逢いたいが情 見たいが病

 

 

 そこは鬱蒼とした森の中だった。生い茂る草や小枝を踏みつぶしながら、一人の人間が歩いている。小さな手足を懸命に動かしながら、舗装されていない山道を少年が進む。その前方で草が揺れた。彼がぱっとそちらに顔を向ける。

「ケイ?」

 伺うような声が、森の静寂に響く。しかし、それに対する返答は無い。代わりに一匹の狐が駆け抜けていった。

 少年は狐の去った方向を見て、それから左右に視線を迷わせる。

「どこにいるのかな……」

 ぽつりと呟かれた少年の言葉は、高く聳える木々の間に吸い込まれていった。

 

 

 

 

 その日、幼いアーサーは、義理の両親と義兄と一緒に遠出の旅行に来ていた。辿り着いたのは山間地の別荘で、両親は子ども達に遠くへ行かないことと森の奥へは入らないことを言い含めて荷解きを始める。アーサーは、義兄のケイと共に、別荘の庭で手合わせをしていた。

 木剣で打ち合いをする。義兄より体の小さなアーサーが、力で押し負けて一歩下がると、ケイが頭めがけて大きく振りかぶってきた。だが、小回りの利く弟はその一撃を避け、そのまま彼の後ろに回ると兄の首元に向けて木剣を突き出す。それが当たる直前で、止める。

「僕の勝ちだね!」

 喜びに声を上げると、ケイが忌々しそうにアーサーを見た。それから吐き捨てるように「手加減してやったんだ。浮かれるなよ」と言う。それでも義兄から一本取れたことを喜んでいると、ケイは面白く無さそうに手に持った木剣を放り投げた。

「つまんねえの」

「もうやめるの?」

「お前とやってもつまんねー」

 頭の後ろで腕を組んで背を向けてしまった義兄に、少し残念な顔をする。ケイは暫く何かを考えるような素振りで家の中を伺った後、アーサーに向き直ってにやりと笑う。

「森の中に行こうぜ」

「え、でも、義父さんは入っちゃ駄目だって」

「ちょっとくらいなら大丈夫だよ。なんだ、怖いのか?」

 嘲るような義兄の言葉に、それでもアーサーは「駄目だよ」と言った。言う事を聞かない義弟に、ケイの機嫌がだんだん悪くなる

「いいからついてこいって言ってんだよ」

 そう言って彼が義弟の手を取った。そのままぐいぐいと引いて森の中に踏み入る。アーサーは手を繋がれた事に驚いて、目を丸くしながら歩いた。彼が手を繋いでくれることなど、そう無いからだ。森の奥に行ってはいけない。その言いつけが頭をかすめたが、繋いだ手の温かさと、森への興味がそれを勝った。自分の後について歩く弟に機嫌を良くして、ケイがどんどんと森の奥へ進んでいく。次第に周りの景色が変わっていった。木がみっしりと生え、高く伸びたそれは葉を生い茂らせて陽光を遮る。見通しが悪くなり、アーサーは足下に気をつけながら必死で義兄の後を追った。

 どのくらい歩いただろう。目の前には一際大きな木がそびえ立っていた。立派な幹には、まるで二人を飲み尽くそうとしているような大きな洞が空いている。それを見て、ケイが一歩後ずさった。だがすぐにアーサーに向き直ると、言う。

「よし。今からかくれんぼしようぜ。鬼はお前な」

「え!? こんな森の奥でかくれんぼなんて、迷ったらどうするの?」

「なんだよ、自信ねえのかよ」

 馬鹿にするような義兄の声に、首を振る。

「そろそろ戻ろう。きっと義父さん達が心配してる」

 冷静な言葉に、ケイは苛ついたように頭を掻いた。それからアーサーの手を振り払うと、その背を押して木の洞に押し込む。

「百数えたら探しにこいよ。見つけるまで帰らないからな!」

「……わかった」

 渋々頷いて数を数え出す義弟を見て、ケイはすぐに踵を返した。そのまま、隠れることもせずに来た道を戻っていく。残されたアーサーが百を数え終わる頃には、その姿はどこにも見えなくなっていた。

 木の洞から出ると、アーサーはきょろきょろと辺りを見回した。

「ケイ。探すよ?」

 誰にともなく声を掛けて、大木の周辺をくまなく探した。しかし、義兄の姿はどこにもない。それはそうだろう。彼はもう、帰ってしまったのだから。それでも、見つけるまで帰らないと言ったケイの言葉を信じて、少しずつ探索範囲を広げた。徐々に森の奥へ奥へと進んでいく。脳裏には義父の言葉が過った。森の奥に行ってはいけない。その言いつけを破ってしまっていることに対して、罪悪感が募った。もしかしたら、ケイは帰ってしまったのかもしれないとも思う。しかし、もし本当に探しにこられるのを待っていたら、と思うと、一人帰ることも出来ない。

「ケイ。どこにいるの」

 そうやって探すことに夢中になるうちに、高かった日が傾いていた。急に暗くなってきた視界に、空を見上げる。木々の間から零れていた木漏れ日が、その光を弱くしていた。これは不味い、と思った。とりあえず、あの大木の所まで帰ろうと体を反転させる。そこには、見慣れない景色が広がっていた。薄く闇の迫る森はその表情を変える。それは、幼いアーサーの方向感覚を狂わせるには十分だった。

 じわり、と心に不安が滲む。自然と視線が足下に下がった。そんな自分に気付き、首を振って振り払うと、来た道を戻ろうと歩み出した。きっと今頃、別荘に居る義父達が心配しているだろう。早くケイを見つけて戻らねばならない。だが、夜の森は危険だ。とりあえずあの大木まで戻ろう。もしかしたら、義兄もそこにいるかもしれない。

 足元に気をつけながら山道を歩いた。だが、歩けど歩けど大木には辿り着かない。アーサーの心に、次第に焦りが生まれた。すでに方向感覚は失われ、自分が同じ所を堂々巡りしているかのようにも思える。その頃には、もう日が落ちていた。薄闇の中、それでも歩き続ける。立ち止まれば心が折れてしまうと思った。

 浮かれ過ぎちゃったな。とアーサーは数時間前の自分を叱咤した。ケイが手を繋いでくれたから嬉しくて言いつけを破り、あまつさえ森で迷子になっているのだから。

 手探りで進むアーサーは既に何度か転び、その手足は、土埃に汚れていた。それでも、慎重に目をこらして歩く。そんなアーサーの視界に、明かりが見えた。こんな森の中で明かりが見えるということは、そこに誰かが居るということだ。藁にも縋る思いで、その明かりに向かって歩く。

 そこは、ほんの少し開けた場所だった。

 焚き火の傍には、一人の人間が座っている。旅人だろうか。着慣れた様子の旅着に身を包んで、火に当たっている。

「……こんばんは」

「こりゃ、驚いたな。こんな夜の森で何してんだ、坊主」

 坊主、とアーサーに向かっていったその人は、自分より年上だと解るものの、どう見ても大人ではなかった。この人こそ、こんな時間に何をしているのだろう。そう思いつつも、返事をした。

「アーサーと申します。森で迷子になってしまいました。火をお借りしてもよろしいでしょうか?」

 そう言うと、目の前の少年が目を瞬かせた。幼い子どもの口から丁寧な言葉を聞いて驚いた、というような風情だ。

「ああ、いいぜ。座れよ」

「ありがとうございます!」

 お礼を言って、アーサーは焚き火の傍に座った。暖かな火に当たってほっと息を吐く。

「お前、随分汚れてんな」

「視界が悪くて、何度か転んでしまいました」

「怪我してねえか?」

「ほんの少し擦りむいただけです」

 そう言って腕を巻くって見せたアーサーに、旅人は自分の後ろに置いた革袋から水筒と布を取り出すと、その布を水で湿らせた。

「擦りむいたとこ出せ。放っとくと酷くなるぞ」

「あ、はい」

 促されて、シャツの袖を巻くってズボンの裾を上げた。肘と膝の辺りに擦り傷が出来ている。その傷口を、旅人の持つ布が優しく触れて汚れを落としていく。布が傷口に触れる度に、ぴりりとした痛みが走った。

「もうちょっと我慢だ」

「大丈夫、です」

 眉根を寄せるアーサーを見て、旅人が言う。それに返事をして、アーサーは目の前の人を見た。蜂蜜色の髪は固そうで、色んな方向に跳ねている。瑞々しい青林檎のような鮮やかな緑の瞳は大きく、焚き火に照らされて神秘的な色をしていた。この人は誰なのだろう。どうして、こんな森の中で野営をしているのだろう。脳裏に様々な疑問が浮かんだ。

