梔子の花

 きらきらと瞬く星を見た。
 山にさざめく木々。そのフレームから望む夏の夜空は、宝石の屑を放り投げたような満天の星空。その下で、二人は量販店で買った薄いレジャーシートを敷いた。ひんやりとした大地に、身体が冷えてしまわないようにブランケットを重ねる。その上に横になった東堂と真波は、ただ静かに空を眺めた。
 それは、東堂と同じ大学に入った真波が、彼と共に暮らし始めて、初めて迎えた夏のこと。
「星が見たい」
 リビングのテーブルに頬杖をついた体勢で、唐突にそう言ったのは真波だった。急なことに驚いたが、テスト期間も終わり、他に予定も無かった東堂が「じゃあ見に行くか」と返して、あれよあれよという間に星空を見に行くことになったのだ。夜の箱根をロードバイクで走り、近くの山の頂付近で星を見るという、計画性も何も無い企画だった。
 しかし、この星空が見られたのなら、おおむね成功といっていいだろう。そう真波は思った。
 真波が、横たわったまま左手を持ち上げて、東堂の右手と自らの左手をそっと重ねて握る。すると、東堂はやんわりと手の角度を変えて握り返してくれた。そんなちょっとした仕草に嬉しくなって、真波は星空から隣に横たわる東堂に視線を移す。すると、同じタイミングで真波を見た東堂と視線が重なる。ぱちり、と火花が散ったような気がした。薄闇を照らすは、頭上に置いた携帯用ライト一つ。闇に閉じられた2人きりの世界で、東堂と真波はお互いを見つめ合う。
 真波は、東堂の瞳に映し出された夜を見た。深淵なる空に散った星が、東堂の瞳にも小さな光を灯している。それは、真波をうっとりとした気分にさせた。
 真波は右手を持ち上げて、東堂の頬に寄せる。夜気で少し冷えた東堂の頬に、真波の右手の熱が溶けて合わさる。心地よいと感じて、その頬を親指で撫ぜると、東堂がくすりと笑った。
「東堂さん」
「なんだ」
 真波の声に東堂が応える。東堂の左手が、真波の右手を包み込んで、そっと持ち上げた。そのまま東堂の口元に寄せられて、唇が触れる。真波は、くらりとする程の幸せを感じながら続けた。
「こうやって、ずっと、オレの隣に居て下さいね」
 子どものような願いを口にすると、東堂は口元をゆるめて真波を見る。
「お前が、そう望んでくれるのなら」
 落ち着いた東堂の声は、夜の闇を震わせて真波の耳に届いた。

 

 

「とうどうさん!」
 目を開いた東堂の耳に聞こえたのは、弱り切った子どものような声だ。
 なんて声を出すのだ。そう思って、その声がした右手の方を見る。声で分かる。そこに居るのは真波だ。姿を確認して、やんわりと微笑んでやると、真波の泣きそうに歪んだ瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。ぎょっとして、東堂は右手をその頬に伸ばそうとする。しかし右手が上手く動かせず、その涙を拭うことが出来なかった。何故、と思って自らの状況を顧みる。東堂は、全体的に物が白い部屋にいた。白のベッドに横たわり、胸元まで白い掛け布団を掛けている。それだけでも東堂にとって状況が分からないのだが、更に分からないことに、東堂の右腕からは細い管が伸びていた。それを辿ると、枕元に背の高い銀色のポールがあり、その上に長方形のビニールパックが吊られていた。管はそのパックに繋がっている。
 少し遅れて、東堂はそれが点滴だということに気付いた。ぼんやりとした頭のまま、点滴のパックに移動させた視線を真波に戻すと、真波は涙を零すことはしなくなったものの、相変わらず今にも泣き出してしまいそうな顔をしている。真波が、震える指先で東堂の頬に触れた。
「良かった……」
 絞り出すような真波の声には、なぜか自責が滲んでいると感じた。何を責めるようなことがあるのだろう。
「目が覚めた」
 ふっと零れた声と同時に、また真波の瞳が潤む。それを危うく感じて、東堂は左手を持ち上げて、頬に触れる真波の指先を握った。身体がやけに重い。だが、動かない程ではない。
「真波」
 まるで久しぶりに発声したかのように、東堂の声は掠れていた。何故だろうと思ったけれど、今は目の前の、子どものような真波を慰めてやることが先決だと考えて、東堂はゆっくりと笑みを浮かべる。
「おはよう、真波」
 安心させるように優しい声で告げる東堂に、真波は堪えきれなくなったのか、ぼろぼろと涙を零した。それを押さえ込もうと、手で目元をごしごしと擦る。
「こら、擦るな。赤くなるだろ」
「だって、東堂さん、オレのせいで事故に」
 事故、という単語が東堂の頭に引っかかった。何らかの理由で事故にあったというなら、この白い部屋に居る理由も納得がいく。ここは病院で、東堂はその一室に入院中の患者、ということだろう。だが、事故に遭ったというその前後がうまく思い出せない。
「なんでお前のせいなんだ」
 とりあえずの疑問を述べると、真波は目元を擦っていた手を自らの膝の上に置き、東堂を見た。それから、後悔の滲む声で言う。
「オレが、急に星を見に行きたいなんて言ったから。夜走は危険が伴うのに、そんなこと考えないで東堂さんを誘ったから。だから」
 星。その単語に、東堂の記憶が呼び戻される。確かに真波と星を見に行った。箱根の山に囲まれて、二人で満天の星空を眺めた。つい先程のことのように思い出せる。真波の話を聞くに、東堂は星空を眺めた帰りに事故に遭ったということだろう。行きに事故に遭っていたなら、二人で星空を眺めた記憶が残る筈が無い。
「馬鹿だなぁ、真波」
 東堂は、ため息を零すように言葉を吐いた。そんな東堂に、真波はびくりと身体を震わせる。怒られるとでも思っているのだろうか、この男は。
「ロードに乗って車道を走る以上、昼夜関係なく危険は伴う。そのくらいロードに乗る者なら皆承知の上だろう。オレ達はきちんと、前方ライトもリアライトも付けていただろう。道交法も守っていた。それでも事故に遭ったというのなら、単純に運が悪かっただけだろう」
 真波の目を見ながら一気に告げると、東堂は「お前は妙な所で繊細だな」と笑った。そんな東堂に、真波はまたくしゃりと顔を歪める。
「東堂さん、全然目覚めなかったんだよ? 頭を強く打っていて、一時期はICUに入っちゃうし。オレ、家族じゃないから傍にいれないし。状況全然わかんないし。時間が過ぎるの凄く遅いし。なんにも頭に入ってこないし」
 自らの指先に触れている東堂の手。真波はそれを取り直し、握りしめた。まるで東堂が生きていることを確認するような仕草だった。
「東堂さんがこのまま死んじゃったらどうしようって、ずっと思ってた」
 随分と大げさな、と言いかけて東堂は口をつぐんだ。真波の話だと、東堂は一時期ICUに入ったのだと言っていた。よほどのことが無い限り、ICUなど入れるものではない。東堂自身の実感として、そこまでの怪我をした意識は無いのだが、頭を強く打ったと言っていたので、もしかしたら脳に影響があったのかもしれない。生と死は紙一重だという。確かに、東堂は危うい所にいたのだろう。
「真波。オレは、生きているぞ」
「……うん」
 東堂の宥めるような言葉に、真波が小さく頷く。
「多少記憶が飛んでいるが、今の所不都合も無さそうだ」
「そうなの?」
「ああ。だから、大丈夫だよ。心細い思いをさせてすまない」
 心配をかけたであろう真波へ、本心からの言葉を告げる。東堂の言葉に、真波はようやく、安心したかのように笑った。その笑顔に、東堂もほっとする。この後輩には、泣き顔より笑顔が似合う。
「そうだ! 先生呼んでくるね。目が覚めたら呼ぶように言われてたんだ」
「ああ。真波、別に直接行かなくても……」
 ぱっと顔色を明るくした真波は、そう言うとすぐに病室を出て行った。その背に声をかけたが、時は既に遅い。東堂の言葉を最後まで聞かず、真波の姿は引き戸の外に消えていた。
「ナースコールがあるだろ」
 一人呟いて、可笑しくなって吹き出した。あの後輩には、随分な心労を掛けてしまった。退院したら、何か労ってやらねばならないだろう。そう思いながら、東堂は窓の外を見た。空は晴れ渡っている。青い絵の具を流し込んだような空には、夏を感じさせる白い入道雲が浮かんでいた。窓は開かれている。そこからぬるい風が吹き込んで、真っ白なカーテンを揺らした。
 夏か。東堂の脳裏に、懐かしくも鮮烈な夏の風景が浮かぶ。あれから三年も経つというのに、夏と言えば巻島との勝負を思い浮かべる辺り、東堂は何かに取り憑かれているような気がする。しかし、悪くない感覚だ。きっと自分は、年を取っても同じようにあの夏を思い出すのだろう。
「巻ちゃん、元気かなぁ」
 無意識に呟いて、イギリスに行ってしまった巻島を思った。浮かぶのは独特なダンシングで坂を登る姿だ。ああ、懐かしい。
 東堂は、視線を空から部屋の中に戻す。白い部屋を見回した東堂が、数度瞬きをして呟いた。
「……ここは、どこだ」
 その言葉は、東堂の胸に小さな不安を呼んだ。
 東堂に、ここがどこなのか分からない筈は無い。なぜなら先程真波から教えられたからだ。だが、東堂は急にそれがわからなくなった。
 真波。真波が居た筈だ。残った記憶の欠片を繋ぎ止めるように、東堂は半ば無意識に『真波』という名前を繰り返した。横たわった身体を起こそうとして、妙に身体が重いことに気付く。左手を支点に無理に起き上がると、頭がぐらりと揺れる感覚。気持ち悪い。ふと目についた右腕には、細い管が刺さっていた。その管を辿ると、枕元に置かれた銀色のポールが目に入る。ポールの上には長方形のビニールパックが吊るされており、管はそこから伸びていた。
 そこまで確認した所で、部屋のドアが開く。
「東堂さん、先生呼んできましたよ!」
「……せんせい?」
 ぐらぐらする頭に響いた真波の声に、東堂は疑問符を浮かべた。そんな東堂の様子を、真波は不思議そうな目で見る。
「そうですよ。先生、呼んでくるって言ったでしょ」
 何故先生とやらを呼ぶ必要があったのか。東堂がいくら考えても、その意味が分からない。真波の後ろに立っている白衣の人物が先生なのだろう。眼鏡をかけた、穏やかそうな中年男性だ。
 戸惑う東堂に気付いたのか、真波が駆け寄ってくる。そして、心配そうな顔をして身体を起こした東堂の背を支え、その顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 身体起こして大丈夫? 何かあった?」
 真波の声はとても優しい。それが、妙に東堂の不安を煽った。
「すまない、真波。一つ聞いても良いか」
「なに?」
「ここはどこだ?」
 東堂の質問に、真波はぱちりと瞬きをした。
「病室ですけど」
「病室? ここは病院なのか?」
「東堂さん?」
 真波の表情がわずかに固くなる。何かまずいことを言ったのかと思いつつも、聞かずにはいられなかった。
「何故、オレは病院にいる」
 東堂の質問に、真波が今度こそ表情を凍り付かせた。そうして、真波は後ろにいる先生に視線を向ける。縋るような真波の視線を受けた先生は、真波の前に歩み出て、東堂に向け安心させるような優しい微笑みを浮かべた。
「あなたは事故に遭い、この病院に運ばれてきたのですよ。体調は如何ですか?」

