繋ぐ手 離す手

 

緩やかに落ちる、砂時計のような。

降り積もる、雪のような。

幾重にも積み重ねた、あいだった。

 

 

 

 

「メリオダス殿。良ければ今晩、一緒に星を見ませんか?」

 唐突なアーサーの言葉に、メリオダスは首を傾げた。太陽の位置も低くなった夕刻頃のことだ。アーサーの私室でお茶を飲んでいたメリオダスは、傾げた首を元に戻して尋ね返す。

「なんでオレを誘ってんだ?」

「マーリンから聞いたのです。メリオダス殿は星にお詳しいのですよね!」

 すげない返事にも気を悪くした様子も無く、アーサーが答える。その言葉を聞いたメリオダスは、一体何をどこまで喋っているんだマーリン、と心の中で突っ込んだ。目の前には、子どものように瞳をきらきらと輝かせたアーサーの姿がある。

「詳しいというか、昔の知り合いに空ばかり眺めているやつがいたってだけだぜ」

「そうなのですか! 私はあまり詳しくないのです。是非とも、色々教えて下さい!」

「教えるほどのもんじゃねえぞ」

 今にも立ち上がらんばかりのアーサーの勢いに、メリオダスは両手を前にして制止を促す。

 その手を見たアーサーは、すっかり勢いを殺されてぱちりと瞬きをした。そして、何を思ったか自らの両手でメリオダスの手を取る。そうして親指でメリオダスの掌をそっと撫ぜた。

「アーサー?」

 唐突な行動に、メリオダスが不思議そうな表情をする。アーサーの指は柔らかく手の平を擽っていく。男の硬い手の平など触っても楽しく無いだろうに。メリオダスがそう思っていると、ふっと、アーサーが微笑んだ。

「何かを守ってきた人の手ですね」

「……」

 アーサーの言葉にメリオダスは何も言わなかった。ただ、ほんの少し視線を逸らす。それはごく自然な動作で、アーサーは気付いた様子もない。彼は憧れを乗せた瞳で握ったままの手を見ていた。

 守る、か。メリオダスは一人思う。いいや、この手は全てを守れなかった手だ。そう思うと、心にじわりと薄暗い闇が広がっていった。

「アーサー。くすぐったい」 

 暫らくして、メリオダスが小さく呟く。それを聞き取ったアーサーは、弾かれたかのように手を解放した。そして座ったまま頭を下げる。

「し、失礼いたしました! メリオダス殿の手を見たらふと触れてみたくな……いやそうではなくてですね」

 何に言い訳しているのかは知らないが、アーサーはとても慌てていた。赤くなったり青くなったり忙しい彼を見ていると、メリオダスの心に湧き出た闇が薄くなるようだ。なんとも不思議な心地で、口を開く。

「星を見る、だったか」

「え?」

 話題を巻き戻したメリオダスに、ついていけなかったアーサーはきょとんとした顔をする。その鼻頭を人差し指で突ついて、メリオダスは続けた。

「いいぜ、今夜だな」

「……っはい!」

 色良い返事を聞いて、アーサーの顔に喜色が浮かぶ。喜びを隠そうともしない様子に、メリオダスは知らず笑みを浮かべていた。

 

 

 

 その日は城内に泊まることにしたメリオダスが、夜も更けた廊下をひとり、人目を忍んで歩いていた。「誰にも見つかってはいけませんよ」なんて口元に人差し指を当てて言ったアーサーの言葉を、本当は守る必要などない。けれど、わざわざそう言ってきたのだ。何かあるのかもしれない。メリオダスはそう思って、こうして人目を忍んでいる訳である。見張りをやり過ごし、待ち合わせ場所である塔近くの回廊に辿り着くと、物陰から声を掛けられた。

「メリオダス殿」

「お、アーサー」

「来て下さってありがとうございます。こちらです」

 夜の闇に紛れたアーサーが、メリオダスを先導して導く。二人は、回廊から出ると塔の入り口に架かる階段を静かに登った。そうして、塔の内部に入ると、更に上に続く螺旋階段を登り始める。メリオダスはそれに静かに従った。夜の闇は深く、小さな物音ですら大きく響く。衣擦れの音を感じながら、二人はただ上を目指した。そうして向かった階段の途切れる先には、一つの古めかしい扉があった。中には誰かいるようで明かりが漏れている。アーサーはその扉の小窓から中を覗き込んでから、そっと取手を掴んで押した。ゆっくりと奥に開かれた扉は軋んだ音を立てる。

「ああ、坊ちゃん。ようこそ」

 扉の向こうから、低い小さな声がした。アーサーは緩く微笑むと部屋の中に入る。メリオダスもそれに続いた。

 そこは丸い小部屋だった。ぐるりと周囲を窓で囲われている。部屋の中には小さな丸机と数脚の椅子が置いてあった。その椅子の一つに、年の頃は四十の男が一人座っている。

「お久しぶりです、ケディ」

「そうでもないよ、坊ちゃん。おや、今夜は人を連れているのかい?」

「はい。メリオダス殿、彼はケディ。ここで見張りをするのを仕事としています。ケディ。こちらはメリオダス殿です」

 ケディと呼ばれた男の視線が後ろに立つメリオダスに向かったのを見て、アーサーが互いを紹介した。メリオダスも、「どうも」と小さく頭を下げる。それに同じように頭を下げてから、ケディはアーサーを見た。

「上かい?」

「はい」

「ちょっと待ってな」

 アーサーの返事に頷いたケディは、小部屋の隅に置いてある梯子を、屋根に開いた天窓に立てかける。位置を確認して、二人に向き直った。

「どうぞ」

「ありがとうございます。さ、メリオダス殿。この上です」

 アーサーはそう言うと、ケディからランプを受け取り、先に梯子に足を掛けた。慣れた様子でするすると梯子を登ってゆく。メリオダスはそれを見上げて、アーサーの姿が天窓に消えるのを見送った。それから、自分も梯子に足を掛ける。

「良い時を」

 ケディの言葉に背を押されるようにメリオダスが梯子を登ると、すでに天窓の外に出たアーサーが顔を覗かせた。

「足元、気をつけて下さいね」

 そう言って、また顔を引っ込める。メリオダスが天窓から顔を出すと、ひやりとした夜風が頬を撫でた。目の前に広がるのは、満点の星空だ。

「ようこそ、メリオダス殿」

 メリオダスが声のした方を向くと、屋根に座ったアーサーがランプを掲げて楽しそうに笑っていた。メリオダスは天窓を潜り抜けると、自分もその隣に腰掛ける。

「随分手慣れてるな」

「ここは、私の秘密の場所なのです。ケディには昔からからお世話になっています」

「なるほど。あいつに迷惑が掛かるから、誰にも見つかるな、なんて言ったのか」

 メリオダスが納得したように言うと、アーサーも頷く。そうして、嬉しそうに満天の夜空に視線を向けた。

「ケディはいつだって私だけの居場所を与えてくれるのです。この城に来てからも、こうやって私が一人になれる場所を教えてくれた。私、何かに行き詰まった時はここに来るのですよ」

「へえ。いいのか、そんな場所にオレを連れてきて」

「ええ。……メリオダス殿にも、この夜空を見て欲しいと思ったから」

 その言葉に、メリオダスも空を見上げる。城の中でもひときわ高い塔の上から見る夜空は、建物や木々に遮られることがない。視界の端から端まで深く黒い空が広がる光景は確かに圧巻だ。メリオダスは、昔見せられた星図を頭に描いた。夜空を眺める人々は、この一見疎らな星々を、線で繋げて動物や空想の生物を形作る。そこから物語を作り出したり、自らの位置を導き出したりするのだ。星空を眺めたまま、メリオダスはアーサーに問いかけた。

「星のことを教えて欲しいってのは、単なる口実か?」

「いいえ、それも本当です。興味はあったのですが、あまり勉強する機会も無くて」

 そう言ったアーサーは、ランプを持たない右手をそっと上げた。人差し指で、ひときわ高い位置に輝く白い星を指差す。

「あの星はなんと言いますか」

「あれは、ポラリスだな」

 メリオダスは北の方角を示す星の名を告げる。そうして、自らも左手を持ち上げて空を指し示した。

「ポラリスから少し下、この星々を繋いだ、ひっくり返した片手鍋みたいな形をした星座が、小熊を表してる」

 アーサーは、言われた通りに星を探した。しかし上手く見つけられないのか、その指先を彷徨わせる。それを見たメリオダスが、左手でアーサーの右手を取った。その瞬間、驚いたのか、びくりと身体を震わせる。しかしメリオダスは気にすることも無く、アーサーの手を掴んだまま星座をなぞった。

「明るい星だけに注目しろよ。ここがポラリス。そこから三つの星を辿って、この辺に四角形が見えねーか?」

「……ええと。あ! 見えました! 見えました、メリオダス殿!」

 少しの時間をかけて、小熊の星座を見つけ出したアーサーは、その顔に喜びを湛えてメリオダスの方を見た。「そりゃ良かった」と返して、メリオダスは手を離す。アーサーはもう一度夜空を見て、その視線で星座をなぞった後、不思議そうに首を傾げた。

「これのどこが小熊なのですか? 片手鍋の方が納得出来るのですが」

「悪いがそこまでは知らん」

「そうですか」

「……子熊のそばには母親である大熊がいるんだが、ちっと説明は難しいな」

 その会話の後、二人の間には暫しの沈黙がおりる。だが、不思議と心地が良いとメリオダスは感じた。隣にいるアーサーは一心に星空を眺めている。そんな横顔をちらりと見てから、自分も空を眺めた。その次の瞬間、空の闇に白い光が流れる。それはほんの一瞬で、闇に一つの筋を残して消えた。

「星が、流れましたね」

「ああ」

 アーサーが、ほうっと息を吐き出しながら言う。

「星が流れるのを見る度に思うのです。みな、どうしてこんな綺麗なものを見て禍事と結びつけるのだろうと」

 その言葉に、メリオダスは柔らかい既視感を感じる。アーサーは手を翳し、指の隙間から空を見ていた。

「こんなに綺麗なものを、ただ綺麗と思えないのは、悲しいですね」

 湖面のように静かな微笑みを湛えた横顔を、メリオダスは初めて見る。なのに、どこか懐かしいと思った。その思いはほんの一瞬で、夜風に吹かれするりと夜へ流れて行く。

「なら」

 少しの間を置いて、メリオダスが声を出した。

「お前はそう思わないようにすればいい」

 その言葉に、アーサーは視線を空から戻す。メリオダスは普段の笑みとは異なる、優しい、穏やかな笑みを浮かべていた。

「綺麗なものを綺麗と思える心を大切にしろよ、アーサー」

「……っ、はい」

 珍しいメリオダスの表情に、アーサーの心臓が跳ねる。その頬はゆるやかに上気していた。そんな自分に戸惑いつつも返事をする。それを聞いたメリオダスは目の前の頭に手を伸ばして、撫でた。

「おう。いい返事だ」

「え、あの、え?」

 メリオダスに頭を撫でられ、今度こそ戸惑いの表情を浮かべる。頬を赤らめて混乱するアーサーを見て、気分を良くしたメリオダスが、頭を撫でる手を止める。そうして、静かな声で名前を呼んだ。呼ばれたアーサーは、素直に返事をして瞳を見た。真っ直ぐなアーサーの視線に、メリオダスは眩しげに目を細める。

「次は、星図持ってきてやるよ」

「本当ですか!」

「ああ」

 喜びに頬を緩ませるアーサーを見て、メリオダスも笑った。そして、そっと頭から手を離す。

「嬉しいです。また、貴方と星が見られるのですね」

 心の底から嬉しそうなアーサーの言葉が、メリオダスの耳にいつまでも残っていた。

 

 

 星は巡り、人は歩む。 

 

 

 

 

 

それは、空高くよく晴れた日のこと。

収穫祭に賑わう街の中、メリオダスの目の前には楽しそうにはしゃぐアーサーの姿があった。彼は庶民的なチュニックにズボンといった装いで、ともすれば街の人ごみに紛れてしまいそうだ。しかし、その賑やかな振る舞いがそれを防いでいる。

はて、とメリオダスは考えた。どうして自分はアーサーの保護者よろしく、彼の後をついて歩いているのだろう。思い返してみると、切っ掛けはキャメロットを訪れたメリオダス自身の発言にあった。

「今、収穫祭やってるんだな」

「ええ、お陰で些事に追われていますが。……メリオダス殿はもう祭りを見に行かれましたか?」

何気無く呟いたその言葉を拾ったアーサーが、書類を纏めながら聞いてきた。メリオダスはそれに否と答える。祭りとくれば、今晩は稼ぎ時だな。と別のことを考えていると、アーサーが語りかける。

「では、この仕事が終わったらご案内しますね」

「おー」

ろくに話も聞かず返答を返せば、アーサーは嬉しそうに笑って机に向かった。

そう、そんなこともあったな。実は話を聞いていませんでしたと言う訳にもいかず、メリオダスは庶民に扮したアーサーに連れられてここにいるのだ。

だが、聞き間違いでなければ、こいつは案内すると言わなかったか。

今のアーサーは、メリオダスを差し置いて、自分の興味を満たすことを優先させているように見える。まあ、それはいいのだが、若干目立ち過ぎていた。いくらアーサーが変装しているとはいえ、聡いものなら正体に気付いてしまいかねない。一国の王が碌な供も連れずに祭りのさなかにいるとわかれば、騒動になるだろう。

「おい、アーサー」

「はい、メリオダス殿。あ、見て下さい、あれは何でしょう!」

メリオダスの言葉に元気な返事を返したアーサーは、すぐに視線を道端の露店に向けた。様々な物を売る雑貨屋に目を奪われたようだ。目を輝かせ、丁寧な口調で、店の主人に「これはなんですか?」と尋ねているアーサーは、年よりも随分幼く見えた。店の主人と歓談を始めるアーサーに、メリオダスはため息を吐いて近付く。

「アーサー」

名を呼んで、メリオダスはアーサーの手を取った。それを軽く引いて退散を促す。

「そろそろ行くぞ」

「あっ、はい。……では最後に、何か困ったことはありませんか?」

手を引かれて歩き出したアーサーが、一度立ち止まり店の主人に声をかける。声をかけられた店の主人は、一瞬不思議そうな顔をするが、すぐに明るく笑って言った。

「ないよ! ここはいい国だねえ」

店の主人の言葉に、アーサーは最上級の笑顔を返して手を振り、再び歩み出す。その一連のやりとりを、もう数度見ていたメリオダスは、もう一度、仕方がなさそうにため息を吐いた。

「すみません、少し騒ぎ過ぎましたか?」

そのため息をどう取ったのか、アーサーが眉を下げて尋ねて来る。

「実は、自由な街の視察など、あまり出来るものではなくて。浮かれてしまいました」

それはそうだろう、と思う。アーサーはキャメロットの王なのだ。気軽に街中を歩くという今の状況は珍しいものだろう。それはメリオダスにもわかった。だからこそあえて自由にさせていたのだ。だが、と思ってアーサーの顔を見た。綺麗な二重の少しつり目がちな瞳の色は、透き通ったアメジストを思わせる。形の整った眉は、今は情けなく下がっていた。すっととおった鼻梁に、緩やかな笑みを浮かべる口元。人目を一心に引くほどではないが、アーサーは整った顔立ちをしていた。そこに加えて、常に人好きのする笑みをうかべている。それが身近に感じられるのだろう。本人は気付いていないようだが、現に何人かから熱い視線を送られていた。

「別に、怒ってねえよ」

「でも」

「ちっと目立ち過ぎてたから止めただけだ」

それは本心からの言葉だ。視線を前に戻して歩きながら、メリオダスは言った。その言葉に、アーサーは納得したようだ。だが、やはり申し訳無さそうな表情を崩さない。

「申し訳ありません。案内すると言ったのは私ですのに」

謝罪の言葉に振り向いたメリオダスは、そんな顔されてもなぁ、と思った。だが言葉にはせず、繋いだ手を強く握る。手を握られたアーサーは、少し不思議そうな表情を浮かべた。

「あの、メリオダス殿」

「なんだ」

「手を引いていては、歩きにくくないですか?」

純粋な瞳で尋ねるアーサーに、立ち止まったメリオダスは、少し視線を空にやってから手を離した。

「そうか、悪かったな」

実際は逆なのだが、幼く見えるメリオダスに手を引かれることに抵抗があるのかもしれない。そう考えて手を離すと、アーサーは慌てたように手を振った。

「いえ! 嫌だったのではありません。ただ……少し懐かしく思っただけです」

「懐かしい?」

「はい。幼い頃は、よく兄に手を引かれて歩いていました」

そう言って、アーサーは寂しげに微笑んだ。もう手の届かないものになってしまった、と諦めきったような表情をする。そんなアーサーを見て、メリオダスが再び手を取る。そしてぎゅっと握ってにかりと笑った。

「兄じゃなくて悪いな」

その言葉に、アーサーは面食らったように瞳を見開く。アーサーは、ぱちぱちと音をさせんばかりに瞬くと、小さく呟いた。

「……いいえ」

零れたのは、幼い笑顔。

「貴方で、嬉しいです。メリオダス殿」

心から嬉しそうに、ほんのりと頬を染めて柔らかく笑ったアーサーは、メリオダスの手を強く握り返した。その笑顔が、メリオダスの心の奥底に仕舞った大切な笑みと重なる。は、と零れたのは吐息だ。

「メリオダス殿?」

何も答えないことを不思議に思ったのか、アーサーが名前を呼ぶ。メリオダスの耳に優しく響いたその声に、夢から目覚めるような心地で菫色の瞳を見た。目が合ったアーサーが「どうかしましたか?」と気遣わしげに尋ねてくる。メリオダスは瞬きをすると、アーサーの瞳に映る自分を見た。

「決めた」

「はい?」

突然の独白に、アーサーが首を傾げる。そんな彼に向かって、メリオダスが笑った。

「アーサー。俺がお前を守ってやる」

きっぱりと言い切った。その瞳には強い意志が宿る。

「……それは、どういう意味でしょうか?」

意味を計り兼ねたアーサーが、少し考え込むようにして尋ねた。メリオダスはあっけらかんと答える。

「お前がまだ望んでいるなら、その願いを叶えてやるってこと」

詳細を省いたメリオダスの言葉に、アーサーが口元に手を当てて考え込んだ。そうして、アーサーは彼と初めて出会った時を思い出す。あの時、アーサーはメリオダスに、キャメロットの聖騎士長になって欲しいという思いを伝えた。上手くはぐらかされてしまったそのことだろうか。アーサーは見当をつけて、メリオダスに尋ねる。

「聖騎士長の、お話ですか?」

「ああ」

その考えは正解だったようだ。メリオダスはあっさり頷く。動揺を見せたのはアーサーの方だ。

「どうして……」

「不服か?」

「いいえ。ずっと望んでいたことですから、嬉しいです」

でも、今まではぐらかし続けていたのにどうして、といった思いを抱えて答えを出せないでいるアーサーに、メリオダスは付け加えた。

「ただし、期間限定だ」

「……」

その言葉に、アーサーはメリオダスの瞳を見た。真っ直ぐに視線を向けられたメリオダスは、左手で胸を叩く。

「俺の三年間を、お前にやる」

メリオダスはそう言い切って、答えを待った。アーサーの瞳が揺れる。逡巡ののち、心を決めたアーサーが言った。

「……謹んで、お受けします」

その言葉を聞いたメリオダスが、笑みを深くする。アーサーは続けた。

「けれど、私の臣下になって頂けるというのであれば、貴方は私の守るべき民の一人です。私は貴方を守りましょう」

胸に手を当てて誓うアーサーに、メリオダスは小さく息を吐き出す。

「真面目過ぎるな、アーサー王」

その言葉を受け、アーサーは柔らかな笑みをうかべる。

「アーサー、で構いません。メリオダス殿」

 メリオダスは左手を差し出す。

「よろしくな、アーサー」

 アーサーはメリオダスの手を取ると、嬉しそうに「はい」と返した。

 

 

 

 

 メリオダスがキャメロットの聖騎士長になるにあたっては、当然山のような問題があった。なにせ、リオネスの聖騎士の経歴があるとはいえ、メリオダスは余所者である。加えて過去にダナフォールを滅ぼした等という曰く付きの人物だ。危険視されるのは当然のことと言えた。

 メリオダスが余所者の罪人であるという件については、アーサーとその師であるマーリンが動いた。不安がるもの一人一人に、メリオダスの人となりについて説く。誤解を一つ一つ溶かしていく作業は地道な積み重ねだった。また、既にキャメロットにて聖騎士の位につく者達からの不満もあった。それは、メリオダス自身が自らの力を示す形で解決を見た。とはいえ、一国の聖騎士の長である。力だけで全てが通る程甘くはなく、暫くの間は他の聖騎士に混じりつつ、聖騎士長候補の一人としてアーサーの傍に付き従うことになった。アーサーは申し訳無さそうにそのことを告げたが、メリオダスは気にした風も無く「それでいいぜ」と答える。元々、メリオダスは地位に執着がある訳ではないのだ。

 そうして、メリオダスはキャメロットを本拠とした生活を始める。最初の頃は、聖騎士やその他の臣下達から遠巻きにされていた。しかし、メリオダスの持ち前の無神経ともいえるマイペースさと、相手が誰であろうと変わることなく接する態度で、次第にその輪は小さくなる。一ヶ月もしない内に、メリオダスはキャメロットの人々と打ち解けることに成功したのだった。

 ある日、メリオダスは城内にある鍛錬場で聖騎士たちと剣を交えていた。自然と他の聖騎士に剣を教える形になる。暫しの間、そうした時間を過ごしたメリオダスは、特に親しくなった数人と夕食を取る為に城内の食堂へ向かった。隣を歩くのは、キャメロットに不在である聖騎士長に代わり、自然と聖騎士達をとりまとめているサンスだ。メリオダスは一度、何故サンスが聖騎士長にならないのかと尋ねたことがある。しかし、彼は笑って「俺はその器ではない」と言った。

 メリオダス達が食堂に足を踏み入れると、そこは夕食時ともあってか大変な賑わいを見せている。メリオダス達が入ってくるのと入れ替わりで、人が立ち上がって空いた席に、彼らは座った。そうして食事を確保すると、この後の予定が無いメンバーは自然と酒が入る。何も酔いつぶれるまで飲もうという人物はここにはいない。この場の酒は、ほんの少し気分を高揚させる、デザートのようなものだ。舌も滑らかにするそのデザートは、自然と彼らの会話も増やした。

「そういえば、メリオダスさんはどこで王と出会われたのですか?」

 まだ年若き聖騎士が、興味津々とばかりにメリオダスに尋ねる。それを聞いたメリオダスは、ぱちりと瞬きをして言う。

「言ってなかったか。あいつがマーリンと二人で、争乱のリオネスに来た時だ」

「ああ、ありましたね。皆がお供しますと言ったんですが、これは個人的な恩返しなのでと言って、魔女と一緒に消えてしまったことが」

 あの時は焦ったなあと言いながら、昔を懐かしむように目を細める。他のメンバーもそれに同意するように頷くと、皆を代表するようにサンスが呟いた。

「本当に、王は無茶ばかりなさるからな」

「へー。そんなに無茶なことやってんのか?」

「先頭に立って敵陣に乗り込まれたときは、どうしようかと思った」

「そりゃ肝が冷えるな」

 他愛の無い会話に、時折笑いが零れる。暫くの間そんな時間を過ごしていると、食堂に一人の身なりの良い女性が入って来た。ここではあまりお目にかからないタイプだ。彼女は厨房へ続くカウンターに顔を出すと、何かを注文しているようだった。

「あれは、王の侍従の一人だな。たまに王の夜食を取りにくる」

 メリオダスの視線に気付いたのか、サンスが教えてくれる。それを聞いたメリオダスは、「へえ」と呟いた後、突然席を立った。

「じゃ、オレはこの辺で」

「わかった。また明日」

「お疲れさまでした」

 席を立ったメリオダスに、共に食事を取っていたメンバーが挨拶を寄越す。それにひらひらと手を振って、メリオダスは厨房傍のカウンターに立つ侍従に近付いた。

「よう」

「メリオダス様?」

 声をかけられた女性は、少し驚いたように目を見開く。そんな彼女に、メリオダスはにっと笑って、「アーサーに食事でも持ってくのか?」と聞いた。すると女性は、少し困ったように笑って言う。

「根を詰められているようですので」

「なるほど」

「なかなか休憩も取られないので、少し困っているのです」

「そりゃ困るな」

 うんうん、と頷いて見せると、女性は小さなため息を吐いた。それを聞いて、メリオダスが申し出る。

「オレが食事を持ってってやるよ。ついでにちょっと休ませる」

「……本当に良いのですか? ありがとうございます」

 他に仕事でもあったのか、女性はメリオダスにその場を任せると食堂から出て行った。その後ろ姿を見送り、カウンターに出て来た料理人から野菜と肉を煮込んだスープと、お湯の入った陶器のポットを受け取る。茶器は執務室にあった筈だな、と思い出しながら、メリオダスはスープとポットの乗ったトレイを片手で持った。そうして、食堂を後にする。広い廊下を歩き、アーサーのいるであろう執務室に向かう。時折すれ違う人達と一言挨拶を交わしながら、執務室の前に辿り着くと、メリオダスは空いた片手で扉をノックした。ほんの少しの間を置いて、「どうぞ」とアーサーの声がする。それを聞いて扉を開けた。侍従が食事を取りに行ったことは認識していたのだろう。扉が開いて閉まる音を聞いたアーサーが、執務机に視線を落としたまま、言った。

「ありがとうございます。そこに置いておいて下さい」

 そこ、とは、部屋を入って左手にある、応接机のことだろう。メリオダスは応接机にトレイを置くと、声を掛けた。

「アーサー。書類仕事はその辺にして、食事にしろ」

 その声に、アーサーが弾かれたように顔を上げる。メリオダスの姿を認めると、驚いたように目を丸くした。

「メリオダス殿。どうして、ここに」

「休憩もしないで根詰めてるって聞いてな。様子を見に来た」

「それは……すみません」

「ほれ、冷めるぞ」

 そう言って、メリオダスは執務室の棚にある茶器を取り出してお茶の準備を始めた。アーサーは手に持ったペンをペン立てに戻すと、立ち上がる。

「お茶くらい、私が淹れますよ」

「安心しろ。茶葉を入れてお湯を注ぐ位は誰でも出来る」

「そうではなくて……」

 アーサーがメリオダスのいる応接机に近付くと、椅子に座るように促される。話を聞く様子が無い為、アーサーは仕方なく置かれたトレイの前に座った。その間に、メリオダスは流れるような手つきでティーポットに茶葉を入れ、お湯を注ぐ。数分後、出来あがったお茶を二組のティーカップに注いで、その内の一組をアーサーの前に置いた。もう一組はメリオダスが持ち、そのまま机を挟んだ向かいに座る。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 お礼の言葉に、メリオダスは自分で淹れたお茶を一口飲みながら返した。アーサーもティーカップを手に取り、お茶を一口飲む。温かなお茶が、長い時間の執務で凝り固まった身体に染みていった。一度気分を切り替えれば、アーサーは自分が空腹であることにも気付いたようだ。よく煮込まれた肉をスプーンで掬って口元に運ぶ。塩味の聞いた味付けの肉は、噛み締めると旨味が滲み出して来た。アーサーが顔を綻ばせると、メリオダスも笑みを浮かべる。そうして、メリオダスはアーサーがスープを平らげるまで何も言わずに傍にいた。