「おっと、そういや名乗り忘れてたな。オレはメリオダス。旅人だ」

 その疑問に答えるように、旅人が言った。そうして傷口を綺麗に拭い終わると、一歩距離を置いて座り直す。

「お前はどこから来たんだ?」

「山間の別荘地からです」

「ああ、確かにあったな。しかし、子どもの足だと随分遠いぜ」

 言外に、なんでこんな森の奥まで来たのだと尋ねるメリオダスに、ほんの少し困って眉を寄せた。

「かくれんぼをしていたら、森の奥に迷い込んでしまって」

「なんだ。もしかして置いていかれたのか?」

 彼の言葉に、アーサーは視線を落とした。その先では炎がめらめらと燃えている。揺らめくそれを瞳に移しながら言った。

「そうかもしれません」

「そっか。ならいい」

 静かな声に返って来たのはあっさりとした言葉だった。それきり何も聞かないメリオダスに、思わず尋ねる。

「何も聞かないのですか?」

「全部聞いたろ?」

 その言葉に、驚いた。こういう話をすると、大人達は決まってアーサーのことを可哀想だと言って庇う。そうやって大人達に受けの良い自分を見て、ケイが更に苛立ちを募らせることも知っていた。だから、アーサーは自然と義兄からされたことを大人には話さなくなったのだ。今回口が滑ったのは、メリオダスが大人に見えなかったからに過ぎない。それでも、こんな反応をされるとは思わなかった。

 アーサーの心が、ほわりと温かくなる。この人は、他の人とは違う。自分のことを可哀想だと言ったり、ケイのことを一方的に責めたりしない。そう思うと嬉しくて、それはそのまま言葉になって現れる。

 ぽつりぽつりと、色々な話を口にした。それは主に義兄のことだ。アーサーに対してはいつも意地悪ばかりするけれど、本当は優しい所もあるのだということを誰かに解って欲しかったのかもしれない。メリオダスは自分の話に相槌を打ちながら聞いてくれる。可哀想だとか、辛いだろうとか、そんなことは一度も言わなかった。それが嬉しくて、喋り続ける。

 暫くして、アーサーは一息ついた。息が上がる程話し続けたのは初めてのことだ。ばくばくする胸に手を当てて深呼吸をする。すると、目の前に水筒が差し出された。お礼を言って受け取り、一口飲む。冷たい水が、熱くなった喉に心地よかった。

「すっきりしたか?」

 メリオダスがにやっと笑ってアーサーを見る。ほんの少し意地の悪いその表情を見て、自分が色んなことを喋り過ぎたと知った。急に恥ずかしくなってきて、俯く。すると彼は、ほんのり赤くなったアーサーの頬を人差し指で撫でた。

「真面目に生きるのは悪いことじゃねえが、お前はもうちょっと我侭でも良いと思うぜ」

 言われて、頬がさらに熱くなる。我侭でも良いなんて言われたのは初めてだった。義父達には育ててもらっているのだから、迷惑を掛けないように、我侭を言わないようにと心掛けて来たのだ。それは周りの人間に対しても同じことだった。

「我侭、ですか?」

「そーそー。あれが欲しいとかこれは嫌だとか。お前は根っからのいいヤツみたいだから、たまには思ってることそのまま言っちまっても迷惑にはならねえと思うぞ」

「そうかな……」

「ああ」

 メリオダスはそう言ってアーサーの頭を撫でる。髪を乱すその手が、やけに大きく感じた。

「夜の森は、獣も出るし何より見通しが悪くて危険だ。朝になったら、別荘地まで送ってやる」

「……ありがとう、ございます」

 ぽんぽんと頭を叩いて、手が離れていく。それを見送って、照れ笑いを浮かべた。

 もうちょっと撫でていて欲しかったな。そう思った。

  

 

 携帯食を分けてもらって夕食とし、アーサーは焚き火からほんの少し離れた所に横になった。冷たい土の温度を感じながら、今頃心配しているであろう義理の両親に想いを馳せる。二人は実の子どもでもないアーサーをとても大切にしてくれていた。きっと心配しているだろう。ケイも心配しているだろうか。それとも。

 そこまで考えて、頭を振った。どうにも悪い方に考えてしまう。嫌われている自覚はあった。居なくなってしまえば良いと思われていることも知っていた。でもそれは、自分が居ることでケイに与えられる両親の愛情を奪ってしまっているからだ。義兄だって、寂しいだけなのだ。根は悪い人じゃない。

「……眠れねえか?」

 ぐるぐると考え込んでいると、メリオダスの声がした。顔を上げると彼がこちらを見ている。その瞳には優しい光が宿っていた。

「野宿なんてしたことねえんだろ。ほら、こっち来い」

 言われて、少し迷った後にその言葉に従った。立ち上がり、メリオダスの傍まで歩く。隣に立ったアーサーを見て、彼が胡座をかいた自身の膝を叩いた。

「特別サービスだ。枕に使って良いぞ」

「でも」

「明日、寝不足でふらふらのヤツを連れ歩くなんて勘弁だぜ」

「……お借りします」

 そんな風に言われると断れない。何より、野宿が初めてで上手く眠れなかったのも確かだ。メリオダスの隣に座ると、その膝の上に頭を乗せて横になった。体は自然と猫のように丸くなる。頬からじわりと伝わる他人の体温に安堵して目を閉じると、一度優しく頭を撫でられた。

「おやすみ」

 その声は柔らかく耳に馴染み、アーサーの睡魔を呼び起こす。まるで、子守唄のようだと思う。

 意識が暗転し、次に覚醒した時には、世界が透明な眩しさに溢れていた。

「あれ?」

「起きたか」

 あまりにも急なことに、ぼんやりとした目元を何度も擦る。すると、温かな手がアーサーの手を握り込んだ。

「あんまり擦るな。目に良くない」

「はい。あの、えっと。おはようございます?」

「ああ、おはよう。よく寝られたみてーだな」

 見下ろしてくるメリオダスの言葉に、一瞬きょとんとする。それから、膝を借りていることを思い出した。がばりと起き上がると、慌てて彼と向き合う。

「すみませんでした!」

「何がだ?」

「ずっと膝をお借りしてしまいました」

 頭を下げると、彼が笑った気配がした。

「膝貸してやるって言ったのはオレだぜ。謝ることはねーよ」

「でも、眠れなかったんじゃ」

「仮眠はした。これでも体力はある方だから心配無用だ」

 その言葉に、アーサーは眠りこけてしまった自分を恥じた。本当はほんの少し眠って、途中で火の番を交代するつもりだったのだ。なのに、気付いたら朝だなんて。

 俯く頭をメリオダスが小突いた。

「バーカ。チビが余計な気を回してるんじゃねえよ。困った時は大人に頼っとけ」

「……大人?」

「不思議そうな顔すんなよ。これでも酒が飲める年だぜ」

 笑ったメリオダスを見て、アーサーは青くなった。見た目からして、彼も自分と同じ子どもに分類される人だと思っていたからだ。

「ごめんなさい」

 再度頭を下げると、「そういうのは良いって」と後ろ頭を掻きながら答えられた。

 二人は昨晩と同じ携帯食で朝食を済ませる。それから、メリオダスは焚き火の後始末をして立ち上がった。

「そんじゃま、お前の親御さんのとこまで行きますかね」

 革袋を背負った彼は、アーサーに向けて右手を差し出す。その手を握りしめると、深く頷く。

「よろしくお願いします」

「ああ、任せとけ」

 そうして二人は、朝露の輝く森を歩いていった。

 

 

 

 

 メリオダスに導かれて別荘地まで帰って来たアーサーは、義母から痛いくらいに抱きしめられた。涙を浮かべる彼女の目の下には、うっすらと隈が出来ており、眠ることが出来ない程心配を掛けてしまったことを申し訳なく思った。だが、それと同時に、自分が必要とされているのだと実感し、嬉しさに涙が浮かんだ。義父はアーサーを探しに森へ出ていたが、昼過ぎに戻って来た。彼は厳格な性格だったので、殴られることすら覚悟していたが、義父は義息の姿を見ると、小さな体を抱き竦めて「良かった、良かった」と繰り返した。その様子に、アーサーの涙腺はまた緩んだ。そんな両親と義弟の様子を見て、ケイは気に食わないと言わんばかりに背を向けた。

 アーサーを連れて来たメリオダスは、両親から大層感謝された。旅先でろくな礼も出来ないが、歓迎するので是非泊まっていってくれとの強い申し出に、彼は押し負けたようだ。そうして、一家とメリオダスは数日間を共に過ごすことになった。このことを一番喜んだのは、他でもないアーサーだ。すっかり彼のことを気に入った様子の義息に、両親は少し驚きながらも微笑ましい視線を向ける。メリオダスも懐いてくる子どもを無下にするようなことはしなかった為、彼の後をついて歩くアーサーの姿がよく見られた。

 これに気分を害したのがケイだ。彼にとってアーサーは疎ましい存在であったが、それと同時に我侭を言っても気にならない遊び相手でもあった。義弟は最終的に自分の言うことを聞いたし、何をしてもけろりとして、決して告げ口などしなかったからだ。そんな、ある意味思い通りに動くアーサーが、唐突に現れた旅人の後を雛のように付いて回り自分を顧みない。それはケイにとって大層面白くないことだろう。

 

 