 

 先生の話によれば、東堂は事故の後遺症で新しく物事を覚えることが困難になっているらしい。頭部を強打したことにより、軽い脳内出血があったが、手術に至るまでではなかった。だが、意識の回復に時間が掛かった為、一時的にICUに入っていたそうだ。ICUで意識を取り戻し、重大な意識障害も見られなかったため、事故に遭って3日目に一般病棟に移された。どうやら東堂は、事故直後からICUでの出来事は記憶に無いようだが、それは事故後よくある症状らしい。特に問題にもされなかった。
 東堂の症状は、脳機能障害である前向性健忘だと言われた。東堂は、聞いたことも、自分で言ったことも、やったことも、やらなかったことも、覚えていることが出来ない。過去の記憶や、過去に習得した技能はきちんとあった。知り合いを忘れていることも無いし、昔と同じようにロードバイクにも乗れる。けれど、新たな記憶を保持しておくことが困難になっていた。
 真波は、大学が夏休みに入ったということもあり、毎日のように東堂の見舞いに通うことにした。東堂は、一見普通に会話できる。一分程度の記憶を保持する即時記憶は正常に保たれているからだ。だが、よくよく話すと東堂の身に起こる異変に気付いた。試しに、少しの時間を置いて同じ話を繰り返すと、まるで今初めて聞いたかのような反応をするのだ。だが、東堂は全くもっていつも通りである。口もよく回るし人の心情を汲み取ることも上手い。真波は背に走る冷たいものを感じたが、それを表に出さないように必死に押さえ込んだ。
 人の記憶とは、こんな壊れ方をするのか。
 それから、東堂の症状が気になった真波は、大学の図書館を訪れた。検索機を前に、前向性健忘、というキーワードで検索をかけ、ヒットした本を探し出し、数冊抱える。空いたテーブルを探し、そこに持っていた本を積んだ。何も全てをここで読むつもりはない。何冊かは借りて帰るつもりだ。ぱらぱらと中を見て、専門用語だらけの難解なものは除いた。
 前向性健忘とは、頭部損傷の事故後に現れる症状らしい。ドラマなどでよく見る、過去の記憶が無くなってしまうという逆行性健忘とは異なる健忘症。ここでの問題は、この症状が回復するのか、ということだ。症例を見て行くと、回復には個人差があるらしい。月日を重ねて回復に向かうこともあるが、一生をそのまま暮らす人も居るようだ。
 前向性健忘は、通常治療という治療が行われない。本人のストレスを減らすようにして、毎日規則正しい生活を送ることが、求められるのだという。原因は様々だが、医学的に全く問題が見られない場合の発症例もあるらしい。人間の脳のことは、まだ未知数だ。
 治るかもしれない。けれど、治らないかもしれない。
 もし、治らなかったら?
 新たな記憶を保つことの出来なくなった人間は、どう生きてゆけば良いのだろう。
 真波は目の前が暗くなるような感覚を覚え、本を閉じた。その場で目を閉じると、あの日、夜の山で共に星を見上げた東堂の顔が浮かぶ。
 真波はあの日、隣にいてと望んだ。東堂はそれに笑顔で応えてくれた。その笑顔は、今も変わらず東堂が真波に向けるものだ。大丈夫。記憶が保てなくても、東堂は東堂だ。真波は心の中で繰り返し唱えた。大丈夫、と。
 その一ヶ月後の八月終わり、経過も良好だった東堂は退院をした。
 東堂が一ヶ月をかけて身体に覚え込ませたことは、すぐにメモを取り出すことと、それに記すことの二つだけだ。
 記憶は保たないのかもしれない。だが、身体に癖として覚え込ませることは出来るのだということは、真波と東堂にとって一つの光のような気がした。

 

 

 東堂の退院にあたっては、一つの問題があった。
 東堂の両親だけでなく、真波でさえも、退院した東堂は実家に戻るものと思っていたというのに、当の本人が頑なにそれを拒んだのだ。
 ずっと親の庇護下で生きて行ける訳ではないだろう。過去も未来も分からなくなっている訳ではないのだ。今まで生きてきた知識はあるし、それを上手く活用して生活する方法は、自分が見いださねばならない。
 病室で母親を前にして、よく回る口で言い切った東堂は、とても何かの障害があるとは思えなかった。呆然とその光景を見ていた真波は、東堂に視線を向けられてすぐに我に返り、加勢する。
「オレ、今は夏休み中なので、きちんと息子さんの面倒見るようにします」
 東堂の母親を前にした真波が、真っ直ぐな視線で言う。すると東堂が、「お前に面倒をみられるようになるとは、オレも見くびられたものだな」と言って戯けてみせ、母親から額にデコピンを食らっていた。いつも大人びている東堂が、まるで子どものようにあしらわれている姿は新鮮で、真波は思わず笑ってしまう。すると、東堂は真波をじっと見てから、どこか安心したように自らも笑顔を浮かべた。
 暢気に笑い合う二人を見て、東堂の母は諦めたようなため息を吐く。この息子が言い出したらきかないことなど、母親である彼女は既に実感しているのだろう。それでも心配そうな母親に、東堂は出来るだけ毎日連絡を取ること、月に一度は実家に帰ることを提案していた。そして、寝間着の胸ポケットから取り出したカバー付きのメモに、達筆な字で今自分が宣言したことを書き留める。
 東堂が持つメモは、事故に遭ってから真波が贈ったものだ。これから何冊も使うことになるメモが、少しでも馴染みのあるものになればと思って、ブロックメモを取り付けられるレザーカバーを購入した。深い藍色のそれには、東堂の名前がローマ字で刻まれている。東堂は、それをとても気に入ってくれたようで、メモを取り出し捲る度にどこか嬉しそうだった。もう真波が贈ったものだということは忘れているだろう。しかし、東堂の気持ちを少しでも上向かせることが出来ているのなら、取り寄せて贈った甲斐があったというものだ。真波は、記したメモの内容を母親に掲げて満足そうにする東堂を見て思った。
 そうして、東堂と真波はまた一緒に暮らすようになった。

 

 

「真波、今日は何日だ?」
 改めて真波と暮らし始めた東堂は、決まって毎朝今日の日付を聞くようになった。もしかしたら、入院中も繰り返されていたことなのかもしれない。そんな東堂に対して、真波は壁にかける大きめのカレンダーを購入した。そうして、日付を聞かれたらカレンダーを見るように促す。カレンダーは、過ぎた日付に大きくバツ印をつけてわかりやすいようにした。こうすれば、東堂もカレンダーを見るだけで今日が何日かがわかるだろう。東堂のストレスを減らすということは、この状況でも自分で出来ることを増やしてやることだと思ったからだ。カレンダーを見る、という習慣を身につければ、何度も日付を聞くことはしなくなる筈だ。それは、今の東堂の自信に繋がるだろう。
 そう思う反面、真波はとにかく東堂の世話を焼いた。新たな記憶が保たない世界というものは、真波には想像できない。だからこそ、危ない場所には近寄らせたくなかったし、一人で外を出歩くなんて心配でならなかった。真波は大学でも自転車競技部に所属していたが、事情を話して一時的に休みを取った。そうしてまで世話を焼く真波を、東堂はどこか不安げな、子どものような目で見てくることがある。何が不安なのか、真波にはわからなかったけれど、その不安が少しでも小さくなるようにと思っていた。
 出来ることを増やしてあげたい。けれど、危険なことはさせたくない。
 それが真波の思いだった。
 今まで、食事はほとんど東堂が作ってくれていたが、事故後は真波がその一切を受け持った。火を扱うのは危ないと思ったからだ。
 退院から数日経ったある日、リビングのソファに座って、事故前からの日課である日記をつけていた東堂が言った。
「真波は、カレーとパスタ以外は作れないのか?」
 東堂の唐突な言葉に、隣に座ってテレビを見ていた真波は、不思議そうに東堂を見る。
「シチューもハッシュドビーフも作ってますよ?」
「ああ、カレーとは入れるルーと肉が違うだけだな」
「そういえば、そうですね」
 真波は東堂が何を言いたいのかわからず、首を傾げた。真波は料理が出来ない訳ではない。だが、食べられればなんでも良いと思っている節がある。その為、真波の作る料理は手軽に作れるカレーやパスタばかりだった。パスタも鍋で茹でるのではなく、電子レンジを使って茹でてしまうし、ソースはレトルトのものを使うこともあった。
「作ってもらっておいてこんなことを言うのは申し訳ないのだが、バランス悪いぞ」
「そうですか?」
「そうだ! お前、仮にも身体が資本の運動部なんだから、もっと栄養バランスを考えろ」
 真波の鼻先に人差し指を突きつけてそう言った東堂は、今思いついた、とでもいうように付け加えた。
「今日の夕食はオレが作る」
「ええ!?」
 東堂の言葉に、真波は心底驚く。事故に遭ってからというもの、東堂は自ら何かをすると主張したことは無かったからだ。真波は不安を隠せずに東堂の顔を見る。
「危ないですよ。包丁使ったり、火を使ったりするんですよ?」
「当たり前だろう。調理なんだから」
「オレ、東堂さんが好きな和食とかにもチャレンジしますから!」
「真波」
 更に言い連ねようとした真波を、東堂が止めた。真波の頬に手を添えて、視線を合わせる。真っ直ぐな東堂の瞳に押されて、真波は押し黙った。そんな真波に少し微笑んだ東堂が言う。
「大丈夫、手順は全部頭に入っている。どこに何があるのかも知っている。今まで誰が食事を作っていたと思っている」
 そう言われると何の反論も出来ないのが真波だ。確かに、東堂には過去の記憶がある。流れ作業であれば、何かの邪魔が入らない限りは正常に行える。それは知っているが、心配なものは心配だ。
「じゃあ、オレも一緒に作る」
 それが真波の妥協点だった。