 アーサーは、そう時間を掛けることなくスープを食べ終わり、ふっと一息付いた。それから、目の前のメリオダスを見ると、もう一度「ありがとうございます」と言った。空いた器をトレイの上に戻すアーサーを見て、メリオダスが尋ねる。

「いつからここで仕事してんだ?」

「ええと……昼前、ですかね」

 視線を宙に泳がせながら答えるアーサーの様子に、碌な休憩も取っていないのだろうということを推測して、メリオダスが眉を潜める。それを見たアーサーが、心意を感じ取ってほんの少し困ったように笑った。

「無理はしていませんよ」

「他人から見て無理してるように見える時点で、無理してるって言うんだよ」

「そう見えますか?」

「侍従のねーちゃんに心配されてたぞ」

 メリオダスの言葉に、アーサーは弱り切った様子で「それは、申し訳ないことをしました」と言った。しかし態度を改める気はないのか、ティーカップに残ったお茶を飲み干すと椅子から立ち上がる。

「アーサー」

「あと少しで一区切りつきます。それで、今日はおしまいにしますから」

 少し咎めるような響きを持った声にも、アーサーは笑顔を向けて答えた。メリオダスもため息を吐いて立ち上がる。食器の乗ったトレイを手に持ち、扉の傍まで歩いて行くと、振り返ってアーサーを見た。

「また来る」

 そう言って、メリオダスは返事も待たずに執務室を後にする。

 

 

 メリオダスが去った後の部屋で、残されたアーサーはどこか嬉しそうに柔らかな笑みを浮かべ、仕事に区切りをつける為に机に向かった。

 

 

 優しい時間は、さらさらと流れ積もる。

 

 

 

 

 

 それは、メリオダスがキャメロットに来て一年目のこと。

 アーサーの統治する国が、酷い飢饉に見舞われた。家畜の間で疫病が発生し、あっという間に蔓延したのだ。元々寒冷な気候の中で、作物は上手く育たない。雑食で、加えて一年で丸々と育つ豚は、民の主食となっていた。その豚が病に罹り次々と死んでいくことにより、深刻な食料不足が起こったのだ。僅かな作物は人々が生きるには少なく、それらは自然と値段が高騰した。そうなると、貧しい民は食物を手に入れることが出来ない。食べることが出来なければ人は弱り、飢えて死んでゆく。民の表情は暗く、飢えに追われた人々が食料を求めて城下町に溢れ、治安も悪化した。

 この事態に対して、アーサー達は何も手を拱いていた訳ではない。他国に助力を乞い、なんとか食料を配給して貰えるよう頼んで回った。それに応えてくれる国はごく僅かではあったが、確かに存在したのだ。しかし、その食料の配給ルートがままならなかった。そもそも食料は腐るものである。長い道中に悪天候に見舞われた結果駄目になるものも多かった。補給ルートに発生する盗賊の類いも問題だ。その殆どが飢えに駆られた民であったから手に負えない。状況はどんどんと悪い方向へと転んでゆき、結果として多数の死者を出した。

 まさに、目の回るような忙しさだった。問題は次から次へと現れては積み上がっていく。朝早くから夜遅くまで、城には明かりが灯り続けた。マーリンは城を空けることが多かったし、メリオダスも様々な問題にとらわれ、誰もが余裕を無くしていた頃。

 アーサーが倒れた。

 毎日行われていた定例会議後、椅子から立ち上がったアーサーが突然バランスを崩す。膝から崩れ落ちるように床へ投げ出される身体を、寸での所で傍にいたメリオダスが支えた。支えられたアーサーは、メリオダスの肩に胸元を預け、その瞳を瞼で覆いぴくりとも動かない。周りの者達がにわかに騒ぎ始める中、メリオダスは初めにその呼吸を確認した。浅く不規則に繰り返される呼吸を聞き取ると、そのままアーサーの身体を両手で抱え込み、あまり揺らさないように抱き上げる。

「気を失ってるだけだ」

 メリオダスの口からは状況を報告するだけの言葉が出た。そのまま会議室の出口へ向かうのを見て、その場にいたサンスが扉を開ける。

「頼めるか」

「わかった。すぐに人をやる」

 サンスが頷く。彼に後のことを任せて、メリオダスは廊下に出た。アーサーの部屋に向かって歩きながら、腕の中のアーサーの様子を伺う。その顔色は酷く悪い。呼吸は浅く力なかった。メリオダスは小さく舌打ちをする。ここ最近、アーサーの顔色が優れないことには気付いていた。しかし、この騒動の中だ。みな一様に疲れた顔をしていたし、元気な者の方が稀な状況である。彼が倒れるほど体調を崩していることには気付かなかった。

 国王の部屋に辿り着くと、綺麗に整えられたベッドにその身体を横たえた。昏々と眠るアーサーの頬に手を触れると、その体温が随分低いことに気付く。メリオダスは彼の肩にまで布団を掛けた。そこに、使用人がマーリンを伴って現れる。

「マーリン。帰ったのか」

「先程な。アーサーはどうだ」

「眠ってるだけに見える」

 ベッドの傍を彼女に譲って、メリオダスは一歩下がる。マーリンがアーサーの手を取り脈を取る。そうしてアーサーの額に掌を当てると、瞳を閉じた。暫くして、その目を開くとメリオダスを見る。

「アーサーは、最近食事を取っているか?」

「……そこまで気にしたことは無かったな」

「そうか。体力が低下しているようだ。目が覚めたら何か食べさせるべきだ」

 その言葉に頷いた。マーリンはアーサーの輪郭をそっと撫ぜると、メリオダスを見て言う。

「私はまだ少しやることがある。アーサーを頼んだぞ、団長殿」

「わかった」

 返事を聞くと、彼女は軽く頷いてその場から姿を消した。メリオダスは使用人の女性に、胃に優しい食事を用意して貰うように頼む。彼女は了承して部屋から出て行った。扉が閉まる音を聞いて、再びアーサーを見つめる。

「この、馬鹿」

 メリオダスの呟きは、アーサーに向けられたものでもあり、自らに向けられたものでもあった。

 

 

 アーサーが目を覚ましたのは、食事を頼んだ使用人の女性が、トレイを持って帰ってきてから暫く後だった。閉じられた瞼を縁取る睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がる。菫色の瞳はぼうっと焦点が合わずどこも見てはいない。

「アーサー」

 メリオダスが名前を呼ぶと、ほんの少しの間を置いて彼の瞳が動いた。ベッドの傍に置いた丸椅子に座るメリオダスを、その視界に入れると、その瞳にうっすらと意思が宿る。

「メリ、オダス、どの?」

 幼く舌足らずな声で名前を呼ぶアーサー。それに、メリオダスは少し笑って「起きたか」と言った。彼は、目眩がするのか目を閉じると片手で目元を覆う。親指で眉間を押さえてから、改めて目を開いた。

「ここは、私の部屋ですか?」

「ああ。お前は会議が終わった後に倒れたんだよ」

 その言葉に、アーサーは眉を寄せる。そして申し訳なさそうな声を出した。

「……すみません」

「謝るってことは、原因もわかってんだな?」

「……」

 心当たりがあるのか、アーサーは黙り込んだ。そうして、もう一度「すみません」と謝罪を口にする。そんな様子に、メリオダスはため息を吐いた。

「いつから、食べてない」

「何も、食べていない訳ではないのです」

「言い方を変える。いつからまともな食事を取ってないんだ?」

 その言葉に、アーサーは押し黙る。そうして生まれた長い沈黙を破ったのもメリオダスだった。

「まあ、気付かなかったオレも悪いか」

「そんなことっ!」

 途端に跳ね起きたアーサーは、強い目眩に平衡感覚を失う。急な動作に呼吸が乱れた。再度ベッドへ沈む彼の身体を、そっと支えたのはメリオダスだ。アーサーの揺らぐ視界に、口を開くメリオダスの姿が映る。

「な、に」

「ちょっとじっとしてろ」

 そう言ったメリオダスの手により、そっと瞼が閉じられる。しっとりとした他人の体温が目元を暖める感覚に、アーサーの身体から力が抜けていく。それはとても心地よい感覚で、自然と呼吸を整えることが出来た。アーサーの呼吸が落ち着いたことを確認すると、その耳元にそっと語りかける。

「目、閉じてろよ。明るくなるぞ」

 言葉と共に、目元から熱が離れる。そのことに、アーサーはほんの少しの寂しさを覚えた。閉じた瞼には柔らかい光を感じる。窓辺から降り注いでいるのであろう陽光に、まだ日が高いことを知った。暫くして、ゆっくりと目を開く。やはり、室内に柔らかな光が満ちていた。ぼんやりと辺りを見回している間に、メリオダスは手近なクッションを手に取り、アーサーの背中に添える。そうして身体を支えると、自らは身を引いた。傍に控えていた使用人の女性から、カップを受け取ると、アーサーに手渡す。

「ほら、飲め」

「あ……はい」

 ほんの少し戸惑った様子を見せながらも、アーサーはカップを受け取った。それを暫く手元に置いて観察する。カップは乳白色の液体に満たされていた。ゆっくりとカップを持ち上げると、口元に運ぶ。ふわりとナッツの香りが鼻をくすぐり、一口飲むと口内にはコクのある甘みが広がった。すぐにそれが、蜂蜜入りのアーモンドミルクだということに気付く。それを、一口、二口、ゆっくり噛み締めるように飲み込んで行くアーサーを、メリオダスは静かに観察していた。

 時間をかけてアーモンドミルクを飲み終わると、今度は入れ替わりに器に入ったブラマンジェが出て来た。アーモンドと鶏肉をすり潰しブイヨンを加えて煮込んだそれは、口当たりの良い病人食として知られているものだ。

「食え」

「……」

 アーサーは黙って器を受け取った。添えられたスプーンに伸ばした手は僅かに震えている。スプーンを握ったものの、それからぴたりと動きを止めた。

「食欲が、ありません」

 消え入るような声で言う。それを聞いたメリオダスは、自らの手をアーサーが持つスプーンに伸ばした。緩く握り込まれた手からスプーンを取り上げると、ブラマンジェを一口大掬ってアーサーの口元へ運ぶ。

「聞こえなかったか? 食べろと言ったんだ」

「……しかし」

「アーサー」

 メリオダスの声がぐっと低く響く。それにびくりと身体を揺らして、アーサーは相手を見た。彼は表情を変えることなく、淡々と、しかし辛辣な言葉を放つ。

「お前は、自分の立場というものを理解していると思っていたが、違うのか?」

 その言葉に、アーサーが息を飲んだ。震える手がぎゅっとシーツを握り込む。それでも瞳を逸らさないでいると、メリオダスは続けた。

「誰かに縋りたくなったか? 全てを投げ打ちたくなったか? それも仕方ねえな。お前も一人の人間だ。だが、その前にお前は王だ。お前の体は、自分の勝手で壊せるものじゃない。違うか?」

 目を見れば解る。彼は責めている訳ではない。ただ客観的に事実を述べているだけだ。だからこそ、その言葉は心を抉った。アーサーは無意識に歯を噛み締める。ぎりっと音が鳴った。

 メリオダスの言うことはもっともだ。この事態に、国王であるアーサーが病に臥せれば、国に無用な混乱を招くのは目に見えている。そんなことは自分にも解っていた。だが、どうしても何かを食べようという気にはなれなかったのだ。

 食べ物を前にすると、つい先日、お忍びで城下町の様子を見に行ったことを思い出す。町には覇気がなく、食料を求めて城下までやってきた民がそこらに座り込んでいた。その様子からは、死んでいるのか生きているのか判別が付かない。そんな彼らを見ても、アーサーは何をすることも出来なかった。まともな食事を取れなくなったのは、それからだ。

「けどな」

 思い詰めるアーサーに、メリオダスがどこか優しさを感じさせる口調で、はっきりと言った。

「お前は一人の人間だ。逃げることを、止めはしねえ」

 その言葉に、虚を突かれたような顔をする。一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。メリオダスは逃げると言った。一体何から、何処へ逃げるというのだろう。果たして、そうすることでこの胸の内は凪いでくれるのだろうか。

「好きにしろ」

 そう言って、彼が再度スプーンをアーサーの前に差し出した。押し付けるでもなく、ただアーサーの答えを待つ。ごくり、とアーサーが喉を鳴らした。

 逃げる、と答えれば、メリオダスは共に来てくれそうな気がする。それは直感のようなものだ。だが、その先が見えない。紆余曲折を経て王になったアーサーには、国や民を捨てるという選択肢は無かったのだ。

 未だ震える手をメリオダスに伸ばした。スプーンを持った手を掴むと、それを自分の方に引き寄せて口を開く。目を閉じて、スプーンを口内に導くと、柔らかなブラマンジェが舌に触れた。黙って咀嚼を始めたアーサーを見て、メリオダスがほんの少し寂しげに笑う。

「どうだ? 飯は美味いだろ」

 舌の上でほろりと崩れるブラマンジェは、優しい口当たりでとても食べやすい。食物がじわりと体に染み込んで行く感覚に、アーサーの目頭に涙が滲んだ。

「……はい。美味しい、です」

 それだけ答えて、自らスプーンを手に取った。

 

 

 

 

 

 宮宰の言葉を聞いたアーサーは、訳が解らずただ瞬きを繰り返した。

 多くの死者を出した飢饉を乗り越え、ある程度国も安定してきた時のことである。いつものように執務をこなしていたアーサーは、書類仕事の手を止めて宮宰を見た。

「ですから、妃を迎えられては、と」

 聞こえなかったと思ったのか、宮宰がもう一度繰り返す。その言葉を聞いたアーサーは、ほんの少し困った様子を見せた。

「ああ、すみません。聞こえていました。……どうしたのですか、急に」

「何も急なことではありません、陛下。前々から話は出ておりましたでしょう?」

「……それは、私には勿体無い話ばかりでしたから」

 困ったように笑むアーサーの言葉に、宮宰は短くため息を吐く。

「陛下。王妃を迎えるということは、何も悪い話ではありません。陛下のご年齢なら、すでに居てもおかしくはないのですよ」

 頭痛を堪えるように額に手を当てる宮宰に、アーサーはどうしたものかと考えた。妃を迎える、ということは、アーサーにとってはまだ現実感の無い話だった。確かに、これまで幾度か他国の王女と引き合わされたことはある。アーサーとて華やかな女性と接することは嫌いではなかったが、その人を妻にするか、と問われると何も答えられなかった。元々アーサーは騎士の家で育てられた人間だ。嫡子では無かった為に、必ず妻を迎えなければならないという感覚も身に付かなかった。今の時点で、アーサーは十分周囲の人間に恵まれていたし、それ以上のものを求めようという気も起きない。何より、アーサーは人を愛するという感覚がよくわからなかった。憧れる人も、大切な人もいる。だが、ただ一人を特別な枠に入れることが出来なかった。そんな自分に嫁ぐ女性は果たして幸せなのか。そう考えると、どうも渋ってしまう。

 首を縦に振らないアーサーに、宮宰は諭すように語りかけた。

「私一人の判断でこのお話を持ちかけているのではありません。どうも陛下はご無理をしがちだ。飢饉の際に倒れられた時は、私どもも肝が冷えました。妃を迎えれば、彼女が常に陛下の体調を気にかけてくれるでしょう。陛下には、臣下ではない、隣にある女性が必要だと思うのです」

 アーサーのことを心から考えての言葉だろう。それを感じ取ったアーサーに、自分の気持ち一つで首を振ってしまうことへの遠慮が生まれる。何も言わないアーサーに向け、宮宰は一つの提案をした。

 隣国に美しく聡明な王女がいる。会えばきっとアーサーも気に入るだろう。一度会ってみてはどうかと。

 その提案に、アーサーは少し考えてから頷いた。

 確かに、現状は臣下に負担をかけすぎているのだろう。飢饉で疲弊した国の為にも、王妃という存在は必要なのかもしれない。

 だが、アーサー自身はやはり気乗りがしなかった。

 

 

「よっ。アーサー」

 ふらりと鍛錬場に現れたアーサーを最初に見つけたのは、居合わせたメリオダスだ。皆が修練する時間帯から少しずれた時間のため、そこにいる人数は少ない。アーサーはメリオダスを見つけると、にこりと笑って近付いた。メリオダスの目の前で立ち止まると問う。

「お暇ですか?」

「なんなら、お暇にするぜ」

 メリオダスはそう言うと、手合わせをしていた騎士に手を振った。騎士はすぐに理解して、アーサーに一礼を残して下がる。

「お邪魔して、すみません」

「いんや。なんかあったか?」

 首を傾げるメリオダスに、アーサーは手に持った剣を持ち上げて見せた。

「お手合わせ願えたら、と」

「構わねえよ」

 そう言って、メリオダスは剣を構える。アーサーも間合いを取ってそれに倣った。鍛錬場に居あわせた他の騎士達は、興味をそそられたのか観戦の様子を見せている。

 先に動いたのはアーサーだ。風の音を連れてメリオダスの懐に剣を繰り出す。だがその剣は空を切った。次の瞬間、剣の勢いを殺さぬままアーサーは翻る。上段に構えた剣に重い一撃が加わった。それをなんとか逸らすと、メリオダスがさらに斬撃を繰り出す。一歩右にずれることで回避したアーサーは、構えた剣を閃かせ振り下ろした。間合いを詰めて来ていたメリオダスはそれを剣で受け止めると、右足を軸に蹴りを繰り出す。ほんの少し防御が遅れたアーサーは、しかし自ら後方へ飛ぶことで威力を殺した。それでも後ろに吹き飛ばされたアーサーは、飛ばされた勢いのまま床で一回転して体勢を立て直す。剣を構え直したアーサーの姿を見て、メリオダスが言った。

「気もそぞろだな」

「そう見えますか?」

「ああ」

 今度はメリオダスが先に動いた。音すらさせずにその場から姿を消す。アーサーは半ば無意識に右斜め前方へと斬りつけた。剣と剣がかち合う硬質な音が響いたと思えば、もう次の斬撃がアーサーを襲う。二撃、三撃。重なる剣は重く、アーサーの手に僅かな痺れを残した。押されている。そう思うと、アーサーの顔に自然と笑みが浮かぶ。アーサーは上段からの切り込みを顔の手前で受け、メリオダスが下がる瞬間に合わせて自分の体を前へと押し進めた。防御を考えず懐に入り込もうとするアーサーに、メリオダスはさらに大きく飛び退いて間合いを作る。

「実戦でそれやったら死ぬぞ、アーサー」

「なはは。そこまで命知らずではありません」

 アーサーは改めて剣を構え直し、間合いをはかる。実力者と剣を交えることに対して、口元に浮かぶ笑みを止められない。そんなアーサーに、メリオダスも笑みを浮かべる。

 次の踏み込みは同時だった。真正面でかち合った剣は高い音を立てる。数秒の力比べの後、メリオダスが剣の角度を変えてアーサーの剣を横に流した。右足を一歩前に踏み出すことで力のかかる方向を変えたアーサーの剣が、下段から薙ぎ払うように襲い来るメリオダスの剣と交差する。

「陛下!」

 とたんに鍛錬場に響いた怒声ともいえる声に、アーサーがびくりと体を揺らして固まった。

「ほれ」

 その隙を見逃してもらえる訳もなく、メリオダスの一撃によってアーサーの手から剣が弾かれる。ガランと剣が床に転がる音と共に、怒声の主がアーサーに向かってつかつかと足早に近付いて来た。

「急に姿が見えなくなったと思ったら、こんな所に! 一体何を考えておられるのです!」

「いえ、あの。……すみません」

「今日のことは数日前から申しておりましたでしょう!」

 アーサーへ詰め寄り興奮気味に声を高くする宮宰に降参を示すように、アーサーは両手を上げる。困りきった顔をするアーサーを見て、メリオダスは宮宰に声を掛けた。

「今日、何があるんだ」

「ああ、メリオダス様。いいえ、今日はただの衣装合わせですよ」

「衣装合わせ? ってことは、明日何かあるんだな」

「ええ。……明日はこんなことをなさらないように!」

 宮宰はアーサーの右腕を掴んで鍛錬場の外へ向かって歩き出す。

「メリオダス殿。よければ今晩空けておいて下さい」

 手を引かれながら、アーサーが顔だけ振り返ってメリオダスに声を掛けた。それに「おう」と返して、メリオダスは床に投げ出された剣を拾う。入り口近くの収納棚に拾った剣を戻して顔を上げると、廊下を歩いて行く宮宰とアーサーの後ろ姿が目に入った。

 

 

 アーサーがメリオダスに与えられた私室に顔を出したのは、夜も更けた頃だ。扉をノックする音に、メリオダスが「開いてる」と答える。すると、扉がゆっくりと音を立てて開き、アーサーが入って来た。

「夜分にすみません」

「約束はしてあったろ」

「ええ。ですが、少し遅くなってしまいました」

 そう言いながら、アーサーは、メリオダスが勧めた椅子に座る。メリオダス自身はベッドに腰掛けて客の顔をじっと見た。

「で、どうした?」

 前置きは不要と早速本題に入るメリオダスに、アーサーはほんの少し視線を下に逸らした。それは無意識のもので、アーサーに自覚は無い。その様子が珍しく思えて、メリオダスはベッドの上で胡座をかき、両膝に手を添える。考え込んでいる王様の返答を待つ姿勢だ。数秒後、アーサーは大きく息を吸って言った。

「妃を迎える、という話が上がっているのです」

「……」

「明日、その候補の方にお会いするのですが……正直な所、どうすればいいのか、答えを出しあぐねています」

 アーサーは膝の上に置いた手をゆっくりと組んだり離したりを繰り返している。落ち着かない心地なのだろう。メリオダスは一瞬その手元に視線を落としてから、再度アーサーの目を見た。彼は僅かに下を向いたままで目が合うことは無い。メリオダスは口元にほんの少し笑みを浮かべた。

「いいんじゃねえの」

 その言葉に、アーサーが視線を上げる。言葉の意味を捉え損ねたように、国王の瞳は幼い光を宿していた。メリオダスは、それを愛でるように見つめながら、答える。

「嫁さんもらうんだろ? オレは、良いと思うぜ」

 メリオダスの声が、静かな室内に、やけに優しく響いた。アーサーの瞳が揺れて、ほんの少しの動揺の後、深い悲しみの感情が過る。まるで、親から必要とされないことを知った子どものような、あどけない絶望。それを見て、メリオダスは心の奥から這い出ようとする仄暗い喜びの感情を懸命に押さえ込んだ。うっすらと浮かぶ笑みに混じるのは、深い安息にも似た何か。

 こんなこと、アーサーには言えやしない。

 メリオダスはそれを心の奥底に押し込むと、重ねて言った。

「お前は無理ばかりするからな。嫁さんでもいれば、ちょっとは変わるんじゃねえ?」

「……同じことを理由に、話を持ちかけられました」

 アーサーの口元で自嘲ぎみな笑みが形作られる。そうして、小さく息を吐き出した。アーサーは瞳を伏せて、言葉を続ける。

「私には、わかりません。そんな理由で、人ひとりの人生を預かっていいのか」

 漏れた言葉はアーサーの本音なのだろう。メリオダスはベッドから降りると、軽い足取りで椅子に近付く。座るアーサーの目の前に立つと、その頭に手を伸ばした。軽く触れて、撫でる。

「最初はわからなくてもいいんじゃねえか。長い間傍に居れば、情が湧いて大切にするのが人って生き物だ。焦るなよ、まだ会ってもねえんだろ」

「……はい」

 か細い声でアーサーが了承した。メリオダスはアーサーの頭をゆっくり撫でながら思う。もしかしたら、ここで抱きしめてやれば良いのかもしれない。俯くアーサーの頭を抱え込むように包んでやることが出来ない訳ではない。けれど、それは己の役ではなかった。それこそ、迎えるかもしれぬ未来の妃の役目だろう。だから、何も言わずに頭を撫でた。

 暫くして、アーサーが顔を上げる。どこか気恥ずかしそうな笑みを浮かべてメリオダスを見た。

「もう、大丈夫です。ありがとうございます」

 感謝の声には、すでにいつもの調子が戻っている。メリオダスはアーサーの頭から手を下ろした。その手を、アーサーが両手で包み込むように取る。

「お話は、もう一つあるのです」

「ん?」

「メリオダス殿を聖騎士長に、というお話が纏まりそうです」

 アーサーの言葉に、ほんの少し首を傾げた。そうして、「別にこのままでも良いんだぜ」と答える。メリオダスにとって聖騎士長という地位はそれほど価値がある訳ではない。ただ、アーサーの隣に立つ為の手段として選んだ道だ。聖騎士長不在の現状、その候補の一人として在る今の立場は十分願いに叶っていたし、たいした不都合もなかった。

 メリオダスの言葉を予測していたように、アーサーは悪戯っぽく笑ってみせる。

「私がいつまでも妃を迎えないと怒られるように、聖騎士長をいつまでも不在にしている訳にもいかなくなっておりまして。……ご面倒かと思いますが、受けて頂けますか?」

 アーサーが握ったままの手にぎゅっと力を込めた。言葉とは裏腹に、アーサーの態度は「はい」と言うまで逃がさないといったものだ。メリオダスは面白そうに笑うと、妙に芝居がかった口調で言う。

「畏まりました、王よ。そのお話、お受け致しましょう」

「真にありがたい」

 メリオダスの言葉を受けて、アーサーも妙に堅苦しい口調で礼を言う。そうしてから、二人は目を合わせると、どちらどもなく吹き出した。ひとしきり笑い合うと、アーサーがメリオダスの手元に視線を落とし、しみじみとし言った。

「一年半、掛かってしまいました」

「そうだな」

「あと、一年半、ですか」

「……そうだな」

 急にメリオダスが提示していた期限のことを口にする彼に向かって、メリオダスはただ肯定を返す。しんと静まり返った部屋で、アーサーが再度口を開こうとして閉じた。メリオダスは何も言わずにアーサーを見る。彼は笑顔を見せながら言った。

「今日は、もう失礼しますね」

 そして立ち上がると、扉を通って廊下に出る。

「ありがとうございました。良い夜を」

 扉を閉めて去って行ったアーサーは、メリオダスに向けた笑みにただ一つの感情を浮かべていた。

 寂しい、と。

 

 