「アーサー!」

「どうしたの、ケイ」

 メリオダスがやってきて二日目の昼。リビングで客人と楽しそうに話していたアーサーを見つけて、ケイは大声を出した。怒りを含んだその声に、義弟は吃驚したような顔をしてこちらを見てくる。

 彼は自分のことを名前で呼んでいた。それは昔、「お前の兄になったつもりなんかないからな」と告げたからだ。その時の義弟の傷付いた顔を思い出して、ほんの少し胸がすっとする。気を持ち直して、言った。

「庭で手合わせしてやるよ」

「……今から?」

 アーサーがちらりとメリオダスを伺う。その仕草にまた不愉快な気分になって、椅子に座る義弟の傍へ行って右手を掴んだ。

「ほら、行くぞ!」

 きつく手を引くと、立ち上がったアーサーが返事をしてメリオダスに声を掛ける。

「うん……。メリオダスさん、また後でお話して下さい」

「おお。行ってこい」

 ひらりと手を振った客人から義弟を引き離すように、ケイは力任せに手を引いた。リビングを出て庭に向かう廊下を足早に歩く。

「ケイ、何を怒ってるの?」

「怒ってねえ!」

 むっとして答えると、彼はもう何も言わなかった。黙ってついてくる義弟を連れて庭に出ると、その手を離す。壁に立てかけてあった二本の木剣に手を掛けると、その内の一本をアーサーに向かって投げた。

「わっ」

 驚きの声を上げつつも、なんとか木剣を摑み取ったアーサーに、自然と舌打ちが出る。ケイは相手が構える前に攻めた。頭上に振り下ろされた一撃を、義弟はなんとか受ける。だが、角度を変えた二撃目はそうはいかなかった。左側面から振り下ろした木剣はアーサーの手元に当たる。

「っ!」

 義弟がその痛みによって木剣を取り落とす。地に落ちる得物を見て、嗤った。アーサーが慌てて木剣を拾おうとする。だが遅い。三度振り上げた腕を、その肩口めがけて振り下ろす。

 取った。それは確信だった。

 しかし、義弟に向けて振り下ろした筈の木剣は、彼に当たる直前でぴたりと動きを止める。得物の先に視線を移動させると、そこにはメリオダスの姿があった。彼はアーサーの後ろに立ち、ケイの持つ木剣の先を左手で掴んでいる。

「こーら。丸腰の相手に武器を振るうもんじゃねえぜ」

「メリオダスさん!」

 その声に振り向いたアーサーが、驚いたような声を上げる。どこか嬉しそうな義弟の表情に、また苛立ちが募った。

「離せよ、邪魔するな!」

「おお。元気だなー、ケイ」

 精一杯の力でメリオダスの手を振り払おうとするが、掴まれた木剣はぴくりとも動かない。相手とはそう体格差があるようには思えない。であるのに力で敵わず、悔しくなって得物から両手を離した。客人は木剣を手の中で回転させて柄を持つと、刃の部分を自らの肩に置く。

「何でお前がついて来てるんだよ!」

「そうそう。アーサー、忘れ物だ」

 怒鳴り声を気にした風も無く、メリオダスは立ち上がったアーサーに一冊の手帳を差し出す。それを見た瞬間、アーサーは片手に持った木剣を取り落とし、慌てた様子で受け取った。その頬は若干赤らんでいる。

「後でも良いかと思ったんだが、忘れそうだから追って来た」

「あ、ありがとうございます」

 お礼を言って手帳を大事そうに懐に仕舞い込む義弟の姿に、ケイは不審な目を向けた。

「何だよ、それ」

「……何でもないよ」

 アーサーが視線を逸らしたまま答える。そんな答えが聞きたいのではない。義弟に近寄ると右手を差し出した。

「何でもないなら見せてみろよ」

「見ても面白くないし」

「そんなの俺が決めることだ」

「……」

 渋る様子に、おかしいと思った。アーサーは基本的に自分の言うことには逆らわない。森に誘った時も、両親の言いつけがあったにも関わらず最終的には自分について来た。なのに、手帳一冊見せることをこんなに渋っている。一体何が書いてあるというのか。それはケイの興味をそそるのに十分だった。

「アーサー」

 ほんの少し苛立った声が出る。それに反応して、アーサーはぎゅっと手帳を仕舞った胸元を握り込んだ。どうあっても見せる気がないのだろうか。

「見せたくねえって言ってるものを、無理に見るなんて趣味が悪いぜ?」

 無理矢理にでも見てやろうと伸ばした手は、メリオダスの言葉と体に遮られた。ケイとアーサーの間に立った彼は、自分を見下ろしてにかりと笑う。

「我慢も大事だぞ、ケイ」

 何もかも見透かしたようなその言葉に、かっと頭に血が上った。

「……ちょっと年上だからって、いい気になるなよ!」

 そう言いながら、アーサーが取り落とした木剣に飛びついてそれを構える。そして、目を丸くしているメリオダスに向けて斬りつけた。

「おっと」

 それを、彼は軽い声と共に木剣で受け止める。渾身の一撃を止められて、慌てて下がって間合いを取った。メリオダスは小首を傾げて暢気な声で尋ねてくる。

「今度はオレと手合わせでもする気か?」

 急に斬りつけられたというのに、怒るでもないその様子が気に障る。まるで自分など相手にする価値もないと言われているようだ。まだ幼いとはいえ、ケイも聖騎士の息子。もちろん将来は聖騎士を目指しているし、そこらの子どもよりは剣を扱えるつもりでいる。その自負を傷付けられたように感じた。

「馬鹿にするなよ!」

 叫んで、間合いを詰め再び斬り掛かった。メリオダスは何を思ったのか木剣を手放すと、無手で向かってくる。互いが接触する。次の瞬間、急に両手から木剣がすり抜けたように感じた。軽くなった両手に、何が起こったか解らず瞬きを繰り返す。

「あ!」

 近くで見ていたアーサーが驚いたような声を上げた。その次の瞬間、首筋に軽く何かが当たる。

「ほい、終わり」

 その声がした方を振り向くと、木剣の柄を握るメリオダスの姿があった。その刃はケイの首筋に当てられている。

「なんで……」

 思わず声が出る。何が起こったか全く解らなかった。自分の持っていた木剣を、何故か相手が持っている。驚愕の視線を受けて、メリオダスがにやりと笑う。

「解説が必要か?」

 そう言って木剣を差し出してくる彼を見て、愕然としたままそれを受け取った。無意識に、ぎゅっと柄を握りこむ。

「もう一度斬り掛かってこい」

 メリオダスの言葉に、ごくりと唾を飲み込んで二歩下がった。そして踏み込みと同時に木剣を振り下ろす。彼は自らも間合いを詰めると、右腕で木剣を持つケイの右腕を右へ逸らした。メリオダスの左手は柄に添えられ、そのまま体を回転させて木剣を持つケイの手を捻り上げるようにし、あっという間に木剣をその手中におさめる。

「とまあ、こんなもんだ」

 取り上げた木剣を肩に置き、メリオダスが言った。その声を聞きながら、自分の両手をじっと見る。この手は柄をしっかりと握っていた筈だ。それなのに、たいした衝撃も無くするりと木剣は手を離れた。ぐっと両手を握り込むと、相手を見上げる。

「……すげえ!」

 先程までの不愉快さはあっという間に吹き飛んだ。彼の見せた技に、心が踊る。ドキドキと五月蝿くなる心音を感じながら、メリオダスに詰め寄った。

「なあ、今のやつ俺にも出来るか!?」

「お、気に入ったか? けど、タイミングの見極めが難しいぞ」

「やる! 教えてくれ……ください!」

 教えを請う言葉を途中で改めてお願いすると、彼はほんの少し空を見上げた。それから視線をアーサーに移す。すると、尻込みしていた義弟が一歩前に出る。

「あの、僕にも教えてください!」

「俺が先に言ったんだぞ!」

「でも」

「でもじゃねえ!」

 引き下がらないアーサーに叫ぶと、メリオダスが持っていた木剣を二人の間に差し入れて止めた。

「あー、わかったから喧嘩すんな。じゃあ条件だ。お互い相手に少し優しくすること」

「え?」

「優しく……?」

 彼の言葉に、お互い首を傾げる。相手に、つまりはアーサーに優しくすることが条件だと、そう言った。それは、とても簡単なようでいて難しいことだ。何せケイは、義弟のことがとにかく気に食わない。気に入らない相手に優しくするだなんて、大嫌いな食べ物を無理矢理飲み下すより難しいことだ。しかし、それを承諾しなければ、先程の技を教わることが出来ない。

「……」

「わかりました」

 黙り込んでいると、その隣にいたアーサーがあっさりと頷いた。それから、自分に向けて片手を差し出す。そして、はにかむように笑った。

「一緒に頑張ろうね、ケイ」

 その言葉は何の嫌みも無い。心からそう思って告げられた言葉に、酷く惨めな気分になった。そう、こんな所も気に食わない。ケイがどれだけ、この義弟に対して辛く当たろうと、アーサーはまるでそんなことは無かったかのように自分に接してくるのだから。