 

 

 東堂は、常にタイマー付きの腕時計を身につけていた。自分で時間をセットして、その時間に音が鳴るタイプのスタンダードなものだ。一時間に一回、アラームが鳴る。東堂は、それが鳴るとメモをチェックする癖をつけていた。
 時計が十八時を指したとき、アラームが鳴る。東堂は反射的にシャツの胸ポケットからメモを取り出すと、その内容を見た。最初は、メモを取り出すこともアラームを掛けたことも忘れてしまい、鳴り響く音に戸惑っていた東堂だが、1ヶ月の入院生活中に何度も指摘され刷り込まれたおかげで、それが可能となったのだ。
「東堂さん、アラーム止めてセットしないと」
 アラームを鳴らしたままメモを読み出した東堂に、真波が指摘する。それに気付いて、東堂はメモを一旦テーブルの上に置いてアラームを止めた。それから、再度アラームをセットしようとして眉を顰める。
「ここ押して、セットする」
 真波が東堂の手を取って、一時間後の十九時に鳴るように時計をセットした。この時計は、事故後に東堂に与えられたもののため、その操作方法を覚え込ませるまでには至らなかったようだ。
「ありがとう」
「どういたしまして。はい、メモ見るんでしょう?」
 東堂は真波が差し出したメモを受け取った。それから、その内容を見て言う。
「今日の夕食は一緒に作るんだな」
「そうですね。何作るんでしたっけ?」
「ぶりの照り焼きと筑前煮とみそ汁、あと青菜の御浸しでいく」
「わー、久しぶりの和食だー」
 のんびりとした様子で真波が笑う。それを見て、東堂も笑みを浮かべた。東堂が事故に遭ってから心労ばかりかけているだろうに、真波はそれを感じさせずに笑う。真波のこういう所に、東堂は救われていると思った。
 二人が最初にしたことは、真波が用意したノートに今日の献立を書くことだ。それを分かりやすい所に掲示して、何を作らなければいけないかを明確にする。
「まずは筑前煮の下ごしらえだな」
「あー、めんどくさいんですよね、確か」
「まあそう言うな。少しの手間で美味しくなるんだから」
 そんな会話を交えながらも、二人は分担して調理に当たる。真波が野菜を洗う横で、東堂がそれを刻む。灰汁の出るものは軽く水に晒しておく。
「そういや、なんでこんにゃくだけ千切るんですか」
「味がのりやすくなるんだ」
「へー」
 野菜を洗い終わった真波が、鍋に湧かしていた湯に、千切って塩もみしたこんにゃくを投入した。さっとゆがいてザルにあける。東堂は里芋の皮を剥きながら、もう一度湯を沸かしてからぶりの下ごしらえをするように指示した。真波は冷蔵庫からぶりの切り身を取り出して塩を振る。
「里芋の下ゆで、オレがしますから」
「何故だ?」
「位置的に、かな」
 確かに真波はキッチンのコンロ側に立っている。東堂が切った里芋をそのまま渡せば鍋に放り込んでくれるだろう。東堂はあまり深く考えないことにした。切った里芋を渡すと、真波がそれを鍋に入れる。キッチンタイマーをかけて、少し手持ち無沙汰になった。
「そういえばオレ、東堂さんが料理作ってるとこ初めて見たかも」
「確かに、真波はあまりキッチンに来ないな」
「東堂さんはオレが料理作るとき、よく見てましたよね」
「お前、どう見ても料理出来なさそうだろう。不安があったんだ」
 東堂が真波の鼻頭を人差し指で軽く押す。すると真波は、目の前にある東堂の手を掴んで、その甲に軽いキスをした。
「実際はどうでした?」
「……料理に関しては、お前はいい主夫になれるよ」
 キッチンに似つかわない甘い雰囲気を出す真波に、東堂はそっけない答えを返す。その返答に、真波は少し頬を膨らませた。
「見惚れた、とか言ってくれないんですか?」
「……」
「オレは正直、見惚れてこんにゃく取り上げ忘れちゃうとこだったのに」
 可愛らしい真波の言い分に、東堂は思わず吹き出す。すると真波は拗ねたように唇を尖らせて東堂から視線を外した。もう十九になったというのに、真波はこうやって東堂に子どもっぽい表情を見せる。それは東堂のことを信頼しているのかもしれないし、甘えているのかもしれない。
 東堂は愛おしさに笑みを浮かべて、真波に握られた手と反対の手を伸ばし、拗ねる真波の髪を梳いた。真波の毛質は固く掌をくすぐる。東堂が口を開こうとしたとき、突然電子音が鳴り響いた。驚いた東堂はのどの奥で声を飲み込む。そうして、慌ててメモを取り出そうと胸ポケットを探った。
「東堂さん、大丈夫。下ゆで終わっただけ」
 そう言って、真波がコンロの火を落とす。東堂を一歩下がらせ、里芋をざるにあけた。
「下準備完了かな。……東堂さん、どうかしました?」
 真波が振り返ると、東堂が一歩下がったまま呆然とした様子で真波を見ている。その瞳には、戸惑いが浮かんでいた。それを見て、真波はああ、と思う。
「今、一緒に夕飯を作ってる所です。献立はそこに書いてあります。筑前煮の下ごしらえまで終わりましたよ」
 キッチンの壁に貼ったノートのページを指差して言うと、それを確認した東堂の肩から力が抜けた。
 東堂は、基本的に何かの物事を挟むとその前にやっていたことを忘れてしまう傾向がある。だが、簡単な今の状況を説明すると、過去の記憶に照らし合わせてそのままの流れで生活を続けて行くのだ。それはひどく行き当たりばったりな生活のように感じるが、東堂自身は精一杯生きている。
 東堂の記憶は一体どうなっているのだろう。
 真波はこの数日間ずっと傍で東堂を見てきた。東堂は、メモや日記に頼りながらだが、イレギュラーが無い限り日常生活をこなせてしまう。一見一人で生活出来ているのだ。だが、そこに他人が絡むと途端にボロが出る。東堂は、そこに他人がいることすら忘れてしまう。ある程度の自己補正が働くようだが、それは正しいものとは限らない。今の自分に都合のいいように、補正されるからだ。
 真波は本やネットで前向性健忘について調べたが、文字で見ただけでは実感がわかなかった。こうやって、退院した東堂と生活を共にしても、その苦労の五分の一もわかっていないような気がする。なぜなら、東堂が全く弱音を吐かないからだ。戸惑いを覚えたような瞳はする。わからないものはわからないと言う。しかし、一切甘えたようなことは言わないのだ。
 東堂が改めて台所に立った。真波は考えを中断してあえてコンロの傍に立つ。
 東堂が弱音を吐かない。その思考は、真波に小さな焦りを残した。

 

 

 真波と共に夕食を作ってから、東堂は様々なことを自分一人でやってみたいと主張するようになった。一人で買い出しに行きたいと主張して、実際に近くのスーパーに買い物に出かけたときはひやひやしたものだ。こっそり後を付けた真波は、東堂が時折メモを見ながら買い物に向かうのを、車にひかれないか、変な人に声をかけられないかと、親のような気分で見守ることになる。幸い、東堂は無事に買い物を終えて帰ってきた。それは喜ばしいことだったし、東堂もどこか嬉しそうだったから、良しとすべきだろう。
 だが、心配なものは心配なのである。
 真波はじっと己を見つめて譲る気のない東堂を前にして思った。
「大丈夫だ」
「でも」
 部屋の玄関先で、真波は東堂と向き合っている。お互い譲る気がない様子だ。
 真波は集中講義の為に学校に向かう所だった。真波はこのときほど自分のサボリ癖を悔やんだことは無い。長時間東堂を一人で置いてくだけでも不安だったのに、それに加えて東堂が真波を途中まで迎えに行くと言う。家の中で留守番していてくれるだけなら、まだいい。けれど、一人で外を出歩くなんて駄目だ。しかし、東堂は基本的に言い出したら聞かない。
「駅前の公園で待ち合わせるだけだろう。どうせ買い物に出なければならないのだから、外出ついでに済ませた方が効率的だ。違うか」
「違わないけど違う。オレは心配なの。何かあったらどうするの」
 少し強めの口調でそう言った真波に、東堂が自嘲ぎみに笑う。
「……お前はまるで、幼子の親のようだな」
「なに?」
 小さく呟かれた言葉は真波にまで届かない。東堂は首を振って、もう一度真波を見た。そしてどこか冷たい印象を感じさせるほど綺麗に笑ってみせる。
「何かあっても、お前はオレを見つけてくれるだろう、真波」
 言われて、言葉に詰まった。どこか挑戦的な言葉は真波を煽るには十分だ。しかし、ここで認めても良いものか。考える真波の胸を、東堂が拳で叩いた。
「一人でもやれる」
 東堂にそう言われてしまえば、真波は何も言えなくなる。情けなく眉を下げる真波を見て、東堂は安心させるように笑った。
「大丈夫だと言っているだろう。道は覚えている。公園のベンチでのんびりお前を待っているよ」
 そう言った東堂に見送られて、真波はマンションを出た。
 大学へ向かう途中も、大学についてからも、真波は心ここにあらずと言った様子で頻繁に携帯を手に取り弄んでいた。講義中も集中出来たものではなく、正直な所何故自分はここにいるのだろうとすら思った。東堂からは何の連絡も無い。連絡が無いということは何事もないということ、という思考は何の慰めにもならなかった。なにせ東堂は言い聞かせてもそれを忘れてしまうのだから。
 全く集中出来ない集中講義を終えた真波は、同級生の食事の誘いも断って足早に大学を出た。ロードに跨がり、学校を出る前に連絡してくれと言われていたことを思い出して携帯を取り出す。アドレス帳のた行から東堂の名前を見つけると、掛けた。コール三つで東堂が電話に出る。
「真波?」
「うん、オレ。今から学校出ます」
 忘れていてくれればいいのに、と思ってそう言うと、東堂は少しの間を置いて「わかった」と答えた。メモでも確認したのだろうか。
「公園から動かないで下さいね。すぐ行きますから。何かあったらすぐ電話して下さい。変な人について行っちゃ駄目ですよ」
 心配のあまり言葉を重ねると、電話の向こうで東堂が笑う。「大丈夫だよ」と優しい声で真波を安心させるように言った。
「ちゃんと待っている。だから、気をつけて来い」
 その言葉と共に通話は切れた。真波は、携帯をポケットに仕舞うと思い切りペダルを踏んだ。ここから、待ち合わせの公園まではロードバイクで二十分弱。真波達の住むマンションから公園までは、歩いて十分弱といった所だから、東堂の方が先に公園にたどり着くだろう。真波達の住んでいる所は学生街で、治安が悪い訳ではない。だけど、万が一何かあったらどうしよう。そんな不安が、真波の心を苛んだ。
 東堂に対して、酷く過保護になっている自覚はある。だが、事故のあとの東堂は、何も分からない子どものような表情を見せるのだ。純粋で、傷つきやすい瞳をする。記憶を留めて置くことが出来ないせいか、自分の置かれている状況さえわからなくなる。東堂は、メモだったり他人だったり、人より多く何かを頼らずには生きて行けない。それは、真波の中に庇護欲を芽生えさせるには十分だった。元々、大切にしたいと思っていた人なのだ。
 停止信号にブレーキを掛けた。横断歩道を、幼子を連れた親が通り過ぎる。きらきらと輝く子どもの笑顔は、晴れやかな未来を思わせるものだ。人は記憶を積み重ねて生きて行く。年齢を重ねれば忘れっぽくなり、痴呆になる人もいるだろう。それは長い人生を生きた先にたどり着くものだ。東堂は、まだ二十一になったばかりだった。これから先の人生は長い。
 東堂は真波が悪い訳ではないと言っていた。だが、やはり真波は自分を責めてやまない。あのとき、星が見たいなどと言わなければ。身体が冷えるのも気にせず、もう少し星を見ていたら。いっそ事故に遭ったのが自分だったなら。
 こんなことを言ったら東堂はきっと本気で怒るだろう。青みがかった深い色の瞳に純粋な怒りを燃やして真波を見る東堂が目に浮かぶ。
 信号が変わった。車がアクセルを踏むのと同時に、真波もペダルを踏む。すぐに思考は切り替えた。深く考え込みながら車道を走るなど、事故の元だからだ。東堂を迎えに行かなければいけないのに、真波自身が事故に遭うなどあってはならない。もしそうなれば、残された東堂はどうなってしまうのだろう。
 そこまで考えて、真波はすぐに頭を振った。今優先させるべきは、一刻も早く東堂の待つ公園に向かうことだ。きっと東堂は笑顔で迎えてくれるだろう。真波は真っ直ぐに前を向いて一心にペダルを踏み込んだ。

