸がふっと息を漏らした。

「くすぐったいよぉ」

 それは、甘える幼子のような、まっさらな声。幸せな夢を、幸せなまま感受するように、彼がにやけた笑みを浮かべた。

 その時の感情を、どんな言葉を使えば表現できるだろうか。義勇にはわからなかった。

 だが、確かなことは一つ。

 その時、義勇の心の中に善逸が住み着いたのだ。まるで初めからそこにいたかのように、自然と。

 それから、義勇は自然と彼の姿を探すようになった。己の中に生まれた感情に対して義勇は正直なもので、自然と善逸の存在を探し、見かければ必ず声を掛けた。まるで雛鳥が親鳥の後をついて回るようだと、胡蝶しのぶに揶揄されたこともある。それは似ているようで、全く異なっていた。

 

「こんにちは、冨岡さん」

 姿を見て、言葉を交わす。ーー嫌われてはいない。

「いや、別に嫌とかじゃないんですけど……俺の手に、何かあります?」

 足りず、その手に触れて、繋ぎ止める。ーー嫌がられてもいない。

「あの……とみお、か、さ。ーーっ」

 まだ足りず、円やかな頬を撫ぜ、瞼の上に唇を落とす。ーー拒まれてはいない。

 

 足りない。足りない。足りない。足りない。

 会うたびに深まる触れ合いと、満たされぬ欲求の末、溢れ出した感情は、義勇の喉を震わせた。

「ーー好きだ」

 親指で善逸の唇をなぞる。足りないのだ。そこに触れたいのだという熱を込めて。

「……ほ、んと、に?」

 何故か、彼の声は震えていた。大きく見開いた瞳の琥珀が、義勇を映す。

 好きだという言葉が信じられないとでも言うのだろうか。信じてもらうには、どうすればいいのだろう。

 考えても答えが出ず、義勇は両手で善逸の体を引き寄せる。少し背を曲げ、お互いの額と目線を合わせた。

「お前が好きだ、善逸」

 じわりと、目の前の琥珀が滲んだ。零れる。そう思う前に、義勇は涙の溜まる眦に吸い付いた。口内に広がる味は、何故かほのかな甘味として捉えられる。きっと彼はどこもかしこも甘いに違いない。そんな夢のようなことを、義勇は本気で思った。

「ーーっれ、も、すき」

「義勇と、呼んでくれ」

 好きな相手も、己を好いてくれている。その言葉は確かに義勇を満たしたが、更に求めさせもした。なんと強欲なことだろう。

「義勇さん、好き」

 だが、善逸はそれに素直に答えてくれた。

 その、狂おしいほどの愛しさ。

 琥珀の瞳から零れ続ける、優しい涙雨の一粒一粒を、取りこぼさぬように丁寧に己の内側に溜めていく。

 ーー冨岡義勇は、それを愛としたのだ。

 

2019/11/30

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