 翌日。どこから広まったのか、城内はアーサーが妃を迎えるかもしれない、という話題で持ち切りだった。しかも、その相手が今日城へ現れるというのだ。誰もが一目その姿を拝みたいと思っていたし、あわよくば話をしてどんな相手なのか見極めてみたいと思っていた。城内の皆が、相手がアーサーにとって良い伴侶となるかどうかを気にしている。アーサーは十分に王として愛されているのだと言えるだろう。

 メリオダスはというと、その日もいつも通りに過ごしていた。朝起きて少し体を動かした後、食事を取ってから、それなりに任されている仕事をこなす。昼過ぎに休憩がてら城内の散策に出かけた。廊下を通り抜け中庭に足を運ぶ。綺麗に整えられた庭園の中央にある四阿に向かった。あそこは日当りも良いし風も通る。そこで少し横にでもなろうか、などと暢気なことを考えていたメリオダスは、目的の四阿に、すでに誰かの気配があることに気付いた。はて、どうしたものか。そう迷ったのも一瞬で、メリオダスは気にすることを止めた。

「お邪魔しますっと」

 そう声にして、四阿に足を踏み入れる。丁度柱の陰になった所に、一つの人影が見えた。そちらに視線をやって、メリオダスは一瞬息を飲む。

 メリオダスの視線の先に居た少女は、それほどに美しい人だった。緩くウェーブのかかった金の髪は細く柔らかそうで、差し込む日の光に溶けていきそうだ。その髪の下には、深い海を宿した神秘的な瞳が優しげにある。ましろい肌に、上質なレースをふんだんに使った白のドレスを纏っていた。

「こちらこそ、お邪魔しております」

 その声は、甘く可愛らしい響きを持ってメリオダスの耳に届いた。キャメロットに来て一年以上経つが、こんなに美しい少女は見たことが無い。ということは、つまり、彼女がアーサーの妃候補ではないのか。

 そこまで考えて、メリオダスは自分が返事をすることを忘れているのに気付いた。

「先に居たのはそっちだろ。ええと……」

「グヴィネヴィアと申します。貴方は?」

「メリオダスだ。よろしく、グヴィネヴィア」

 お互いに名乗り合うと、少女が柔らかく笑う。その笑みは蕾が花開くように優しい。メリオダスはグヴィネヴィアの正面に座ると、彼女を見た。

「こんなとこで、一人で何してんだ? この城の人間じゃねえよな。グヴィネヴィアみたいな綺麗な子が居たらもっと噂になってるだろうし」

「ふふ、ありがとう。そうね、私は余所の国の人間です。今日は、人に会いにキャメロットまでやって来ました」

 それを聞いて、メリオダスは自分の予測は当たっていたと思った。しかし、何故他国の姫君が供も連れず、一人庭園の四阿にいるのか。いくら城内とはいえ、これほど美しい女性であれば危険だろう。

「一人で来た訳じゃないんだろ」

「勿論です。……少し、息苦しくて。抜け出して来てしまいました」

 どうやら見た目に反しておてんばな面を持っているらしい。メリオダスは若干呆れて、「危ねぇなあ」と零した。それを聞いたグヴィネヴィアは、ほんの少し申し訳無さそうにする。

「そうですね。そろそろ、戻らなくては」

「……ま、いいんじゃねえの。もうオレが居るし」

 立ち上がろうとしたグヴィネヴィアを言葉で制すると、彼女は不思議そうな瞳を向ける。この子どもがいたらどうして大丈夫なのだろう。そんな言葉を瞳からおおよそ感じ取って、メリオダスは笑った。

「これでもこの国の聖騎士の一人だ。なんならこの後、従者のとこまで送り届けてやるよ」

「まあ、聖騎士様だったのですか。それは失礼なことを……」

「細かいこと気にすんなって。むしろ、オレの方がちょっとは気にすべきなんだろうな。お姫様相手なんだから」

「いいえ、メリオダス様さえ良ければ、どうかそのままで」

 穏やかな笑みを浮かべたグヴィネヴィアの言葉に、メリオダスは「じゃあ、オレも様はいらねえ」と返す。それに対して、彼女は素直にはいと返事をした。

 四阿に緩やかな風が吹き抜ける。その風はグヴィネヴィアの金糸の髪をふわりと揺らす。そよ風を心地良さそうに受ける彼女は、まるで一枚の絵画のようだ。

 こりゃあ、アーサーも逃げられねえな。

 メリオダスは胸中で呟いた。それほどに、グヴィネヴィアは一国の王妃として相応しく思えるのだ。見た目の美しさもさることながら、そのことを鼻にかけた様子も無い。彼女から見てどこの小僧とも知らぬメリオダスに対しても礼儀を忘れなかった。加えて、穏やかな性格の中にほんの少し顔を出す子どもっぽさは、人を惹き付ける愛嬌がある。王妃となれば、国の民が誇り、慕う存在となるだろう。ほんの少し話をしただけでそう感じるのだ。アーサーもそれは感じ取るだろう。そうなれば、アーサーにこの縁談を断る術は無い。アーサーは何よりもキャメロットという国を愛しているのだから。

 そう思うと、メリオダスの表情が僅かに陰る。それを敏感に感じ取ったグヴィネヴィアが、声を掛けた。

「どこか具合でも悪いのでしょうか?」

「いんや。なんでもねえ」

「では、少しお聞きしても構いませんか?」

 彼女が軽く首を傾げる。その愛らしい様子に、メリオダスは笑みを浮かべて「どうぞ」と言った。

「メリオダスから見たアーサー様は、どのようなお方でしょう」

 思いがけない質問に、目を瞬かせる。グヴィネヴィアは真剣な表情でメリオダスの答えを待っていた。

「アーサーか。そうだな。ちょいと純粋すぎる所があるが……真面目ないいやつだぜ。人との関わり合いを大事にする人間だな。アーサーは国を、キャメロットの民を心から大事に思っている。良い王様なんだろうな」

 優しい表情で語られる回答を疑問に思ったのか、グヴィネヴィアが質問を重ねる。

「メリオダスにとっては、良い王様ではないのでしょうか?」

「いや。良い王様だと思ってるぜ。……ただな、アーサーは自分よりも国や民を優先しすぎる。もうちょっと、自分を大事にして良いんじゃないかとは思うな」

「……そうですか」

 グヴィネヴィアが膝の上で手を組み、そこに視線を落とす。

「不安なのか」

 メリオダスの言葉に、彼女は視線を上げてほんの少し笑んだ。

「私はアーサー様のことを何も知りませんから。……ですが、貴方がそれほど大切に思われている人だと思えば、お会いしてみたくなりました」

 その言葉に、メリオダスは面食らったような顔をした。確かに、言われてみれば自分はアーサーのことを大切に思っているのだろう。しかし、それを他人の口から聞くのは初めてのことだった。そんなメリオダスを見て、グヴィネヴィアが楽しげに笑う。

「ご自覚が無かったのですか?」

「……んー。まあ……。ところで、グヴィネヴィアはいつまでここに居ていいんだ?」

 話を逸らすように問うメリオダスに、彼女は細い指先をその顎にそっと当てて少し考え込む。そうして、残念そうに眉を下げた。

「そろそろ、戻った方が良いかもしれません」

「本当に誰にも言ってねえんなら、今頃騒ぎになってるんじゃねえか」

「そう思います。名残惜しいですが、そろそろ戻ります」

 そう言って、グヴィネヴィアがすっと立ち上がる。それに合わせてメリオダスも立ち上がった。

「送ってく。グヴィネヴィアになんかあったら、問題だしな」

「ありがとうございます、メリオダス」

「どういたしまして」

 グヴィネヴィアのお礼の言葉に、メリオダスはにっと笑って見せた。

 

 

 結論から言うと、グヴィネヴィアと会ったアーサーは、その日の内に彼女を妻に迎えることを決めた。二人の間にどんな会話があったのか、メリオダスには知る由もない。だが、そうなることは彼女と出会った時に解っていた。めでたい話を送らせる理由も無く、アーサーの結婚話はとんとん拍子で進んで行く。国を挙げての祭事に、城内はもとより城下町も明るい雰囲気に包まれた。それに加えて、メリオダスが聖騎士長に就任する話も正式に纏まったのだ。めでたいことは一緒に祝ってしまえば良いとばかりに、アーサーの結婚の祝宴と、メリオダスの聖騎士長就任の祝宴が同時に行われることになった。二つの祭事にキャメロットの国は涌き上がる。皆の顔は一様に明るかった。

 その間、アーサーとメリオダスはゆっくりと話す暇すらなかった。アーサーは結婚式の準備や来賓客への挨拶で時間を取られていたし、メリオダスは聖騎士長就任へ向けての些事に追われていたからだ。時は駆けるように過ぎて行く。メリオダスがアーサーとゆっくり話をしたのは、アーサーが相談に訪れたあの夜が最後だった。

 結婚式前の婚約式にはメリオダスも護衛を兼ねて参列した。立派な教会の前で、アーサーとグヴィネヴィアが互いの指輪を互いの指に嵌める。緊張した面持ちの二人は微笑ましくもあり、メリオダスは自然と口元を緩めた。これでいい。その時のメリオダスは心からそう思っていた。

 婚約から四十日後には、盛大な結婚式が執り行われる。

 そうして訪れた結婚式の日は、早朝から何処も彼処も騒がしかった。城の者は本日行われる大宴会の準備に追われていたし、城下町はこの機に便乗して商売をしようという商人達で溢れている。城下にはアーサーとグヴィネヴィアの肖像が出回り、皆が花嫁の美しさを称え、国を挙げての結婚式を一目見ようと目を輝かせていた。

 式が挙げられる教会の前には、朝も早くから人だかりが出来ている。メリオダスは警備の騎士へ指示を出しながらその時を待った。

 昼前になると、人だかりはさらに膨れ上がった。教会沿いの建物の窓という窓に人が顔を出している。その観衆がざわめき出した。「来た!」という期待に満ちた声が上がる。声にほど近い大通りを、二頭の毛並みの良い馬に引かれた馬車がやってきた。それに乗っているのは、アーサーとグヴィネヴィアだ。二人は沿道の観衆達に向かって笑みを浮かべながら控えめに手を振っている。現れた本日の主役に、その場は沸いた。馬車は教会の手前で止まると、御者に促されて先にアーサーが地面に降り立つ。アーサーは、深い赤色に銀糸の刺繍が施された上品な衣服の上にマントを羽織り、その頭に王冠を乗せていた。一方、先に降り立ったアーサーの差し出す手に、そのほっそりとした白い手を重ねたグヴィネヴィアは、アーサーと同じ深い赤に繊細な銀糸の刺繍が美しいドレスを身にまとっていた。その頭には金のティアラと光に透けるヴェールが輝いている。馬車から降り立ち、そっと寄り添って立つ対のような二人に、観衆は息を飲んだ。アーサーとグヴィネヴィアはほんの少し視線を合わせてから、ゆっくりと司祭の待つ教会まで歩いて行った。

 メリオダスは教会のすぐ傍で、近付いてくる二人を見つめる。一瞬、アーサーと視線が重なった。だが、それはメリオダスが無意識に視線を逸らしたことですぐに離れる。揃いの生地と揃いの刺繍が施された服を着るアーサーとグヴィネヴィアの姿は、柔らかな太陽の光の下で一際輝いて見えた。その眩しさに、メリオダスは目を細める。

 メリオダスの前を通り過ぎて行った二人は、教会の戸口にいる司祭の前に立つ。そして、司祭の問いに答える形で誓いの言葉を口にした。その後、祝別を受けた金の指輪を、アーサーが新婦の細い指にはめる。グヴィネヴィアも指輪を受け取ると、同じように新郎の指にはめた。その光景を見つめていた沢山の人々が、わっと歓声を上げる。アーサーとグヴィネヴィアは、その声に答えるように自らの左手を観衆に見えるように掲げた。照れたように笑う二人は、暫くの間歓声に応える。それから、ミサを行う為に教会内へ入って行った。教会の中に入れるのは、親族か親しい友人のみだ。メリオダスは教会の中に入る二人を見送る。本当は、ミサに招待されていた。しかし、メリオダス自身が仕事を理由に断ったのだ。

 二人に続いて参列者が教会に入って行く。そうして、教会の扉は閉ざされた。メリオダスは、その閉ざされた扉をただ見つめていた。

 

 

 結婚式の後の祝宴は、夜まで続いた。誰もが心から若い二人を祝っていたし、新しく生まれた聖騎士長を喜びと共に受け入れている。多々ある円卓の中の一つに座ったメリオダスはというと、サンスや他の聖騎士達から溺れるほど酒を注がれていた。

「おいおい、ジョッキが空になんねえんだけど」

「そりゃめでたいことだな。ほら、ジョッキ持て。乾杯だ」

「何度目だよ」

 赤ら顔のサンスが、メリオダスの肩に右手を回して左手でジョッキを掲げる。メリオダスはそのジョッキと同じ位置に自分のジョッキを掲げると、その中身を一気に煽った。二人はそのまま最後の一滴まで飲み下すと、テーブルの上にどんっと音を立ててジョッキを置く。その音はメリオダスの方が少し早かった。

「やるな、流石聖騎士長殿」

「飲み比べと聖騎士長は何も関係ねぇな」

「メリオダス様、次は俺の酌を受けて下さい!」

 サンスと遊んでいるうちに、メリオダスのジョッキには酒が注がれてしまう。ずっとこんな調子で飲んでいるのだ。酒に弱い訳ではないメリオダスも流石に酔いが回ってくる。それでも酒を注がれれば飲まないわけにはいかない。メリオダスはジョッキに口を付けてから、若干恨めしそうに言った。

「お前ら、オレを酔わせてどうするつもりだ?」

「そういう台詞は綺麗な女から聞きたいっス!」

 すかさず一人の騎士が言うと、他の騎士も頷いて同意する。メリオダスは「まあ、そりゃそうだな。なら言わせんじゃねえよ」と返してから、調子のいいことを言った騎士の頭を軽く叩いた。頭を叩かれた騎士はそこを左手で撫でながらへへっと笑う。

「綺麗っていや、王妃様ですよね。俺、最初に見た時目を疑いましたよ」

「あー。だよなあ。花嫁姿もお綺麗だったなあ」

「ああ。今の青のドレスもよくお似合いだが、結婚式の時の王と揃いの衣装は格別だった」

 皆が揃ってアーサーとグヴィネヴィアの座る卓の方を見る。視線の先の二人は、少し何かを話して幸せそうに笑いあった。そんな二人を見て、メリオダスの心に喜ばしい気持ちと同時に薄暗いものが広がる。ただ単純に祝うことが、これほど難しいのは何故だろう。メリオダスは二人から視線を逸らすと、ジョッキに残った酒を飲み干した。そして、勢い良く立ち上がる。すると、相当に酒が回っていたらしく、ふらりと足下が危うくなった。よろけたメリオダスの右手を、隣に居たサンスが掴む。

「平気か」

「ああ、サンキュ。ちょっと飲み過ぎたから、オレはこの辺で部屋に戻るわ」

 メリオダスの言葉を聞いた酔っぱらい騎士の一人が、「えー、まだ潰してないのに」と残念そうな声を出した。その声の主を見て、メリオダスは「サシでの勝負ならいつでも受けてやるぜ」と言いながら、その場に居る皆に片手を振って背を向ける。

 宴会場を後にすると、少し酔いを醒まそうと中庭に足を向けた。ふらつく足取りで椅子のある四阿まで歩く。メリオダスが四阿の椅子に座ると、対角線上から声がした。

「流石の団長殿もあれだけ酒を飲めば少しは回るか」

「マーリン?」

 声のした方を見ると、四阿の柱に凭れ掛かるようにマーリンが立っている。そういえば、今日は姿を見なかったな、と思ってメリオダスは尋ねた。

「今までどこにいたんだ、お前」

「女に居場所の詮索をするものではないよ、団長殿」

 マーリンは妖艶に微笑むと、メリオダスの正面にある椅子に腰掛ける。そして、ロングブーツに覆われた足を組むと、見つめてきた。

「……なんだ?」

 不躾な視線に、メリオダスは首を傾げる。マーリンは一呼吸置いて応えた。

「いや。……団長殿は、止めるかと思っていたがな」

「何のことだ」

「アーサーのことだよ」

 そう言って、ちらりとアーサー達がいる宴会場の方に視線を投げる。そんな彼女に、メリオダスはほんの少し笑みを浮かべる。

「止める必要もねえだろ。あいつが決めることさ」

 その言葉を聞いて、マーリンは小さく溜息を吐いた。

「なんだ。マーリンはグヴィネヴィアが気に入らねえのか」

「私は、アーサーの望みを叶えてやりたいだけだ」

「なら、今の所不都合はねえんじゃないか?」

 他人事のような言葉に、マーリンは黙り込む。組んだ膝の上に肘をついて、掌に顎を乗せながら、メリオダスに探るような視線を向ける。その視線は、まるで己の全てを見透かそうとするようで、ほんの少し寒気がした。

「グヴィネヴィアは、いい王妃になるだろうよ」

「……今問題としているのは、そこではないんだがな」

「なあ、マーリン。お前過保護過ぎねえ? アーサーも子どもじゃねえんだから、そこまで気にしてやる必要も無いと思うぜ」

 首を傾げて言ったメリオダスから、マーリンはついと視線を逸らして宴会場の方を見る。

「アーサーは子どもさ」

 彼女の声には何の感情も含まれない。ただ事実を告げるように続けた。

「憧れと愛情の区別もつかないような、ね」

 そう呟くと、マーリンは席を立った。座るメリオダスに背を向けると、去り際に振り向き視線を投げる。

「団長殿は、それでいいのかい?」

 その答えを聞くことは無く、マーリンは姿を消した。

「尋ねたなら、その答えくらい聞いて行けよな」

 メリオダスは呟くと、座る長椅子に上半身を横たえる。無機物の冷たい感触が、酒で火照った頬に心地よいと感じた。メリオダスは瞼を閉じてその冷ややかな感触に神経を集中させる。

 それでいいのか、と問われて。もしマーリンが答えを待っていたら。自分はなんと言うつもりだったのか。

 メリオダスは思う。「いいぜ」と答えたかもしれないし、「何に対してだ?」と尋ねたかもしれない。しかし、どれもマーリンの問いの本質に答えてはいない気がした。メリオダスの脳裏に、先程見たアーサーとグヴィネヴィアの姿が浮かぶ。まだ若干のぎこちなさが残るもの、幸せそうに笑い合っていた。それは温かな光景で、この心を冷やすものではない筈だ。であるのにも関わらず、今のメリオダスの心には重く冷たい陰が落とされていた。それはじわりとその範囲を広げる。果たして何の感情であるというのだろう。

「メリオダス殿?」

 メリオダスが現実と夢の境界に意識を置いていると、誰かが名前を呼んだ。その声はとても心地よく響く。メリオダスが微睡みの中から脱せずにいると、声がもう一度名前を呼んだ。やはり、心地よい。頬に他人の体温が触れて、目元に掛かっていた髪を耳に掛ける感触がある。

「こんな所で寝ては風邪を引いてしまいます、メリオダス殿」

 心地よい声が告げることは確かに事実だ。メリオダスはそのまま眠ってしまいたいような思いを押しのけて、ゆっくりと目を開けた。開けて、目の前に広がった顔に驚く。

「アーサー?」

「はい、アーサーです。メリオダス殿」

 何でお前がここに居る。出掛かった言葉を飲み込んで、メリオダスは目を瞬かせた。アーサーは本日の宴会の主役である。簡単にあの宴会を抜けてくることなど出来ない筈だ。その主役がこんな所に居る筈が無いだろう。そう思って見たが、目の前にある顔はどう見てもアーサーだ。

「お前、なんでこんなとこいんの?」

「それは……その。メリオダス殿はかなり飲まされていたようなので、心配になりました」

 アーサーの言葉を聞いた瞬間、メリオダスは例えようも無い充足感を感じた。それは不意に湧いたもので、心に落ちた陰を消し去って行く。

 心配になったから、全部放り投げて抜けて来たって、馬鹿だろ。

 メリオダスはそう思いながら、アーサーに声を掛ける。

「嫁さん一人残して来てんじゃねえよ」

 咎める声は、言葉とは裏腹に殊の外優しい響きで発せられた。これでは咎めているのではない。まるで喜んでいるようではないか。ゆっくり体を起こすと、アーサーが手を伸ばしてその体を支える。「大丈夫ですか? 気持ち悪くないですか?」と心配そうな声を出す様子は、メリオダスの目にとても愛らしく映った。こんな表現は大の男に向けて使うものではない筈だ。酒で頭のネジが緩んでいるのかもしれない。

 目の前でしゃがみ込んでいるアーサーを見下ろした。この身長のせいで、いつもなら見下ろされる側である自分が、今はアーサーを見下ろしている。少し面白くなって笑った。やはり酒に酔っている。見たことのないメリオダスの様子に、彼は不思議そうな顔をした。そんな様子も愛らしく思え、メリオダスはアーサーの頭に手を伸ばす。左手でその頭に乗った王冠を取ると、それを椅子の上に置いてから右手で彼の頭を撫でる。戯れ付くように力を込めて髪を乱すメリオダスに、アーサーは戸惑いながら言った。

「あの、髪が乱れてしまいます」

「乱してる」

「ええと、いつもなら構わないのですが、今日は少し困ります」

 そう言って、アーサーが自らの左手でメリオダスの右手を掴んだ。その手に何かが光ってメリオダスは目を凝らす。彼の左手、その薬指に輝くのは、金の指輪だった。

 ああ、そうだ、こいつは隣に立つ奴を選んだんだ。

 それを目の当たりにして、メリオダスは小さな苛立ちを覚えてしまう。アーサーは結果としてグヴィネヴィアを選んだ。それは間違いの無いことなのに、何故彼は花嫁の側を離れてこの場に居るのか。アーサーがこの場に居るのはメリオダスを心配してのことだと、先程聞いた言葉を繰り返しても、生まれた苛立ちは心に絡んで取れない。

「アーサー、もういいから戻れ」

 努めて平静に言った。先程と打って変わった硬い表情を見せるメリオダスに、しかしアーサーはきっぱりと告げる。

「部屋までお送りします」

 その言葉に、メリオダスの苛立ちは募った。それを押し殺して、あくまで固辞する。

「一人で行ける」

「……そうかもしれません。私が送りたいだけです」

 だから、断らないで欲しい。そう懇願するかのようにメリオダスの目を見つめるアーサーに、思わず黙り込んだ。その顔から一切の表情を消したメリオダスに、機嫌を損ねたかと思ったのか。アーサーは少し眉を下げて笑う。

「行きましょう。立てますか?」

 そう言って立ち上がろうとした彼の肩を、メリオダスの左手が押さえこんだ。急に動く方向とは反対の力を加えられたアーサーは、バランスを崩して尻餅をつく。メリオダスは椅子から立ち上がると、さきほど己が乱した前髪を掻き上げて、露わになった額に唇を落とした。

「へ?」

 アーサーが間抜けな声を出す。状況が理解出来ていないアーサーの様子に、メリオダスが口元だけで笑って、今度は瞼に唇で触れる。近付いた顔に思わず目を瞑ったアーサーは、薄い皮膚越しに熱を感じた。

「うわ」

 酔っぱらいが相手とはいえ、流石に問題があると思ったのか、アーサーが相手を遠ざけようと両手を突き出す。しかしそれはメリオダスの両手によって絡めとられてしまう。再度酔っぱらいが顔を近づけて来たので、アーサーは反射的に体を後ろに反らした。するとメリオダスは、そのタイミングに合わせてアーサーの体を地に倒してしまう。慌てて起き上がろうとするアーサーの胸元を、メリオダスは右膝で押さえ込み動きを封じる。メリオダスは何も言わずに左手をアーサーの顔のすぐ傍に置いて上半身を倒した。

「ちょ、メリオダ……っ」

 慌てて何か言おうとしたアーサーの唇を、メリオダスはあっさりと塞いだ。触れてみれば柔らかく、女性のそれとたいした差は感じないとメリオダスは思う。ほんの少しかさついている唇を舌で舐めると、びくりとアーサーの体が揺れた。そうして、動きは封じたまま、メリオダスはほんの少し顔を離す。アーサーは顔を真っ赤にして何か言おうと口を開いた。しかしその口からは何の言葉も発せられない。

「言うことねえの?」

 メリオダスはそのままの体勢で問うた。こんなことをしておいて相手の言葉を求めるなど、随分甘えた考えだと内心で自嘲する。アーサーの菫色の瞳が揺れるのを美しいと感じながら、メリオダスは言葉を待った。

「……わ、かりません」

 ようやっと、と言った様子でアーサーが声を出す。

「何故、あなたは怒っているのですか? 私が何かしてしまったのなら、謝ります。けれど、そうでないのなら」

 そこで言葉を区切って、メリオダスの視線から逃げるように強く目を閉じた。

「どうして、いま」

 その言葉を聞いて、メリオダスは再度アーサーに口付けた。触れて、アーサーの上唇を食む。するとほんの少し口元が緩められた。メリオダスは緩んだ唇を舌でなぞると、角度を変えて舌を入れる。

「っ」

 アーサーが息を飲んだ。メリオダスは、怯えたように体を固くするアーサーの歯列を撫でるように触れる。そのまま奥へ進み舌を触れ合わせると、その感触に驚いたのかアーサーの手がメリオダスの胸元を押した。しかしメリオダスは構わず舌を絡ませてゆく。アーサーの口内は甘い酒の味がした。先程まで飲んでいたメリオダスもそうだろう。そんなことを考えていると、アーサーがメリオダスの胸元を叩いた。それに気付いて、メリオダスはまさか、と思いながら唇を離す。するとアーサーは大きく息を吸い込んで、次いで咳き込んだ。その目元に滲んだ涙を拭ってやりながら、メリオダスは言った。

「鼻で息、出来るだろ」

「す、みませ」

 アーサーは右手で口元を覆って、それでも謝罪の言葉を口にする。ここで謝るのか。メリオダスは上半身を起こしてアーサーを見た。綺麗に整えられていた髪は、すっかり乱れてしまっている。目元まで赤くして瞳を潤ませる様は、ひどく扇情的だ。本来ならある体格差は、こうして倒してしまえば何の障害にもならない。そこまで考えて、メリオダスは自嘲する。本当に、どうして今更こんなことをしたのだろう。冷や水でも浴びせられたかのように、メリオダスの思考に冷静さが戻ってくる。メリオダスはアーサーの上から退くと、追ってきたアーサーの視線をその手で覆い隠した。そして、優しい声で告げる。

「すまなかった。忘れてくれ」

 メリオダスは、我ながら最低な発言だと思う。まさか自分がこんな台詞を口にする日が来るとは、思いも寄らなかった。感情のままに行動して、それを後悔するなど、メリオダスにとって、あってはならないことの筈だったのだ。

 その言葉を聞いたアーサーは、口を開こうとしてすぐに閉じた。そのまま声を無くしたかのように黙り込むアーサーの顔を見ないように、メリオダスは立ち上がり背を向ける。そうして、メリオダスは何も言わずに四阿を後にした。庭園を抜けて、回廊に辿り着いた所で、メリオダスは一度だけ振り返る。