「……よろしくな」

 その気持ちをぐっと押さえ込んで、差し出された手を握り、乱暴に上下に振った。その様子を見て、メリオダスが二人の肩を掴んで笑顔を向ける。

「よーし、じゃあ順番に行くぞ。まずはケイからだ。アーサー、相手役を頼む」

「はい!」

 そうして、指南の時間が始まった。

 

 

 ケイと二人でメリオダスによる手ほどきを受けたその夜。アーサーはベッドの中で幾度目かの寝返りを打った。どうにも上手く眠れない。同室のケイは、すでに気持ちの良さそうな寝息を立てているというのに、自分は全く眠気に襲われなかった。小さく短いため息をつくと、思い切ってベッドから抜け出す。ベッドの側に置いたサンダルを履いて、アーサーは部屋を出た。まだ両親が起きているのか、左手にあるリビングには明かりが灯っている。外の空気が吸いたくなって庭へ向かう。庭に通じるドアを開けると、涼やかな夜風が頬を撫でた。暗闇の中に三歩進んで立ち止まると、空を見上げる。生憎の曇り空で、薄雲に阻まれた月がその光をぼんやりと滲ませていた。

「なんだ、まだ起きてるのか」

「わ!」

 唐突に掛けられた声に、アーサーは驚きの声を上げた。今の時間帯を思い出し、慌てて口元を覆う。そうして声のした方を見ると、暗闇にランプの小さな明かりが浮かんでいた。その明かりが少し上に掲げられ、声の主の顔を照らす。

「メリオダスさん?」

「おお。もう寝たんじゃなかったのか、アーサー」

「はい。けど、上手く眠れなくて……」

 そう言いながら、メリオダスの方へ歩んでいった。彼は傍に来たアーサーを見て笑いかける。

「お前、出先じゃ眠れないタイプか? でも昨日はよく寝てたよな」

「ごめんなさい……」

「だからいちいち謝るなって」

 ぐしゃりと髪を掻き混ぜるように撫でられて、胸の内がぽかりと温かくなったような気がした。メリオダスの目を見上げる。闇の中に浮かぶその瞳は、暗緑色の宝石のようだと思った。綺麗なものに惹かれるように、無意識に手を伸ばす。その手は何にも阻まれることはなかったが、何に触れることも無かった。自分の視界に入った小さな手を見て、寂しいような気持ちになる。ほんの少し眉を下げると、彼の瞳が優しげに細められた。

「どうした、アーサー」

 優しい声で問われて、言葉に詰まる。伸ばした手を自分の胸元に引き寄せて、目を伏せた。

「なんでもありません」

「そうか?」

 メリオダスは軽く首を傾げて、俯いてしまったアーサーを見た。それからその場に膝を折り、腰を落とす。

 突然視界に入ったメリオダスの顔に、アーサーは瞬きをした。そんな自分に向けて、彼の手が伸びてくる。俯いた顔、その頬を優しく摘まれた。

「で、なんだ?」

「……」

「アーサー」

 意地を張った子どもを諭すような声で名を呼ぶメリオダス。その声にたまらないような気持ちになる。

「早く、大人になりたい」

 言葉は自然と零れ出た。それに気付いてはっとする。慌てて両手で口元を塞ぐも、外に出てしまった言葉を取り消せる訳ではない。どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。混乱するアーサーの様子を見て、メリオダスは頬から手を離した。屈んだまま、立ち尽くすアーサーの目を見て言う。

「そっか。なあ、アーサー。お前の言う大人ってなんだ?」

「え? ……一人で、生きていける人……?」

「一人になりたいのか?」

 問われて、ぶんぶんと顔を横に振った。決して一人きりになりたい訳ではない。けれど、一人でも生きられるぐらい、強い人にはなりたかった。そう、目の前の人のような。

 そこまで考えて、そうか、と思った。自分はこの人に憧れているのだ。メリオダスは、ほんの数日を共有しただけの人だ。だが、その短い時間の間に、彼の飾らない優しさに触れた。その懐の大きさも実感した。この人は、まるで魔法でも使ったかのように、アーサーの心を惹き付けたのだ。

「……メリオダスさんみたいに、なりたいです」

 見上げる瞳を真っ直ぐに見ながら言った。すると、彼は呆気に取られたような顔をした。その数秒後、メリオダスが困ったように笑う。

「そりゃ……やめとけ」

 初めて聞く、どこか突き放すような声だった。その声に隠れた暗い感情に気付いて、ごくりと唾を飲む。自分は何か悪いことを言ってしまったのだろうか。戸惑うアーサーの肩を、メリオダスの手が掴んだ。

「何かを目標とするのは悪いことじゃない。けどな、アーサー。お前はお前にしかなれない。決して人に成り代わろうとするな」

 真剣な眼差しに射抜かれて、言葉を失った。そんな自分を見て、メリオダスが表情を和らげる。

「まあ、そんな風に思われて悪い気はしねえがな」

 その言葉を聞いて、何故か無意識に嘘だと思った。何故そう思ったのかはわからない。けれど、彼の傷に触れてしまったのだと感じた。その傷の深さはわからないが。

「ごめんなさい」

「どうして謝る」

「悪いことをした気がしました」

 正直に告げると、メリオダスは困ったように笑った。

「じゃあ、仕方ねえなあ」

 そう言って、立ち上がった彼はアーサーの頭を撫でる。

「いい子だ。もう寝ろ」

「……はい」

 宥めるように頭を撫でられても、物寂しい気持ちは消えなかった。それを振り払うように、努めて明るい声を出す。

「メリオダスさんは?」

「オレは、もうちょっと月を見てる」

 その返事に、もう一度空を見上げた。月は相変わらず薄い雲に覆われている。一体何を思いながら、雲隠れの月を見ていたのだろう。そう思ったが、何も聞かずに笑んだ。

「おやすみなさい、また明日」

「ああ、また明日」

 交わされたまた明日という願いに、心がほんの少し温かくなった。 

 

 

 

 

 翌日は朝から霧のように細かい雨が降っていた。空は雲に覆われて暗い。窓を開けると湿気を含んだ風に乗って、雨粒が流されてくる。柔らかな雨を顔に受けて、冷たいと感じた。

「アーサー。雨なんだから、窓開けるなよ」

 ケイの言葉を受けて、アーサーは開けていた窓を閉めた。そうして振り返ると、リビングのソファに座った義兄とメリオダスの姿が目に入る。昨日の一件ですっかり彼に懐いたケイは、朝からずっとメリオダスの後を付いて回っていた。まるで昨日までの自分を見ているようだ。アーサーはというと、なんとなく二人の間に入れずにいた。

「ケイもすっかりメリオダスさんに懐きましたな」

「本当に。まるで兄弟のようね」

 ケイとメリオダスの正面に座った両親が、笑みを交わしながら言う。メリオダスは自らを酒の飲める年だと言った。それが本当ならば、兄弟というには年が離れ過ぎているように思う。だが、彼の見た目は大人というより子どもに近いので、両親の言葉になんの違和感もなかった。

 アーサーは皆の所に歩いていくと、義母の隣に座った。そのとき、メリオダスと目が合って笑いかけられる。なんとなく気恥ずかしくてはにかんだ。

「メリオダスさんは旅の途中と聞きましたが、どこか目的地があるのですか?」

「いや。特にあてはないな」

「では、是非我が家にも寄っていって下さいませんか。子ども達も喜びます」

 義父の言葉にメリオダスは首を振った。

「連れを待たせてるから、明日にはここを出て行く」

「ええ!?」

 その言葉に驚きの声を上げたのはケイだ。彼はメリオダスの右腕を掴むと「そんなの聞いてない!」と叫ぶ。

「ずっと一緒にいるなんて言ってないぞ?」

「けど、もうちょっと居てもいいだろ。なあ、アーサー」

「え? う、うん」

 急に振られて、つい曖昧に返事をしてしまう。しかし義兄は気にした様子もなくメリオダスの腕を引いた。

「ほら、な!」

「連れがいるっていったろ? あんまり待たせてると、置いていかれかねないからな」

 彼は言い聞かせるような声で言う。その言葉にも引き下がらないケイに、メリオダスは苦笑した。

「こら、ケイ。無理を言ってはいけないよ」

 見かねた義父の言葉に、ケイはぐっと押し黙った。それでも掴んだ腕を離そうとしない彼を見て、アーサーはなんだか羨ましいような気持ちになる。とはいえ、義兄が両親の前でこんなふうに駄駄を捏ねるのは珍しいことだった。彼は、自分と二人で居るときには無茶な要求もしてくるが、両親の前では決してそんなことはしなかったからだ。出来る範囲で聞き分けの良い子どもを演じているのがわかった。無意識に、愛されることを求めているのだろう。そんなケイが見せた可愛らしい我侭に、両親は微笑ましそうな笑顔を向ける。