 

 

 真波が公園にたどり着いたのは、学校を出てから二十分後の夕方頃だった。きっと東堂はもうたどり着いているだろう。真波は公園の入り口でロードバイクを降りて、それを押しながら中に入った。
 この公園は大きなものではない。真ん中に立てば見渡せる程度の広さだ。公園には寂れた遊具が少しと、古びたベンチが数台設置してある。そのベンチを一つ一つ見て、真波は表情を強張らせた。数台あるベンチには誰も座っていない。慌てて遊具の方に視線を移すと、小さな子どもとその母親らしき人物がいるだけだった。
 おかしい。東堂はとっくにここに居て良い筈だ。何かあったのかと思って携帯を取り出し、すぐに東堂にリダイヤルをした。数コール後に、東堂が電話に出る。
「ま、真波」
「東堂さん、どこにいるの!?」
 縋るような東堂の声の後ろで、高い女の声らしきものが聞こえる。嫌な予感を押さえられずに真波が問う。すると、東堂が困惑した声で答えた。
「……わからない」
「何が傍にある?」
「それが……」
 東堂が何かを答えようとしたとき、急に通話が切れた。慌てて掛け直したが、何度コールしても東堂は出ない。
 何かあったのだ。予感は確信に変わった。真波はすぐさま携帯でインターネットにアクセスすると、位置情報検索サイトを開いた。真波の携帯は東堂の携帯の位置情報が検索出来るように設定してある。相手が電源を切ったり、電波の届かない所に居ない限りはこれでだいたいの場所が検索出来る筈だ。焦る気持ちを押さえつつ検索結果を待つ。険しい顔をして携帯ディスプレイを見つめている真波を、遊具で遊ぶ親子がちらちらと見ていた。
 かなりの時間をかけて、検索結果が返ってきた。地図と住所を確認すると、すぐ近くに居る事がわかる。三丁目、と言えば駅前の方だ。ここから歩いて5分も掛からない。真波はそれを確認すると、自分の様子を伺う親子に声を掛けた。
「すみません。この人を探しているんですけれど、何かご存知ないでしょうか?」
 携帯の画像フォルダを開いて、東堂の写真を表示したものを見せて尋ねる。すると、「ああ」と女性が覚えのあるような声を上げた。
「つい先程まで居られましたよ、そこのベンチに。女性3人と一緒に出て行かれましたけど」
「どこに行くか、言っていましたか?」
 そう質問すると、女性は考えを巡らせるように少し視線を上にした。そして、やっと思い当たったのか、真波に視線を戻す。
「そういえば、カラオケ、とか言っていたような……」
「ありがとうございます!」
 女性の言葉に、真波はお礼を言って踵を返した。公園を出ると、ロードバイクに乗って駅前に向かう。駅前のカラオケ、といえば二店舗ある。そのうち一店舗は少し高級志向な店で、もう一店舗が学生御用達の安価な店だ。電話では相手が東堂と揉めている様子はなかった事から、恐らく、東堂と一緒にいた女性達は、東堂と同じ大学の学生だろうと当たりをつけて、真波は安価なカラオケ店から回ることにした。
 駅前のカラオケ店に着くと、道路添いのガードレールにロードバイクを寄せ、キーロックを回し掛けて施錠する。そしてカラオケ店に入ると、フロントで携帯に表示した東堂の画像を見せた。
「すいませーん。待ち合わせなんですけど、この人来ませんでした?」
 焦る気持ちを宥め。出来るだけ軽い口調を心がけてフロントの店員に尋ねる。すると、すぐに思い当たったのか、店員が「先程来られましたよ」と答えた。それを聞いた真波は、へらりと人好きのする笑みを浮かべて続ける。
「相手の携帯、電源切れちゃったみたいで。部屋番教えて貰えません?」
「ええと、確か三〇三号室です」
「ありがとうございます」
 真波はすんなりと教えてもらえたことに安堵しつつ、フロントを抜け部屋に向かう。型の古いエレベーターに乗り込んで三階のボタンを押した。エレベーターがゆっくりと動いて目的階に進む。
 それにしても、なぜ勝手に待ち合わせ場所から動いたのか。相手が同じ大学の学生だろうと、何の連絡も寄越さないで待ち合わせ場所から動くことで、こちらがどれだけ心配するかわからなかった訳でもないだろうに。
 目的階に到着したエレベーターの扉が開いた。降りて三つ目のドアに向かうと、店内放送に混じって室内の楽しそうな声が漏れ出ている。三〇三。ここで間違いない。真波は中を伺うことなくドアノブに手を掛けて引いた。とたんに大音量の歌が真波の耳に飛び込んでくる。その音の洪水の中に、女性二人の間に挟まれてどこか所在なげな様子の東堂が居た。東堂は、ドアを開けた真波に気付くと、あからさまに安心した表情を浮かべる。
「あ、もしかして真波君?」
 東堂の右隣に座った茶髪の女性が真波に声を掛けた。真波の知らない顔だったが、知らない人に顔を覚えられているなんてよくあることだったので、気にせず彼女に笑みを向けた。すると、女性は「やだ、かわいー」と盛り上がる。それを無視して部屋に入ると、女性越しに東堂の左手首を掴んだ。その手を引きながら、目を丸くする女性達に向けて言った。
「ごめんなさい。東堂さん、連れて帰りますね」
 有無を言わせぬ力の籠った声に、三人の女性達は一拍遅れて頷く。それに見向きもせず、真波は東堂の手を引いた。東堂が、女性に「すまない」と言いながら、テーブルと女性の足の間を通る。その声に、チリリと真波の脳内が焼けた気がした。
 謝って欲しいのはこっちだ。そう真波は思った。真波がどれだけ肝を冷やしたと思っているのだろう。自然と、東堂の手首を握る右手に力が籠る。
 部屋を出てエレベーターに向かう時に、東堂が「真波」と声を掛けてきた。だが、それも無視してエレベーターに乗り込む。無言のまま、真波はエレベーターのドアが開くのを待った。その隣で、手首を握られた東堂が戸惑いの表情を浮かべている。エレベーターが一階に辿り着き、ドアが開くと、真波は東堂の手を引いて足早にカウンターへ向かった。
「すみません。三〇三の者ですけど。ちょっと用事があるんで二人先に抜けます。会計は残ってる人に請求して下さい」
「真波!?」
 さらりと告げて店から出て行こうとする真波に、東堂は立ち止まって非難の声を上げる。すると、真波が更に強い力で東堂の手を引いた。思わずつんのめる東堂に気を配ることもなく、真波が大股で歩いて外に出る。バランスを崩した東堂は、真波に手を引かれるまま店の外に出た。真波と東堂の後ろで、自動ドアが閉まる。真波は自分のロードバイクの前まで東堂の手を引いて歩いて行く。その間も手首を掴む真波の力は緩まない。痛みに東堂は眉を寄せる。
「真波。……その、痛い」
 東堂の言葉に、真波は振り返る。その顔には冷徹さを感じさせる無表情が張り付いており、東堂は一瞬息を詰めた。
「どうして、待ってなかったの」
 声は真波が思う以上に冷たく響く。東堂は意味がわからない様子だった。まるで迷子の子どものようで、その純粋な瞳が真波の癪に障る。
「だから、無理だって言ったのに!」
 思わず、感情のままに真波は叫んだ。叫んですぐに、酷く後悔した。真波の言葉を聞いた東堂の瞳がゆらりと揺らめき、その口元が真一文字に引き結ばれたからだ。
 しまった、と真波は思った。今一番現状を把握出来ていないのは東堂だろう。それを顧みず、東堂の可能性を否定する酷い言葉を投げた。
 慌てて真波は東堂から手を離して、今度は優しく両手を取って包み込んだ。謝ろうと口を開こうとしたとき、東堂が先手を取って言葉を紡ぐ。
「すまない」
 東堂は軽く目を伏せた。その表情は、どこか諦めを感じさせる。
「どうしてこうなったのか、わからない。気付いたらお前の電話に出ていた。何故、クラスメイトとカラオケにいるのか全くわからなかった」
ぽつりぽつりと東堂は話す。真波は口を挟めずに東堂の言葉を聞いた。
「メモが、見当たらないんだ。お前の電話に出てからは、ずっと、真波から電話とばかり繰り返していた。忘れてはいけないと思ったから」
 東堂の表情が、今にも泣きそうに歪んだ。だが、その瞳から涙は零れない。悔しさが滲む口調で、東堂は言った。
「きっと、出来ると思ってしまったんだ。……覚えていないがな」
 その言葉と態度に、真波の中の罪悪感が膨れ上がった。東堂は事故に遭って脳に障害が出てからも、気丈に弱音は吐かなかった。それは東堂の挟持だったのかもしれない。それを、真波が言葉の刃で突き崩した。東堂は真波の目の前で拳を握り込み、肩に力を入れて身体を震わせている。
 真波は咄嗟に、東堂の頭を抱えるように抱き込んだ。ここが外だとか、知り合いに見られるかもだとか、そんなことは頭から飛んでいた。
「東堂さん、東堂さん、ごめんなさい」
 真波は東堂の耳元に、出来るだけゆっくりとした声で言葉を吹き込んだ。東堂は何も言わない。何も言わないで、ただ真波に抱きしめられていた。その身体の震えを止めるように、真波は強く抱きしめた。
 ああ、と真波は思う。
 このままの生活では、お互い駄目になってしまうのではないか、と。