 四阿には、メリオダスが置いて来たランプの明かりが頼り無さげに灯っていた。

 

 

 翌朝、メリオダスはいつも通りの時間に起きた。少し体を動かして、二日酔いで苦しむ仲間と共に朝食を取り、共用の執務室から自分の荷物を新たに与えられた部屋に運ぶ。その途中の廊下で、メリオダスはアーサーと顔を合わせた。アーサーはメリオダスの姿を認めると、ほんの一瞬だけ表情を強張らせる。しかしすぐにそれを感じさせぬ綺麗な笑顔を見せた。

「おはようございます。メリオダス殿」

「おはよう、アーサー」

 自ら声を掛けて来たアーサーに、メリオダスが足を止めて答える。アーサーはメリオダスが抱えた荷物を見て、「手伝いましょうか?」と申し出た。その申し出に、メリオダスは首を振る。

「たいした荷物もねえしな」

「そうですか。何か困ったことがあったら教えて下さいね」

「ああ。ありがとよ」

 メリオダスは笑って礼を告げた。そしてまた歩き出す。暫く歩いて、廊下の角を曲がる所で視線だけを歩いて来た方に向けた。

 そこには、もうアーサーの姿は無かった。

 

 

 

 

 

「あれー? 本当にこっちの方角だったかな?」

 草と岩と少しの低木が立つ平原の真ん中で、額に右手を当てて遠くを伺うのは、巨人族のディアンヌだ。ディアンヌはきょろきょろと辺りを見回して、すぐ隣に浮かぶ妖精族のキングに視線を向ける。キングは懐からコンパスを取り出して、左手に持つ地図と照らし合わせた。

「方角は合ってる筈だよ。もう少し進めば城が見えてくるんじゃないかな」

 そう言って、キングはふよふよと浮かびながら先を進む。キングの横に並んで歩きながら、ディアンヌが楽しげに言った。

「団長が聖騎士長かぁ。なんだか、かっこいいよね〜」

「そうかな」

「そうだよ。でも本当に凄いのはアーサーかな。団長を聖騎士長にしちゃうんだもん」

 ディアンヌの言葉に、キングは確かにと思った。メリオダスは七つの大罪の団長である。しかし、団長と呼ばれはしても、皆を統率するようなことは無かった。むしろ、そういったことは面倒くさがって意図的に避けていた節もある。実際の所、七つの大罪はリオネスの聖騎士達の枠に収まらない存在だったし、規律のようなものなど無かった。基本的には個人の好き勝手に動いており、何かに縛られるようなことは無いのだ。七つの大罪の中での「団長」という称号にはたいした重みはなかった。しかし、一国の聖騎士長ともなれば話は別である。ごく当たり前に、その国の聖騎士、ひいては国民に対する責任が生まれる。メリオダスの性格からして、進んでそれを望むとは思えない。にもかかわらず、メリオダスはキャメロットの聖騎士長に就任した。メリオダスをよく知るキングやディアンヌからすると、驚きを隠せない事態だ。

「エリザベスから誘われても断ったのにね」

「そうだね」

 過去、メリオダスはエリザベスからリオネスの聖騎士長になってほしいと乞われて、それを断っていた。共に旅をし、あれほど親しくしていた相手からの願いすら断ったというのに、キャメロットの聖騎士長になったというのはどういう心境の変化であろう。

「アーサー王か。団長にすごく懐いてたよね」

「うん。純粋で真っ直ぐな目をしてさ。団長ってば、ボクらの旅が終わってから、何度かキャメロットに行ってたみたいだよ」

「そうなんだ」

 キングが驚いたように目を見開いた。店の仕入れでもないのに。メリオダスが特定の誰かの元を再三訪れるなど想像が出来ない。驚きを隠さないキングに、ディアンヌは笑って「団長はアーサーのこと好きなんだね」と言った。その言葉に、キングは間抜けな声を上げる。

「え?」

「だって、アーサーを守りたいって思ったから、団長は面倒事を引き受けてまで傍に居るんでしょ? ボクがキングのことを大好きで、ずっと傍で守りたいと思っているのと同じじゃないの?」

 人差し指を頬に当てて答えるディアンヌの言葉に、キングが耳まで赤くなった。

「ディアンヌ……。お、オイラも、ディアンヌが大好きだよ! ずっと一緒に居るから!」

「えへへ、ありがとう」

 二人は照れ笑いを交わす。キングは、ディアンヌとこんなにも幸せな時間を過ごせるようになるとは、思いもしていなかった。過去にディアンヌの記憶を封じて別れた時、キングはディアンヌと再会出来るなど思わなかったし、こうしてお互いを大切に思いあえるなんて夢にも見なかったのだ。

 キングには、ディアンヌが言うような意味で、メリオダスがアーサーのことを好きだと思っているかどうかはわからない。何せ相手はメリオダスなのだ。過去にエリザベスと共に旅をしていた時、メリオダスはエリザベスのことをとても大事にしているように見えた。しかし、最終的にメリオダスはエリザベスの手を取らなかったのである。キングから見たメリオダスは、意図的に特別な誰かを作らないようにしているように見えた。その理由はわからないし、知ろうとも思わないけれど。

「団長が何を考えてキャメロットの聖騎士長になったかは、オイラにはわからないや」

「ボクも憶測でしかないけど……そうならいいなって思ってるんだ」

 そう言って、ディアンヌは前を見た。キングがその理由を尋ねる前に、ディアンヌが「あ!」と大きな声を上げる。

「見て、お城見えたよ!」

 ディアンヌに促されて前方を見ると、キングにもキャメロットの城が見えた。

「団長に会うの、楽しみだね」

 笑うディアンヌを見て、キングも「そうだね」と返す。

 メリオダスの居るキャメロットは、もうすぐそこだ。

 

 

「メリオダス聖騎士長! ここにいらしたのですか」

 執務室でアーサーに上げる書類を確認していたメリオダスの元に、焦った様子で現れたのは一人の騎士だ。騎士は隣に居たアーサーに一礼をして、メリオダスを見る。

「城門前に、巨人が現れました! メリオダスを呼べと要求しているのですが、どうしたものかと」

「巨人?」

「はい」

 騎士の言葉に問いを投げたのはアーサーだ。アーサーはメリオダスを見ると、「もしかして、ディアンヌ殿でしょうか」と言った。

「女か?」

「栗色の髪の女巨人です」

「ディアンヌだな」

 メリオダスがそう結論付けると、アーサーがメリオダスの持つ書類を取り上げる。

「この件についてのお話はまた後で。今は城門へ向かって下さい。私もすぐにご挨拶へ伺います」

「サンキュ」

 メリオダスは礼を述べて、執務室を出る。焦る騎士に「オレの仲間だ」と答えると、城門へと向かう。メリオダスが城門に辿り着く頃には、既にちょっとした騒ぎになっていた。城門の警護に当たっていた兵士が、メリオダスの姿を見つけて叫ぶ。

「メリオダス様!」

「おう。随分人が集まってんなぁ」

 そう言ってメリオダスは周囲を見回した。集まった人々は恐ろしさに怯える、というより、興味津々といった様子だ。メリオダスの傍に来た兵士は、危機感を持っているのか硬い表情をしている。

「巨人を見ることなどそう無いことなので。如何いたしましょう?」

「オレが呼ばれてるんだろ。出るさ」

「わかりました、お供します」

 兵士は頷くとメリオダスを城門脇の小さな扉に案内する。閂を開けると扉を開いた。メリオダスが外に出ると、城門前に座り込んだディアンヌの姿が目に入る。ディアンヌは、すぐに出て来たメリオダスの存在に気付き、その顔に喜びの表情を浮かべた。

「だんちょーう!」

 ディアンヌの手がぬっと伸び、メリオダスの体を包み持ち上げる。慌てる兵士に静止を促して、メリオダスはディアンヌに向けてにっと笑う。

「よう、ディアンヌ。数年振りだな」

「うん。団長が元気そうで安心したよー」

 そう言って、ディアンヌはメリオダスに頬擦りした。すると、ディアンヌとメリオダスのすぐ横に人影が現れる。コホンとわざとらしい咳をしたのはキングだ。

「オイラもいるんだけど」

「おー、キング。お前ちっこいから気付くの遅れたわ」

「団長の方が小さいでしょ!」

 ムキになって叫ぶキングに、メリオダスは笑う。その仲睦まじい様子に、メリオダスと共に出て来た兵士は唖然とした。扉の陰から様子を伺っていた数人も顔を見合わせている。メリオダスはそれに気付いて、ディアンヌの手の中からひらひらと手を振った。

「大丈夫だ。こいつらはオレの仲間のディアンヌとキング。敵意はねえよ」

 その言葉を聞いた数人が、物珍しさに負けてディアンヌを見に外に出てくる。そんな人々に、ディアンヌは笑顔で「よろしくねー」と挨拶をした。愛らしい笑顔を向けられてしまえば、僅かに残っていた警戒心も溶けて消える。いつの間にか、ディアンヌは人々に囲まれていた。

「ディアンヌ。そろそろ降ろしてくれ」

「はーい」

 メリオダスの言葉を受けて、ディアンヌが掌に乗せたメリオダスを地に降ろした時、新たな声がその場に響いた。

「お久しぶりです。ディアンヌ殿、キング殿」

 笑顔で現れたのはアーサーだ。アーサーはディアンヌと宙に浮くキングを見上げると、「キャメロットへ、ようこそおいで下さいました」と歓迎の意を告げる。

「こんにちは、アーサー」

「王様自ら、こんなとこまで出て来ちゃっていいの?」

 素直に挨拶を返すディアンヌと違い、キングは若干呆れたように言う。するとアーサーは笑顔のまま「メリオダス殿の大切なお仲間ですから、出迎えるのは当然です」と返した。その真っ直ぐな言葉に、キングはほんの少し照れたようにそっぽを向く。

「別に、キミが怒られなければいいんだけど」

「お気遣いありがとうございます。キング殿はお優しいですね」

 さらりと褒められて、キングは言葉に詰まった。そんなキングの様子を、メリオダスが意地の悪い顔で見つめている。それに気付いて、キングが言った。

「何か言いたそうだね、団長」

「別に何も? お優しいキング殿」

「もー!」

 じゃれあうメリオダスとキングを見て、アーサーがふっと息を吹き出す。そして、「本当に仲が良いのですね」と呟く。どこか寂しげにも見える様子で立つアーサーに、ディアンヌが手を伸ばした。そしてアーサーの体を包み込むように持ち上げる。

「ほら、アーサー。高いたかーい」

「わっ!」

 急に持ち上げられて、アーサーはディアンヌの手にしがみついた。そんなアーサーに、ディアンヌが言う。

「見てよ。キミの国、綺麗だね」

 その言葉に、アーサーはゆっくりと立ち上がった。そして、右から左まで遮るものが何も無い光景を見る。目の前に広がるのはキャメロットの城下町だ。それは城の物見台から見る景色とはまた違った見え方でアーサーの目に映った。体全体でその景色を感じているような心地になる。アーサーは思わず息を飲んで、その光景に見入った。

「……ディアンヌ殿」

「なあに?」

 呼ばれたディアンヌが首を傾げる。アーサーはディアンヌを見ると、子どものような無邪気な笑顔を見せた。

「ありがとうございます!」

 そんなアーサーの笑顔を、メリオダスが眩しげに見上げる。その口元にはうっすらと笑みが浮んだ。メリオダスの隣に立っていたキングは、その様子を見て「ふうん」と興味深そうに呟く。

「なんだ。騒がしいと思えばお前達か」

 何も無い中空にふっと現れたのはマーリンだ。マーリンに気付いたディアンヌとキングは、それぞれが声を掛ける。それに返事をして、マーリンはディアンヌの手の中にいるアーサーに視線を向けた。アーサーは零れるような笑顔のままマーリンを見る。

「マーリン、ディアンヌ殿の目線は興味深いね。世界が違って見える!」

「そうか。良かったな、アーサー。さあ、皆が心配しているぞ。そろそろ降ろしてもらえ」

 マーリンの言葉に、アーサーはディアンヌの手に掴まって地を見下ろした。そこには、心配そうな顔をした兵士達が居る。

「そんなに心配しなくても、落としたりしないのにな〜」

 ディアンヌが手の中のアーサーを見て、「アーサーってば愛されてるね」と笑った。それから、そっとアーサーを地に降ろす。ディアンヌの手から降りたアーサーは、もう一度ディアンヌに礼を告げて言う。

「積もる話もあるでしょう。良ければ暫く滞在していかれませんか?」

「じゃあ少しだけお世話になろうかな。ねえ、キング」

「そうだね。あまり長く滞在するのも仕事の邪魔になるだろうし」

 ディアンヌとキングの言葉に、アーサーは笑顔で了承した。

 

 

「キング様にディアンヌ様。キャメロットにようこそおいで下さいました」

 しとやかな笑みを浮かべたグヴィネヴィアを見て、ディアンヌは頬に両手を当てて「綺麗なコ〜」と声を漏らす。

 マーリンから手渡されたミニマム・タブレットで小さくなったディアンヌは、キングと一緒にメリオダスの案内で城の中を見学した後、城の一室でお茶を飲んでいた。そこに現れたのは、予定を調整してくる言って一旦別れたアーサーと、グヴィネヴィアだ。

「エリザベスも綺麗なコだったけど、このコもお人形さんみたいだね」

「リオネスのエリザベス様のことでしょうか? あのような可憐な方と並べられるなんて、光栄ですわ」

 キングに囁いたディアンヌの言葉を聞き取って、グヴィネヴィアがはにかむ。そんなグヴィネヴィアを、アーサーが手前の椅子を引いて席に促す。お礼の言葉を口にして、グヴィネヴィアは席に着いた。アーサーも、その隣の席に着く。ディアンヌとキングが不思議そうな顔でグヴィネヴィアを見つめると、その視線の意味に気付いたグヴィネヴィアは口元に手を当てた。

「失礼いたしました。私、アーサーの妻のグヴィネヴィアと申します。お二人のお話はメリオダスやアーサーから伺っておりました。ぜひ、一度お会いしてみたいと思っていたのです」

「え!?」

 グヴィネヴィアの丁寧な自己紹介に、一拍置いてディアンヌとキングが驚きの声を上げる。

「ちょっと待って。アーサーって結婚したの!?」

「あ、はい。紹介が遅れて申し訳ありません」

「ディアンヌ。オレが聖騎士長になった話を知ってるのに、なんでそれを知らねえんだよ」

 ディアンヌの言葉に、メリオダスが呆れたように言う。言葉を失うディアンヌの代わりに、キングが返事をした。

「いや、オイラ達はエリザベス様から、団長がキャメロットの聖騎士長になったって話を聞いただけなんだ。人の世界のことにあまり興味も無かったからさ」

「そっか。オレが聖騎士長になるのと同じタイミングで式を上げたんだ。結構盛大な式だったんだぜ」

 机に頬杖をついて笑顔で話すメリオダスを、ディアンヌが探るような視線で見つめる。それに気付いて「どした?」と言うメリオダスに、ディアンヌはほんの少し頬を膨らませてから「なんでもない」と答えた。

 そんな二人の様子を見ていたグヴィネヴィアが、微笑みながら言う。

「ディアンヌ様、キング様。実は今晩、お二人を歓迎してささやかな宴を開こうかと思っているのです。よろしければご参加頂けませんか?」

「えっ! そんなに気を使わなくてもいいよ?」

「……実は、城の者がお二人にとても興味を持っておりまして。ご迷惑でなければ、一晩お付き合い頂けると嬉しいです」

 遠慮がちなディアンヌに、アーサーが両手を合わせて願い出る。それを聞いたディアンヌとキングは、顔を見合わせた。

「うーん。どうしよっか」

「お世話になるんだから、一晩くらいならいいけど……」

 キングが頬を掻きながら答えると、アーサーが嬉しそうな笑顔を見せる。

「ありがとうございます! 皆喜びます」

「お話を受けて頂けて嬉しいです。じゃあ、アーサー。私は準備があるから、失礼するわね。……お二人とは今宵ゆっくり話をさせて下さい」

 そう言って立ち上がったグヴィネヴィアに、アーサーも立ち上がり言う。

「手伝うよ」

「大丈夫。貴方はゆっくりしていらして」

 グヴィネヴィアはアーサーの肩に手を添えて座るように促す。そうして、メリオダス達に一礼をして部屋を出て行った。

 

 

 その夜、キャメロットではささやかな宴会が開かれた。主賓はもちろんキングとディアンヌである。二人は、最初こそ遠慮がちに遠巻きにされていたものの、メリオダスが二人の傍に行くと、それを切っ掛けに多数の者が声を掛けてきた。

「妖精族の方には初めてお会いしました。羽は仕舞っておられるのですか?」

「羽が無くても飛べるけど」

 そう言って、若干面倒そうにキングが浮かび上がると、おおっと声が上がる。もう一方ではディアンヌが騎士らに囲まれていた。

「いやあ、巨人族とお聞きしていましたが、こんなに可愛らしいお嬢さんだとは」

「今はマーリンの薬で人と同じサイズになってるんだ。でないとボクは城内に入れないからね」

「俺、城門で貴女を見てました! 笑顔が素敵ですね!」

「あは。ありがとー」

 ディアンヌを囲む騎士達はみな頬を緩めている。気取らぬ態度のディアンヌに好感を持っているのだろう。

「ディアンヌ様とキング様はずっと二人で旅をしておられるのですか?」

「ここ数年はずっと一緒に居るよ」

「これからもずっと一緒に居るから」

 ディアンヌの言葉に、空に浮かんで騎士の包囲網を抜けたキングが付け加えた。それを聞いた騎士達は、ディアンヌとキングを交互に見て言う。

「お二人は付き合っておられるのですか?」

「うん。キングはボクの大切な人なんだ」

 笑顔のディアンヌに、彼女を囲っていた数名の騎士が残念そうな顔をした。それを見て、キングはさりげなくディアンヌの隣に移動する。そんな二人の様子を見ていたメリオダスが、小さく笑った。

「キング殿は、ディアンヌ殿が本当に大切なんですね」

「ああ。そうだな」

 隣に立ったアーサーの言葉にメリオダスは頷く。そうして、ほんの少し目を細めた。まるで遠い世界を見ているかのようなメリオダスの様子を見て、アーサーは無意識にその肩に手を添える。「どうした?」と見上げてくる深い緑の瞳には、もう何の感情も見当たらない。

「貴方にも、大切な人はいますか?」

 何故そんなことを聞こうと思ったのか、アーサーにはよくわからなかった。ただ、その答えはなんとなく予測が出来た。

 メリオダスは驚いたように瞬きをしてアーサーを見る。それから、視線を逸らして遠くを見た。ここではない、どこか遠くを。

「大事なものなら、あるさ」

 優しく深い声で告げられたその言葉に、アーサーはたまらない気持ちになって拳を握った。メリオダスの肩から手を離すと、視線を騎士達と歓談するキングとディアンヌに向ける。

「アーサー。お前にもあるだろ」

「……はい」

 メリオダスの言葉にアーサーは頷いた。確かに、大事なものならこの手に抱えきれないほどある。だが、メリオダスの言う大事なものと、アーサーの大事なものはどこか本質的に異なる気がしていた。それが何であるのか、今のアーサーには上手く言葉にできない。

「おや、団長殿に虐められているのか?」

 唐突に、アーサーの右隣から声がした。アーサーが声の方を見ると、すぐ傍にマーリンが現れる。

「虐めてねえよ。失礼な奴だな」

「そうか。ならばアーサー。そろそろキングを助けてやってくれないか。ディアンヌは無意識がゆえに人を魅了する。キングも気が気でないだろう」

「わかった」

 そう言って笑ったアーサーが、メリオダスとマーリンの元を離れて行く。それを見送り、マーリンが言った。

「団長殿は、馬鹿だろう」

「盗み聞きが得意な女に言われたくねえなぁ」

「言ってくれるな」

「お前こそ」

 お互い口元だけに笑みを浮かべたまま、マーリンとメリオダスは言葉を交わす。それは親しい仲に生まれる口遊びのようなもので、きつい言葉とは裏腹に、その空気は穏やかなものだ。

「全く、面倒な男だ」

 マーリンが、本当に仕方が無い、といったように息を吐いた。それを聞いて、メリオダスもふっと息を吐く。

「違いねえ」

 メリオダスの視線の先には、キングとディアンヌに合流したアーサーの姿があった。

 

 

 アーサーが来たことによって、気を使ったのか、大方の騎士達は思い思いの方へ散って行った。それを確認して、キングは疲れたようなため息を吐く。

「お付き合い頂いて申し訳ありません。キング殿」

「え? いや、いいんだけどさ」

「そうだよ。色んなコとお話出来てボクは楽しかった!」

 慌てたように顔の前で手を振るキングと、無邪気に微笑むディアンヌを見て、アーサーも笑顔を浮かべる。

「そうだ! ボク、アーサーに聞きたいことあったんだ」

「なんでしょう?」

「どうやって団長を聖騎士長にしたの?」

 ディアンヌの言葉に、アーサーは驚いたように瞬きをした。そして指先で頬を掻く。

「どうやって……と言われましても。どうしてなのか、私にもよくわからないのです」

 それを聞いて、ディアンヌは首を傾げる。興味深そうな視線を向けてくるディアンヌとキングに、アーサーは昔のことを思い返した。思い返しても、やはりアーサーにはこれといった理由は見当たらない。

「昔、一緒に収穫祭へ行った時に言われたのです。願いを叶えてやる、と。私がメリオダス殿に願い出ていたことは、聖騎士長の件しかなかったので、それのことかと尋ねたら……」

「団長がそうだって言ったの?」

「はい」

 キングの言葉にアーサーが頷く。キングとディアンヌは顔を見合わせた。同じタイミングで瞬きをして、またアーサーに視線を戻す。

「私にも、メリオダス殿が何を考えておられるのかはわかりません」

 その視線を受けて言ったアーサーの言葉に、ディアンヌは考え込むように口元に手を当てて唸る。そんなディアンヌの背を軽く叩いて、キングが言った。

「団長が何を考えているかなんて、団長にしかわからないよ。ディアンヌ」

「そうかもしれないけど……」

 ディアンヌが首を傾げる。それから視線でメリオダスを探した。メリオダスは、少し離れた所でマーリンと何かを話しているようだ。その様子はリラックスしていて自然体であるように見える。

「……別にいいのかな。団長、楽しそうだし。この国の人とも仲良くしてるもんね」

 そう言って、ディアンヌは笑顔を見せた。それからアーサーに向き直る。

「団長がいれば、今後も安心だね。アーサー」

 ディアンヌが何気なく言ったその言葉に、アーサーが少し表情を陰らせる。ディアンヌがそれを不審に思う前に、アーサーが話し出した。

「いえ。いつまでも、メリオダス殿に頼っている訳にもいきません」

「どうして?」

 不思議そうなディアンヌに、アーサーは儚げに笑む。どこか寂しげなのに、それを押し隠すように微笑む様子は、ディアンヌに親友を思い起こさせた。エリザベスも、旅立つメリオダスを見送る時にこんな笑顔を浮かべていたことを思い出す。

「メリオダス殿は、この国に三年間しかおられませんから」

「えっ?」

 アーサーの言葉に、ディアンヌは現実に引き戻された。アーサーが何を言ったのかが一瞬理解出来ずに首を傾げる。

「三年間って、どういうことなのさ?」

 そんなディアンヌに代わって、キングが尋ねた。アーサーは笑みを浮かべたまま、その問いに答える。

「そのままの意味です。メリオダス殿は三年間だけキャメロットに滞在し、助力して下さると言っておられました。ですから、いつまでもメリオダス殿を頼ってはいられません」

 きっぱりとした声で告げたアーサーにディアンヌはほんの少し寂しそうな顔をする。

「……アーサーは、それでいいの?」

「私、ですか?」

「うん。アーサーは、このまま団長がいなくなってもいいのかなって」

 ディアンヌの問いかけに、アーサーはほんの少しの困惑を滲ませた。ディアンヌの問いは、国の為に、というよりはアーサー自身に問われたものだ。だから、アーサーは上手く答えられなかった。国の為にと言われたなら、残ってほしいと思う。だが、アーサー個人に問われると、とたんにわからなくなった。

 ふっと脳裏に過るのは、結婚式の夜のことだ。人の気配の無い四阿。揺らぎ消えそうなか細いランプの明かり。横たわったまま見上げる四阿の天井。木霊するは最後の言葉。あの時、自分はどうやってあそこから立ち去ったのだろう。

「私は……」

 視線を落とすアーサーの答えを待つように、ディアンヌとキングが見守る。アーサーはふっと何かに導かれるように視線を上げた。その先には、メリオダスの姿がある。同じようにアーサーの方を見ていたのか、メリオダスと視線が重なった。そのことに気付いたメリオダスが、自然と笑みを見せる。それに笑い返して、アーサーはディアンヌとキングを見た。

「私は、メリオダス殿には、自由が似合うと思います。多分、今の状況がおかしいのでしょう」

 それは、優しい、落ち着いた声だった。

 アーサーの言葉を聞いたディアンヌが、唐突にキングの名前を呼んだ。その返事を待たずに、ディアンヌはアーサーに背を向ける。

「ボク、ちょっと団長と話がしたいから、行ってくる」

 そう言って、ディアンヌはメリオダスのいる方へと一人歩んで行った。その背を見送って、アーサーが零す。

「何か、悪いことを言ってしまったでしょうか」

「ディアンヌのことは気にしなくていいよ。……まあ、団長の自由はキミが決めることじゃないと思うけど」

 責める響きの無いキングの声に、アーサーは言葉に詰まった。黙り込んでしまったアーサーに、キングは小さくため息を吐く。

「あのね。団長は団長の好きなように動いてるし、キミも好きなように振る舞えばいいんだよ。あんなにこの国に馴染んでるんだから、これからも居てほしいなら居てほしいって言えばいいんだ。それを聞いてどうするかは、団長の勝手でしょ?」

 キングの言葉に、アーサーは唖然とした顔をした。確かにキングの言うことはもっともだ。ただ、アーサーにとっては予想外な言葉だった。

 昔の自分であれば、もっと簡単に、これからも居てほしいと純粋な気持ちで乞い願えただろう。だが、今のアーサーにはそれが出来なかった。何故、と考えるアーサーの背に、誰かが優しく触れる。

「どうかした? アーサー」

 心配そうな声は、少し離れた所で騎士と歓談していたグヴィネヴィアのものだ。アーサーは振り向いてグヴィネヴィアの顔を見た。そうして、漠然と思う。

 言えないのではない。言ってはならないのだと。

 

 