「ケイは、メリオダスさんが好きなのね」

「本当に。これは困りましたな」

 父親の困ったという言葉に反応して、彼はメリオダスの腕から手を離した。ほんの少し拗ねたように、顔を逸らす。そんなケイを見て、メリオダスがにやりと笑う。

「ほう。顔を合わせた当初はそこまで好かれるとは思わなかったがな?」

「それは! その……メリオダスさん!」

「はは。拗ねるなよ、ケイ」

 そう言って義兄の首に手を回し、反対の手で髪をぐしゃぐしゃとかき回すメリオダス。その光景を、どこか遠いものを眺めるように見ていると、その視線に気付いたメリオダスがアーサーを見た。目が合った彼は、一瞬不思議そうな顔をした後、明るく笑う。その笑顔を見ていると、なんだか胸が苦しくなって視線を逸らした。何故か頬が熱いと感じる。何故だろうと不思議に思った。

「ま、今日一日遊び相手になってやるから、それで聞き分けろ。がきんちょども」

「はぁい……」

 メリオダスの言葉に、ケイが渋々といった様子で頷く。その声を聞いて、アーサーもきちんと了承の返事をした。

 

 

 昼を過ぎた辺りのこと。

「では、行ってくる」

「いってらっしゃい」

 この別荘地にて定期的に開催されている狩猟会。その集会に参加する為に外出する義父の姿を、皆で見送る。それから、子ども達は自室に向かった。

 宣言通り、メリオダスは嫌な顔一つせずに、ケイとアーサーに付き合ってくれた。さすがに室内で剣を振るう訳にもいかなかった為、自然とお喋りが中心となる。彼は、二人に様々な話を聞かせてくれた。大きな体を持つ巨人の話。吸血鬼の王に乗っ取られた国の話。不思議な魔法空間の話に、妖精が住む森の話。どの話も幼い二人の心を掴んで離さなかった。

「なあなあ、次の話は?」

「吸血鬼の王はどうなったのですか?」

 ベッドの上に胡座をかいたケイが、その端に座ったメリオダスにきらきらした瞳を向ける。対面のベッドに腰掛けたアーサーも同じように興味津々といった瞳を向けた。二人の問いかけに、メリオダスは仕方無さそうに笑いながらも答えてくれる。それはとても楽しい時間で、駆け抜けるように過ぎていった。

 そしてどの位経っただろう。ふと、何かに気付いたかのように、メリオダスが扉の方へ視線を向けた。少し思案顔をした後、立ち上がる。

「どうしたんだ?」

 ケイの問いかけに、彼はほんの少し間を置いて「ちょっと野暮用思い出した」と言った。そして扉の方に向かう。その前で、目で追ってくる二人の子ども達を振り返ったると、言った。

「いいか、お前ら。すぐ戻ってくるからこの部屋に居ろよ?」

 その真剣な声に、ケイとアーサーはお互いに視線を合わせた後に頷く。

「おーし、いい子だ」

 メリオダスは、にかりと笑うと扉を開けて部屋を出て行く。音を立てて扉が閉まった後、二人はもう一度視線を合わせた。

「なんだ?」

「トイレかな?」

「それならなんで部屋から出るなって言うんだ?」

「うーん……」

 お互いに首を傾げる。そんな二人の耳に、物音が飛び込んで来た。何か大きなものが壁に当たったような、重い音だ。暫くの間を置いて再度、物音が響く。

「ケイ……なんだろう、この音」

「そんなの俺が知るかよ」

「義母さんが何か落としたのかな?」

「……」

 アーサーの問いかけを無視して、ケイはメリオダスが出て行った扉を見据えた。その瞳は真っ直ぐ扉の向こうを透かし見る。だが、もちろん実際透かし見える訳ではなかった。三度目の物音に、ケイは驚いたように体を揺らす。それは先程

より大きい。この部屋のすぐ近くで、何かが起こっている。そのことが、二人にもようやくわかった。

「……アーサー。様子見に行くぞ」

「でも、メリオダスさんは出るなって」

「聞いてたさ! でもお前、母さんが心配じゃないのかよ!?」

 座っていたベッドから飛び降りたケイは、靴を履くと、壁に飾ってある鉄の剣を手に取った。それは今年、彼が十歳になった記念に贈られたもので、彼に合わせて作られた本物の剣だ。ケイは真剣な表情で重みのある剣を見つめる。鞘から抜くと、研ぎ澄まされた刃がゆるく光を反射した。

「ケイ……」

 本物の剣のきらめきに、アーサーは息をのむ。現状わかっていることは、不審な物音が三回した。それだけだ。この扉の外には、普段手合わせに使う木剣ではなく、鉄の剣を持ち出す程の何かが起こっているというのだろうか。

 ケイは真剣な表情をしていた。鞘をベッドの上に置いて、抜き身の剣を持ったその足で廊下に通じる扉へ向かう。

「ケイ、待って!」

「なんだよ」

「僕も、行く」

 アーサーは座っていたベッドから立ち上がると、彼に駆け寄った。その姿を見て、ケイはほんの少し口端を上げる。だがそれも一瞬で、すぐに真剣な表情に戻った。

「よし、開けるぞ」

「うん」

 ケイが剣を持たない方の手で、ゆっくりと扉を開く。内側に開いた扉の外には、見慣れた廊下が広がっていた。一歩外に出て音のした左手の方に視線をやる。子供部屋からリビングに繋がる短い廊下の真ん中、壁寄りに、見たことも無い男が倒れていた。

「誰……?」

 同じく外に出て来たアーサーが不思議そうな顔をする。

「知らないヤツだ」

「どうしてこんな所で倒れているのかな」

 暢気ともいえる彼の声に、少し苛立った。

「そんなの悪いヤツだからに決まってんだろ」

 アーサーが倒れた男に近付いて首筋に手を当てる。なんの恐れも無くそんなことをやってのける彼に、ケイは呆れた目を向けた。

「生きてる」

「そうかよ」

 ほっとしたように呟く彼を置いて、ケイは物音のするリビングへ足を進めた。リビングに通じる扉は開け放たれている。そっと中を覗き込んで、息が止まった。ケイの視線の先、リビングの中央付近にあるソファの傍に、倒れ臥す女性の姿を見たからだ。

「っ、母さん!」

 剣を片手に脇目も振らず駆け寄る。それから一拍を置いて、アーサーの声が響いた。

「ケイ、右!」

 端的な警告の声に、ケイは視線を向けるより先に右方向へ剣を振るった。それは何かに当たり、凄まじい力によって体ごと吹き飛ばされる。過度の加重に痺れた右手から剣が抜け、どこかへ落ちる音がした。自身はリビングの床を二度転がる。

「こっちだ!」

 挑むようなアーサーの声が聞こえる。状況を把握しようと顔を上げると、知らない男と義弟が向かい合っている。男の手には刃渡り二十センチ程のナイフが握られており、アーサーの手にはケイが持ち出した鉄の剣があった。馬鹿と罵ろうにも上手く声が出せない。あの男は明らかに自分たちより強い。このままぶつかれば、あいつは死ぬんじゃないかと思った。

 アーサーが死ぬ。それはあいつが目の前から居なくなるということだ。ならば、ケイにとって都合のいいことの筈だ。しかし、このとき体は反射的に動いた。よろけながらも立ち上がり、棚に置いてあるランプの一つを掴む。アーサーが動く。かけ声と共に男の右手に駆けた。その瞬間、ケイはランプを男の背中に向けて投げつけた。左から投擲されたそれに気付いた男が、避けようと一歩右に移動する。その瞬間にアーサーが斬り掛かった。物を投げつけるなんて子供騙しの手だ。しかし、男の意識は確実に二分されていた。アーサーの剣はあえなく撥ね除けられたが、男の武器が義弟を害することは無かったのだ。

 けど、次は。

 男の冷たさを感じさせる視線がケイを射抜く。アーサーは撥ね除けられてリビングの右手にある入り口まで転がっていった。距離的に男と近いのは自分だ。本能的な恐怖がケイを襲った。その場から動けないでいると、男がこちらに足を向ける。

「っケイ!」

 アーサーが跳ね起きて叫ぶ。その声に答える余裕はない。だが、お陰で体は動いてくれた。棚にある物を片っ端から投げつけてやる。相手はうっとうしそうな顔をして足を止めた。

 その瞬間だ。ひゅっと風が唸り、男の体が左へと綺麗に吹っ飛んだのは。

「おっと、口より先に足が出ちまったな」

 軽い着地音と共に、緊張感の欠片も無い明るい声がした。ケイの目の前には、どこから現れたのか、肩に縄を掛けたメリオダスの姿がある。

「……メリオダスさん!」

「よお、二人とも。話は後だ。先にこいつらを縛り上げる」

 驚く子ども達の声が重なった。それに返事をし、メリオダスが床に倒れる男に近付いていく。気を失っているらしい男の手足を、肩に掛けた縄で縛り上げて転がす。廊下に倒れていた男も同じように縛り上げると、一カ所に纏めた。