 

 

 昨日の事件から、真波はずっと思い悩んでいる。
 あの後、すっかり気落ちした様子の東堂を伴って、真波は家まで帰った。東堂は本当にメモを無くしてしまっていたので、家に帰ってすぐ、予備のブロックメモ本体を手渡した。東堂はすぐに何かを書き込んで、書き込み終わると、儚げにほんの少し笑った。そして、珍しいことに、疲れたから少し眠る、と言って自室に籠る。閉められた薄い扉は開くことは無い頑強な扉のように、真波には感じられた。
 そのまま、東堂は翌日の朝まで眠り続けた。
 翌朝、真波は目覚ましより早く目が覚めて、上半身を起こす。枕元の時計を見て、まだ6時であることを確認した。だが、もう一度寝直す気にもなれず、ベッドを降りる。リビングに向かうとそこには既に東堂が居た。東堂は、小音量でテレビを見ているようだ。だが、開いたドアに気付き、真波の方を見る。真波の姿を確認すると、東堂はふわりと笑った。
「おはよう、真波」
「おはようございます、東堂さん」
 東堂は、昨日のことなどまるで感じさせない笑顔を真波に向ける。実際の所、本当に覚えていないのだろう。そう思うと、真波の心にほんの少しの寂しさが生まれる。
「朝食は何にする?」
「んー。昨日買い物に行けてないんですよね。でも、確かパンとチーズがあったと思うんで、トーストして食べましょう。オレが作っちゃうんで、東堂さんは待ってて下さい」
「わかった」
 真波の言葉に東堂はあっさり同意して、その視線をテレビに向ける。そこで、真波は一瞬違和感を覚えた。今までの東堂なら、一緒に作ると言い出していたのに、今日の東堂はあっさり引き下がった。気のせいだろうか。不思議に思いながらも、真波はキッチンに立ち、冷凍室から取り出した食パンに冷蔵室から取り出したチーズを乗せて、そのままトーストした。数分すると、オーブントースターから香ばしい匂いが立ちこめる。真波は棚から皿を二枚取り出すと、高い音で呼ぶオーブントースターからこんがり焼けた食パンを取り出した。
「できましたよー」
「ありがとう、真波」
 東堂の目の前の机に皿を置くと、東堂が真波を見て礼を述べる。二人揃って、いただきますと言ってパンを齧った。小麦とチーズの風味が口内に広がる。
「実は、今日も集中講義があるんです」
「集中講義?」
 真波が言った言葉を、東堂がオウム返しした。真波が、単位が足りないものに行われる講義だと伝えると、東堂は昨日と全く同じようにため息をついて、ちゃんと授業に出ないお前が悪い、と言う。真波は笑ってそれを流した。
「お昼どうしましょう。コンビニでもいいですか?」
「……お前に任せる」
 東堂はほんの少し思案したようだが、その判断を真波に投げる。真波はまた僅かな違和感を感じた。昨日までの東堂なら、自分で買い物に出かけて調理して食べる、と言っていたというのに、今日は判断ごと丸投げしてきた。一人で外を出歩かれて昨日みたいなことになることを考えると、真波にとってはありがたい話と言えるのだが。真波は少し考えた後、東堂に尋ねた。
「東堂さん、もしかして体調悪い?」
「いいや。何故だ?」
「うーん、気のせいならいいんだけど」
 真波はもやもやしたものを抱えつつ、パンに齧りついてそれを飲みこんだ。朝食を終えると食器を片付け、洗面台で顔を洗う。寝間着から着替えると、同じく支度を整えた東堂と共に近所のコンビニに向かった。コンビニで、東堂が昼食用におにぎりとサラダを購入する。時計を見ると、七時丁度だった。講義開始までにはまだ余裕がある。真波と東堂は、少し散歩して帰ることにした。
「どこまで行きますか?」
「公園まで行こう」
 公園、という単語に、真波は一瞬息を呑む。だが、すぐに笑って了承を伝えた。東堂は昨日メモを無くしている。つまり、東堂が真波と公園で待ち合わせていたことは覚えていない。昨日あったことは、東堂の中で無かったことになっている筈だ。それが良いことなのか悪いことなのか、真波にはわからない。
 真波は東堂と共に公園への道を歩いた。九月の朝は少し秋めいている。薄水色の空に平たく白い雲が浮かんでいた。時折吹く風はひやりと二人の頬を撫でていく。昨年は残暑が厳しかったが、今年はそうでもない。朝晩は少し冷えるので、そろそろ羽織ものを用意した方がいいだろう。
 たいした会話も無く公園に辿り着くと、東堂が真波を見て「まだ時間あるか」と言った。真波が頷くと、東堂は近くのベンチに腰を下ろす。そうして空を見上げた。真波も東堂の隣に腰掛ける。
「秋の空は好きなんだ」
「秋の空に特徴なんかありましたっけ?」
 東堂の言葉に真波が問いかけると、東堂は少し呆れたような顔をする。
「風情もなにもあったものではないな」
「夏ならわかりますよ。真っ白で大きな入道雲は凄く印象的ですもん」
 人差し指を立ててそう言う真波に視線を向けた東堂は、目を細めて笑った。それから口を開く。
「……秋はな、空が高く見える。空の透明度が増すせいらしい。雲の形も変わってくるんだぞ。夏のような力強さはないが、繊細で綺麗だ」
 そう言いながら薄く笑みを浮かべる東堂は、控えめに見ても綺麗だ。秋の空を眺めるより、東堂を眺めている方が飽きない気がしたが、真波はそれを口に出さなかった。東堂の視線が、空に投げられる。真波もつられて空を見上げた。
「世界が、広く感じないか」
 落ち着いた東堂の声が朝の空気を伝い、真波の耳に心地よく届く。淡々と、東堂は続けた。
「秋は、命が眠りにつく前の、豊穣の季節だ。日本の四季はどれも美しく愛おしいものだが、オレは秋が一番好ましいと思う」
 ベンチに添えた真波の手に、東堂の手が優しく重ねられる。じんわりとした熱が心地よく染みた。真波は空など見ていられなくなって、視線を戻す。それに気付いたのか、東堂が真波を見た。視線が合わさる。
「好きだよ」
 東堂の口から、言葉が零れた。それは、何に掛かっているのか不明瞭な言葉だ。だが、真波の心に重く響いた。
 これは、たとえ東堂が言葉にしたことを忘れてしまっても、東堂の中に残っている感情だ。
「オレも、すき」
 真波はゆっくりと、何度も言葉にする。
「好き。凄く好き。大好き。……あいしてる」
「……何を?」
 東堂がくつくつと笑いながら尋ねてきた。その様子に、真波も自然と笑みが浮かぶ。「秘密」と口にすると、東堂はゆるく首を傾げた。
「教えてくれないのか」
「東堂さんだって」
「オレは秋の話をしていただろう?」
 明確な答えを見事に避けた東堂に、真波は唇を尖らせて不服を伝える。その頬はほんのり赤くなっていた。
「もう、恥ずかしくなったから、駄目」
「なんだ。そんなに恥ずかしいことを考えていたのか」
 そっと視線を右に逸らした真波の頬を、東堂が左手であやすように撫ぜる。それが心地よくて、真波は目を細めた。
 東堂は、真波の目の前で楽しそうに笑っている。
 東堂が笑っている世界。そんな世界を、真波は心の底から愛おしいと思った。

 

 