「団長、ボクとお話しよっ!」

 マーリンと話していたメリオダスの元にやって来たディアンヌは、そう言ってメリオダスの返事も聞かずに手を掴んで引いた。

「お? なんだなんだ」

 暢気な声を上げながらも、メリオダスはディアンヌに合わせて歩み出す。そんなメリオダスに、マーリンがひらひらと片手を振った。ディアンヌはつかつかと足早に歩んで行く。広間を横切ってテラスまで突っ切ると、そこでようやく足を止めた。ディアンヌとメリオダスの後ろで、広間に通じる扉が小さな音を立てて閉まる。その音を聞いて、ディアンヌが振り向いた。室内の明かりがぼんやり滲むテラスは薄暗く、人影もない。

「ねえ団長。ボク、ずっと聞きたかったことがあるんだ。聞いていい?」

「なんだよ、改まって」

 ディアンヌの真剣な目を見て、メリオダスが首を傾げる。ディアンヌは握ったメリオダスの手に少し力を込めた。迷いはほんの一瞬で、ディアンヌはメリオダスの手を握りしめたまま、問う。

「団長は、何でエリザベスの手を取らなかったの?」

「……」

「ボクは、団長は、エリザベスの隣に居るんだろうって、そう思ってた」

 それは、ディアンヌがずっと抱えていた素朴な疑問だった。ディアンヌはさらに続ける。

「別に、ボクは二人の間に何があったかを知りたい訳じゃない。けど、団長はエリザベスをすごく大切にしていたでしょう? なのに、エリザベスの誘いを断って、アーサーの所にいるのはどうして?」

 そこで一度言葉を区切って、ディアンヌは息を吸った。

「ここにも、三年しかいないって本当?」

「アーサーから聞いたのか」

「そうだよ」

 メリオダスがふっと息を吐いて笑った。それから、昔を懐かしむような目をする。

「そうだなぁ。……エリザベスのとこに寄って来たんだろ?」

「うん」

「幸せそうに笑ってたろ」

「毎日が慌ただしいけど、幸せだって笑ってたよ」

 ディアンヌの言葉を聞いて、メリオダスは優しい笑みを浮かべた。

「なら、それでいいんだよ」

 あっさりとしたその声に、ディアンヌは何も言えなくなった。黙り込んだディアンヌに、メリオダスは続ける。

「アーサーのとこに居るのは、……まあ、成り行きだな。どうにも放っておけなかった。三年って期限付きなのも、本当だ」

 ディアンヌを見ながらメリオダスは答えた。その言葉に、ディアンヌは少し不満そうな声を出す。

「……どうして? アーサーはずっと居て欲しそうだったよ」

「それ、アーサーの口から聞いたのか? 違うだろ」

 メリオダスの言葉にディアンヌは反論しようとしてやめた。確かに、ディアンヌはアーサーの口からメリオダスに居て欲しいと聞いた訳ではないからだ。けれど、ディアンヌから見たアーサーは、メリオダスのことをとても大切にしていると思った。あんなに大切にしているのに、傍に居てほしくない訳は無いのだ。だから、ディアンヌはあえて尋ねた。

「三年って期限をつけたのはどうして?」

「……なあ、ディアンヌ。アーサーは、エリザベスじゃねえぞ」

「団長こそ、わかってるの? アーサーもエリザベスも一人の人間なんだって」

 ディアンヌが、どこか泣きそうなか細い声を出した。メリオダスは空いた手を伸ばし、ディアンヌの頬を優しく撫ぜる。

「わかってる。オレは、あいつらの幸せを願ってるさ」

 落ち着いたメリオダスの声に、ディアンヌは悔しくなって掴んだ手を強く握りしめた。

「変だよ。どうして、その幸せの中に団長が必要だって思わないの」

 小さく呟かれた言葉は夜風に流されて消える。だが、確かに届いたその声に、メリオダスはなにも言わなかった。

 

 

 キャメロットで数日を過ごしたキングとディアンヌは、皆に見送られて城を後にした。アーサーは「ぜひまたいらしてくださいね」と笑顔で見送ってくれたし、メリオダスとマーリンは片手を上げて「またな」と短い挨拶を寄越した。概ね順調な滞在だったと言えよう。しかし、と思ってキングは隣を歩くディアンヌを見る。キャメロットから出るまで、ディアンヌは何時もと変わらず明るく振る舞っていた。だが、見送る人がいなくなると、途端に何かを考え込むように下を向いて歩き始めた。

「ディアンヌ。足下ばかり見てると危ないよ」

「うん……」

 キングの言葉に、ディアンヌは視線を上げる。そして隣に浮かぶキングを見た。その瞳はどこか悲しげに揺れている。

「ねえ、キング。ボクは団長にも幸せになってほしいよ」

「うん」

「ボクは団長にすっごく感謝してる。七つの大罪として団長と一緒に過ごした日々は、本当に幸せな時間だったから」

「そうだね。オイラもそう思ってる」

 優しく頷くキングに、ディアンヌは言葉を続ける。

「エリザベスのときもそうだったけど、団長は大切な人ほど遠ざけているように見えるんだ。まるで、何かを怖がっているみたい」

 ディアンヌの言葉に、キングも確かにと思う。ほんの一瞬垣間見えた表情から、メリオダスがアーサーを大切にしていること位、キングにもわかったからだ。

「エリザベスの手を取らなかった。アーサーの元からも去る。じゃあ、団長の隣には誰が居るのかな?」

 立ち止まったディアンヌの目の前に移動したキングが、ディアンヌの鼻先に触れた。それから、あやすような声で告げる。

「ねえ、ディアンヌ。団長の幸せは、きっと団長にしかわからないものだよ」

「うん」

「団長も頑固だから、オイラ達が何を言った所で自分の考えは変えないと思う。だから、こっちも好きに動けばいいのさ。なんなら、また一緒に旅をしてもいいんじゃない」

 キングの言葉に、ディアンヌが小さく笑う。

「一緒に旅かぁ。楽しそうだね。うん。また、皆でお店やりたいな」

 明るい笑顔の戻ったディアンヌに、キングも「うん、出来るさ」と微笑みを返した。

 

 

 

 

 残り少ない日々は、何事も無く、穏やかに過ぎて行った。

 メリオダスがキャメロットに来て二年と半年が過ぎた頃のこと。メリオダスは、「サシで飲もうぜ」と言って自室にサンスを誘った。呼び出しに応じたサンスが、貰い物だと言うワインの瓶を持ってやってくると、メリオダスは用意していたグラスにそれを注ぐ。二人で杯を掲げて、ワインに口を付けた。口内に広がる芳醇な香りに、メリオダスが「美味いな」と呟く。するとサンスが「一番いいヤツを持って来た」と言った。二人は暫く他愛無ない話をしながらワインを楽しんだ。瓶の中身が残り少なくなった頃、サンスが話を切り出す。

「で。話はなんだ、メリオダスよ」

「ん。まあ、お前にはオレが直接伝えときたいと思ってな」

「あんまり深刻な話は勘弁願いたいが」

 そう言うサンスに、メリオダスは新たな酒瓶を出しながら答えた。

「まあそう遠慮するなよ」

「……嫌な予感しかしないな」

 サンスはグラスに残ったワインを呷った。空いたグラスに、メリオダスが酒を注ぐ。そうして、自分のグラスにも酒を満たした後、メリオダスが言った。

「あと半年したら、オレはこの国を出ていく」

「なっ!?」

 予測範囲外の言葉にサンスは絶句した。そんなサンスを真っ直ぐに見つめながら、メリオダスが続ける。

「悪いが、お前には後のことを頼みたいと思ってる」

「ちょっと待て! 出て行くってどういうことだ? 何かあったのか?」

「何もねえよ。ただ、元々そういう約束をしていただけだ」

 メリオダスの言葉に、サンスは「約束?」と呟く。それを受けて、メリオダスは「ああ」と言った。

「オレは三年間という期間を提示して、アーサーはそれを受けた。少し違うが、雇われたと考えてもらってもいいぞ」

「……すまん。お前が何を言っているのか、理解出来ない」

 サンスは頭を左右に振ってから、もう一度メリオダスを見た。メリオダスはただサンスの目を見る。メリオダスの瞳は真剣なもので、冗談と茶化すことも出来ずに、サンスが息を吐いた。

「本気なのか」

「ああ」

「……引き止めることは、無理だろうな」

 サンスの声には諦めが滲んでいる。メリオダスとサンスは二年半の付き合いだが、その間にお互いの性格は把握していた。メリオダスの、言ったことは貫き通す強情さをサンスはよく知っていたし、それを実行に移す為のサポートは自然とサンスが引き受けていた。だが、その延長線上で考えるには問題が大きすぎる。サンスは思わず頭を抱えた。

「メリオダス。お前、まさか」

「お察しの通りだ。聖騎士長の座をお前に譲りたい」

 予測通りのメリオダスの言葉に、サンスは深いため息を吐いた。

「前にも言っただろう、オレは向いてないって」

「どう見ても適任だ。安心しろ」

「出来るか! 何より、お前の後任なんて重すぎるんだよ」

「お前なら、出来るさ」

 弱音を吐くサンスに、メリオダスが穏やかな声で答える。それはメリオダスの心からの言葉だ。サンスは常にサポートに回りがちだが、その能力自体は高い。剣の腕もいいし、よく気がつく上に交流も広かった。だからこそ、メリオダスが来る前は聖騎士達をまとめることが出来ていたのだ。ようは本人がきちんとした地位に就きたがらないだけなのである。

「簡単に言ってくれるなよ」

「簡単じゃない。だから、お前に頼むんだ」

 メリオダスは椅子から立ち上がり、向かいに座るサンスの隣へ歩いて行った。そして、膝をつくと、足の上で握り込まれたサンスの拳に自らの手を添える。サンスの瞳を見上げ、メリオダスは言った。

「オレの、最後の頼みだ」

「そんな言葉はいらねえんだよ、この馬鹿」

 サンスがメリオダスの手を振り払った。振り払ったその手で、サンスはメリオダスの頭を叩く。

「最後の頼みなんていうのは、死ぬ間際に使うもんだ。ふざけるな」

「……こんなに頼み込んでるっつーのに、つれねえなぁ」

 叩かれた頭を撫でながら暢気な声を出すメリオダスに、サンスは盛大なため息を吐いた。それから、米神を押さえつつ言う。

「俺が断れるなんて思ってないんだろ」

「いや、断らせる気がないだけだ」

「それなら、お前の態度は、なお悪い」

 そう言って、サンスが立ち上がり、膝をつくメリオダスの腕を取った。そのままメリオダスを立ち上がらせて、向き合う。

「メリオダス聖騎士長殿。俺に言うことは?」

 そう言って、メリオダスの言葉を待つサンス。メリオダスは表情を引き締めてはっきりと言った。

「オレの後を継いで、キャメロットの聖騎士長になれ。サンス」

「わかった」

 先程までの渋りようが嘘のように、あっさりとサンスは了承した。それから椅子に座り直して、グラスを手に取る。

「それで。俺に聖騎士長を押し付けて、お前はどこに行くんだ?」

 投げやりなサンスの言葉に、メリオダスは一度瞬きをして彼から視線を外した。どこかぼんやりとした瞳で言う。

「とりあえずは、預けたものを取りにリオネスに行くかな」

 頼り無さげに響いた声に、サンスは無言でメリオダスのグラスを手に取り差し出す。メリオダスはそれを受け取ると、一気に呷った。手の甲で口元を拭って、空いたグラスを机に置く。

「また、気ままに生きるさ」

 メリオダスの言葉は、虚ろに響いた。

 

 

 横たえた体は闇に包まれている。

 艶のある黒の世界に、宝石の詰まったバケツをひっくり返したような大小様々の輝きが散っていた。視界の端から端まで広がるのは満天の夜空だ。そう、メリオダスは思った。

「綺麗だね」

 隣から聞こえた声に、メリオダスは驚いてそちらを見る。頬をくすぐる草の感覚がやけにリアルだと思う。

 そこにいたのは、リズだった。雑草の生えた地面に足を投げ出して座り、両手を後ろについて上半身を支えたリズは、寝転がるメリオダスを見ること無く続ける。

「あんたが星に詳しいなんて、柄にもない」

 ふっと息が吹き出された。寝転んでいるメリオダスにその表情は見えなかったが、笑ったのかもしれない。

 ああ。夢か。

 気付いて、メリオダスは視線を空に戻した。

「昔の知り合いに、星ばかり見てるやつがいたんだよ」

 独り言のように答えて、メリオダスは思う。一体どうして今更、こんな夢を見ているのだろう。

「ロマンチックだな」

「どっちかっていうと、学問寄りだったが。まあ、好きな女がいるなら、星見に誘えば靡くかもよっつってたな」

 メリオダスの言葉に、リズは呆れたような声を出す。

「それを言葉にしてしまうのが、お前の雰囲気のない所だね」

「そりゃ、悪いな」

 随分と穏やかな気分だ、とメリオダスは思う。夢とはいえ、リズとこんなに気分で対峙することが出来ていることに、驚きを隠せない。

 メリオダスは再びリズに視線を向ける。リズはほんの少し口端を上げて、静かな笑みを浮かべていた。そんな彼女を酷く遠くに感じて、メリオダスは左手でリズの右手に触れた。それに気付いて、リズがメリオダスを見る。そして、心の底から可笑しそうに笑った。リズは体勢を変えてメリオダスの隣に膝をつくと、寝転ぶメリオダスの前髪を掬った。ふっとリズの顔が近付いたかと思えば、唇同士が優しく重なり、離れる。目を瞬かせるメリオダスの頬を撫でながら、リズが言った。

「珍しく、甘やかしてほしい、と顔に書いてあるよ」

「……」

 メリオダスは何も言わずにリズの手に頬をすり寄せる。リズはほんの少し頬を染め、柔らかな笑みを浮かべた。

 それは、大切で、忘れ得ない笑顔。

 ゆっくりと、リズの輪郭が滲んでゆく。溶け行く世界に、メリオダスは夢の終わりを知った。

 重たい瞼を上げると、すでに見慣れた天井が見える。そこは星降る草原ではなく、メリオダスがキャメロットの城で与えられている一室だ。ベッドに横になったまま、メリオダスは窓の外に視線を向けた。外は薄らと明るい。意識ははっきりしているが、体はまだ夢を引き摺っていた。起き上がる気になれず、メリオダスは寝返りを打つ。衣擦れの音がやけに大きく響いた。

 ここで寝起きする日々も、もう終わる。

「……もう、少しか」

 小さく呟く言葉は、誰にも聞き取られることなどない。

 メリオダスが定めた三年間という期限は、すぐそこに迫っていた。

 

 

「メリオダス殿」

 メリオダスの部屋の扉を叩いたアーサーが、部屋の主の名を呼んだ。それに気付いたメリオダスは、飲んでいたお茶のカップを机に置いて扉を開ける。

「お、アーサー。どうした?」

 そう言いながら、メリオダスはアーサーに中に入るように促す。しかし、それを断ってアーサーは戸口に立ったまま言った。

「今晩、お暇ですか?」

「引き継ぎの類いは終わったから、空いてるぜ」

「では、良ければ今晩、一緒に星を見ませんか?」

 優しげな笑みを浮かべてそう言ったアーサーに、メリオダスは瞬きをする。

「なんでオレを誘ってんだ?」

 言外に、誘う相手を間違えているだろうと、そう言った後で、メリオダスは不意に懐かしさに襲われた。数年前、こうしてアーサーに星を見ようと誘われたことを思い出す。あの時は、キャメロットで聖騎士長になるなど考えもしなかった。

 アーサーも同じ考えに至ったのか、瞬きの後ふっと息を吐き出す。

「あなたと、星が見たいからです」

「今度は素直に来たな」

「ええ。いけませんか?」

 首を傾げるアーサーに、メリオダスは口元に笑みを浮かべる。

「いいや。今晩だな」

「はい。ケディには話しておきますので、直接いらして下さい」

「わかった」

 メリオダスの返事を聞くと、アーサーは「では、また夜に」と残して去って行った。その後ろ姿を見送り、メリオダスは部屋の中に戻る。椅子に座り直し、お茶のカップに口を付けて昔を懐かしんだ。

 出会ったばかりの頃のアーサーは、ただ純粋で真っ直ぐで、なにより幼かった。その本質は今も変わることは無いが、最近はそこに落ち着きが生まれたように思う。少なくとも、昔のアーサーであれば、こんなにスムーズに星見へ誘えなかったであろう。たった数年。されど数年。多感な時期の数年は、人を心身共に成長させるものなのだと、メリオダスは思った。それをほんの少し寂しく思うのは、年寄りの我侭だろう。

 そういえば、とメリオダスは思う。アーサーと二人で星を見たことは、あれ以後無かった。今度は星図を持ってくると言っていたことを思い出して、メリオダスは席を立つ。数少ない私物を詰め込んだ袋を取り出すと、中を漁った。

「確か、まだ持ってる筈……。あった」

 袋の中から折り畳まれた羊皮紙を発見して、メリオダスはそれを広げた。一枚の絵画のような星図は見目も美しい。少し古いものだが、大して変わってはいないだろう。そう結論付けて、メリオダスは星図に指を滑らせた。共に小熊座の形をなぞったことが、色鮮やかに思い出される。何気ないひと時が、こんなにはっきりとメリオダスの中に残っていようとは。

「……どうしようもねえなあ」

 呆れたような言葉が、メリオダスの口から零れる。

 メリオダスは星図を折り畳むと、大切そうに懐に仕舞った。

 

 

 日が暮れて世界が闇に覆われた頃、メリオダスは塔の最上階にある小部屋に顔を出した。それに気付いたケディが、椅子に座ったまま声を掛ける。

「おや、お早いですね。メリオダス様」

「もう、やることも無くてな」

「……この国を出て行かれると聞いております」

「ああ」

 あっさりと返事をしたメリオダスに、ケディはにこやかな笑みを浮かべて手近な椅子を勧めた。

「坊ちゃんが来るにはまだ早い。少し、私の話にお付き合い下さい」

 その言葉に、メリオダスは勧められた椅子に座る。それを確認して、ケディは言った。

「話と言っても、たいしたことではないのです。私は、貴方に感謝しているのですよ。ですから、その気持ちをお伝えしたいと思ったまでです」

「感謝? オレに?」

 意外そうな声を出すメリオダスに、ケディは頷く。

「ええ。私は、坊ちゃんがこの城に来る前から共におります。それこそ、こんな小さな頃から」

 そう言って、自分の腰の辺りに手を上げたケディに、メリオダスはなるほどと思った。アーサーのことを坊ちゃんなどと呼ぶ人物は、知る限りケディしか居ない。つまりはアーサーが王になる前からの付き合いなのだろう。そういえば、アーサーは言っていた。ケディはいつだって居場所を与えてくれると。その無垢な信頼は、時間の積み重ねで得られたものだろう。

「……坊ちゃんは、幼い頃から素直で手の掛からない子でした。当時使用人だった私の言葉にも真剣に頷いてくれるような。……少し心配になるような、良い子だったのです」

「確かに、あれはちょっと心配になるな」

 過去を懐かしむケディの言葉に、メリオダスは同意を示した。そんなメリオダスにケディは笑って言葉を付け加える。

「私が言うのもおかしいかもしれませんが、きちんと人を見る目はあるのですよ。ですから、坊ちゃんが貴方を伴いここに現れた時、私は何の心配もしませんでした。むしろ、嬉しかったのです」

「嬉しかった?」

「ええ。この場所は、沢山の人に囲まれる坊ちゃんが、その喧噪を忘れたい時に一人になれるよう用意した場所です。私も立ち入らぬ、あの子だけの場所でした。そこに、貴方を連れて来たのです。……坊ちゃんは、よほど貴方を慕っているらしい」

 そう言って、ケディはメリオダスを見る目を楽しそうに細めた。

「坊ちゃんがここに連れて来た人は、貴方だけです。そうして、今一度、坊ちゃんは貴方を招いた。メリオダス様、貴方が思われる以上に、坊ちゃんは貴方が好きなのですよ。私は、それが嬉しい」

「……なんで、そんな話をオレにするんだ?」

 言葉を選ぶように、ゆっくりとメリオダスが言った。するとケディは「さて、何故でしょうね」と悪戯っぽく問いかける。質問に質問を返されたメリオダスは、苦笑を漏らした。

「もしかして、引き止められてんのか?」

「まさか。坊ちゃんが何も言わないなら、私が貴方に何かを言う筋合いは無いでしょう」

「そっか」

 ケディの言葉はもっともで、メリオダスは目を伏せ口元に笑みを乗せると、ただ静かに呟いた。そんなメリオダスを見て、ケディは仕方が無さそうに息を吐き出す。

「この国を去るのは、貴方の意思なのでは?」

「ああ。そうだ」

「なら、引き止めたくなるような顔をしてはなりませんよ。少なくとも、坊ちゃんの前では」

 優しく諭されて、メリオダスは瞬きをした。そんなことを言われる表情をしていた自覚などなかったのだ。少しばつが悪そうに眉を寄せ、視線を逸らしたメリオダスを、ケディは優しい微笑みを湛えたまま見つめる。暫くして、メリオダスが神妙に言った。

「気をつける」

「ええ。……さて、私の話に付き合わせるのは、このくらいにしておきましょうか」

 ケディは座っていた椅子から立ち上がると、数年前と同じように部屋に置かれた梯子を天窓に掛けた。位置を確認して、メリオダスを振り返る。

「良い時を」

 そう言って、ケディはランプを差し出し、メリオダスを夜の闇へ送り出した。

 

 

 少し冷たい夜風が、屋根に腰掛けたメリオダスの頬を撫ぜていく。メリオダスは立てた片膝に頬杖をついて、すぐ隣に置かれたランプの明かりを眺めていた。ゆらりと揺らめく炎はどこか寂しげだ。そう感じる自分に対して、随分感傷的になっているなと自嘲した。

 メリオダス自身が提示した三年という期限は、過不足無く正しいものであった筈だ。実際、この三年の間にキャメロットは国として安定したし、アーサーの隣には聡明な妃が立った。本来なら聖騎士長になる筈だった男を聖騎士長に据えることも出来たのだ。十分と言えよう。目的は果たしたと、メリオダスは思った。

 メリオダスは一度目を閉じて開くと、視線をランプから空に投げた。そのまま体を後ろに倒し、屋根に寝転がる。すると、視界は空に散りばめられた星々で一杯になった。真白い月は明るく冴え、柔らかな光の輪を滲ませている。メリオダスは懐から星図を取り出すと、それを開いた。ポラリスを目印に星々と星図を照らし合わせる。古びた星図が、今でも十分にその役目を果たしていることを確認して、メリオダスは星図を開いたまま胸元に置いた。そのまま、ぼうっと夜空を見る。星空を眺めていると、先日見た夢がメリオダスの脳裏に過った。メリオダスは左手でそっと自らの口元を覆う。夢の中の彼女は、メリオダスが甘えたい顔をしていると言っていた。だから甘やかすのだと仄めかして、優しい口付けをくれたのだ。そのことが、随分と遠い記憶のように思える。

 自分は今、誰かに甘えたいなどとおもっているのだろうか。仕舞い込んだ記憶を引き出すほどに。

「……本当に、どうしようもねえなあ」

 メリオダスはひとりごちた。胸が詰まるような気分になり、それを振り払うように目を閉じる。真っ暗になった世界は、メリオダスに対してとても優しく感じられた。

 時折吹く風の音だけが、外界を遮断したメリオダスの世界に響く。静かな空間は寂しさを感じさせて、それはメリオダスの心をゆるりと慰めた。次第に、頭の芯が重く溶けていく。やわらかな微睡みがメリオダスを包んだ。ふわふわとする意識を辛うじて繋いでいると、不意に声がした。

「メリオダス殿」

 それは、心地の良くメリオダスの意識を撫でる。メリオダスは、微睡みに囚われたまま口端を上げた。

「……メリオダス殿?」

 再び、名を呼ばれる。声にはどこか不思議そうな響きが加わった。その声を、メリオダスは愛らしいと思う。ふっと息が漏れ、自然と笑みが深くなる。メリオダスは目を閉じたまま、くつくつと笑った。

「メリオダス殿。……起きていらっしゃるのでしょう?」

「寝てる」

「随分と的確な寝言ですね」

 視界を閉ざした世界は、その分メリオダスの聴覚を鋭くした。その結果、呆れたような声すらも心地よく体に馴染んでゆく。メリオダスは、もう暫くこのままで居たい欲に駆られた。そんなメリオダスの頬に何かが触れる。

「メリオダス殿。どうか瞼を上げて。私の好きな、深い森の色を見せて下さい」

 落ち着いた声が告げる言葉に、メリオダスは思わず目を開いた。声のした右手の方を見ると、すぐ隣にアーサーが座っている。その右手は、メリオダスの頬を撫でて離れた。

「アーサー。その台詞は勘違いを招くぞ」

「そうでしょうか? 貴方は目を開けてくれましたよ」

「驚いたんだよ」

 メリオダスの言葉に、アーサーは小さく笑う。

「貴方を驚かせることが出来るとは思いませんでした」

 そう言ったアーサーの視線が、メリオダスの胸元に向けられる。それに気付いて、メリオダスは自分が星図を広げたままであることを思い出した。星図を両手で掲げて、アーサーを見る。

「前に星を見たときに言ってたろ。次は星図を持ってくるって」

「……覚えて、おられたのですか」

「思い出した」

 驚いたようなアーサーの言葉に、メリオダスが目を細めて答える。その瞳には優しい光が宿っていた。

「悪いな。こんなに遅くなっちまった」

「いえ、嬉しいです。とても」

 そう言って、アーサーがメリオダスの手から星図を受け取る。アーサーは星図を膝の上に広げて、その図面をなぞりながら言う。

「ポラリスから連なる片手鍋の小熊座、ちゃんと覚えていますよ」

「片手鍋は余計だ」

 アーサーの言葉にメリオダスは楽しそうに笑った。そんなメリオダスを見て、アーサーが目を細める。口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。それは一瞬で、アーサーはすぐに視線を星図に戻す。

「私も、星についてはあれから少し調べてみたのです。大熊座も見つけられましたよ。もっとも、こうやって星図と照らし合わせないと、上手く見つけられないのですが」

 アーサーが星図を空に掲げる。そのまま上半身を後ろに倒すと、メリオダスの隣に寝転んだ。メリオダスは両手を頭の下で組むと、星を見上げながら言った。

「オレも似たようなもんだ。ただ、毎日飽きもせず星空ばかり眺めてる奴は違うみたいだな。一際明るい星や、色のついた星を目印に星を繋いじまう。その星図をくれた奴は、星空が恋人みたいだったぜ」

「それは、とてもロマンチックな方ですね」

「ああ。……懐かしいな」

 メリオダスは昔を懐かしむように笑んだ。その優しげな声に、アーサーが視線をメリオダスに向ける。何かを問いかけようと口を開いて、すぐに閉じた。アーサーは掲げた星図を胸元に置くと、夜空を見上げる。煌めく星々に囲まれた丸い月が、妙に寂しげだと感じた。