「向こうにまだ三人いるからちょっと行ってくる。お前らはここにいろよ?」

 強い口調でそう言われ、二人はこくこくと頷いた。去っていく背中を見送って、ケイが母親の元に駆け寄る。膝をつくと、その胸元に片耳を当てた。耳に届く心音に、身体中から力が抜ける。ざっと見た所、怪我をした様子も無い。気を失っているだけだ。

「ケイ。義母さんは?」

「気を失ってるだけだ」

「そう、良かった」

 ほっと息を吐き出して、アーサーが隣に座る。それから膝に置いていたケイの手に、自分の手を重ねた。

「良かった」

 優しくあやすような声でもう一度告げられた言葉に、ケイは自分が震えていることを自覚する。そのことに情けないような気分になったが、義弟は何も言わずに彼の手を握りしめていた。

 

 

 侵入者の正体は、この辺りを根城にする盗賊団の一員だった。どこからか狩猟会の集会情報を手に入れ、それにより家内邸内に人が居なくなる時間帯を見計らって盗みを働く。そんなシナリオだったらしい。だが、ケイの母親は、むやみに動物を追い回して殺すことを嫌い、その集会には参加しなかった。盗賊団は、無人だと思っていた家屋に人が居たことに驚いたが、残っているのは女子どもだけと油断し家内邸内に踏み込んだのだ。しかし、そこには予想外の人物が居た。メリオダスだ。彼は賊の侵入に気付くとすみやかに行動し、その戦力を圧倒していった。他の家を狙っていた一部の盗賊は取り逃がしたものの、その半数を捕らえてみせたのだ。

 その騒動の立役者であるメリオダスは、現在、子ども部屋にてとてもいい笑顔を浮かべながら仁王立ちしていた。

「さてさてさーて。言い訳があるなら聞こうか?」

 目の前に座った二人の子どもを見下ろして言う。その声に、しばしの気まずい沈黙が流れた。最初にその沈黙を破ったのはアーサーだ。

「ごめんなさい」

 素直な謝罪の言葉に、メリオダスが彼を見る。

「何に謝ってる」

「物音が気になって、言いつけを破り外に出てしまいました」

 アーサーの言葉に、自分も続こうと口を開きかけた。それより先に、アーサーが告げる。

「僕が外を見に行こうって言って、ケイはそれについて来てくれたんです」

 その言葉に、ケイは唖然とした。義弟を見ると、彼は真っ直ぐにメリオダスを見ている。明らかに庇われている。舌打ちしたいような気分になった。

 メリオダスがアーサーから視線をそらし、ケイの方を見る。如何を問うような視線を受けて、一瞬たじろいだ。いっそこのまま義弟のせいにしてしまえば良いのかもしれない。しかし、ケイはそれに僅かな引っかかりを感じた。それは、メリオダスから告げられた相手に優しくするという条件だったのかもしれないし、年下から無条件に庇われていることに対する憤りだったのかもしれない。ともかく、ケイはメリオダスの目を真っ直ぐ見返すと、「違う」と一言告げた。

「俺が、母さんが心配だから見に行こうって言った。剣を持ち出したのも俺です」

 その言葉に、義弟が驚いたようにケイを見た。まんまるに見開かれた目に、ほんの少し気分が良くなる。

「言いつけを破って、ごめんなさい」

 頭を下げると、アーサーが慌てたようにそれに倣う。子ども二人に頭を下げられて、メリオダスはふっと息を吐くように笑った。

「二人とも、顔上げろ」

 言われて顔を上げた二人の頭頂部に、ごつんとメリオダスの拳が落ちた。鈍い衝撃を残して、メリオダスの拳が離れていく。

「言い出した方も、止めなかった方も、どっちも約束を守らなかったから、拳骨一回だ」

 その言葉と頭に残る小さな痛みに、ケイは瞬きをした。ぼうっとした顔で両手を上げ、拳骨を貰った部分に触れる。隣では、アーサーが同じように頭に手を当てていた。

「よし。そんじゃあ、オレは事情聴取されてくるから、お前らは適当に休んどけ」

「あ、あの!」

 背を向けようとしたメリオダスに、アーサーが声を掛ける。

「なんだ?」

「……怒らないんですか?」

「怒っただろ」

「えっと、そうじゃなくて……」

 当たり前のように返事をしたメリオダスに、アーサーはしどろもどろになる。確かに拳骨は貰った。でも、それだけだ。メリオダスの口調に怒ったような雰囲気は無かった。それが不思議でたまらなかったのだ。

「怒鳴りつけて欲しいのか?」

 見透かしたような言葉に、アーサーは首を左右に振る。それを見てメリオダスが笑った。

「そりゃ良かった。生憎、反省してる奴を怒鳴りつける趣味はなくてな」

 明るい声を残して、彼は部屋を出て行く。それを見送って、アーサーはふっと隣のケイを見た。そしてぎょっとする。彼の瞳から、涙が一粒零れたからだ。

 一方のケイは、メリオダスが出て行った途端に歪んでいく視界に、両手で目元を覆った。自分でもどうしたのかわからなかった。ケイにとって怒られるということは一方的に怒鳴りつけられることで、大抵の場合自分の言い分は聞いてもらえなかった。怒られる時に出てくる、「お兄ちゃんだから」「お兄ちゃんなのに」はケイが酷く嫌う言葉だ。だが、メリオダスはそんな言葉を使わなかった。自分と義弟を同等に扱ったのだ。それが悔しくて、でも嬉しかった。

「ケイ……」

 アーサーが名を呼んでケイの右腕に触れる。それを振り払って、自分のベッドに潜り込んだ。

 怒られたことが嬉しいだなんて、自分はおかしくなってしまったのかもしれない。そう思いながら。

 

 

 日中降り続いていた霧雨は夜になる頃には上がった。澄んだ空気の中広がる夜空は月と星屑に彩られ、山中であることも相まって大層美しいものだ。アーサーが庭に出ると、すぐにふっと笑う気配がする。

「まーた、眠れねえのか?」

 そこにメリオダスが居ることを予測していた為、今度は驚いた声を出さなかった。アーサーはランプの明かりが揺らめく方に向かって歩く。月明かりの下に金の髪をした彼の姿が浮かんだ。

「あの、お礼を言いたくて」

 メリオダスの傍まで歩いていくと、彼を見上げて言った。

「今日は、助けて下さってありがとうございました」

 そう告げて頭を下げると、彼は苦笑する。

「お前は本当に真面目だなあ」

 メリオダスの手が一度頭を撫でて離れた。

「用件はそれだけか?」

「いいえ。少し、お話がしたくて」

「どうした?」

 問いかける声は優しいものだ。顔を上げると、彼は穏やかな瞳でアーサーを見ていた。

「……メリオダスさんから見て、ケイはどういう風に見えますか?」

「唐突な質問だな。オレの目から見たら、普通の子どもにしか見えないぞ」

 腕を組んで軽い口調で言うメリオダス。それに安心して、続けた。

「実は、ケイと僕は、血が繋がってないんです。僕は、貰われっ子だから」

「そっか」

「ケイは、余所者の僕のことが嫌いなんです」

 その言葉を口にすると、ほんの少し胸が痛む。悲しそうな笑みを浮かべるアーサーの頭を、ぽんぽんと叩きながらメリオダスが言った。

「会った時に、そんなこと言ってたな」

「はい。ケイは、無茶なことは言ってくるし、意地悪もするけど、優しい所もあるんですよ」

 そう言って、懐から一冊の手帳を取り出した。それは、昨日アーサーが落としてメリオダスが届けたものだ。取り出した手帳の表紙を優しく撫ぜながら、言う。

「この手帳は、僕の乳母の日記なんです。彼女が辞める時に、貰いました」

 手の中にある手帳の表紙を開くと、丁寧な文字で日々のことが綴ってある。その文字を見つめながら、アーサーは続けた。

「乳母によると、僕がもっと小さな頃、ケイはなにかと僕の面倒をみてくれたみたいなんです。今みたいに意地悪したりすることも無くて、優しいお兄ちゃんだったと」

 そこで言葉を区切り、ふっと息を吐く。

「僕が覚えてる一番古い記憶でも、ケイは優しかった気がします。けれど、いつの頃からか、ケイが僕に向ける視線が変わったんです。どうしてこんな冷たい視線を向けられるんだろうって、最初は思いました。けれど、義父さんから僕が本当の子どもじゃないって聞いて、わかったんです」

 アーサーはメリオダスを見上げると、仕方が無いことと諦めた様子で笑った。

「義父さんも、義母さんも、僕を大事にしてくれている。それこそ、ケイに向けられるべき愛情すら向けてくれている。僕は、本当の子じゃないのに。……ケイに嫌われて、当然だなって思ったんです」