 東堂に見送られてマンションを出た真波は、昨日と同じように愛車に乗って大学へと向かった。昨日と異なることは、東堂と外で待ち合わせをしていないということだ。心配事が少ないというだけで、心に少し余裕ができる。講義の内容も、それなりに頭に入った。
 昼休みになり、真波は昼食を取る為に食堂に向かう。夏休み中なので、食堂は人も疎らだ。日替わり定食を頼んで受け取ると、適当な席に座る。
 東堂も今頃、昼食を取っているだろうか。真波も、本当なら何か作り置きしたかったのだが、いかんせん食材が無かった。昨日は、部屋にこもった東堂が心配で、買い物に出かけることが出来なかったからだ。
 真波が東堂のことを考えながらも黙々と口を動かしていると、唐突に声が掛かった。そちらを向くと、どこかで見たような顔をした女性が居る。
「やっぱり居た! 真波君だ」
 女性はにっこりと笑みを浮かべて真波の隣に立った。椅子に座っている真波を見下ろした女性は、「昨日はどうも」と言う。その言葉で、真波はこの女性が、昨日東堂とカラオケに居た女性の一人だと気付いた。軽く会釈すると、彼女は真波の隣の椅子を引いて、向かい合うように腰掛ける。
「いきなり来てすぐ帰るから吃驚しちゃったんだよー?」
「スミマセン」
 真波は気のない謝罪をして、何の用だと言わんばかりの目で相手を見た。ぶしつけなその視線に、女性は少し首を傾げて「東堂君の忘れ物持ってきたんだけど、それなら真波君に渡しとけって言われたから、来たの」と言う。忘れ物とは何だろう、と少し訝しげな顔をすると、彼女は自らの鞄の中から、深い藍色のカバーがついたメモを取り出した。それは真波が東堂に贈ったメモだ。東堂の名前が彫ってあるので見間違いようが無い。真波は反射的に、メモを持った彼女の手首を強く掴むと、「どこにあったの?」と尋ねた。有無を言わせない口調に、女性はたじろぐ。
「ご、ごめんね。でも、大事なものっぽかったから」
「中を見たの?」
「わざとじゃないんだけど……。真波君、ちょっと痛い」
 手首の痛みを訴える女性に、真波は掴む手を離した。そのままの動作で彼女の手からメモを取り上げると、シャツの胸ポケットに仕舞う。女性はそれを視線で追って、ほんの少しだけ目を伏せ、「知らなかったの」と言った。
「昨日、東堂君を無理に連れて行ったのは私たちだから、東堂君を怒らないで」
 その言葉を聞いた瞬間、真波は脳内に火花が散った気がした。それにより生まれたのは純粋な怒りという感情だ。彼女は東堂を無理に連れて行ったと言った。メモを東堂の落とし物だと言って持ってきた。東堂は退院後、肌身離さずメモを持ち歩いていた。自分の記憶が頼りにならないということを自覚している東堂が、メモを自分から手放す訳が無い。そこから働く推測は、彼女らが東堂からメモを取り上げたということだ。そうして、前後のわからなくなった東堂を連れて行った。そうとしか、真波には考えられなかった。そうであるというのに、目の前の女性はまるで東堂のことを心配しきっているようだ。そのあまりの身勝手さを前に、真波は怒りを押さえ込むのに手一杯になった。女性はどこか憂いを帯びた表情を浮かべている。なにもかもが真波を苛立たせた。
 真波は、三分の一ほど残った定食のトレイを片手に立ち上がると、なけなしの理性を総動員して女性に笑いかける。
「メモ、東堂さんに渡しておきます。ありがとう」
 感情を押し殺してそれだけ言うと、女性はまだ何か言いたそうに真波を見た。しかし、そんなことに構ってやる余裕は真波には無い。席を立った真波は、そのままトレイを返却口に返した。食堂を出ると、真波は口を引き結び足早に歩く。彼女らの何もかもが苛立たしかった。だが、それと同時に、真波の中には何も出来ない自分への苛立ちも募っていた。元々真波が集中講義などに出ることになっていなければ起こらなかったことだ。だが、真波がいつまでも東堂と一緒に居ることは出来ない。大学の夏休みが終われば、授業が始まる。東堂と真波は選択する学部も違えば学年も違う。東堂が今後大学をどうするつもりなのかはわからないが、復帰するにしてもしないにしても、真波と離れる時間が生まれる。そうすれば、真波には東堂のフォローが出来ないのだ。
 真波は無意識に自転車置き場に向かった。人気の無いそこで、自らの愛車に触れる。いっそこのまま走り出してしまいたかった。そうして、坂でも登ればこの憂鬱な気分も晴れないだろうか。だが、それは単なる現実逃避でしかない。これは真波がきちんと考えなければいけない問題だった。ため息が一つ漏れる。真波は胸ポケットに手を伸ばし、そこにあるメモを取り出した。手に馴染むレザーカバーに刻まれた東堂の名前をそっと指先で撫ぜる。それから、真波は心の中でごめんねと呟いてカバーを捲った。既に開き癖のついている中のメモの表紙を捲って、真波は言葉を失った。一番初めのページには、東堂の綺麗な文字でこう書いてあった。
『このメモは、真波からのプレゼントだから大事に扱うように。
オレは物事を覚えていることが困難になった。その為、全てをメモに記していかなければならない。』
 何よりも優先させるべき事柄を書くべき最初のページに、何よりも先に、このメモが真波からのプレゼントだということが書かれている。そうか、メモを開く度に東堂がどこか嬉しそうだったのは、これを見ていたからなのか。真波はそう思うと、胸が一杯になった。こんなにも愛おしいと思う気持ちを、真波は知らない。心の底から、この人を大事にしたいと、守りたいとさえ思った。それは真波に初めて芽生えた感情といっていい。
 真波は、身体の力が抜けたようにその場に座り込んだ。閉じたメモを額に当てて、思う。どうすればいいのだろうと。東堂に笑っていてほしい。出来ればあまり苦労などしないで欲しい。不安があれば拭いたいと思ったし、泣いて欲しくない。けれど、それ以上に。真波は、東堂と共に生きて行きたかった。
 長く、息を吐く。吐いて、吐いて、吐ききって、真波は新たな空気を吸い込んだ。
 前に、進まなければならない。今のままでは、お互いにとっていい結果にはならないだろう。東堂の症状は時間とともに回復し、元のように生活出来るようになるかもしれない。けれど、回復しないかもしれない。それならば、回復しない、という状況を前提に考えるべきだ。東堂が今のままでも、それほど不安を感じずに生きて行ける場所が必要なのだ。
 そう思って、真波は、固く心を決めた。

 

 

 秋色が次第に濃くなる頃、東堂と真波は箱根に来ていた。
 といっても観光に来たのではない。東堂の母親との、月一で実家に帰るという約束を果たすためだ。
「真波、どうした?」
 立派な門構えの、いかにも老舗旅館といった佇まいの建物を前に立ち止まった真波に、東堂が尋ねた。暫くその外観を眺めていた真波は、軽く頭を振って東堂に微笑む。
「いつ見ても立派だなーって思って」
「そうか」
 東堂は謙遜も自慢もせずその言葉を受け取った。そして真波を招く。東堂の足取りに不安はない。幼い頃から何度も通った道であるからだ。二人は旅館の裏口から母屋に入る。母屋はしんとして人の気配が無かった。
「今は皆、仕事中だろうからな」
 そう言った東堂は、真波を先導して自室へと向かう。手荷物を置く為だ。真波をこうやって東堂の部屋に案内するのは二度目になる。一度目は共に住むことを決め、挨拶に来た時のことだった。その時の真波は、珍しく緊張していたことを思い出す。別に付き合っていることを話しに来た訳でもないというのに、何をそんなに緊張することがあるのだろうと、東堂は思ったものだ。それでも、一般的な人間より貫禄のある両親を前にして、その真っ直ぐな視線を一切逸らさなかったのは、東堂の両親から見ても好感度が高かった筈だ。その時のことを思い出して、東堂は口元に笑みを浮かべた。
 部屋に辿り着くと、二人はそう多くない手荷物を置く。東堂は真波に座布団を差し出して座らせ、自らはお茶を淹れる為に部屋を出た。真波は付いてこようとしたが、東堂は部屋で待っているよう言いつけた。一人でなにかをしようとするのは、ここ最近の東堂にしては珍しいことだ。実家に帰って気が緩んでいるのかもしれない。
「大丈夫。慣れ親しんだ我が家だ。お前が不安に思うようなことは無いよ」
 東堂がそう言ってしまえば、真波も渋々と言った様子で浮かせた腰を下ろす。そうして「早く帰って来てくださいね」なんて可愛らしいことを口にした。そんな真波に、東堂は愛おしそうに笑いかける。
「いい子にしていろよ」
「子ども扱いしないで下さいよー」
 ぷくりと膨れる真波を置いて、東堂は部屋を出た。来た道を戻ってキッチンへ向かう。辿り着くと、コンロの傍に置いてあるやかんを手に取った。水を入れて火にかける。その間に急須と湯のみの用意をした。茶葉の置いてある棚には、玄米茶のラベルが貼られた円筒形の缶がある。東堂はそれを取り出して匙で掬い急須に入れた。そうこうしているうちに湯が沸く。東堂が火を止めたタイミングで、声が掛かった。
「お茶を淹れているの?」
 澄んだ高い声は東堂の姉のものだ。東堂が振り返ると、キッチンの入り口に着物姿の姉がいた。垂れ下がったのれんを片手で上げて、東堂を見ている。視線が合うと、上品な笑顔を向けられた。
「私にも頂戴」
「ああ、わかった。それと、ただいま」
「おかえりなさい。元気そうで良かったわ」
 東堂は姉に微笑み返すと、茶葉の缶を手に取り急須に茶葉を足した。それから、やかんを手に持ち急須に熱湯を注ぐ。東堂の姉はそれを見ながら言った。
「真波くんも一緒よね?」
「ああ、部屋に居る。呼んでくるよ」
 やかんをコンロの上に戻しながら東堂が言うと、姉は口元を手で隠す。
「あらやだ。そんなことして、馬に蹴られないかしら」
「姉さん……」
 呆れたような顔をする東堂に、姉は瞬きをして悪戯っぽく笑った。それから、「お茶、濃くなるわよ」と指摘する。その言葉を受けて、東堂は急須を持ち湯のみに注いだ。注ぎ終わると、すぐ傍に姉が来ていることに気付く。
「尽八。無理、してない?」
 小首を傾げて尋ねる姉に、東堂は一瞬言葉に詰まる。
 メモを読んで解る限り、無理、はしていないはずだ。そう東堂は思った。真波は過保護とも言えるくらい世話を焼いてくれるし、東堂自身もメモや時計等の道具が必要とはいえ、それほど大きな問題なく今の生活を送ることが出来ている。
 ただ、メモの最初のページに書いてある文言が、東堂の中で引っかかっていた。
『我侭を言わない。真波に迷惑をかけない。』
 それは、メモを開いた瞬間に、まるで戒めのように東堂を縛る。
「してないさ」
 しかし、東堂はすぐに笑顔を浮かべて姉に答えた。こんなことを書く位の何かがあったのだろうが、東堂には全く思い出せなかった。
 ただ、胸がじくりと痛んだ。

 

 

