Canon&Gigue

 昔から大切なものは片手で数えられた。
 親父、親父がくれたバット、母さんが買ってくれて履き潰した靴。最近はそこに河原野球で出来た友達を加えて、俺はもう十分に幸せだと思っていた。あの人に出逢うまでは。
 あの人。真田先輩は、高校に入った俺の一つ上の先輩だった。綺麗な顔立ちに爽やかな言動で人を惹き付けるあの人の気さくさに、最初は苦手意識を持っていた。だが彼はそんな俺を気にすることもなく、よく話し掛けてくれたし、気持ちのいいタイミングで誉めてもくれた。ぎこちない自分の中に、水のようにするりと染み込んでくるのが心地好いとさえ感じるにあたって、どうもこの人は他の人と違うと感じるようになった。共にあることで心が落ち着くと気づいた。
 次第に、真田先輩には嫌われたくないと思うようになった。


 「真田先輩」
 見かけた後姿に、用事も無いのに声を掛けた。それは無意識の行動で、雛の刷り込みのようだと思った。相手は俺の声にすぐ気付いて振り返ってくれる。
 「どうした? 雷市」
 そう言って優しい笑顔を浮かべる真田先輩に、軽い既視感を覚えた。とても不思議な感覚だが、どこか懐かしい。なんだろうと考えていると、真田先輩が笑顔のまま、立ち尽くす俺に近寄ってきて頭に手を置いた。そのままぽんぽんと軽く叩く。その瞬間、懐かしい人が思考を埋め尽くした。思い出の中の優しい笑顔をした、母さん。真田先輩と母さんは外見が似ている訳ではなかった。けれどその行動がとてもよく似ていた。頭を撫でてくれる時、ぽんぽん叩くようにする所や、要領がよくて親父の行動を事前に予測して先回りする所、ご飯が美味しいとかいう何でもない事で笑う所はそっくりだと思った。
 「雷市、大人しいな。具合でも悪いのか?」
 懐かしさで胸がいっぱいになっていると、真田先輩が少し心配そうに俺を見た。慌てて「カカカ、なんでもなーい!」と、とぼけて知らない振りをした。もう居ない人を相手に重ねるのは失礼だと思った。すると真田先輩は面白そうに噴出す。
 「なんでもねーのに声掛けるとか、お前は乙女か」
 「俺は正真正銘の男だ!」
 「わかってるさ。なんだ、元気いいじゃねーか」
 そう言って大きな手で背中をバンッと叩かれて少し前のめった。「じゃーまた部活でな」との言葉を残して真田先輩は背を向けて去っていく。思わず手を伸ばしたくなる自分を叱咤して拳を握り締めた。
 そんな形で背を追いたいんじゃないんだ。

 
 その日は午後から雨だった。
 雨は嫌いだ。いい事も悪い事も全てが洗い流されていくようで怖かった。それに何より外での練習が出来ない。室内で行われるストレッチや筋トレは、今のような状態では余計な事を考えるのであまり好きではなかった。
 いつもより早めに切り上げられた練習帰り、昇降口の屋根の下でぼうっと重たい空を見ながら思う。風はないから河川敷の橋の下でバットでも振るか。それはとても魅力的な提案の気がして、俺はバットケースを背負い直して鞄から折り畳み傘を探し出した。
 「雨でもいいからバットが降りたいって顔してるな」
 ふっと視界が翳ったと思うと後ろから声が降ってくる。真田先輩、と反射条件のように口に出して振り返った。
 「お疲れ様ッス」
 「お疲れ。雨だとどうも体が重いよな」
 「……真田先輩もッスか?」
 一方的に真田先輩には苦手なものなど無いかと思っていたので、一瞬反応が遅れた。すると彼は苦笑いを浮かべて「おいおい、俺も人間だぜ。苦手なもの位あるさ」と俺の心を見透かしたような言葉をよこしたのでドキリとした。悪い事を言ったのかもしれない。一言謝ると、なんだホントにそう思われてたのか、と真田先輩が驚く。また失敗した。俺が地味に凹んでいると、真田先輩が切り替えたように声のトーンを潜めた。
 「ところで雷市、傘もう一本持ってないよな?」
 「へ? 持ってないッス……」
 「あーだよな。しかたねぇ、濡れて帰るか」
 潔く言い切ると、真田先輩は鞄を脇に抱えてすぐにも走り出しそうな体制を取った。驚いた俺は慌てて引き止める。小雨ではないのだ。この雨の中を濡れて帰ったら風邪を引いてしまう。
 「あの! 狭いけど一緒にどーぞ。俺、河川敷まで行くんで、ついでだし」
 思い切った一言の後傘を広げた。そう大きくない傘の内側が視界を覆う。それからそっと左側を空けた。傘で真田先輩の表情は見えない。やっぱり妙な申し出だっただろうかとそわそわしだす俺に、フッと空気が漏れるような声が掛けられた。
 「ありがとよ。じゃあ傘は俺が持つか」
 「いや、あの、俺のだから俺が持つッス」
 「そういう問題じゃなくてだな……」
 「大丈夫ッス!」
 傘を手に取ろうとした真田先輩を遮って、俺は、ん、と手を精一杯上に伸ばして真田先輩が入れるスペースを作った。すると真田先輩は仕方無さそうに笑って、降参だと言わんばかりに俺の頭を撫でる。それから少し屈んで傘に入ってくれた。それだけの事なのに、何故か無性に嬉しくなる。
 「雷市~、流石に狭いぞ」
 「真田先輩が濡れないように頑張ります!」
 「お前も濡れないようにな」
 「俺はだいじょーぶ!」
 自信満々にそう言うと、俺の顔のすぐ近くで真田先輩が笑う。やっぱりよく笑う人だ。馬鹿は風邪引かないって迷信だからな、そう言って真田先輩が俺の瞳を見た。先輩の瞳には俺の姿が映っている。考えればこんなに至近距離で誰かと笑いあった事なんてなかった。なんだか妙に恥ずかしくなって、俺は歩を進めた。
 「真田先輩、行くッスよ」
 「はいはい」
 そうして真田先輩と俺は雨の中を歩みだす。
 さっきまでの陰鬱な気分はすっかりなりを潜めて、胸の内側がぽかぽかと暖かく幸せな気分になっていた。
 真田先輩の笑顔は、まるで魔法のようだと思った。

 
 大切なものがある。
 親父、親父がくれたバット、母さんが買ってくれて履き潰した靴。河原野球で出来た友達。
 それだけで十分幸せだったのに、そこにもう一つ、真田先輩の笑顔という項目が加わりそうだ。

 

2014/01/29

web拍手 by FC2

Return