 二人は言葉も無く静かに星空を眺める。ゆっくりとだが、確実に時間は過ぎていく。メリオダスは、その沈黙さえも不思議と心地良く感じた。アーサーの方を見ると、空を見上げる彼が目に入る。その横顔は、出会った頃より随分と大人びたと気付く。少年から青年への成長を遂げたアーサーに対して感じるのは、ほんの少しの寂しさだ。アーサーの何倍も生きるメリオダスから見れば、たったの数年間だ。だが、その数年という月日は確実にアーサーを成長させた。

 やっぱ、もう必要ねえよなぁ。

 メリオダスは心の中でひとりごちて、また夜空に視線を向ける。

「メリオダス殿」

「ん?」

 名を呼ばれて、メリオダスは再びアーサーを見た。しかし、アーサーはメリオダスを見てはいない。その真っ直ぐな視線を空に向けたまま、アーサーが続ける。

「貴方がこの国へ来てくれてから、ずっと考えていたことがあるのです」

「何だ?」

「……メリオダス殿が、どうして、私を守るなんて言って、キャメロットの為に力を尽くしてくれるのか」

 アーサーの言葉に、メリオダスは黙った。どうして、と問われれば、メリオダスは答えに窮するだろう。それは上手く答えられる類いのものではないからだ。黙り込んだメリオダスに構わず、アーサーは続けた。

「貴方が来てくれてから、この国は少し変わりました。纏まりが生まれて、国としての方向性がしっかりした。それは、年月を重ねて国が成長したということかもしれませんが……。けれど、私は貴方の存在も大きいと思っています」

 アーサーは微笑を浮かべながら言う。

「きっと、この国にはメリオダス殿が必要だったのです。けれど、貴方にとっては何の利益も無い話でしょう? 私は、確かにメリオダス殿が我が国の聖騎士長になってくれればと望んでいました。けれど、同時にこう思ってもいたのです。富や名声に興味が無い貴方に渡せる対価など、我が国には無いのではないかと」

 そこまで言って、アーサーは一度深く息を吸って、吐いた。

「三年間。この国は、……私は。貴方に何かを与えることが出来ていましたか?」

 菫色の瞳が、メリオダスを見る。その瞳には僅かな不安が滲んでいた。アーサーの目を見て、メリオダスはふっと息を吐く。この三年間にあった様々なことが、まるで走馬灯のように脳裏に過った。たかが三年。されど三年。短いと思っていた時間の中に、溜め込んだものは山のようにあった。何かを与えられたか、と問われれば、与えられていたと言うべきだろう。

 沈黙を守るメリオダスの答えを、アーサーはただ待った。

 ほんの少しの時間を挟んで、アーサーを見るメリオダスの目が優しげに細められる。

「アーサー。オレはな、お前が思うより長く生きてる」

 落ち着いた声でそう宣言したメリオダスは、視線をアーサーからずらして星空に向けた。アーサーの顔を見ないまま、メリオダスが言う。

「その分な、忘れられないこともある。大切な奴も、気の合う奴も、気に入らない奴も居た。けど、今でもその顔を見れる奴ばかりじゃない。もう、いなくなっちまった奴の方が多いんだ。その、星図をくれた奴みたいに」

 メリオダスの言葉を、アーサーはただ黙って聞いていた。メリオダスがこうやって自分のことを話したことなど、今まで無かったからだ。メリオダスは、アーサーの視線を感じながら、続けた。

「そうやって、知り合った奴らに先を越されていくうちに、だんだんと感覚か摩耗していくんだ。どんな善人も、悪人も、皆オレより先に逝っちまう。他人の人生を幾度か見るうちに、自分の足下が見えなくなっていく」

 そこまで言って、メリオダスは瞳を閉じる。そして問いかけた。

「なあ、アーサー。お前には目指すものがあるだろう?」

「はい」

 はっきりと告げられた言葉に、メリオダスは口元に笑みを刷く。

「オレにもそれが必要なんだ。だから」

 メリオダスがゆっくりと瞼を上げた。そして、続く言葉を口にする。

「オレは、エリザベスやお前を、その目的にした」

 落ち着いた静かな声でそう言って、メリオダスはアーサーを見た。メリオダスの瞳には、僅かな恐れが隠れている。

「お前がつかみ取る未来こそが、オレが生きている目的になる」

「……」

「与えられたものなんて、ありすぎるくらいだ」

 メリオダスの言葉に、アーサーは息を詰めた。言葉が喉の奥に絡み付いて息が出来ないような心地になる。メリオダスは、少し眉を下げると、困ったように笑った。

「こんなこと喋っちまうくらいに、オレはお前のことが好きだったんだな」

 それは、無意識に零れた言葉だった。メリオダスは驚いたように瞬きをして、可笑しそうに笑う。アーサーは、何を言われたのか理解出来ない様子でメリオダスを見た。メリオダスは頭の下で組んだ手を解くと、左手の人差し指でアーサーの鼻を突く。

「聞こえなかったんなら、気にすんな」

 そう言って、話は終わりとばかりにメリオダスは体を起こした。そのまま立ち上がろうとするメリオダスの右手を、同じように起き上がったアーサーが掴んで阻む。

「私は、……私はここに居ます」

 アーサーの言葉の意味を捉えられずに、メリオダスは首を傾げる。アーサーは自分に言い聞かせるような口調で続けた。

「この先も、私はここにいます。そして、貴方が我が国に関わったことがあるのだと自慢出来るくらい、素晴らしい国にしてみせます。だから」

 掴まれた右手に力が籠る。アーサーが、乞い願うような瞳でメリオダスを見ていた。

「貴方は、忘れないで下さい。この国や私が、貴方に与えたというものを。メリオダス殿は覚えていて下さい。たとえ、私が死んだとしても」

 アーサーの言葉に、メリオダスは長く息を吐き出した。きっとアーサーは意識などしていないだろう。その言葉がどれだけメリオダスを救って、同時に縛るものか。

 ああ、でも、こいつはオレの望んだものを与えてくれているだけなのかもしれない。

 メリオダスは少し浮かせた腰を下ろすと、隣に座るアーサーを見た。

「わかった」

 短いメリオダスの言葉に、アーサーが安心したように笑む。

 そうして二人は、また空を眺めた。交わす言葉の無い静かな時間が流れていく。夜風に体が冷えて来た頃、その心地よい沈黙を破ったのはアーサーだった。アーサーはゆっくりと立ち上がるとメリオダスの名を呼ぶ。

「メリオダス殿」

「なんだ」

「……一つだけ、恨み言を言ってもいいですか」

 メリオダスは首を傾げる。優しく笑むアーサーの口から出た言葉を、理解するのが少し遅れた。アーサーは自らが羽織っている薄手の外套を脱ぐと、メリオダスの頭から体を包むように掛ける。その裾を自分の方に引いて、アーサーは腰を折った。メリオダスがアーサーを見上げる。視界の両サイドは外套に覆われて薄暗い。それでも理解出来るほど目前に、アーサーの顔があった。

 柔く、唇同士が触れる。熱がそこにあったのは、ほんの数秒のこと。

「このことだけは、忘れて下さい」

 とても近くで呟かれたアーサーの声は、ほんの少し震えていた。

 メリオダスが彼の表情を見る前に、アーサーは外套の裾を重ねてメリオダスを包み、その視界を奪う。

「メリオダス殿。どうか、暫くそのままで」

 聞こえて来たか細い声に、外套を取り去ろうと動きかけたメリオダスの手が止まった。メリオダスは、拳を握り込んで自制を促す。アーサーは今、メリオダスにその表情を見られることを望んではいないのだ。

「ありがとう、ございました」

 その言葉を最後に、アーサーの気配がメリオダスから離れていった。そうして、その場にメリオダスだけが残される。

 暫くして、メリオダスは外套に包まれたまま、呟いた。

「バカだな、アーサー」

 メリオダスの脳裏に、あの、結婚式の夜の出来事が思い返される。感情のままアーサーに触れて、何も無かったことにしたあの日の自分。誰から見ても悪いのはメリオダスで、アーサーではなかった。それなのに、アーサーは自らメリオダスへ手を伸ばした。そうして、全てを無かったことにしたのだ。

 メリオダスは左手でそっと口元を覆った。胸の奥から溢れ出る感情が、メリオダスを酷く苛む。

 ああ、そうか。この感情は。

「本当に、バカだ」

 愛おしい、だ。

 

 

 

 

 

「じゃ、そろそろ行くわ。またな」

 よく晴れた青空の日。あっさりとした言葉を最後に、メリオダスはキャメロットから去った。その背を、アーサーとグヴィネヴィア、新たに聖騎士長になったサンスと、メリオダスと特に親しくしていた数名の騎士が見送る。皆の視界からメリオダスの姿が見えなくなるまで、彼は一度も振り返らなかった。それを、メリオダスらしいとアーサーは思う。

 果たして、彼らしいという言葉を使えるほど、自分はメリオダスを理解していただろうか。

 そんな考えが一瞬過って、アーサーは儚げに笑んだ。たとえどれほどの年月を共に過ごそうと、それが他人である限り全てを理解することなど出来ない。アーサーに出来ることは、自分の解釈を当てはめることだけだ。そう考えて、アーサーは全てを振り切った。少し伏せ気味になった顔を上げると、笑顔を浮かべてその場に居る皆を見る。

「さあ、私たちは、私たちのやるべきことをやりましょう」

 その言葉に、サンスや騎士たちはしんみりとした空気を払拭するように応と答えた。アーサーの隣に立つグヴィネヴィアだけが、静かに目を伏せる。アーサーはもう一度だけ、メリオダスが去った方角を見て、眩しげに目を細めた。

 

 

 メリオダスは去った。彼のいなくなったキャメロットは、まるでそれが正常であったかのように、つつがなく日々を重ねていく。

 元々聖騎士長の代わりのようなことをやっていたサンスは、さして苦労する様子も無く聖騎士長の任に就いている。サンスは通常の仕事をこなしながら、アーサーのことを非常に気にかけてくれた。彼は、まるで計っているのかと思うほどに適度なタイミングでアーサーの元を訪れ、職務に没頭しがちなアーサーを自然な流れで休憩に誘った。そうして他愛のない話をしてアーサーの心を安らがせる。

 そういえば、メリオダスもこんな風に職務に励むアーサーの元を訪れては、様々な話を聞かせてくれた。そんなことを思い出して、アーサーは自嘲ぎみに笑った。

 ああ、本当に、あの人は居なくなってしまったのだ。

 今更ながら、アーサーはそう思う。メリオダスが居なくなった後、あまりにも変化無く、穏やかに自分の生活が続いているせいで、アーサーがその認識に辿り着くまで、数日を必要とした。

 メリオダスが去った後も、何の変わりもない生活を送っている自分を、アーサーはなんと薄情な人間だと思う。思えば自分は、メリオダスを引き止めもしなかった。この国に残ってほしくなかった訳ではない。それでも、引き止めることは出来なかった。メリオダスがキャメロットの聖騎士長になることをあんなに熱望していたのに、終わりはなんとあっさりとしていることか。アーサーは小さくため息を吐いた。それは、アーサー以外誰もいない執務室にやけに大きく響く。

「駄目だな……」

 余計なことを考え始めた自分に気付いて、アーサーは頭を振った。椅子から立ち上がると、座り仕事で凝り固まった体を解すように伸びをする。立ったついでとばかりに、アーサーはサンスに見てもらう書類を纏めた。どうせなら、休憩がてら自分が部屋まで届けようと思ったからだ。

 アーサーは数枚の書類を手に部屋を出た。出会う人と挨拶を交わしながら、アーサーはゆっくりとした足取りで廊下を歩く。現在のサンスの部屋である聖騎士長の部屋は、アーサーの執務室と同じ階にあった。そう歩くこともなく、部屋の前に辿り着く。アーサーは扉をノックすると、サンスを呼んだ。だが、暫く待っても返事が無い。居ないのだろうか。アーサーは取手を掴むと、扉を押し開いた。中を覗き込むが、そこにサンスの姿は無い。

 留守なら、書類だけでも置いていこう。そう思ったアーサーは。部屋の中へと入った。部屋の奥、窓際にある机の傍まで歩いていく。そこで、アーサーは机の上に数枚の紙が広げられていることに気付いた。なんだろう、と思ったものの、わざわざ確認するような趣味の悪い真似をする気など無かったアーサーは、書類を机の空いた所に置く。何か書き置きをした方がいいだろうか。そう思って、机の上を見渡した時に、それは目に入った。

 机上に置かれた数枚の紙。そこに書かれた癖のある文字。見覚えがある、というよりも、ここ数年で見慣れた文字に、アーサーは目を奪われた。

 それは、間違いなくメリオダスの文字だ。

 どうしてこんな所で目にするのか。アーサーはそれから視線を外せずに、立ち尽くした。心がざわめく。何故自分はこんなに動揺をしているのか。理解出来ないまま、自然とアーサーの手が、メリオダスの字が綴られた紙に伸びた。指先に触れた紙の感触に、アーサーは我に返ってその手を引く。その紙は明らかに書類の類いではない。ならばそれは個人的なものであろう。きっとアーサーが手に取っていいものではない。

 けれどその時、アーサーの目に、メリオダスの字で綴られた自分の名前が見えてしまった。何故、そんな所に自分の名前が書かれているのか。アーサーは、見てはいけないという思いとは裏腹に、その紙に手を伸ばした。手に取った三枚の紙は、何の変哲も無い、ただの紙だ。綴られた文字に視線を落とす。冒頭には『サンスへ』と素っ気ない宛名が書かれていた。それはメリオダスからサンスへ送られた手紙だ。やはり自分が読んでよいものではない。しかしアーサーは、その手紙から視線を外すことが出来なかった。

 手紙は、聖騎士長を押し付けたことに対するわずかな謝罪と軽い調子の激励の言葉から始まっていた。メリオダスの手紙は、本人と変わらぬ何も飾らない文章で綴られている。そのことに、アーサーは知らず笑みを漏らした。手紙の文字を追っていくと、アーサーの名前が目に入る。そこには、こう書かれていた。

『お前にはもう一つ頼みたいことがある。アーサーのことだ。』 

 その一文を読んだアーサーが息を飲む。やはり自分のことが書かれている。そう理解すると、もう文字を追うことを止められなくなった。

『オレより長く一緒に居るお前なら解ると思うが、アーサーはちょいと自分の限界を知らなすぎる。ある程度はグヴィネヴィアが見てると思うが、仕事のことになるとお前の方が目が届くだろうから、お前にもあいつのことを頼みたい。無理をしすぎないように、適当な所で止めてやってくれ。とはいえ、普通にやめとけっつっても素直に聞くような奴じゃないよな。あれで頑固者だからな。けど、自分の興味には素直な奴だ。茶でも入れて、何か話を振ってやればいい。何も突飛な話じゃなくていい。普通の、日常で起こったささやかな話を聞くのが好きみたいだ。何処の誰が花を育てるのが趣味で、この間綺麗に咲いた花で押し花を作ってただとか、そんな話が退屈じゃないらしい。人が好きなんだろうな。』

 そこまで読んで、アーサーの脳裏に過去の出来事が過った。アーサーを休憩に誘う時、メリオダスは様々な話を聞かせてくれた。自分が伝え聞いたという不思議な伝承の話。七つの大罪時代に経験したという冒険の話。そして、人々が過ごす、なんでもない日常の話。様々な話は全てアーサーを楽しませた。しかし、メリオダスはどうして自分が、日常に起こった話の方を好んでいたことを知っているのだろう。アーサーは急に恥ずかしいような気持ちになった。メリオダスに何もかも見抜かれていたような気になったからだ。

 手紙は更に続いていた。

『基本的に自分のことは自分で出来る奴だ。けど、いろんなものを抱え込んで思い詰めすぎる所がある。それに自分で気付くことが出来ないらしい。そういう時は、あんまり一人にしないでやってくれ。誰でもいい訳じゃないが、親しい奴が傍に居るとそれだけで安心するみたいだ。ああ。サンスも十分親しい人間だと思われてるから大丈夫だぜ。オレが保証してやる。』 

 ああ、この人は、なんでこんなにも私のことが見えているんだろう。

 アーサーは自分の視野の狭さを突きつけられたような気がした。三年間、アーサーはメリオダスと共に歩んで来たが、彼がそこまで自分のことを理解していたなどとは思いもしなかった。じくりと胸が痛むのをアーサーは感じる。

『なあ、サンス。オレは思うんだ。アーサーはキャメロットの王だ。けれど、強さだけじゃなくて、弱い所もある一人の人間でしかないんだって。だから、アーサーをあまり王様として特別な枠に入れないでやってくれ。孤高であることを求めるのは、まだ早い。オレの言いたいことはそれだけだ。じゃあまたな、サンス。元気でやれよ。』

 手紙は、差出人の名前すら記されずに終わっていた。

 最後の一文を読んだアーサーは、酷く重い気分になった。手紙を机の上に戻すと、胸を押さえる。心臓の音が、妙に大きく響く。アーサーは、その部屋から逃げ出すように飛び出した。どうして、という思いが心に去来する。

 どうして、どうして、どうして。

 その言葉だけが意味もわからずぐるぐるとアーサーの頭を回る。ふいに、泣きたいような気持ちになった。けれど駄目だ。こんな所で泣くわけにはいかない。アーサーは揺れる感情に突き動かされるように廊下を駆けた。

 胸が苦しい。まるで水の中に突き落とされたように、上手く呼吸が出来ない。体が随分と重く感じる。

 そんなアーサーの視界に、金色が飛び込んできた。

「アーサー?」

 自分を呼ぶ、柔らかな声がする。それはよく知った親しい人の声だ。けれど、アーサーは、今一番耳にしたくない声だとすら思った。呼びかけに答えず、アーサーはその人、グヴィネヴィアの隣を駆け抜ける。

「アーサー!」

 すれ違う一瞬で、アーサーの様子がおかしいことを察知したのか、グヴィネヴィアが珍しく大きな声を出す。その声は確かにアーサーの背に届いていたが、アーサーは足を止めなかった。止めることなど、出来なかった。

 アーサーは自室の扉の前に辿り着くと、部屋の中に入り扉を閉めた。その扉に鍵をかけて、背を預ける。

 どうして、という言葉がアーサーの心の中に響いた。

 どうして、気付かなかったのだろう。

 アーサーは胸元をきつく握りしめた。まるで重力に負けるように、その場に座り込む。浅い呼吸の中で、アーサーは思った。

 こんなにも大事にされていたことに、どうして気付かなかったのだろうと。

 思い返せば、アーサーを守ると言ったあの日から、メリオダスはいつだって傍に居てくれた。幸せな時も、悲しい時も、苦しい時も、楽しい時も、ふと気付けば、メリオダスはアーサーの近くに居たのだ。そのことにどれほど自分の心が救われていたか、今更ながら思い知らされる。

 アーサーは胸元で握り込んだ拳をゆっくりと解いた。そうして、下ろした手を足の間で開き、そこに視線を落とす。

 あの人が去ると告げた時、やはり自分は止めるべきだったのだろうか。

 このままキャメロットに居てほしいと頼みこめば。みっともなく縋れば。メリオダスは気を変えてくれたのかもしれない。そこまで考えて、否と思う。メリオダスは自分が決めたことを簡単には覆さない。彼が三年と言ったのならば、それ以上は望むべくもないのだ。何よりも、メリオダスには自由が似合う。過去キャメロットを訪れたキングは言っていた。「団長の自由はキミが決めることじゃない」と。それでもアーサーは思う。メリオダスはどこかに縛っていい人ではないのだと。

 ならば、追いかけて。

 無意識に浮かんだ考えに、アーサーは頭を振った。追いかけて、一体どうするというのだ。アーサーはキャメロットの王だ。守るべき国と民がある。それを放り投げるようなことは、決して出来ない。年若い自分を、それでも信じてついて来てくれた人達をないがしろにするようなことは、アーサー自身が許せない。メリオダスと、キャメロット。そのどちらかを取れと言われれば、アーサーは迷うこと無くキャメロットを選ぶだろう。

 ああ、でも。

 アーサーは両手で口元を覆った。零れようとする言葉を押さえ込むように、強く。

「……アーサー。ここに居るの?」

 そこに、声が聞こえた。優しい声は、先程すれ違ったグヴィネヴィアのものだ。アーサーは反射的に体を固くした。扉がほんの少し軋むのが、背中から伝わる。扉を開こうとしたのだろう。だが、この扉にはアーサーが鍵を掛けている。つまり、アーサーがこの部屋に居るということが、グヴィネヴィアに伝わったのだ。

 なにか、返事をしなければ。

 そう思うも、アーサーは何の言葉も発することは出来なかった。

「アーサー。どうか、扉を開けて」

 グヴィネヴィアの声はとても優しい。アーサーは扉を開けなければと思った。開けて、何も無かったかのような顔をして、きっと心配をしているであろう彼女を安心させなければ。頭では解っているのに、アーサーは動くことが出来なかった。

「アーサー……」

 グヴィネヴィアの優しい声が、今の自分を厳しく咎めているように感じて、アーサーは両手で耳を覆う。

「ごめん」

 ようやく発せられたアーサーの声は酷いものだった。これでは余計に心配をさせてしまう。だが、アーサーはそれ以上何も言えずに黙り込んだ。

 耳を塞いだせいか、グヴィネヴィアの声は聞こえなくなった。訪れた静寂は、望んだものである筈なのに、アーサーを酷く不安にさせる。誰かに傍に居てほしいと感じるのに、誰にも傍に来てほしくない。矛盾した感情に、アーサーは耳を塞いだまま体を縮こまらせた。じんと、涙腺が緩む。瞼が焼けるような感覚に、アーサーはきつく瞳を閉じた。

「……メリオダス殿」

 小さな、本当に小さな声で、名を呼ぶ。それは、まるで助けを求めるかのような響きを持った。だが、それに答える者は居ない。

 不意に、怖い、とアーサーは思う。目を開けて見えるであろう世界が。聞こえるであろう人々の声が。どうしてそんなことを思うのかも理解出来ず、アーサーはただ体を硬くした。

 そうやってどれくらいの時間が過ぎただろう。不意に、アーサーの右腕に重みが掛かった。隣に誰かが居る。それに気付いたアーサーの心臓が跳ねた。

 扉の鍵は掛かっている。ここはアーサーの私室だ。今は清掃の時間帯でもない。よってここには誰も居ない筈だ。では、隣に居るのは誰なのだろう。

 アーサーはゆっくりと瞼を持ち上げて、そっと右側に顔をずらした。そして息を飲む。

 そこには、グヴィネヴィアが居た。

 グヴィネヴィアは、アーサーの体に寄りかかるようにして座り、目を閉じている。アーサーが顔を上げたことを察知して、グヴィネヴィアが瞼を上げた。そして、その海色の瞳でアーサーを見上げる。

「驚いた?」

 彼女は、優しく笑った。何時もと変わらぬその笑顔は、荒れたアーサーの心を、ほんの少し落ち着かせてくれる。

「マーリン様にお願いしたのよ。この部屋に入れて下さいって」

「マーリンに……」

 無邪気さを感じさせるグヴィネヴィアの言葉に、アーサーは呟く。それを聞き取って、グヴィネヴィアは続けた。

「ええ。少し困った顔をされてしまったわ」

 笑って、グヴィネヴィアは右手を上げた。白く細い手がアーサーの頬に触れる。

「でも、こんな顔をする貴方を放っておけないの」

 優しい声でそう言われて、アーサーは黙った。自分は一体どんな顔をしているというのだろう。鏡が無いのでわからないが、きっと酷い顔をしているに違いない。

 グヴィネヴィアが、両手を使ってアーサーの頭を胸元へと引き寄せた。そして、静かに抱きしめる。柔らかな体温に包まれて、アーサーは心が穏やかに凪いでいくのを感じた。

「何があったのかわからないけれど、私はここに居るわ。だから、一人にならないで」

 その言葉が、アーサーの胸を痛める。こんなにも優しくアーサーを想ってくれる人の声を、先程まで聞きたくないとすら思っていたのだから。

 グヴィネヴィアは何も言わずにアーサーを抱きしめていた。そんな彼女のお陰で、アーサーは次第に冷静さを取り戻していく。

 どうして、自分はこんなに取り乱してしまったのか。

 切っ掛けはメリオダスの手紙だ。彼からとても大事にされていたという事実は、アーサーの心を酷く揺さぶった。何故なら、それはアーサーが今まで見えないふりをしていたことだからだ。

 どうして気付けなかったのか、ではない。アーサーはずっと気付かないようにしてきたのだ。メリオダスの想いにも、自分自身の想いにも。だから、手紙を見たアーサーの心は重石を乗せられたようになった。

 手紙という確かな形で残されたメリオダスの想いは、アーサーと彼が築いて来た関係性を、砕いてしまったのだ。形作られた想いは、何も見ないように閉じていたアーサーの心を開いてしまった。

 アーサーの脳裏に、メリオダスと見た二度目の星空が広がる。

「こんなこと喋っちまうくらいに、オレはお前のことが好きだったんだな」

 深い緑の瞳に宿っていた温かな光。その時メリオダスの口から告げられた言葉は、アーサーに届かなかったのではない。届かなかったふりをしたのだ。

 アーサーは視界が揺らぐのを止められなかった。溢れた涙は、零れてグヴィネヴィアのドレスに吸い込まれていく。

 メリオダスのことが好きだ。恋しい、と思う。

 ようやく形作られた感情は、ただアーサーに重くのしかかった。同時に、グヴィネヴィアに対する罪悪感が膨れ上がる。

「ごめん」

 零れた言葉は涙に濡れていた。それを拾って、グヴィネヴィアが問う。

「どうして謝るの?」

「だって……君じゃない人が、こんなにも、恋しいんだ」

 アーサーの言葉を聞いて、グヴィネヴィアが両手をアーサーの肩に置いた。そうして、俯くアーサーに言う。

「ねえ、アーサー。顔を見せて」

 グヴィネヴィアの声は相変わらず優しいものだ。促されて、アーサーが顔を上げる。未だ止まらない涙を、グヴィネヴィアがハンカチを取り出して拭った。

「謝らないで。それじゃあ、私が可哀想だって言っているように聞こえるわ」

 予想外の彼女の言葉に、アーサーは瞬きをする。そんなアーサーに向けて、グヴィネヴィアは続けた。

「初めて会った時、私が言ったことを覚えている?」

 その言葉に、アーサーは過去の記憶を探る。グヴィネヴィアと初めて会ったのは、約一年半前のことだ。彼女は繊細なレースを施した白のドレスを着て、アーサーの前に現れた。なんて綺麗な人なのだろうと思ったことを覚えている。