 その夜、二人は温かくもてなされた。息子の帰省ということもあり、リビングのテーブルには東堂の好きな料理が幾つも並ぶ。東堂の父と母、そして姉と共に、東堂と真波は食卓を囲んだ。温かな歓待に、真波の緊張で固くなった心が少し解れるような気がした。東堂は久々の家族団欒を楽しんでいるようだ。和やかな時間はあっという間に過ぎ、少し遅めの夕食の時間は終わった。東堂は夕食の後片付けを行う為に、姉とキッチンに立つ。真波も手伝おうと思ったが、お前はお客様なのだから座っていろと言われて席を立つ機会を逃した。
 真波の目の前には、東堂の母が座ってお茶を飲んでいた。真波は少し緊張した面持ちで、テーブルに置かれた湯のみを両手で握っている。そのまま口元に運んで、一口飲んだ。
「尽八は、迷惑をかけてないかしら?」
 湯のみをテーブルに戻すと、東堂の母が、何気なく、と言った様子で尋ねてきた。真波は二度瞬きをして、東堂の母を見る。その表情は普段と変わらない。東堂と同じ深い藍を思わせる瞳が真波を見ている。少しの間をおいて、真波は答えた。
「迷惑なんて、思ってません」
 それは真波の本心だった。真波は、東堂の存在を迷惑だなんて思ったことは無い。真波の言葉に、東堂の母は少し微笑んだ。
「それならいいのよ。でも、何かあるなら相談して頂戴」
 その言葉に、真波は口元を引き結ぶ。相談を持ちかけるなら、今だと思った。真波は真剣な目をして、東堂の母を見た。それに気付いたのか、彼女は真波の言葉を待ってくれた。
「後で、お話があります」
 真波がそう言うと、東堂の母は小さく頷く。それから、キッチンに向けて声をかけた。
「尽八。それが終わったらお風呂に入ってしまいなさい」
「真波が先じゃないのか?」
「食べ過ぎたから、少しゆっくりしたいそうよ」
 母の言葉に、東堂はキッチンで笑ったようだった。「仕方の無い奴だな」という声が聞こえる。それから少しして、片付けが終わったのか東堂と姉がリビングにやってきた。
「じゃあ、先に風呂に入ってくる」
「私は自分の部屋に戻るわ」
 そう言って東堂と姉はリビングを出て行く。その背中を見送り、足音が遠ざかるのを聞いた真波と東堂の母は、改めて顔を見合わせた。東堂の母が、にこり、と綺麗な笑顔を真波に向ける。
「お話を伺いましょうか」
 改めてそう言われて、真波は膝に置いた拳をぎゅっと握った。何をどう話せば良いんだろう。一瞬そう考えて、すぐに考えることを止めた。迷っている暇はない。真波の瞳に決意が滲んだのを受け取ってか、東堂の母がすっと微笑みを消した。
「今のままじゃ、駄目だと思うんです」
 真波は一度息を吸うと、言葉と共に吐き出す。
「オレだけじゃ、東堂さん……いえ、尽八さんのフォローをしきれないことも多いんです。その結果、何よりも尽八さんを傷つけてしまう。それが、オレにはたまらない」
「……それは、尽八の存在が、重荷であるということ?」
 落ち着いた東堂の母の声に、真波は頭を振る。そして東堂の母の瞳を真っ直ぐに見て言った。
「違います。尽八さんには、オレだけじゃない。もっと沢山の人の温かいフォローが必要だと思うんです」
 真波の言葉を吟味するように、東堂の母は真波を見る。その視線を逸らさないまま、真波は続けた。
「尽八さんには、何よりも慣れた土地で、見知った人たちに囲まれて、自分が出来ることを見つけて行くことが必要ではないかと」
 そこで、真波は一息ついた。ともすれば震えそうな声を落ち着かせる為に、深呼吸をする。この答えでいいのか、真波の中ではまだ纏まってはいない。だが、確かな意思を持ってその言葉を口にする。
「だから、相談があります。……オレをここで、住み込みで雇ってもらえませんか?」
 真波がその言葉を口にしたほんの数秒後。東堂の母が口を開くより早く、ドンッと壁が震える音がした。それに驚いた真波が、音のした方を見る。そこには、リビングの壁に拳を当てた東堂の姿があった。東堂は眉を引き上げ、燃えるような苛烈な視線を真波に向けている。
「何を……何を言っている、真波!」
「東堂さん」
 その視線を受けた真波は、目を丸くして東堂を見た後、真剣な表情をして言った。
「いつから、聞いていたんですか?」
「っお前、大学があるだろう!」
 真波の問いを無視して、東堂は強く叫んだ。譲る気がない東堂の様子に、しかし真波も譲る気など無いのだと視線で訴える。
「辞めるよ」
 短い真波の言葉に、東堂の顔がさっと青ざめた。「やめてくれ!」と東堂が悲痛な声を出す。東堂は真波に近付くと、その肩を掴む。酷く傷付いたような顔をして、声を絞り出した。
「やめてくれ、真波。頼む。オレの存在が重いならそう言ってくれ。切り捨ててくれればいいんだ。……だから、お前の人生を棒に振ろうとするな」
「東堂さん……」
 真波は、辛そうに顔を歪める東堂を、胸がつまるような気持ちで見た。だが、真波は真波なりに考えた末の結論だ。真波は人生を棒に振る気などなかったし、東堂の存在を重いと感じてもいなかった。それを伝えようと、真波は東堂の頬をそっと撫ぜる。そうして口を開こうとした真波を遮って、東堂が続けた。
「すまない。こんな状態になっても、お前と住み続けたいと言ったのは、オレの我侭だ。だから、もう、いい」
 東堂は絞り出すような声を出す。その表情は苦しげに歪んでいた。
「もう、やめてくれ」
 東堂が表情を隠すように顔を逸らす。流れる黒髪に隠されて東堂の表情は真波から見えない。だが、頬に触れている手に、温かく濡れた感触がして、真波は弾かれたように椅子から立ち上がった。頬に添えた手に力を加え、東堂の顔を上向ける。
 上がった面は涙に濡れていた。揺れる瞳から零れ出す涙は、ぽろり、ぽろりと頬を滑り落ちる。
「まな、み。お前は、自由なんだ。オレに、縛られてはならない」
 東堂が、泣いていた。
 事故後一度も涙を見せなかった東堂が、しゃくりを上げて泣く様は、真波の心を揺るがすには十分だ。
 違う。泣かせたいんじゃない。真波は両手で東堂の涙を拭う。「東堂さん」と優しい声で繰り返し名前を呼んだ。東堂の涙腺は壊れてしまったかのように温かな涙を流す。
「東堂さん、聞いて?」
 真波はただ一心に東堂を見て、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「オレは、東堂さんに縛られてなんかいない。オレはオレのしたいようにしているだけ」
 東堂が瞬きをする。長い睫毛が涙に濡れ、東堂の瞳を縁取った。真波はそれを綺麗だと思う。
「オレが自由じゃない? なんでそう思うの? オレは、自由だよ。このことで東堂さんがどんなに苦しんでも、傍にいたいって思うんだ」
 真波の口元が弧を描き、その顔に静かな笑みを浮かべた。自嘲を含んだそれを見て、東堂が戸惑いを浮かべる。
 東堂が真波の名前を呼ぼうとしたその時、パンッ、と乾いた音がした。驚いた二人はビクリと身体を揺らす。反射的に、揃って音のした方に視線を向ける。二人の視線の先には、両手を胸の前で合わせた東堂の母がいた。
 東堂の母の存在をすっかり忘れていた二人は、綺麗な笑顔を浮かべている東堂の母を見て青くなる。そんな二人を気に留めた様子も無く、東堂の母は言った。
「二人とも、頭を冷やしなさい」
 そう言って立ち上がると、東堂と真波の傍にやってきて、二人の背を軽く押す。
「きちんと二人で話し合って、答えが出たら、またおいで」
 優しい言葉に送り出されてリビングから出た二人は、ばつが悪そうに顔を見合わせた。東堂の涙は、先程の驚きで止まっている。だが、その目元は濡れて赤く染まっていた。真波はその眦に手を伸ばしてそっと撫でる。
「一度、部屋に戻りましょう」
「ああ、そうだな」
 東堂と真波は東堂の部屋へと向かった。その間、二人の間に会話は無い。秋の夜の静かな空気が、しんとした廊下に蔓延していた。東堂の部屋に辿り着くと、東堂がドアを開けて真波を先に通す。そうして自分も部屋に入った後で、後ろ手でドアを閉めた。東堂は閉めたドアに凭れ掛かったまま動かない。その視線は伏せられ、真波の足下を見つめていた。
「……なあ、真波」
「はい」
 東堂の口からぽつりと漏れた小さな声に、真波は神妙な面持ちで返事をする。東堂は口を開いて、一度閉じた。しかしすぐに思い直したように言葉を紡ぐ。
「オレは、こんな大事な出来事ですら……忘れてしまうのか?」
 それは、今まで気丈に振る舞っていた東堂の、弱音だった。
 東堂の問いに、真波は言葉を無くす。どんな言葉を掛ければ良いというのだ。確かに、東堂は忘れてしまうのだろう。メモには事実しか残らない。日常生活の合間に取るメモに、その時の感情の全てを記録することなど出来ない。あくまで、生活を送る上での手助けになるものなのだ。
「東堂さん……」
 真波は俯いた東堂の頭を包み込むように抱きしめた。東堂が鼻を啜る音がする。
「真波。そのうち、なんでお前が、こんなオレと一緒にいてくれるのかすら、わからなくなりそうで、こわい」
 涙まじりの東堂の声に、真波の胸がぎゅっと締め付けられる。今の東堂は、母親を無くした幼い子どものように寄る辺が無い様子だ。東堂がここまで追い込まれてしまったのは、真波が一人で東堂のことを背負い込もうとしたせいなのかもしれない。真波は東堂の後ろ頭をゆっくりと撫でながら、出来るだけ優しく響くように言った。
「大丈夫」
 真波は東堂の肩口に顔を埋める。それからもう一度、大丈夫と繰り返した。
「東堂さんが忘れても、オレが全部覚えてる」
 その言葉に、東堂が顔を上げようとした。真波は、東堂の頭に回した手をその背中に下ろして、頭を自由に動かせるようにしてやる。背を伸ばした東堂と真波の視線が重なりあった。
「東堂さんがどれだけオレのことを考えてくれているか。どれだけオレのことを大事に思ってくれているか。全部、忘れないでいる」
 真波がふわりと笑った。その笑顔は秋の空のように澄みわたって綺麗だ。笑う真波が東堂に伝える。
「だから、東堂さん。これから先も、ずっと、オレと一緒にいてください」
 その言葉を聞いた東堂の頬が、じわりと赤く染まった。真波は少し不思議に思って、東堂の顔を見る。東堂の頬に集まった熱はゆっくり耳まで広がった。
「お前……それは……」
 口ごもる東堂に、真波は今言った自分の台詞を思い返す。そして気付いた。
「あ。なんかこれ、プロポーズみたいですね」
「……っ!」
「でも、そんな甘い言葉のつもりなんかないですよ」
 真波は東堂の背に回した手に力を込めて抱き寄せる。強く掻き抱いて、東堂の耳元に告げた。
「オレ、もう貴方を離さないって決めましたから」
 そうして、東堂の赤い耳に唇を落とすと、目元にも唇を寄せてそこに残った涙を舐める。舌に広がった涙の味は、酷く甘いもののような気がした。

 

 