 ただ淡々と言葉にする。

「本当なら、ケイに与えられていたものを、余所者の僕が取っちゃったから」

 胸の奥がひりつくように痛んで、胸元をぎゅっと握った。その痛みすら、おこがましいように感じる。そんなアーサーを正面から見下ろして、メリオダスは問うた。

「アーサーは、辛いのか?」

「辛い……?」

「今の生活が」

 付け加えられた言葉に、きょとんとする。その質問は、自らの思考の枠を超えた所にあるものであったからだ。

「義父さんも、義母さんも、よくしてくれるし、そんなの」

「考えたことも無かったか?」

 メリオダスが優しげな笑みを浮かべる。「はい」と返事をしたアーサーの頭を、彼はゆっくりと撫でた。

「あのな、アーサー。確かにお前はあの二人の本当の子どもじゃねえかもしれない。だからって、辛いことを辛いと思えないほどに我慢する必要は無いんだぜ」

 頭を撫でるメリオダスの手はとても優しい。

「言ったろ。お前は、もう少し我侭になってもいいんだって」

 そう言われて、不意に視界が歪んだ。胸が熱くなって、堪えきれなかったものが透明な雫になる。ほろほろと零れる涙を慌てて拭う。拭っても、拭っても、それは次から次に零れた。戸惑ったまま涙を拭うアーサーの両手を、メリオダスが掴んで下ろした。その顔には仕方無さそうな苦笑が浮かんでいる。

「泣きたいときは、泣けばいいんだ」

 そう言って、彼はアーサーを抱き寄せた。泣く子どもを腕の中におさめて、やわく抱きしめる。その背をぽんぽんとゆっくりした速度で叩きながら、メリオダスは小さな泣き声が止むのを待った。

 優しく暖かな他人の体温に包まれて、アーサーの中で張りつめていた糸がふつりと切れてしまう。一度緩んだ感情は、滝のような勢いで襲って来た。辛く当たられる悲しみや、優しくしてもらう嬉しさ、自分が否定されるような恐怖がない

交ぜになる。噛み締めていた嗚咽が、声になるのにそう時間は掛からなかった。

 そうしてしばらく、アーサーは泣いた。

 それからどのくらいの時間が経っただろう。泣いてぼんやりとする頭を左右に振ると、メリオダスが回していた腕を緩めた。なんとなく彼を見上げることが出来ないまま、鼻を啜ってお礼の言葉を告げる。

「ありがとう、ございます」

 自分の声を聞いて、酷く情けない声だと思った。しかしメリオダスは気にした風も無く「どういたしまして」と答える。彼の体温がゆっくりと離れていくのを、とても寂しいと思った。その感情が顔に出てしまったのだろうか。メリオダスがアーサーの頭に手を置いた。

「お前、明日の朝早く起きれるか?」

「多分……」

「なら、特別に良いとこつれてってやる。オレとお前の秘密な」

 返事を聞いて、にかりと彼が笑う。その笑顔をお日様のようだと思った。

 

 

 

 

 翌朝。まだ暗いうちにアーサーは目を覚ました。昨夜はとても感情が荒れてしまったお陰か、眠りも浅かったのだ。隣のベッドでは、ケイがまだ気持ち良さそうに眠っている。起こそうかどうしようか、一瞬迷った。メリオダスは良い所に連れて行ってくれると言った。ならばケイも起こして連れて行ってあげた方が良いのだろう。けれどこの時、アーサーの中には、もう少しメリオダスと二人で話がしたいという思いが生まれていた。なにせ、彼は今日ここを去ってしまうのだ。残された時間は少ない。それに、あの人は二人の秘密だと言っていたではないか。

 ほんの少しの逡巡の後、静かにベッドを抜け出した。

 外套を手に取り、ゆっくりとドアを開けて部屋の外に出る。明かりは消えており辺りは真っ暗だ。これからどうすればいいのだろうと思っていると、廊下の奥に明かりが現れた。灯火はゆっくりとアーサーに近付いてくる。距離が縮まるにつれ、それがランプを持ったメリオダスだということがわかった。彼は片手を上げて、外を指差す。それに倣って、外に出る為に足を進めた。庭に繋がる扉から外に出ると、メリオダスが立っている。

「雨が上がってよかったな」

 掛けられた言葉に空を見上げると、日中空を覆っていた雨雲が無くなり、星明かりが煌めいていた。

「行くか。足下が悪いから気をつけろよ」

「はい」

 返事をしてメリオダスのすぐ後ろに続く。彼はそれを見て、その足下を照らすようにランプを持ちながら歩んだ。そうして二人はランプの明かりを頼りに森の中に入っていく。メリオダスはある程度夜目が利くのか、この辺りの地理に詳しいのか、迷う様子も無く歩いていく。アーサーは足下を見ることに集中しながら歩いた。夜明け前の山中の空気は冷たい。それを頬に感じながら前に進む。歩くことに集中して暫く立った頃、前を行くメリオダスが立ち止まった。

「着いたぜ」

 アーサーが目線を上げると、視界のほとんどに広がる空が見える。空はほんのりと桃色に染まりつつあった。そこは少し先が切り立った崖になっている場所だ。遮る木々が無く、遠くの景色まで見えた。

「わあ……」

 鮮やかな濃藍の空に水平線からぼんやり桃色の光が滲む空は、大層美しいものだ。まるで海辺に立っているような気分になる。

「間に合ったな」

 隣にいたメリオダスが言う。その言葉に視線を向けることはせず、アーサーは目の前の光景に見入った。

 空は下の方からだんだんと濃い桃色を伸ばしていく。濃藍が次第にその影を薄くしていき、桃色に橙が混じり始める。世界が、優しい光に包まれて目を覚ますかのように色づく。その光景に、息を飲んだ。

 暫くすると、丸い、熱した硝子のような太陽が頭を見せる。その頃には、空は青から橙、桃色へと続くグラデーションを作っていた。

「……綺麗」

 思わず、声を漏らす。それは無意識の言葉で、知らないうちに口をついて出た。

「だろ? へこむことや、嫌なことがあっても、こいつを見れば不思議と気持ちが落ち着くんだよな」

 優しい声が告げる。その言葉に、メリオダスの顔を見た。この人にも、へこんだり、嫌なことがあったりするんだろうか。そう思って、それは人にとって当たり前のことだと思った。彼は旅をしているという。きっと自分が考えつかないような苦労にも、悲しみにも、出会って来たのだろう。

 金の髪が、朝日に照らされてほんのりと橙に染まる。

「お前に、見せたかった」

 その、言葉に。

 アーサーは心臓の音が大きく耳元に響いたような気がした。慌ててメリオダスから視線を逸らす。それは反射的なもので、理由はわからない。何故こんなにも動機動悸が激しいのだろう。胸元を押さえると、どくどくと五月蝿い心臓の音がした。

 泣きそうだ。けど、こんな所で泣いてしまっては迷惑をかけてしまう。昨晩あれだけ泣いた流したのに、まだ出てこようとする涙に、アーサーは目元をぐっと閉じた。

 嬉しかった。そう、嬉しかったのだ。

 真っ直ぐに自分だけを見てくれた。メリオダスがどんな思いでアーサーにこの景色を見せたかったのかはわからない。しかし、その言葉と行動は、自分だけに向けられた好意だった。そんなものを、アーサーは今まで受け取ったことがなかったのだ。

「アーサー」

 メリオダスの声が名を呼ぶ。それをとても嬉しく思う。

 目を開いて、涙が零れないことを確認してから、彼を見た。彼は、太陽の光を受けて悪戯っぽく笑う。

「気に入ったか?」

「……はい!」

 朝日に染まる笑顔に、心からの返事をしながら思った。

 この人は、自分にとっての太陽そのものだと。

 

 

 太陽がその姿を全て表した現した頃、「そろそろ帰るか」とメリオダスが言った。

 アーサーはそれに頷く。とてもすっきりとした、気持ちのよい気分だった。二人は来た道を戻る。といっても、下だけ見ていたアーサーに道がわかる訳もなく、来た時同様メリオダスが一歩前に出て歩いた。

「メリオダスさんは、今日、出て行かれるんですよね」

 足下に気をつけて歩きながら尋ねる。すると「おう」と返事が来た。

「そうですか……」

 ほんの少し沈んだ声が出る。それに気付いたのか、メリオダスがにやりと笑った。

「なんだ? 寂しいのか」

「はい、寂しいです」

 揶揄うような声音に、真面目な調子で返すと、彼は少し面食らったような顔をした。その場で立ち止まると、すぐ後にあるアーサーの頭を撫でる。

「生きてりゃ、そのうちまた会えるさ」

 宥めるような言葉を寄越すメリオダスに、真っ直ぐな視線を向けて言った。

「僕が大きくなって、聖騎士になったら、きっとメリオダスさんに恩返しをします」

「恩返しとは、こりゃまたむず痒いな」

 彼は困ったように笑って、アーサーの頭をぽんぽんと叩いた。

「ま、楽しみにしてるぜ。アーサー」

「絶対ですから!」

 語調を強めると、メリオダスが頭から手を離した。

「おお。待ってるぞ」

 そう言って、太陽のような笑顔を見せて背を向ける。歩き出した彼に続きながら、両手の拳をぎゅっと握った。

 もっと強くなりたい。この人の手助けが出来る程に、心も体も強く。

 顔を上げるとメリオダスの背がやけに大きく遠いもののように見えた。

 