 お互いを紹介され、城の一室で二人きりになった時、グヴィネヴィアは穏やかな笑みを浮かべてこう言った。

「我が国は、貴国との友好的な関係を望んでいます。その一つの手段として、私はここに立っております。貴方は、私にそれだけの価値を見出して下さいますか?」

 その毅然とした声に、アーサーは随分と驚かされた。恐らく自分と年も変わらぬ女性が、自分自身の価値をアーサーに問うたのだ。なんと強かで聡明な人なのだろうと思った。

「……覚えてる」

「嬉しいわ。貴方は、生意気なことを言った私を、きちんと認めてくれたわね。この国には貴方のような人が必要だと思いますって、言ってくれた」

 グヴィネヴィアはアーサーの頬に手を添えながら言った。

「アーサー。貴方は今も、あの時の私が望んだことを叶えてくれているのよ」

「でも」

「貴方は私のことが嫌い?」

 にこりとグヴィネヴィアが笑った。それを見て、アーサーは首を振る。

「グヴィネヴィアのことは、大切だ」

「私もアーサーが大切よ。今では、貴方を守りたいとさえ思うの。それは、幸せなことだわ」

 グヴィネヴィアが膝立ちになり、アーサーと額を合わせた。呼吸の音が聞こえる距離で、彼女が言う。

「だから、私に謝らないで。貴方が貴方の意思で、この国と共にあるように、私は私の意思で、アーサーの隣に居るの」

「……グヴィネヴィア」

 アーサーはまた涙が溢れそうになった。どうして彼女のような人が、自分の隣に居てくれるのだろう。グヴィネヴィアは大切だ。アーサーは彼女をパートナーとして選んだ。彼女もそれを受け入れてくれた。共にキャメロットをより良き国にしようと、そう誓ったのだ。

 なのに、どうして彼女ではなかったのか。

 アーサーの中に生まれた感情は、もはや見ないふりなど出来ぬ程広がり、重く心にのしかかっていた。

 苦しそうに眉を寄せるアーサーに、グヴィネヴィアは仕方が無さそうに笑う。

「私に謝りたいのなら、国を捨ててあの人を追いかけてみなさい」

「……出来ない」

「それが出来ない貴方だから、私は傍に居るの」

 重く呟いたアーサーの言葉に、グヴィネヴィアは悲しげに瞳を揺らした。

「……それでも貴方が、私を不幸せな女だと哀れむことを止められないのなら。アーサー、貴方が思う幸せを、私に頂戴?」

 グヴィネヴィアが、合わせた額を離した。ひたりとアーサーの瞳を見つめて言う。その言葉に、アーサーは目を見開いた。しばし見つめ合った後、アーサーが両手をグヴィネヴィアの背に回す。彼女を優しく抱きしめて、その耳元に告げた。

「君を、幸せにする」

 その時、アーサーは自分の中にある感情をようやく受け止めた。メリオダスのことを愛しく感じる、その想いを。その上で、アーサーはグヴィネヴィアを選ぶと決めた。愛しい人と、大切なものを、秤にかけて。

 そんなアーサーの耳元でグヴィネヴィアが笑う。

「貴方を、幸せにしてみせるわ」

 グヴィネヴィアの両手が、そっとアーサーの背に回された。

 

 

 

 

 

 エリザベスにとって、メリオダスは、かけがえのない大切な存在だ。

 彼なくして今のエリザベスは無かったし、彼がいたからこそ今の自分がある。それはエリザベスの中に深く根差した感情で、今になっても揺るぎないものだった。

 鉢植えの植物に水をやろうと、じょうろを片手に窓辺に立つ。朝の優しい日差しに目を細め、見上げた空は透き通るような青だ。それを見て、エリザベスはふっとメリオダスのことを思い出す。

 そう、あの人が去ると言った日も、こんな青空の日だった。

 聖騎士長による魔人族復活騒動に揺れたリオネスが、その混乱の中から脱して二年が過ぎたある日のことだ。庭園にある四阿で本を読んでいたエリザベスの元に訪れたメリオダスは、いつもと何ら変わらぬ声で言った。

「エリザベス。オレも、そろそろリオネスから出て行くわ」

「今度は、何処へ向かわれるのですか?」

 メリオダスの言葉に、エリザベスは首を傾げて問う。その時のエリザベスには、メリオダスの言葉の意味を正確に捉えることが出来なかった。なぜなら、メリオダスはリオネスに滞在していたものの、時折どこかへ出掛けては暫く戻らないことがあったからだ。

「特にあては無いんだけどな。また酒場でもやりながら旅をしようと思ってる」

「……え?」

「言ったろ。リオネスから出て行くって」

 出て行く。リオネスから。メリオダスが。

 その言葉を、エリザベスは上手く飲み込めずにただ不思議そうな顔をした。エリザベスの幼い表情に、メリオダスは優しく笑って、その手で彼女の頭を撫でる。

「たまに顔出すから、元気にしてろよ」

 エリザベスが好きな、少し落ち着いた声で、メリオダスが言う。その瞬間、メリオダスの言葉は、すとんとエリザベスの中に落ちて来た。彼が、リオネスからいなくなる。それを、至極当たり前のことのようにエリザベスは認識した。

「そう、ですか。……何時、出立なさるのですか?」

「旅の準備や挨拶もあるからな。三日後くらいか」

「わかりました。必要なものがあれば手配いたします」

「ああ。といっても、さして用意すべきものもないんだけどな」

 笑顔を浮かべたエリザベスに、メリオダスは彼女の頭を撫でた手で髪を梳いた。そのまま離れていく手に、自らの手を伸ばしそうになって、エリザベスは拳を握る。

「読書の邪魔して悪かった」

 そう言って、メリオダスが背を向ける。その背が遠のいていくのを、エリザベスは寂しい夢を見ているような心地で見ていた。

 メリオダスが居なくなる。それをこんなにも静かに受け止められたのは、エリザベスがそのことを心のどこかで察知していたからだろう。

 メリオダスと旅をして、彼と苦楽を共にした。その日々は色褪せずエリザベスの中にある。魔人族復活騒動の後、まだ混乱の残るリオネスの為に、メリオダスは尽力してくれた。その混乱が落ち着いた頃に、メリオダスは言ったのだ。「頃合いか」と。偶然聞き取ったその言葉の意味を、エリザベスは理解出来なかった。しかし、時間を掛けて気付いたのだ。

 メリオダスは、もうこの国に残るつもりが無いのだと。

 そのことに気付いたエリザベスの心は揺れた。以前、彼がリオネスを去るのかもしれないと気付かされたときより、もっと。リオネスを訪れたディアンヌに弱音を零したこともある。しかし、ディアンヌは不思議そうな顔をして「どうしてそんなこと思うの? 団長は今もエリザベスの傍にいるでしょ?」と言った。エリザベスは、それに上手く答えることが出来ない。だって、これは漠然とした予感でしかないのだ。

 皆がメリオダスはこの国に残ると言う。しかし、エリザベスだけは彼がリオネスを去る未来を感じ取っていたのだ。

 エリザベスは、四阿の椅子に座ったまま、己の視界が歪むのを感じる。俯くと、ぱらりと涙が零れ、手元の本を濡らした。いけないと思って、本を胸元に抱える。零れ続ける涙は、エリザベスのスカートを濃い色に染めた。

 予感はあった。けれど、覚悟が出来ていた訳ではない。

 エリザベスにとって、メリオダスはとても大切で、かけがえのない、好きな人だ。その人が自分の傍を離れていく。そんな覚悟、出来る筈も無いのだ。

「ふ……、うぁ。あああっ」

 涙と共に零れ出る声を、我慢することは出来なかった。本当に、メリオダスは居なくなってしまう。そう実感することは、酷く恐ろしいものだ。まるで、世界にひとりぼっちになってしまったような寂しさ。

 エリザベスは、周囲のことも気にせず、声を上げて泣き続けた。

 その時のことを、どうして今思い出すのだろう。

 エリザベスは不思議な心地で空を見上げる。もしかしたら、メリオダスが来るのかもしれない。そう思うと、自然と笑みが零れた。

 彼が来たら、笑顔で迎えよう。そうエリザベスは思った。

 

 

 メリオダスがリオネスへ辿り着いたのは初夏の頃だった。夏へ差し掛かり道々に様々な花がその蕾を綻ばせる中、メリオダスは一軒の家の前に立つ。さして大きくもなければ小さくもない、どこにでもありそうな一般的な家屋。その扉を叩くと、鈴のような声で「はぁい」と柔らかな返事が聞こえる。しばらくして、扉が内側に開いた。そこには、薄い青色の飾り気無いワンピースを纏ったエリザベスの姿がある。彼女は、メリオダスの姿を見て驚いた顔をした。

「メリオダス様?」

「よっ、エリザベス。元気にしてるか?」

 軽い調子で片手を上げたメリオダスの変わらぬ様子に、エリザベスは笑む。

「はい。メリオダス様も、お元気そうで何よりです」

 そう言って、エリザベスはメリオダスを温かく迎えてくれた。彼女はメリオダスを奥の居室へ案内する。明るい日差しが差し込む部屋は十分な広さがあり、キッチン寄りに木製のテーブルと椅子が置いてあった。窓辺には、いくつかの鉢植えが並んでいる。メリオダスが勧められた椅子に座ると、エリザベスは「お茶を淹れますね」と言ってキッチンに向かった。暫くして、エリザベスがトレイを持って戻ってくる。

「昨日、マーガレット姉様からクッキーを分けて頂いたのです。お茶請けにどうぞ」

「おお、美味そうだなー。マーガレットのお手製か?」

 皿に盛られたクッキーを見て、メリオダスが聞く。それに対して、エリザベスは「ええ」と返してメリオダスの前にカップとクッキーの乗った皿を置いた。

「旦那も元気にしてるか?」

 カップにお茶を注ぐエリザベスに、メリオダスが問いかける。それにエリザベスは笑顔を浮かべて言った。

「ええ。彼も、私達の子どもも、元気にしています」

 その幸せそうな笑顔に、メリオダスは自然と心が安らぐのを感じる。

 エリザベスは、メリオダスと別れた後に出会った庭師の男と恋に落ち、結婚をしていた。身分違いの恋が実ったと、当時は話題になったものだ。そんな二人の間には、一年半程前に子どもが生まれたらしい。メリオダスは、そのことをディアンヌとキングに聞いて知っていた。

「そりゃ良かった」

「はい。……アーサー様は、お元気ですか?」

 エリザベスは椅子に座るとメリオダスに尋ねた。それに、メリオダスは笑って答える。

「ああ、元気にやってるぜ」

「今日は、何用でリオネスまでいらしたのでしょう?」

 何気なく疑問を口に乗せたエリザベスに、メリオダスは首を傾げて茶化すような口調で言う。

「おいおい、用がなきゃ来ちゃ駄目なのか?」

「そんなことは。けれど、聖騎士長ともなれば、あまり自由な時間も取れないのではと」

 エリザベスの言葉に、メリオダスは笑みを浮かべる。そして静かな声で言った。

「ああ。それは、もう終わった」

「……え?」

「辞めてきたからな。今は、自由の身さ」

 意味を捉えかねたような顔をするエリザベスに、メリオダスは言葉を重ねた。それを聞いた、エリザベスが椅子を鳴らして立ち上がる。

「どうして……!」

 上がった驚きの声には、少しの戸惑いも混じっている。困惑の表情を浮かべるエリザベスを見上げながら、メリオダスはお茶を啜った。

「どうしてって、元々そういう約束だったんだよ」

 落ち着いた声で答えるメリオダスに、エリザベスは黙り、その視線で詳細を問う。そんな彼女に笑って、メリオダスは告げた。

「アーサーには、オレの三年間をやるって言ったんだ。そしてその三年が過ぎた。それだけさ」

「……」

 メリオダスの言葉に、エリザベスは服の胸元を握りしめて、その表情を歪めた。どこか苦しげに見えるエリザベスの様子に、メリオダスが困ったように言う。

「なんで、エリザベスがそんな顔するんだよ」

「だって。……そんな、酷い」

 エリザベスは視線を落として答える。その声はひどく頼りなく聞こえた。エリザベスはそっと目を伏せると、続ける。

「私には、わかります。アーサー様がどれだけ、メリオダス様を大切に思われていたか。だって、あの方がメリオダス様を見る目は……」

 そこで、エリザベスは言葉を区切った。その先を口にすることはなく、瞼を上げる。そして、問い詰めるような視線をメリオダスに向けた。

「メリオダス様は、あの方を選んだのではなかったのですか? リオネスの聖騎士長のお話は、はっきりと断られた筈です」

 その言葉に、責めるような響きは無かった。ただ過去あったことを、過去のこととして話すエリザベスの強さに、メリオダスは眩しげに目を細める。その口元に笑みを浮かべて、メリオダスは返した。

「あの時のアーサーには、支えられる奴が必要だったんだよ。エリザベスには、支えてくれる奴らが居ただろ?」

「それなら」

「エリザベス」

 メリオダスが、その名を呼んでエリザベスの言葉を遮った。メリオダスは目を伏せて、静かな声で続ける。

「もう、終わったんだ。地盤は出来た。アーサーは良い王だ。これからあいつは幸せになれる」

 その言葉を聞いて、エリザベスは静かにメリオダスの隣に立った。メリオダスは、エリザベスの右手が自らの頬を叩くのをただ黙って甘受する。パチンと軽い音がした。エリザベスは、メリオダスを打った右手を胸元に寄せ、左手で包みながら言う。

「メリオダス様は、自分勝手な方ですね」

 エリザベスは、静かな声で続けた。

「貴方の中で、全ては最初から決まっているのでしょう」

 そう言って、彼女は寂しげに微笑む。そんなエリザベスを見て、メリオダスはふっと息を吐いて笑んだ。

 全ては最初から決まっていた。メリオダスが決めた。エリザベスの手を取らないことを。アーサーの隣に立つことを。彼の隣からも去ることを。

 エリザベスの言葉は、とても正しい。

 だから、メリオダスは少し目を伏せて口元に笑みを浮かべた。

「メリオダス様は、そうやって、誰の手も取らないおつもりなのですか?」

「お前達の幸せに、もうオレは必要ないからな」

「酷い言葉ですね。私に、怒って欲しいのでしょうか?」

 深い色を宿すアクアマリンの瞳が、仕方無さそうにメリオダスを見る。意地を張った子どもの相手をする母親のような目をしたエリザベスに、メリオダスは「そうかもな」と返した。

「なら、私は貴方を許しましょう。……甘やかしてあげませんから」

 品のある声でそう告げて、エリザベスはメリオダスへ美しい笑みを向けた。それは、メリオダスが知らなかったエリザベスの表情だ。鈴として強さを感じさせる、守るべき人を持った女性の顔。そんなエリザベスに、メリオダスは遠くなってしまったものを見るように目を細めた。

 そこに、甲高い泣き声が響く。綺麗に笑んでいたエリザベスが、口元に手を当てて奥にある部屋を見る。

「すみません、メリオダス様。ちょっと失礼しますね」

 慌てた様子で部屋の奥へと向かうエリザベスを見送って、メリオダスは一人ごちた。

「甘やかさない、ね」

 目の前のカップを持ち上げ、お茶を一口飲む。それから、カップを両手で持ち、長い息を一つ吐く。

「エリザベスは、強くなったな」

 少なくとも、メリオダスの知っている彼女は、そんなことは言わなかった。ここでも人の成長を目の当たりにして、メリオダスはふいに寂しいような、嬉しいような気持ちになる。若鳥が巣から飛び立つのを見送るのは、こんな心地なのだろうか。

 メリオダスは窓辺に視線を向けた。そこにある鉢植えは、愛情を込めて手入れされているのだろう。青々とした緑の葉を一杯に広げて、太陽の光を浴びていた。まるで幸せの象徴のようだ。

「オレが居なくても、幸せだろう?」

 それを見て、メリオダスの口から自然と零れた言葉は、他でもない自分自身に届いた。メリオダスは決まりが悪そうな顔をすると、今自分の口から出た言葉を飲み込むように、カップに残ったお茶を飲み干して机に戻す。そして椅子から立ち上がり、エリザベスが消えた奥の部屋へ向かう。開いたままの扉から中を覗くと、幼子を腕に抱いてあやすエリザベスの姿が見えた。その姿は柔い陽光の中できらきらと輝いているように見える。

 それは、今を生きる、人の光だ。

 戸口に立ったままメリオダスがその光景に見入っていると、驚いたような高い声が響いた。

「メリオダスじゃねーか!」

 メリオダスが声のした床の方を見ると、そこには丸々としたピンクの豚の姿がある。

「よっ、ホーク! お前も元気そうだな」

 軽い調子で声を掛けたメリオダスに、ホークが鼻息も荒くメリオダスへと突撃してくる。それをあっさり避けたメリオダスにもめげること無く、ホークが吠えた。

「元気そうだな、じゃねーよ! ろくな説明もなく俺を置いていきやがって!」

「なんだ、寂しかったのか?」

「寂しくなんかねえよ! こちとら毎日美味い残飯が食えて幸せ一杯だぜ!」

 ホークの怒鳴り声に、先程まで止んでいた泣き声が再び聞こえ出す。

「ホークちゃん、落ち着いて」

「お、おう」

 エリザベスに窘められて、ホークが声のトーンを落とした。「今日はこの位で勘弁してやる」などとやられ役の捨て台詞のような言葉を吐いて、とんとこという軽い音を立ててエリザベスの傍へ駆け寄る。

「すまねぇ、エリザベスちゃん」

「平気よ。少し驚いただけよね」

 エリザベスは腕の中の幼子に柔らかな声で語りかけた。ぐする我が子を腕に、エリザベスがメリオダスを見る。そして綺麗な微笑みを浮かべた。

「でも、良かった」

「……何がだ?」

 エリザベスの言葉に、メリオダスが不思議そうな顔をする。そんなメリオダスへと、エリザベスは優しい声で告げた。

「メリオダス様は、人を愛することが出来たのですね」

 さらりと告げられたその言葉に、メリオダスの体は驚いたように硬直した。エリザベスはメリオダスの答えを待つこと無く、続ける。

「自分を賭して、彼の行く道をなだらかにしたかったのでしょう? でも、隣に居続けることは、怖かったのではないですか? だから、三年なんて期間を限定した」

 まるで見ていたかのように語るエリザベスに、メリオダスは言葉を失った。

 メリオダスの脳裏に、アーサーの柔らかな笑みが過る。もう居ない人を重ね見て、それを守りたいと思ったのは真実だ。けれども、一体いつからだったろう。時折見せる子どものような笑顔を好ましいと思い、その笑顔を許される存在でありたいと思ったのは。用もないのに幾度となく彼の元を訪れていた時点で、もう何かに囚われていたのかもしれない。見合い前日の夜。メリオダスの元を訪れたアーサーの中にある、自らの存在の大きさを感じ取り、仄暗い喜びを抱いた時にはもう遅かった。

 しかし、最初から、実りえないものだと解っていたのだろう。出会った時すでに、アーサーには何よりも大切なものがあった。

「……手厳しいな」

「そう感じるということは、メリオダス様が全てを自覚されているということです」

 エリザベスはふっと目を伏せる。その優しい面差しに、メリオダスは息を吐いた。

「かなわねえな」

 ぽつりと呟かれたメリオダスの言葉に、エリザベスは目を見開いた後、花が咲くように笑う。

「嬉しい。やっと、貴方に認めて貰えたのですね」

 陽光の中の彼女を、メリオダスはとても尊いもののように感じた。

 

 

 とんとことん。軽快な足音を響かせて、ホークはリオネスの城下町を駆けていた。時折後ろを見ては、メリオダスがついて来ていることを確認する。

「トロトロ歩いてんじゃねーぞ! メリオダス!」

「お前、何そんな張り切ってんだよ」

 足早に歩きながら、ホークの背を追うメリオダスが言う。しかしその言葉を聞き入れることなく、ホークは駆けた。

 ホークとメリオダスが会うのは、約三年振りだ。三年前、リオネスに訪れたその翌日にメリオダスはこう言った。

「ホーク。お前には暫く店を預ける」

 その言葉だけを残して、メリオダスはどこかへ行ってしまったのだ。後々エリザベスから聞いたことだが、メリオダスは暫くキャメロットで暮らすことにしたらしい。ホークから見て何のことだか解らないうちに、メリオダスは目の前から居なくなった。あっさりとしたメリオダスの態度に、最初ホークは怒りを覚えた。それはそうだろう。数年の付き合いのある旅の友に、何の説明も無くキャメロットへ行ってしまったのだ。店を預けるなんて都合のいいことを言って、邪魔になっただけではないのかとさえ思った。

 そんなホークの愚痴を最後まで聞いてくれたのはエリザベスだ。全てを聞いたエリザベスは一言、「そうね」と言った後、ホークに向けて笑った。

「でも、私はホークちゃんが羨ましいわ。何かを託してもらえたのだもの」

 その言葉は、寂しさや悔しさに荒れたホークの心をやわく慰めていった。メリオダスが他でもないホークに店を預けたのなら、仕方が無い。自分はそれを預かりきってやろう。そういう決意さえ抱ける位に、ホークはメリオダスのことが好きだったのだ。

 そんな友人と、久々に再開して張り切らない訳が無い。

「おっかあの所まではもうすぐだぜ!」

「わかった、わかった」

 そうやって軽い言葉を交わしながら、一人と一匹は城下町を守る北門を抜けた。門を抜けて左手に進むと、とんがり屋根の<豚の帽子>亭が見えてくる。

「おっかあ〜! メリオダスが帰って来たぞ〜!」

 ホークの声に反応して、<豚の帽子>亭の下の地面が震える。轟音を立てて、<豚の帽子>亭の下から巨大な豚が現れた。ホークママは、優しい瞳で静かにメリオダスを見下ろす。

「ホークママも、久し振りだな。元気そうで安心したぜ」

 その言葉に答えるように、ホークママが頭を下げる。そしてまた地中に戻っていった。

 ホークは、メリオダスが<豚の帽子>亭の扉を開けるのを見守った。そして、一緒に中に足を踏み入れる。ホークがメリオダスを見上げると、彼は驚いたような表情を浮かべていた。

「綺麗だろ。時々エリザベスちゃんが掃除してくれてたんだぜ?」

 長年放置されたというのに、埃一つない<豚の帽子>亭内を見渡してホークが言う。メリオダスは何も言わず店内を見渡した。カウンターの傍に行って、振り返る。メリオダスの目には、見慣れた店内とホークの姿が映った。

「ほんと、いい女になったな」

 呟かれた言葉は、小さな声だったがホークの耳にも届いた。ホークはふんっと鼻息を吹き出して言う。

「エリザベスちゃんだからな! 全く、お前も馬鹿だよな。今更そんなことに気付くんだから」

「……ああ、ほんとに。馬鹿だ」

 てっきり何らかの反論が帰ってくるかと思っていたホークは、ぱちりと瞬きした。メリオダスを見上げると、静かな瞳がホークを見下ろしている。

「なあ、ホーク。お前、このままエリザベスのとこに居ても良いんだぜ」

「……」

「その方が美味い残飯も食えるだろ」

 その声は何の感情も乗せられていなかったが、ホークには酷く寂しげに聞こえた。メリオダスはそれっきり何も言わず、ホークの答えを待っている。そんなメリオダスの足下に歩み寄ると、ホークは言った。

「どうしたんだ、お前」

 ホークの言葉に、今度はメリオダスが黙る。それを気にせず、ホークは続けた。

「お前と俺は、ダチじゃねえのかよ。それともなんだ? お前はまた俺様を置いていこうってか!?」

 ホークの中で、メリオダスに置いていかれた過去の自分が蘇る。何よりも、何も教えてもらえなかったことが悔しかった。メリオダスは、もしやまた同じことを繰り返そうとしているのではないか。

 挑むようにメリオダスを睨みつけるホークに、しかしメリオダスは呆気にとられたような表情をした。それから、ゆっくりと笑みが形作られる。それは幼さすら感じる、笑顔。

「悪かった」

 メリオダスは、言葉とは反面に嬉しそうな声を出した。

「なあ、ホーク。また一緒に旅をしようぜ」

「最初からそういやいいんだよ! 仕方ねえなあ。残飯の量二倍で許してやる」

 ホークの言葉に、メリオダスは見慣れた人の悪い笑みを浮かべる。

「そのうちな」

「そのうち!? そのうちって何時だよ!」

「そのうちだよ」

 そうして、<豚の帽子>亭内に再び明るい声が灯った。

 

 

 二人は選んだのだ。

 お互いに分かれる道を。

 ならば、それを間違いとしないよう、歩み続けるのだろう。

 共に見上げた星空を胸に。

 

 

 

 

 

 メリオダスがキャメロットを去り、三十年の月日が流れた。

 その間、彼は一度もアーサーの前に現れなかった。ただ、時折キャメロットを尋ねてはいたらしい。サンスから、元気にしているとの報告を貰う度に、アーサーは苦笑いを浮かべた。

 全くあの人は、自分が死ぬまで顔を見せないつもりだろうか。

 そんなことを考えて、あの人ならあり得るなと思ったのはもう随分昔の話だ。今はメリオダスの安否を報告してくれるサンスも退役し、彼が何をしているかを知る術は無くなった。それを少し、悲しくは思う。

 その日、アーサーは自室の窓から城下を眺めていた。二十歳になった息子に王位を譲ってからは、比較的緩やかな日々を過ごしている。毎日は平和で、ほんの少し退屈だ。しかし、それは幸せなことだと思う。

「アーサー」

 落ち着いた声が名前を呼んだ。振り返ると、声の主に向けて穏やかな笑みを浮かべる。

「グヴィネヴィア」

「またぼうっとなさって。私といるのは退屈なのかしら?」

「そんなことは無いよ。ただ、幸せだと思っていただけさ」

 アーサーの言葉に、グヴィネヴィアは美しく笑った。その笑みは、年月を重ねた深い愛情を秘めて輝く。

「そうね。私も幸せだわ」

 彼女の言葉は心を満たした。辛く苦しい時期を共にしてくれた妻には深く感謝している。

「でも、貴方は少し退屈なさっているようにも見えてよ」

「……そうかな」

「ええ」

 グヴィネヴィアは全てを見透かすかのような穏やかな目をした。それから、ふっと瞳を閉じて言葉を零す。

「……旅を、なさってはどうかしら?」

「旅?」

 問い返すと、彼女はにこりと笑った。

「そう。貴方は人々の生活に触れることが好きでしょう? でも、そうね。目的の無い旅はつまらないから、どこか目的地を決めて行けば良いわ」

 旅か。アーサーは中空へ視線を向けた。確かに、王位を退いた今ならば、時間に余裕もある。人々に紛れて街道を歩き、旅をするのもいいのかもしれない。

「グヴィネヴィアも、来るかい?」

「私は残るわ。二人とも留守にしては、子ども達が心配だもの」

 そう言ったグヴィネヴィアは、少し考えるように首を傾げてから、両手を胸の前で合わせた。

「星を、見に行くのはどうかしら? 城に出入りしている商人から聞いたの。ここから北へ五日程の場所に、星が降るように近くに感じられる丘があるそうよ。目的地にするには、丁度いいのではないかしら」