 真波の気持ちを思い知った東堂は、一つだけ条件を出した。
「大学は卒業すること。その後はお前の好きにしろ」
 東堂の言葉はどこか突き放しているような印象を与えるものだったが、真波は気にした風も無く東堂に笑いかける。そうして、「はい、好きにします」と言った。
 それから二人は、今まで触れてこなかったこれからのことを話し合った。東堂は大学を卒業するつもりだという。卒業要件については、既に親を通じて大学側と交渉しており、今後も出席とレポートで単位が貰えるように調整してもらうようだ。卒業してからのことは、両親と相談すると言った。それまでの間、真波には迷惑を掛けるかもしれないが、サポートしてほしいと、東堂は頭を下げる。そんな東堂に、真波は笑顔で了承を伝えた。
 お互いの気持ちを確かめ合った後、二人は連れ立って東堂の母の元に向かう。東堂の母は既にリビングにはおらず、真波は東堂に案内されて東堂の母の部屋に辿り着く。閉められた襖の隙間からは明かりが漏れていた。真波は東堂と顔を見合わせると、小さな声で「オレから説明します」と申し出る。東堂は頷いて、一歩下がった。真波は「失礼します」と声を掛けてから襖に手をかける。そっと横に滑らせると、文机に向かう東堂の母の姿が現れた。
「お待たせしました」
「……きちんと話し合えたのかしら」
 真波の言葉に、東堂の母は机に向けていた視線を上げて尋ねた。それに真波は頷いて、一歩踏み出して部屋に入る。部屋の中には、すでに二枚の座布団が並べて置いてある。東堂の母は「座りなさい」と促して、自分も真波と東堂に向き直った。
「貴方達の話を聞きましょう」
 二人を見て、東堂の母が言った。その言葉に、真波は無意識に拳を握る。真波は東堂の母に視線を合わせると、ゆっくりと話し出した。
「尽八さんとは、お互いこれからどうしたいのかを話してきました。オレは、これからも尽八さんと一緒に居たい。けど、大学はきちんと卒業します。大学を卒業した後なら、オレの好きにしたらいいって、尽八さんは言ってくれましたから」
「尽八は、これからどうするの」
「……オレは、大学を卒業したい。その後のことは、父さんも交えて相談させてほしいと思っている」
 東堂の母の言葉に、東堂は少し考え込んでから自分の考えを伝えた。真波と東堂の言葉を聞いた東堂の母は、一度目を伏せる。しんとした夜の空気が三人の間に流れる。
「他に、私に言うことは無い?」
 沈黙を作ったのが東堂の母なら、それを崩したのも彼女だった。目を開いた東堂の母は、真波と東堂を順に見て、確かめるようなことを言う。東堂は意味を捉えかねたように、目を瞬かせた。だが、真波は真っ直ぐに東堂の母を見る。
「あります」
 真波の固い声に、東堂が真波を見る。その視線を受けて、真波は東堂の方を見て安心させるように微笑んだ。そっと手を伸ばすと、東堂の手を握る。その行動よりも、真波の手がほんの少し震えていることを、東堂は訝しんだ。東堂の手を握った真波は、東堂の母に視線を戻して、とても優しい声で言った。
「オレ、尽八さんが、好きです」
「な」
 突然の真波の言葉に、東堂は唖然とした。口を開いたまま真波を見て固まる。そんな東堂に視線を向けて、真波は続ける。
「尽八さんのことを、愛しています」
 真波は、縋るような眼差しで東堂を見た。その視線を受けて、東堂は言葉に詰まる。東堂の中では、どうにかして誤摩化さねばならないという思いと、真波の真剣な気持ちを誤摩化すなどあってはならないという思いが鬩ぎ合う。一瞬の後、真波が東堂の手を強く握った。答えてほしい、と、真波は訴えている。東堂は無意識に唾を飲み込んだ。
「オレも、真波を愛してる」
 東堂の喉の奥につかえていた言葉は、するりと外に出た。外に出てしまえば、もう取り消すことは出来ない。真波は東堂を離さないと言った。だが、東堂も真波を離すつもりなど無いのだ。東堂は心を決めると、自らの母親を見た。彼女は、息子とその友人の告白を聞いたというのに、とても冷静に見える。
「……そう」
 東堂の母の口から、吐息のような声が漏れた。その声には、僅かな寂しさが感じられる。そんな母親の様子に、東堂が不安げに瞳を揺らした。それを見た東堂の母が、唇にふっと笑みを乗せる。
「なら、仕方がないわね」
「……」
 東堂の母の声は優しいものだった。そこから続く言葉を待って、東堂と真波は息を飲む。真剣な顔をして東堂の母を見る二人に向かい、彼女は続けた。
「真波さん。私の可愛い息子を、よろしくお願いします」
「っはい!」
 その言葉に、真波は心が一杯になる。東堂の母に、認めてもらえたのだ。それはこれから先の生活において一つの光だと思った。東堂の母は、真波に向けていた視線を東堂に移す。そして、言った。
「尽八は、今、自分の状態を理解しているの?」
「……オレは、事故以降、記憶することがほとんど出来ない。この場で話していることも、時間が経てば忘れてしまう」
「そうね」
 東堂の母がすっと立ち上がった。東堂の前まで歩いていき、その場にそっと膝をついた。そうして、東堂の頬に手を添える。
「それを解ってなお、あなたを愛すると言ってくれる人に出会えたことは、尽八にとって幸せなことよ」
 東堂の頬を撫で、東堂の母は柔らかく告げた。
「だから、胸を張って生きなさい」
 その笑顔は、とてもあたたかいもので、東堂は何も言えなくなってただ頷いた。そんな二人を見て、真波は心の底から安堵する。伝えてよかった、と。

 

 

 結局、その夜は東堂の母と話し合って終わった。東堂の母は、このことを東堂の父に告げるのはタイミングを見計らって自分がすると言う。東堂も、父親のことに関しては母親の意見を信頼しており、真波は「よろしくお願いします」と東堂の母に頭を下げた。
 短い帰省の帰り道。電車に揺られながら、真波と東堂は、これからも一緒に住むにあたって、いくつかのルールを作った。
 大学への行き帰りは共に行動する。
 周りに事情を話し、常にそれを知る誰かと行動を共にして、東堂一人で行動することは避ける。
 一日に一度は二人で話し合う時間を設ける。
 決めたことを綺麗な文字でメモに記して行く東堂を見て、真波はふっと東堂が無くしたメモのことを思い出す。それは、真波が何時も使っており、今日も持っているメッセンジャーバッグのポケットに仕舞われっぱなしになっていた。東堂が事故にあってからの全てが詰まったメモだ。返してもらったその日に東堂に渡すべきだった。しかしそのメモは、あの日待ち合わせ場所に東堂が居なかったことで東堂を酷く責めた真波にとっては、その記憶を想起させかねないものだった。また東堂を傷付けたら。もし、嫌われてしまったら。そんな思いが、真波にメモを返すことを躊躇させていたのだ。
 だが、と真波は思った。真波が一番恐れていることは、東堂が真波の傍から離れて行ってしまうことだ。東堂が真波のことを嫌っているなどとは思っていない。東堂は真波のことを大切にしすぎるくらい大切にしてくれていた。一緒に住んでいてそんなことがわからない筈が無い。だからこその不安も生まれるのだ。その不安は、真波の弱さだ。それは真波が超えて行かねばならない。
 真波は背負ったメッセンジャーバッグを前に回し、膝の上に置くとポケットを探った。メモはすぐ真波の手に当たる。それを取り出すと、真波を見ていた東堂が不思議そうに言った。
「真波もメモを持っているのか?」
「いいえ。これは、東堂さんのメモです」
「オレのメモはここにあるぞ」
 首を傾げる東堂に、真波は取り出したメモを渡した。それを受け取った東堂は、メモを開いて改める。最初のページに目を通していた東堂が、吐息が零れるように、幸せそうに笑った。何度も見て来たその表情の意味を知った真波は、愛おしさで胸が一杯になる。
「確かに、オレの字だな」
「東堂さんは、一度メモを無くしてるんですよ」
 真波は静かに笑みを浮かべながら言った。東堂はそんな真波を見て、「無くしてる?」と尋ねる。真波はそのままの表情で、東堂と真波が外で待ち合わせを行ったこと。その時に東堂が待ち合わせ場所からいなくなったことを話した。それを聞いた東堂の表情が陰る。
「オレの我侭で、お前に迷惑を掛けたのか」
「迷惑じゃないです。けど、怖かった。東堂さんに、何かあったのかと思って」
「そうか……すまなかった」
 真波が正直に述べると、東堂は申し訳無さそうに言った。東堂はそっと真波から視線を逸らし、手元にある二冊のメモを見る。そこには、事故にあってから東堂が記した記憶があった。東堂の手が、閉じたメモのカバーを撫ぜる。そこに彫られた自分の名前を見つけて小さく笑んだ。
「真波。オレは、これから先起こることが、どんなに大事なことだとしても、忘れてしまうのだろう」
 東堂の声には悲観的な所は無い。ただ淡々と事実を述べるように言った。
「それでも、お前はずっと、隣にいてくれるのか?」
 その言葉に、真波の脳裏に星空が浮かぶ。あの日見た夏の夜空。その下で、真波は確かに口にした。『ずっと、オレの隣に居て下さいね』と。それを思い出しながら、真波は東堂の横顔を見て言った。
「貴方が、そう望まなくても」
 その言葉に、東堂が顔を上げる。真波を見て、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべた。

 

 

 大学を卒業する頃になっても、東堂の状態は回復を見せることは無かった。東堂と真波は、東堂の両親も交えて話し合った末に、一般企業へ就職するのではなく、東堂庵で働くことを選択する。それは真波が思い描いていた未来と変わらないものだった。東堂がその選択をした時、東堂は真波に何度も言い聞かせた。
「お前の未来は決まってはいない。好きなこと、やりたいことがあれば、迷わずそれを選べ」
 最後までそう言って、大学を卒業した東堂は部屋を出て行った。
 それを懐かしく思い出す位には、時間が流れている。
 東堂に言われた通り大学を卒業した真波は、東堂庵への就職を選んだ。元々真波は、自転車に乗れれば満足するような人間だった。大学へ行って、結果的に真波の視野は広まったが、その価値観は変わらなかった。
 真波は東堂と共に生きたい。それはあの事故が無ければ、心から願うことではなかったのだろうと、今になって思う。
 真波は朝食の膳を両手に廊下を歩いていた。何も知らない素人の真波が任される仕事は、中居の手伝いから、単純作業の裏方の仕事まで多岐にわたる。その忙しさに最初は目眩を覚えた。だが、共に働く人たちは優しく、時に厳しく真波を育ててくれた。真波は物覚えの悪い方ではない。要領さえ掴んでしまえばそれなりにこなして行く。そんな真波を育てるのは、皆楽しいようだった。
 真波の歩く廊下の先に、人影が現れる。東堂だ。東堂に気付いた真波は、ふっと口元を緩めた。東堂もすぐ真波に気付いて。その表情を緩める。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
 二人はたった一言言葉を交わす。そうして、すれ違った。たったそれだけのことが、二人の心を暖める。
 ああ、幸せだと。

 

発行:2015/01/10 

web拍手 by FC2 

Return