 

 そうして、二人は山道を歩いて別荘地まで戻った。その頃には義母も起きていたようで、「朝から二人でお散歩かしら。靴が泥だらけね」と笑われた。ケイはまだ寝ているようで、アーサーはほっと胸をなで下ろして靴の泥を落とした。

 暫くすると、ケイと義父も起きて来て、メリオダスを含めた皆で朝食を取った。

 ケイはというと、昨日の涙が嘘のように普段通りに過ごしていた。そのことに、内心ほっとする。あんな儚げで壊れそうな姿は見ていられない。

 朝食の後、客室で旅立つ準備を始めるメリオダスに、二人の子ども達は、あれはあるか、これはどうだと世話を焼いた。しまいには、旅支度をする当の本人から「お前らが旅に出るのか?」と呆れた様子で言われて、顔を見合わせて笑った。お互いに笑い合えたことに嬉しさを感じていると、ケイがそれに気付いたかのように顔を逸らす。ほんの少し不貞腐れたような横顔を見て、メリオダスと一緒になって笑った。すると、しばらく渋面をしていた義兄も、つられたように笑みを見せる。

 その短い時間を、アーサーは心から楽しいと思った。

 メリオダスの旅支度に、そう時間は掛からなかった。何せ彼は元々の荷物が少ない。聞けば主な荷は連れの元に置いてあるらしかった。連れの話題が出た時、ケイが一体どんな人物なのかと尋ねた。すると、メリオダスは笑ってから「人じゃねえな。喋る豚だ」と言ったので、二人は驚きの表情を浮かべる。喋る豚などいるのだろうか。だが、メリオダスが嘘を吐くとも思えない。声を合わせて「見たい!」と言えば、彼は笑って「また今度な」と言った。

 その言葉に、ケイが表情を陰らせる。メリオダスが行ってしまう時間が近付いていた。

 そんな義兄の頭にメリオダスが手を伸ばす。そして、その髪を掻き回すように頭を撫でた。最後に数度叩くと、笑ってみせる。

「しけた顔してんじゃねえよ、ケイ」

「してない!」

 ケイが反射的に返せば、メリオダスが笑って「そうそう、子どもは元気が一番だ」と言った。そして、彼は革袋を肩に掛ける。

「そんじゃまあ、そろそろ行きますかね」

 その言葉と共に、旅人は与えられた客室を出て行こうとする。だが、扉の前で立ち止まると、後に続いていた子ども達を振り返った。

「お前ら、指南の条件、覚えてるか」

「……」

「はい。相手に、少しやさしくすること、ですよね」

 言葉に詰まったケイの代わりに、アーサーが答える。するとメリオダスは満足そうな顔をした。

「それだ。お前らオレが居なくなったら、とたんに忘れそうだからなあ」

 そう言って、彼は続けた。

「約束に変更だ。次にオレと会うときまで、ほんの少しで良いから、相手に優しくすること」

 二人の瞳を交互に見ながらの言葉に、アーサーはこくりと頷いた。それから隣に立つケイを窺う。すると彼は、ほんの少しの間を置いて、言った。

「わかった。アーサーに、少し優しく出来るように頑張る」

 メリオダスの目を真っ直ぐに見てそう言った義兄に、彼は優しい笑顔を浮かべた。そして両手を二人の頭に伸ばし、撫でる。

「よーし。約束、だからな」

 落ち着いた声で告げて、メリオダスは手を離した。それから背を向けて客室を出る。リビングに顔を出すと、義父と義母が座っていたソファから立ち上がって彼を見た。

「ご出発ですか」

「ああ。世話になったな」

「なんの。こちらの方がお世話になりました。アーサーを連れて来て下さったこと、賊からこの家と家族を守って下さったこと、感謝いたします」

 義父の言葉に義母が続く。

「我が家の近くに寄られた時には、是非顔を出して下さい。子ども達も喜びます」

「わかった」

 軽く頷いてそう言ったメリオダスは、リビングを通り過ぎて玄関へと向かった。家族が連れ立ってその背を見送る為に玄関に立つ。

「どうか、お気をつけて」

 その言葉に振り返って笑顔を残し、彼は玄関の扉を開けて外へ出て行った。扉が閉まる直前に、二人の子ども達がそのドアを支えて開く。

 ケイとアーサーは、だんだんと遠ざかっていく小さな背を、一心に見つめていた。

 

 

 

 

「ならば、死ね……」

 粉塵舞う城下にリオネス聖騎士長が一人、ヘンドリクセンの声がした。感情の籠らない、突き放すような冷たい声だ。その声とほぼ同時に、禍々しい黒炎が膨れ上がる。

 これは、不味いかもしれない。

 莫大な魔力を前に、アーサーは素早く体を起こそうとするが、遅い。全てを舐め尽くすような黒炎が自身に向けて放たれるのを、せめてもと睨みつけた。

 確実に当たる。その確信はしかし、目の前に現れた人影によって砕かれた。迫る黒煙が、不思議なことにそのままヘンドリクセンへと跳ね返される。うねる魔力の炎は彼自身の左手を焼いて消えた。

 何が起こったのか、全くわからなかった。

 アーサーは瞬きの後、目を見開く。目の前には小さな背中があった。好き勝手な方向に跳ねる金髪に黒のベスト、白の膝丈パンツに身を包んだその背に、既視感が生まれる。この小さな背を、自分は知っている気がする。

 呆然とする間にも、目の前の彼とヘンドリクセンは言葉を交える。知り合いなのだろうか、ヘンドリクセンは彼を「<七つの大罪>団長殿」と言った。それは、マーリンにせがんでよく聞かせてもらった冒険譚の主役となる聖騎士団のことだ。その団長といえば、アーサーが一番憧れた人物である。その人が目の前にいる。

 はっとして、剣を構え直した。だが、目の前で行われている剣戟に割って入れる程の力は、今の自分には無い。剣を持ったまま、魅入られるように小さな助っ人の姿を追った。

 その時、遠く遠雷の音が聞こえる。かと思えば、雷鳴と共に人が落ちて来た。新たな登場人物は鋭い剣を<七つの大罪>が団長に向ける。

 あ。と思った時には体が動いていた。

 蹴りを受けて自分の方に飛んで来た小さな体を受け止める。

「悪ィな、兄ちゃん。助かったぜ!」

 そう言って見上げて来た、その声と、顔を、アーサーが忘れる筈も無い。胸の内に懐かしさが溢れる。それを今はその時ではないと押さえ込んで、彼の体から手を離す。

「もうちょっと、手を貸してくれるか?」

 その言葉に、幼い時に一方的に取り付けた約束を思い出した。結局自分は、聖騎士にはなれなかったけれど。それでも。

「はい!! 喜んで!!」

 再び出会い、彼の手助けが出来ることを心から喜ばしいと思った。

 

 

※以下、表紙裏掲載の小話

 

 

 ケイが起きた時、部屋は差し込む朝日に照らされていた。隣を見ると、ベッドの上に義弟の姿が無いことに気付く。すでに起きているのだろうか。まだぼんやりとした目で部屋を見渡すと、ほんの少しの違和感を覚える。瞬いて、もう一度部屋を見渡した。すると、コートハンガーに掛かっている筈のアーサーの外套が無くなっていることに気付いた。朝からどこかに出掛けているというのだろうか。不思議に思ったが、深くは気にしなかった。なにせ朝は冷える。早くに起きた義弟が、その寒さに羽織っていったのかもしれない。そう思って、もぞもぞと掛け布団から抜け出した。

 昨日は義弟に恥ずかしい所を見られてしまった。あの後ベッドに潜り込んで止まらない涙を拭ううちに眠ってしまい、気付けば夕食の時間だと母に起こされていた。ほんの少し腫れぼったい瞼を不思議に思われたがなんとかごまかし、夕食を食べる間はメリオダスともアーサーとも顔を合わせることは出来なかった。まだ、気持ちが上手く整理出来ていなかったのだ。

 そのまま逃げるように再びベッドに潜り込んで考えていたのは、義弟のことだ。彼が本当の弟ではないと知ったのは、五歳の時だった。父の口から聞いた言葉の意味がよくわからずに首を傾げたのを覚えている。本当の弟では無いとはいえ、赤ん坊の頃から傍に居た人間だ。それだけのことで態度が変わる訳が無いと、その時は思っていた。

 しかし、弟は成長するに連れて優れた才能を開花させていった。誰にでも好かれ、明るく優しい。優れた運動神経と利発さを兼ね備え、度胸もある。反面自分はと言うと、どの面を取っても年下であるアーサーに及ばない。だが、弟はそれを鼻にかけることすらしなかった。そのことが、ケイには耐えられなかったのだ。どの点を取ってもあいつには叶わない。その認識は、ケイの未来に重くのしかかった。何をやっても、どこへ行っても義弟の話が出てくる。そのことが、一番耐えられなかったのだ。

 再び滲む涙を枕に擦り付けて、ケイは瞳を閉じた。

 

 

 

発行日:2015/08/30

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