 その言葉に、顎に手を当てて答えた。

「確かに、距離的には丁度いいね。でも、どうして星なんだい?」

「あら。貴方は星が好きなのではないの?」

 首を傾げて告げる妻に、アーサーは目を瞬かせる。それは彼にとって意外な言葉だった。

「どうして、私が星を好きだなんて思ったんだい?」

「だって、よく星図を眺めていらっしゃったじゃない。随分古びたものだったから、昔から好きなのかと思っていたのだけど、違ったの?」

 そう言われて、アーサーの脳裏に浮かんだのは一枚の星図だ。それは、遠い昔にメリオダスから受け取って、返しそびれたもの。確かに、自分はふとした時に思い出しては、度々それを眺めていた。彼女の前で広げていたこともあったかもしれない。

「ああ、確かに。……そうだね」

 アーサーはほんの少し目を伏せて言った。過去を懐かしんだのは一瞬で、伏せた目を開きグヴィネヴィアを見る。

「星を見る旅か。それも、良いかもしれない」

「ええ。きっと良い時間になるわ」

 彼女は優しい声でそう告げた。

 

 

 供を連れては逆に目立つと城の者を説き伏せたアーサーが、キャメロットを出立して四日目のことだ。旅はこれ以上無く順調に進んでいた。立ち寄った町の通りで出店を覗いていたアーサーは、壁に張られた紙に気付く。真新しい張り紙には、どこか見覚えのある字で「BOAR HAT OPEN」と書かれている。アーサーの視線に気付いた出店の主人が、丁寧に教えてくれた。

「移動酒場だってよ。色んな地方の酒を集めてるらしいから、興味があるなら行ってみるといい」

「移動酒場、ですか。面白そうですね」

 にこりと笑みを返して答えた言葉に嘘は無い。昼日中からやっている酒場は無いだろうから、夜に足を運んでみよう。そう思って、その場を去った。町の大通りに出ると、人通りも多くなり賑わいが増す。人混みの中ですれ違う人々を眺めながら、アーサーは楽しげに歩いた。語り合いながら通り過ぎていく人達。どこか思い詰めたような表情で先を急ぐ人。追いかけっこをする子ども達。すれ違う皆に、それぞれの生活がある。それがより良いものであることを願いながら、目的も無く気ままに歩いた。暫くすると、目の前から、文字通り山のような荷物を持った人らしきものが歩いてくる。大通りを歩く人々は、物珍しそうな視線を投げながらもその荷物の山を避けて通った。あれじゃあ前も見えないだろう。そう思ったアーサーは、急ぐ用事もないことだしと思い、荷物の山に声を掛けた。

「こんにちは。荷運びをお手伝いしましょうか?」

「お? 誰だか知らねえが、ありがたいな」

 聞こえた声に、幾度か瞬きをした。この声を聞き間違う筈は無いと思いつつも、確認の為に荷物の山の右手に回る。荷物の端から覗いた顔を見て、驚きに目を見張った。

「メリオダス殿!」

「……アーサー?」

 相手も驚いたように目を丸くする。暫く続いた沈黙を破ったのはメリオダスだ。

「なんだ。お前、老けたな!」

「メリオダス殿はお変わりが無いようで」

「ああ、見た通りだぜ」

 その言葉に、アーサーは微笑む。何も変わらない彼を見て、懐かしい日々が思い出された。この三十年間顔を見せなかった彼と、まさかこんな所で出会うとは。そんなことを考えながらも、本来の目的を思い出し、メリオダスの荷物に手を掛ける。

「いくつか持ちますよ」

「おお、サンキュ」

 二人で手分けをすると、少なくとも荷物で視界が遮られることはなくなった。アーサーは隣に居るメリオダスを見下ろすと、問う。

「どちらまで?」

「ああ、町の外だ。こっちだよ」

 そう言って先を歩く彼の後を、ゆっくりとした足取りで追った。改めてメリオダスの後ろ姿を眺めると、その外見が何も変わっていないことがわかる。むしろ、自分が年を重ねた分、彼が小さくなってしまったかのような錯覚にも襲われた。昔、メリオダスは人より長く生きていると言った。それを目の当たりにして、アーサーは目を細める。この小さな体で、どれほどの時を生きて来たというのだろう。それは途方も無い話で、アーサーには想像が出来なかった。

「あんまり熱い視線をくれるなよ」

 穴が開くのではないかという程メリオダスを見つめていると、彼が苦笑を乗せた声で言った。そして顔だけ振り向く。ほんの少し眉を下げて、仕方が無いと言った様子の笑みが浮かんでいた。

「失礼しました」

 慌てて謝罪したアーサーは、メリオダスから視線を逸らして空を見上げる。明るく冴え渡る青空の元、二人はゆったりと歩く。人通りの多い大通りを抜けて町外れまでやってきた。

「見えて来たぞ」

 メリオダスが声を上げた。それに反応して、逸らしていた視線を戻す。前方に、とんがり屋根の一軒家が見えた。家の近くまで歩いていくと、入り口の傍に鉄製の表札が見える。そこには、「BOAR HAT」の文字があった。街中で見た張り紙に書いてあった店名と同じ名前だ。

「移動酒場……?」

「おお。よく酒場だってわかったな」

 目を瞬かせながら呟いたアーサーに、彼が振り向いた。それからにやりと笑う。

「<豚の帽子>亭。オレの店だよ」

「これが話に聞いていた……」

 そう言って、目の前の一軒家を見上げた。脳裏に、昔メリオダスから聞いた話が浮かぶ。彼は大きな豚の背に建てられた住居件酒場で暮らし、様々な地方を旅していたという。アーサーは旅先で出会う人々の話を楽しく聞いていた過去を懐かしんだ。

「では、喋る豚……ホーク殿もご一緒で?」

「ああ。いるぜ。おーい、ホーク。扉を開けてくれ」

 メリオダスが叫ぶと、とんとこという音の後に木製の扉が勢い良く開いた。そこから飛び出して来たのは、ピンクの豚だ。

「扉くらい自分で開けやがれ! ……って、オイ、メリオダス。後ろの奴は誰だ? 客か?」

 アーサーを見て不思議そうにするホークへ向けて、メリオダスが言う。

「こいつはアーサーだ。オレの元上司だよ」

「こんにちは、ホーク殿。お噂はかねがね伺っております。私はアーサーと申します」

「上司? ああ、オメーが俺様を置いてどこかの国に仕えてたときの話か」

 少し考えてそう結論付けたホークの言葉に、メリオダスは苦笑いを浮かべる。そんな一人と一匹を見て、アーサーは笑みを浮かべた。

「その節はメリオダス殿に大変お世話になりました。長い間彼をお借りしてすみません」

「それじゃあまるでホークがオレの主人みたいに聞こえるぞ、アーサー」

「おや、これは失礼いたしました」

 そのとぼけた答えに、メリオダスがため息を一つ吐く。

「可愛げがねえ」

「あれから三十年も経っていますから」

 にこにこと笑んだまま答えるアーサー。そんな二人に、ホークが声を掛けた。

「お前らいつまで突っ立ってるつもりだ? 話は中入って荷物置いてからにしろよ」

 もっともな言葉を受けて、二人は<豚の帽子>亭の中に入る。物珍しさに、アーサーがそう広くない店内を見渡した。入り口で立ち止まる客人をメリオダスが奥に促して、カウンターに荷物を置くように言う。それに従い両手を空けると、カウンターチェアに座るように言われた。椅子に腰掛けると、メリオダスはカウンターに置いた荷物を一旦端に寄せる。

「まだ酒って時間じゃねえな。荷運びの礼に、茶でも淹れてやるよ」

「ありがとうございます」

 お礼の言葉を受けて、店主は片手をひらりと振ってから奥のキッチンへ消えた。それを見送って、足元に視線を落とす。そこにいたホークへ声を掛けた。

「ホーク殿は、ずっとメリオダス殿と一緒におられるのですか?」

「俺がメリオダスと出会ってからは、ほとんど一緒にいるな。別れて暮らしてたのは、あいつがお前んとこに行ってた数年間位だぜ」

「そうですか。それを聞いて安心しました」

 そう言って微笑む人間を、ホークは不思議そうに見る。暫く眺めて、「安心したって、何にだ?」と尋ねた。するとアーサーは笑みを浮かべたままメリオダスが消えた方向を見た。

「あの人が、独りきりではなくて安心したのです」

 その瞳は優しい光を宿す。首を傾げるホークに視線を戻して、続けた。

「ホーク殿のような明るい方が共におられるのでしたら、寂しいことは無いでしょう?」

 優しい声で語りかけられて、ホークは瞬きをした。それから、「あの野郎は良い上司に恵まれてたみてーだなあ」と呟く。それを聞き取って、アーサーがはにかんだ。

「彼にとっても、そうであればいいのですが」

「メリオダスは我侭だからな。気に入らねえ相手の下につかねーよ」

「おい、誰が我侭だって?」

 一人と一匹の会話に、奥のキッチンへ行っていたメリオダスの声が混ざった。若干不服そうに告げられた言葉に、ホークは呆れたように「自覚もねーのか」と言う。その様子をにこやかに眺めていたアーサーの前に、メリオダスがお茶の入ったカップを置く。ソーサーの端に、右手に持った袋から取り出した焼き菓子を二つ添えた。

「アーサー。お前は良い王だったぜ」

「……そうであったなら、嬉しいです」

 落ち着いた笑みを見せるアーサーに、メリオダスは静かに笑ってみせた。二人の会話を聞いていたホークが、少し呆気にとられたような顔をする。

「アーサー。お前、王様なのか?」

「今は退位しておりますが」

「なんでそんなお偉いさんが、一人でこんな所にいるんだよ」

 疑問をぶつけられて、アーサーは足元を見た。

「一人旅をしているのです」

「一人旅? よく許してもらえたな」

 メリオダスがほんの少し驚いたように目を丸くして言う。

「といっても、目的地のある旅ですが」

「へえ。どこ行くんだ?」

「ここから少し行った所に、星が降る丘があるそうで。そこに行ってみようかと」

 アーサーの言葉に、メリオダスは「ああ」と呟いた。

「そういや、この辺に星が綺麗に見える丘があるって聞いたな。……今から行くのか?」

「いえ。今日はこの町に泊まって、明日向かおうかと」

 問いかけに首を振って答えると、メリオダスが笑った。

「なら、今日はここに泊まってけよ」

 その言葉に、アーサーはほんの少し首を傾げて見せる。

「ご迷惑では?」

「いいや。むしろ今晩、店を手伝ってくれれば助かるくらいだ」

 メリオダスの声に、反応したのはホークだ。彼は呆れたような声で言う。

「おいおい、王様に接客させるのかよ」

「王女様が接客してた実績もある店なんだから、元王様くらいで文句言うなよ」

 一人と一匹のやり取りに、アーサーは楽しげに笑う。そしてホークへ向けて言った。

「私のことはあまり気になさらないで下さい、ホーク殿。それに、接客というものも一度やってみたいと思っていたのです。良ければ、今晩お世話になっても構いませんか?」

 丁寧な言葉を聞いて、メリオダスに反論しようとしていたホークは黙った。それから、仕方なさそうにため息を吐く。

「アーサーがそう言うんなら、仕方ねえな。残飯の処理なら俺様に任せとけ」

「はい、お任せします」

 にこりと笑んで答えたアーサーに、ホークは満足そうに頷いた。それを見て、店主も明るい笑顔を見せる。

「じゃ、今晩は手伝いよろしくな。アーサー」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 差し出されたメリオダスの左手を、アーサーは握り返した。

 

 

「ありがとうございました」

 最後の客を送り出したアーサーは、扉を閉めて安堵の息を吐いた。その背に、メリオダスが声を掛ける。

「なかなか様になってたじゃねえか」

「そうでしょうか?」

「もっと慌てるかと思ったが、落ち着いたもんだ。良い接客だったぜ」

 その言葉に安心して、彼は振り返り笑顔を見せる。そんなアーサーに向けて、ホークが言った。

「俺的には、残飯が少なくて残念だったがな」

「それは、すみませんでした」

「お前に残版食わす為に店やってる訳じゃねえぞ、ホーク」

 困ったような顔をして謝るアーサーを見た店主が、ホールを片付けながら言う。アーサーはすぐにその手伝いに加わった。机の上に置かれた食器を纏めてキッチンのシンクへ運ぶ。その後、洗い物に入ったメリオダスに指示されて、布巾で机を拭き、簡単に床の掃き掃除をした。

「お疲れ」

 全てを終えて一息つくと、洗い場から戻って来た店主に背を叩かれる。アーサーは振り返って微笑んだ。

「とても貴重な体験をしました」

「城じゃこんなこと許してもらえねえだろうしな」

「そうですね。良い土産話が出来ましたよ」

「オレの名前なんか出すなよ。どやされるのは勘弁だぜ?」

 そう言ってメリオダスは肩を竦めてみせる。そして手近な椅子を勧めた。アーサーはそれに応じて椅子に腰掛ける。メリオダスはカウンターへ入ると、二つのジョッキにエールを注いで戻って来た。机にジョッキを置くと「まあ、飲めよ」と言って、自分もアーサーの向かいに座る。促されてジョッキを傾ける彼を見て、エールを呷った。

「しっかしまあ、こんな所で顔を合わせるとは思わなかったぜ」

「私も、とても驚きました。けれど、こうしてお会い出来てよかった」

 穏やかな声でそう告げたアーサーに、メリオダスは首を傾げてみせる。

「なんか用でもあったのか?」

「昔お世話になった人に会いたいと思うのは、おかしいことでしょうか?」

「別におかしくはねえな……」

 そう言ったメリオダスは、ほんの少しばつの悪そうな顔をした。それを見てアーサーが笑う。

「またなと言って別れたというのに、貴方は一度も顔を見せてくださらないのですから」

「お前、本当に薄情な奴だな」

 一人と一匹の言葉に、メリオダスはジョッキを片手に持ったまま視線をそらす。

「悪かったな」

 若干不貞腐れたかのような声に、アーサーとホークは顔を見合わせた。

「素直なメリオダスとか、気持ち悪ぃな」

「なんだかとても珍しいものを見た気がします」

「素直に謝ったのにその態度は何だよ」

 不服そうに言うメリオダスに、一人と一匹は顔を見合わせて楽しそうに笑う。蚊帳の外にいる店主は、頬杖をついて目の前の人物を見た。年を経て外見は変わったものの、楽しそうな笑顔は昔と変わりがない。それに気付いて、無意識にやんわりと笑んだ。

「笑ってすみませんでした、メリオダス殿」

 そう言ってメリオダスに視線を戻したアーサーは、瞬きの後ほんの少し不思議そうな顔をした。しかし何も問うことはせず、笑みを返す。それは、見慣れぬとても落ち着いた笑顔だ。メリオダスは優しく細められる瞳からほんの少し視線を逸らして、ジョッキを傾けた。

「さて、飯はどうするかな」

「いつもはどうされてるんですか?」

「店で売ってる食料を買い置きして食ってる。けどまあ、せっかくだからなんか作るか?」

 にやりと悪戯っぽく笑むメリオダスに、アーサーは苦笑いを漏らす。メリオダスの料理の腕が破壊的なのは本人からも聞いていた。そして、つい先程の接客でそれを目の当たりにしたのだ。思わず吐き出す程の料理というものを食べたことがないので興味はあるが、遠慮すべきことだと解った。

「貴方の作るものに、興味はありますね」

「……冗談だ。買い置きで悪ぃけどなんか持ってくる」

 素直な言葉を零したアーサーに、メリオダスは目を丸くしてから言った。そして立ち上がるとキッチンへ向かう。その小さな背中を見送ってから、アーサーはジョッキに残ったエールを飲み干した。

 

 

 食事を終える頃には夜も更け、深夜に差し掛かろうとしていた。交代で浴室を使うことにして、先に入ることを遠慮するアーサーを浴室に押し込む。そうして手持ち無沙汰になったメリオダスは、ベッドに腰掛けるとそのまま横になった。枕の横に置いていた本を手に取ると、それをぱらりと捲る。流れの商人から勧められて手に入れてその本は、様々な星の物語が詰められたものだった。神々にまつわる話の数々は、はるか昔に聞いた話を思い起こさせる。胸のうちに懐かしさが過った。気になった所を黙々と読み進めていると、いつの間にか時間が過ぎていたようだ。ふわりと石鹸の香りがしたかと思えば、声が掛かった。

「何の本を読まれているんですか?」

「ん? 星にまつわる物語を詰めた本らしいぜ。読むか?」

 メリオダスは開いていた本を閉じて、ベッドの傍に来たアーサーに差し出す。差し出されたそれを受け取った彼は、興味深そうに表紙を眺めた。

「少し、読んでみます」

「おう。その辺適当に座ってくれていいぜ」

 そう言って、自分はベッドを降りると浴室へと向かった。服を脱いで手早く湯を浴びると、体を洗う延長線上で髪も洗ってしまう。石鹸の香りに包まれて、ふっと先程のアーサーが脳裏に浮かぶ。タオルを肩にかけてさっぱりとした様子で出て来た彼の髪は、しっとりと水気を含んでいた。記憶にある姿より老けたとはいえ、鍛えられた体と綺麗に剃られた髭のせいか、アーサーは実際の年より若く見える。そこまで考えて、彼も全く外見の変わらぬ自分にそんなことを言われたくないだろうと苦笑した。体を拭いて着替えると浴室を出る。タオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、アーサーがベッドに腰掛けて膝の上で本を開いていた。彼はその真っ直ぐな視線を本に落として、随分と集中しているようだ。メリオダスが出て来たことに気付いていないのかもしれない。邪魔をしないようにそろりと近付いて、ベッドの端に座るアーサーから一人分ほどの距離を置いた所に腰掛ける。僅かに軋んだベッドに気付いたのか、彼が本から顔を上げた。

「メリオダス殿、早いですね」

「随分集中してたな。そんなに面白いか?」

「とても興味深いです」

 そう言って微笑んだアーサーは、メリオダスを見て目を瞬かせた。それから本を閉じ、ベッドの上に置いてその両手を伸ばす。自分に向かって伸びて来た手は、首に掛かったタオルを持ち上げて、濡れた髪を覆った。そのまま優しく拭かれる。

「子どもではないのですから、きちんと拭いて下さい」

「おお、わりぃな」

 されるがままのメリオダスに、アーサーは仕方無さそうな顔をしながら両手を動かした。ある程度水気を吸い取ると、濡れたタオル纏めて立ち上がる。

「これはどうすれば良いですか?」

「そこの籠に入れといてくれればいいぜ」

「わかりました」

 返事をして、浴室の扉の傍に置かれた籠へタオルを入れる。メリオダスはそれを目で追いながら言った。

「どの話を読んでたんだ?」

「小熊座と大熊座の話を」

 タオルを籠に入れたアーサーは、再びメリオダスの隣に腰掛ける。それからベッドの上に置いた本を手に取って持ち主へ差し出した。

「ありがとうございました」

「ご感想は?」

 問いかけに、彼はほんの少し笑って見せた。

「神々とは随分と奔放なんですね」

「自分勝手だよなあ」

 アーサーの言葉に笑って、メリオダスは受け取った本を膝の上に置いた。そして本に視線を落とし、その表紙を撫でながら言う。

「道行く女に惚れて手を出す夫と、嫉妬の炎に駆られてその女を熊にしちまう妻の話だろ?」

「ええ。随分と人間じみた神だと思いました」

「まあ、人の考えた物語だからな」

 そう言って顔を上げ、アーサーを見た。こちらを見ていた彼と目が合う。穏やかさを宿した菫色の瞳が、静かに自分を見つめてくる。

「メリオダス殿」

 優しい声で名前を呼ばれた。それに「なんだ」と尋ねる。するとアーサーは目を細めて笑みを佩いた。

「本当に、お元気そうで良かった。また、こうしてお話することが出来て嬉しいです」

「ああ。オレも、またお前と話が出来るとは思わなかった」

「……貴方は本当に、私が死ぬまで顔を出す気がなかったのですね」

 その言葉に、アーサーは苦笑いを浮かべて言う。メリオダスは何も答えず静かに笑って見せた。無言の肯定を受けた彼が、眉を下げる。

「もう会いたくないと思う程、嫌われてしまったのでしょうか」

「……だったら、良かったんだがな」

 小さく呟かれた声を拾って、アーサーがほんの少し首を傾げる。だが、メリオダスは何も答えようとしない。その様子に、真意を聞くことを諦めた彼が寂しげに微笑んだ。

「貴方は、昔からそうでしたね。肝心なことは何も教えてくれない」

 告げられた言葉にも、メリオダスは沈黙を貫いた。その視線は、ただ真っ直ぐに相手の瞳を捉え続ける。

「メリオダス殿。ずっと、貴方に伝えたいことがあったのです」

 アーサーの右手が上がり、まだ湿り気を帯びるメリオダスの髪を梳いた。

「私は、貴方を、愛していました」

「……過去形かよ」

「ええ」

 きっぱりと答えて、アーサーが綺麗な笑みを浮かべる。

「これで、やっと、終わりに出来ます」

 そう、落ち着いた声音で彼は告げた。

「メリオダス殿。愛して、いました」

「ああ」

 アーサーの右手がメリオダスの頬を一度だけ撫ぜて離れる。その手を追いかけるように自らの手を伸ばし、捕まえた。メリオダスは、彼の手を口元に引いて指先に口付ける。

「オレは、愛してるぜ」

 その言葉に、アーサーが目を見開いた。驚きに染まる瞳を見つめながら、メリオダスが笑う。その笑みを見て、彼は苦しげに目を細めた。

「貴方は、本当に……」

 絞り出すような声と共に、手を振り払われる。拒絶と取れるその行為にすら、メリオダスは笑みを浮かべてみせた。

「酷い人だ」

 それは、突き放すような言葉。しかし、言葉を受けたメリオダスより、それを吐き出した当人の方が、酷く苦しそうな表情をしていた。アーサーは立ち上がると、何も言わずに背を向けて、静かに部屋を出て行く。メリオダスは黙ってそれを見送った。小さく軋んで扉が閉まる。

「お前はほんとに、馬鹿だな。アーサー」

 一人になった部屋で、ぽつりと呟いた。

 馬鹿みたいに実直な所は年を経ても変わらなかったらしい。気持ちを抱えず、自分のことなど彼方に忘れてしまえば良いのに、あいつはそれが出来ない。だからこそ、自分はまだアーサーの中に存在出来るのだ。ここに来て初めて告げた『愛している』という言葉一つで、彼はメリオダスの存在を抱え続けるだろう。その不器用さを、愛しいと思う。

 こんな風に、何をしても誰かの心に残っていたいという感情を、自覚させたのは間違いなくアーサーだ。メリオダスがキャメロットを去って以来、彼の元に顔を出さなかったのは意図的な行為である。そうすることで、彼は自分の存在を忘れえないと思った。光指す場所に出来る陰のように、彼の足下に在り続けられるだろうと。そして、その考えは間違っていなかったのだ。

 もうあいつと会うことは無いだろう。こんな偶然は二度も起きない。

 メリオダスの口元に自然と笑みが浮かぶ。それはどこか自嘲めいたものだった。

 

 

 日の沈んだ月明かりの中。ランプを下げて、旅の目的地である丘を登りながらアーサーは考える。メリオダスは一体自分に何を望んでいたのだろうと。今朝、彼の店を後にする時、「元気でな」とだけ声を掛けられた。「またな」とすら言ってもらえなかったことに気付いて、寂しさが胸の内に残る。きっと、次に会うことはもう無いのだろう。それは確信だった。

 昨晩、彼から告げられた「愛している」という言葉の意味すら、アーサーには上手く理解出来なかった。ただ、理解出来なくとも、その言葉に胸が熱くなったのは確かで。メリオダスはたった一言で、心の奥底に仕舞い込んでいた感情の蓋を開いたのだ。無意識に自らの胸元を握り込む。あの言葉で、過去のことに出来たと思っていた想いは、未だ自身に絡まっていたのだと気付かされた。

 いつの間にか立ち止まっていた足を、再び前に進める。緩やかな登りの終着点は、もう少し先だ。周囲に人気は無く、静寂に風の音が混じる。ランプの炎が生み出した陰が足下から伸びて揺らめいた。

 いつだって、メリオダスの考えていることは解らない。ただ、とても大切に思われていたという自覚はある。だからこそ、顔を見せなかった理由がわからない。そのくせ、今更愛しているなんて伝えてきたことも理解出来ない。

 アーサーは軽く頭を振った。どうにも良くない。メリオダスと再会してから、自分は彼のことばかりを考えているではないか。全ては過ぎ去った過去のことなのだ。今、こんなにも囚われている訳にはいかない。そう思って視線を上げた。いつの間にか丘の頂上に辿り着いていたらしい。立ち止まり、本来の目的を思い出して空を仰ぐと、煌めく無数の光が視界を埋め尽くした。その数に圧倒されたように立ち尽くす。星々は、城から見るのとは違った輝きをもってアーサーを魅了した。星が降るように近く見える、とは誇張された表現でもなかったらしい。辺りに遮るものも無ければ、民家の明かりも無い丘の上は、星見に最適な場所と言えるだろう。

 その場に座ると、上半身を地に横たえた。息を吸い込むと、頬をくすぐる草と土の臭いがする。それを新鮮に思いながら、視界一杯に広がる夜空を見た。こうやって星を見上げるのは久し振りだ。年老いたケディがその職を辞して以降、城にある塔の屋根から星を見ることは無くなってしまったから。

「綺麗だな……」

 思わず呟く。大小様々な光が散りばめられて夜空を彩っている。そのまま流れて落ちて来そうだと思った。ぼんやりと瞬く星々を眺め続けていると、時間の感覚が薄れていくようだ。

 それからどのくらい経っただろう。視界の端で、一筋の光が流れた。はっとしてそちらに視線を向ける。すでに星は流れた後で、その残像も見えない。それを残念に思っていると、また一つ、星が流れた。瞬く星々の中を真っ直ぐに白光が走り、消える。

「う、わ」

 流星は三度流れた。それを追いかけるように、更に。

 アーサーは瞬きすら忘れて、次々に流れ行く光に見入る。それはまるで、夢でも見ているかのような心地にさせた。流星は暫くの間空を彩り、まるで何事も無かったかのように消える。その余韻に浸るように、夜空を眺め続けた。

 あの人も、流星を見ただろうか。

 一瞬浮かんだ考えを、自嘲めいた笑みを浮かべて振り払った。

 次第に世界が白み始める。空が明るくなり、星の光が差し込む太陽にその座を譲るように消えていく。透明な光に、目を細めた。夜が、開けたのだ。

 眩しい朝日を見ると、キャメロットに居る妻の顔が浮かんだ。遠征から帰ってくる度に、柔らかな笑みで迎えてくれた。国に帰れば、彼女が変わらぬ笑顔で迎えてくれるだろう。彼女だけでなく、キャメロットの者はいつだってアーサーの帰りを喜んでくれた。「おかえり」という言葉に「ただいま」と返す。そんなたわいないことが幸せだと教えてくれた人達。

 キャメロットに帰ろう。

 体を起こして、大きく伸びをした。ふわりと欠伸が出る。ほんの少し重く感じる体で立ち上がると、アーサーは丘を下った。

 自分を待つ人々の元に帰る為に。

 

 

発行:2015/05/17 

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